2018年09月15日

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16:40 東海道歩き旅は無事にゴールしましたが、京三条大橋から本日の宿泊地京都御所側の「京都平安ホテル」目指してもう少し歩きます。

船はしや

1905年(明治38)創業の老舗のお菓子屋さんです。カラフルな金平糖や五色豆とか京都らしいお菓子が並んでいてカワイイてす。織田信長は、ルイス・フロイスからフラスコに入った金平糖を送られ、これが南蛮菓子が日本に広まったルーツとされています。

道標

佐久間象山・大村益次郎遭難の碑への道標です。ここから高瀬川沿いを北上します。

高瀬川

1611年、江戸時代初期角倉父子により物流用として京中心部と伏見を結ぶため、開削された運河です。1920年(大正9)までの300年間水運に用いられ、明治の文豪 森鴎外の「高瀬舟」の舞台でもあります。

天誅組「吉村寅太郎」寓居跡

武市瑞山寓居跡

ちりめん洋服発祥の地

3つの石碑が並んでたっています。

天誅組「吉村寅太郎」寓居跡

土佐の庄屋に生まれ、武市瑞山(半平太)の教えを受けて土佐勤皇党に加わり、土佐を抜けて尊王攘夷活動に加わりました。寺田屋事件で一旦は投獄されましたが、再び上洛し、尊王攘夷活動の中心人物として、「天誅組」を組織します。大和国で挙兵しますが、政変で情勢が一変し、幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死しました。寓居(ぐうきょ)とは、仮住まいのことです。

武市瑞山寓居跡

武市瑞山(半平太)が上洛の際に住居としていた「四国屋丹虎」という料亭跡瑞山は土佐藩士、龍馬の親戚にあたります。土佐勤皇等党を率い、吉田東洋暗殺後は土佐勤皇党が台頭し、藩内で大きな影響力を持つようになります。しかし、文久2年に安政の大獄で捕らえられていた土佐藩主山内容堂が幕府から赦免を受け、土佐へ戻りますが、一変して弾圧を受け捕らえられ、36歳で切腹します。この時、誰もなし得なかった「三文字の切腹」を成し遂げ、気概を見せたといいます。

ちりめん洋服発祥の地

ちりめん洋服とは、伝承織物・縮緬の布を使用して洋服に仕立てたもので、1972年(昭和47)田村佐起三が縮緬布を素材にしたレディ・メイドのブラウスやドレスを発表しました。

さきぞう 発祥の地

1972年田村佐起三が創業した京都発のブランドだということですが、全く知りませんでした。

高瀬川の柳

高瀬川のこの柳は、「銀座の柳」を復活させた東京の有志から恩返しに寄付された柳を平成8年に植樹したそうです。

銀座の柳といえば、東海道を出発した当初に出会いました。あのときの柳が東海道の最終地で再び出会えるとは感激です。

加賀藩邸跡

加賀藩は江戸時代、外様最大の大名で前田家が代々の藩主でした。

三之船入跡・水の堰き止めの石

高瀬舟は浅瀬でも航行できるよう船底が平らになっていましたが、水量不足になると航行ができなくなるため、この堰き止め石に板をはめ込み、水を堰き止めて水位を調節したそうです。水量が少ない高瀬川ならでわの工夫です。

高瀬川の工事費は現在のお金で150億円くらいになるそうです。使用料が取られていたそうですが、その利益も莫大だったということです。

佐久間象山・大村益次郎遭難の碑

1864年(元治元年)馬に乗って通りかかった象山は、刺客に襲われて即死してしまいます。象山は信濃松代藩士で洋楽・砲術を学び、開国論を唱え、勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰ら多くの人材を教育した人物です。5年後の明治2年、東側の旅籠で大村益次郎は切りつけられ、2ヵ月後に傷が元で死亡します。大村は周防国の生まれ、医学とともに西洋兵学を学ぶ。戊辰戦争でも活躍し、明治政府においては、近代兵制の創立に尽力していました。

兵部大輔従三位大村益次郎公遺址

大村が襲撃された宿屋のあった場所です。太政管制(だじょうかんせい)において、軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)という職名が彫られています。事実上の日本陸軍の創始者であります。

太政管制とは、古代の律令制に基づき、司法・立法・行政を司る最高国家機関。(三権分立ではない)明治維新に伴って発足しましたが、内閣制によって消滅しました。

稲荷大明神 角一龍王 白姫辨財天 御鎮座旧蹟

白姫辨財天は、維新の頃より招福火除けの辨財天として、この地へ鎮座します。後に稲荷大明神と合祀し、大戦前には角一龍王を御所より勧請しましたが、平成元年に移転しました。

高瀬川一之船入

船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所で、二条から四条の間に九か所作られましたが、国の史跡に指定されている一之船入以外は全て埋め立てられてしまいました。

森鴎外 「高瀬舟」

罪人を護送するためにも使用された高瀬舟。護送されていく男は、病気の弟が自殺に失敗して苦しんでいるところを見ていられず殺してしまう。男は殺人罪として島流しへ。護送する同心の男は高瀬舟で罪人を護送する仕事に不満を持っている。更には妻の実家が裕福なためお金に不自由はしていないが、そのことで負い目もあり不満もある。罪人の男は島流しになったというのに、牢をでるときに200文をもらい、自分の物としてお金を持ったことをが初めてと喜んでいる・・同心は男の話を聞き、衝撃をうける。自分は不自由は何も無いのに不満ばかり・・

