ここも三河むらさき麦のかきつばた、芭蕉が見たむらさき麦が復活

2005年5月4日

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10:00 赤坂をあとに藤川へ向かいます。

長沢一里塚跡

日本橋より77里目の一里塚です。塚は失われ案内のみが建てられています。

長沢城跡

1458年(長禄2)、松平親則が築城しました。東海道を挟み南に岩略寺城跡、北に長沢城跡となっています。長沢城は東西約200m、南北約250m、主郭の前面を土塁や三重の堀が巡り、南側に出入口がありました。今川氏親に攻められ落城したそうです。現在は宅地化され、堀の一部がわずかに残るのみです。また、長沢小学校には、1634年(寛永11)徳川家光上洛の時に、休憩所として建てられた御殿があった場所とされています。

常夜灯・地蔵堂

慶忠院入口の常夜灯と地蔵堂です。お地蔵様は左右に一つずつありました。慶忠院は、登屋ヶ根城主、関口一族の墓があることで知られています。(※慶忠院は、平成23年 立信寺 と合併し廃寺となっています)

本宿(もとじゅく)

本宿は法蔵寺の門前町として形成され、江戸時代には間の宿として発展しました。

冠木門と常夜灯

本宿の旧道が失われてしまった部分は、案内板や冠木門などのモニュメントが多数設置されています。旧道は失われてしまいましたが、行政の気遣いを感じます。

本宿の道標

こちらにも旧東海道についての案内板がありました。ここから旧道が残っています。

法蔵寺

701年(大宝元)行基の開祖と言われます。松平氏初代、親氏を初め代々の松平氏の帰依深く、諸宇堂を寄進しています。また、勅願所(天皇の命で祈願する神社)、足利義孝の祈願所ともなりました。家康幼少の頃の手習い所ともなりました。境内には近藤勇の首塚も祀られています。

御草紙掛松

家康幼少の頃、法蔵寺で学問・手習いに励んだと言われます。この松は家康手植えともいわれ、手習いの折草紙(綴じ本)を掛けたことから名がついたと言われています。「御茶屋の松」「御腰掛の松」とも呼ばれました。昭和58年、立ち枯れたため翌59年に新たに植樹されました。周囲の石柵は1815年(文化12)旗本木造清左衛門俊往の寄進です。

法蔵寺橋

法蔵寺団子の由来

法蔵寺門前の茶店で売られていたことから「法蔵寺団子」と呼ばれるようになりました。一本の串に指で押し平たくした5個の団子を炙り、たまり醤油で味付けしたもので、東海道筋の名物団子として評判だったそうです。

本宿陣屋跡と代官屋敷

1698年(元禄11)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所(武士に支給された土地)支配のため本宿村に陣屋を設けました。以来、明治に至るまで存続しました。陣屋代官職には富田家が世襲し、現存の居宅は1827年(文政10)の建築です。

岡崎市景観重要建造物

神谷合名会社(アイチ味噌溜店舗)時代の建物で、現在は日本レトルトフーズ株式会社の事務所となっています。建物は大正11年〜昭和5年にかけて額田郡宮崎村にあった旅館を移築したものと判明しているそうです。

常夜灯、本宿村道路元標

本宿村は間の宿として、立場茶屋2か所が設けられていました。法蔵寺前と長沢村境四ツ谷でした。

『東海道中膝栗毛』本宿村

「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば喜多八、みほとけの誓いとみえて法蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とあります。本宿は古くから麻縄の産地として知られ、農家の副業として麻細工が盛んでした。また法蔵寺団子、草鞋(わらじ)、ひさご(ひょうたん)などが名物でした。

旧本宿村役場

旧本宿村役場は、近代本宿村の村役場庁舎・村議会議場として1928年(昭和3)に建築されました。建物は、地方庁舎にカウンター方式が採用された先駆的な事例で、地域のランドマークともなっていたそうです。(岡崎市の下水道整備工事に伴い平成20年度に解体され、現在は部材が保管されているそうです。)