江戸時代、「安楽死」という言葉はありませんでしたが、この物語の大きなテーマは「安楽死」と「足を知る」ということです。もっと、もっと・・と足を知らないと、決して心の幸せはないのだ、と。そしてこの物語は高瀬舟の上だけ。登場人物もこの二人だけです。それでもこの物語は深く、人としての生き方を考えせられる、まさに名作と言えますね。

水深が浅いことから底が平らな高瀬舟という船が使われ、運河の名前にもなりました。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ、多くの問屋が立ち並びにぎわっていました。

角倉氏邸址

角倉氏はいくつかの邸宅を持っていましたが、この場所が最大規模でした。庭園には鴨川から水を引き、噴水もあったそうです。川の管理者でもあり、高瀬川の航行をここから監視していたようです。現在は、日本銀行京都支店です。

島津製作所 記念資料館

この建物は創業者島津源蔵が住宅兼研究所として明治20年代に建てました。1975年、創業100年を機に記念資料館として開設し、理化器械やX線装置などを展示しています。

島津製作所創業之地

島津製作所は、1875年(明治8)に島津源蔵が設立した精密機器メーカーです。

角倉了以別邸跡

別邸には庭園があり、こちらも鴨川の水を引き込んでいました。1894年明治の元勲、山形有明はここへ、無鄰庵を建てました。

久坂玄瑞・吉田稔磨等寓居跡

ここより少し南に長州藩邸がありました。文久2年、長州藩の中老閣長井雅楽の暗殺を企て失敗します。そのことから謹慎としてこの奥の法雲寺へ居住していました。久坂は蛤御門の変で幕府軍に破れ、自害します。吉田稔磨も同時期に謹慎し、池田屋事件で斬られ、死亡しています。

藤原定家京極邸址

藤原定家といえば小倉百人一首を選んだ人、また新古今和歌集の編纂を行った人として有名ですね。現在は「古梅園」という墨店となっています。

一保堂

1717年(享保2)創業のお茶屋さんです。実に300年以上営業していらっしゃるんですね。

本因坊発祥の地

このあたりの「寺町通」の名は1589年(天正17)豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来するそうです。

その一つ寂光寺の「本因坊」に住む僧侶の日海は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府の命によって幕府の碁所を任せられます。以降、本因坊は世襲でありましたが、真の実力者が名乗るべきだとして、1936年(昭和11)本因坊戦が誕生しました。

行願寺

行円が俗人の頃は、狩猟を業としていました。ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見て、殺生の非を悟り仏門に入ったそうです。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂とされました。1004年(寛弘1)建立しますが、創建当時は今の上京区、一条通りにありました。移転と焼失を繰り返して現在地へ落ち着きました。

下御霊神社

863年(貞観5)平安時代に亡くなった貴人の怨霊を御霊として祀ったのが始まりとされます。社寺を転々とし、1590年(天正18)豊臣秀吉の命によりこの地へ移転します。本殿は1791年(寛政3)に仮皇居内(聖御院?)の待所を移築、表門は旧建礼門(御所)を移築したものとされます。

横井小楠殉節地

横井小楠(しょうなん)は、熊本藩士で儒学者。熊本藩で藩政改革を試みますが失敗し、その後福井藩の松平春嶽に招かれ、幕政改革や公武合体の推進などで活躍します。明治新政府に参与として仕えましたが、十津川郷士ら6人組により、この地で暗殺されました。殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったとされています。

京都御苑

ようやく京都御苑にたどり着きました。とても広いです。京都御苑は、東西約700m、南北約1300mと、広大です。

仙洞御所への門

仙洞御所は、後水尾天皇が上皇となられた際に造営されました。御殿は1854年に消失しましたが、再建はされませんでした。庭園・茶室などは残っています。中を見学するには、事前申し込みが必要です。

有栖川宮邸跡

有栖川宮は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家です。この場所に1869年(明治2)に新御殿が作られますが、わずか3年後には東京へ移ってしまいます。この場所には直前まで松平容保が宿舎として利用していました。

建礼門

京都御所の南面正門で、最も格式の高い門になります。現在も天皇皇后及び外国元首級のみが通ることができる門です。御所の門は身分で入る門が異なり、皇后様だけだと別の門から入らなくてはならないしきたりだそうです。「葵祭」「時代祭」はここ建礼門がスタート地点になっています。

明治までは約200件の公家屋敷が立ち並ぶ公家町を形成していました。1869年(明治2)、東京遷都に伴い、御所周辺は荒廃したため1877年(明治10)京都御苑として整備がされ、公園のようになっています。

京都御苑案内図

清水谷家の椋

このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことからこのように呼ばれています。樹齢約300年、1864年(元治元)禁門の変の時、長州藩氏で遊撃隊の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。

蛤御門

御所の外観九門の一つで、本来の名称は「新在家御門」です。御所が火災の際、滅多に開くことの無かった門が開いたため、硬く閉じていた火にあぶられ開いたことから「蛤御門」と言われるようになりました。1864年(元治元年)の蛤御門の変では、この周辺が長州藩との激戦地となっています。現在でも門柱に命中した弾痕が残ります。

この蛤御門を出てすぐの本日の宿泊地、「京都平安ホテル」へ到着です。

17:30 本日の総距離は大津から22kmでした。