本宿一里塚跡

現在塚は失われ、石碑が建つのみです。南北ともに榎が植えられていたようです。

宇津野龍碩と長屋門

本宿村医家宇津野氏は、古部村の出といわれ宝暦年間(1751〜63)、三代立碩(りっせき)がこの地で開業したことが始まりとされています。七代龍碩はシーボルト門人、青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られています。安政年間、当地としては画期的とも言われる植疱瘡(種痘)を施しています。

舞木町

舞木の地名は、山中八幡宮記の一節に「天武天皇の頃(697〜707)雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる」と書いてあることから「木が舞い降りる」を取って「舞木」とついたと言われています。

中山八幡宮

東海道沿いの中山八幡宮への入口には、「御開運御身隠山」と彫られた大きな石碑が建っています。699年(朱鳥14)この地の山中光重が宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、社を建てたのがはじまりと言われています。

中山八幡宮と鳩が窟

1563年(元禄6)年貢の徴収をめぐり三河一揆が起こります。家康は門徒に追われて山中八幡宮境内の岩穴に身を隠しました。追手が岩穴の中を改めようとしたところ、が飛び立ち、「人はいない」となり、難を逃れたという伝説があります。

市場村

市場村は元舞木村字市場にありました。1648年(慶安元)藤川宿の規模が小さかったため、68戸が現在地へ移住し、「加宿市場村」となり、「市場町」の町名の由来となりました。

東棒鼻跡

宿場の出入口を「棒鼻」といい、かつては宿場石垣があったようです。「広重 藤川」の浮世絵は、幕府が朝廷へ馬を献上する一行がこの棒鼻へ入ってくる所を描いたものです。1993年(平成5)京都の遷都1200年プレイベントとして行われた「茶壺道中」に合わせて、東西の棒鼻が復元されました。

常夜灯

明星院

明星院には片目の不動尊があります。1562年(永禄5)家康は今川方の鵜飼長照との戦いにおいて、追い詰められた状況になりました。その時、突然家康の後ろに白衣の武者が現れ、加勢したといいます。助けを得たおかげで家康は勝利したそうです。この時、白衣の武者は目に矢を受けました。後に明星院へ参拝としたところ、不動尊の片目が失われていました。この不動尊は秘仏で12年に1度の御開帳になりますが、実際に片目が傷ついているそうです。

芭蕉句碑

『ここも三河 むらさき麦のかきつばた』

藤川宿ではかつて、むらさき麦と藤の花が美しく咲き乱れ道中記や古歌に多く詠まれてきました。

人形処 穂洲作 粟生人形

外観はお城のようでインパクトがありますが、昭和38年に製造専門工房開業し、のちに卸・小売販売を始めたそうです。雛人形や五月人形が造られています。

問屋場跡

森川本陣跡

藤川宿の本陣はもともと2軒でしたが、没落を繰り返し江戸時代後期には森川久左衛門が努めていました。建坪は194坪でした。

脇本陣跡・藤川村道路元標

脇本陣跡

藤川宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒でした。脇本陣跡は門が現存し、昔の名残を留め歴史を物語るものとして貴重です。門は1719年(享保4)の大火後再建され現在に至ります。明治以後は藤川村役場、昭和30年の岡崎市合併後は岡崎市藤川連絡所として利用され、現在は藤川宿資料館となっています。

むらさき麦

むらさき麦の栽培は途絶え、幻となっていましたが、1994年(平成6)に県農業総合試験場の協力により栽培に成功しました。5月中旬から下旬にかけて、茎や葉、穂がほのかな紫色に染まります。あと二週間もすれば紫に染まったところが見られたと思いますが、現在はまだ青々としています。

本陣石垣

本陣は、裏手の警備が重要で厳重だったそうで、このように石垣にしていたそうです。

藤川宿石碑

西棒鼻跡

「藤川のしゅくの棒はなみわたせば 杉のしるしとうで蛸のあし」安藤広重の師匠、歌川豊広が描いた浮世絵の中にある狂歌の歌碑が建立されています。
13:30 藤川駅より帰宅します。