風光明媚な清見潟、埋立てられ埠頭となる−清水の次郎長の拠点へ

2002年11月2日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

10:30 江尻に向かい進んでいきます。

横砂延命地蔵尊

横砂地区では数少ない史跡ですが、由緒などは全くわかりません。

細井の松原、無縁さんの碑

宿駅制度のもと街道整備を行った際に両側に松が植えられました。1703年(元禄16)の検地によると全長は約360m、206本の松があったそうです。傍らには「松原せんべい」を売る茶店があったそうです。昭和19年、松根油の原料とするため、伐採されますが多くの人骨が出土しました。行き倒れの旅人を埋葬したものと推察され、人骨は寺に葬り、記念碑を建てて霊をなぐさめました。

江尻(辻)一里塚跡

日本橋より42里目の一里塚です。塚は撤去され、簡易な案内が掲げられているだけです。

江尻宿ではほとんど写真を撮っていませんでした。中心地は現在「清水銀座」と称する商店街となっていますが、宿場内では本陣も脇本陣も一つも案内が出ていませんでした。『江尻』という名すら消えゆくようです。本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒の大きな宿場だったのですが、幻のようです。

稚児橋

江尻が宿場となった後、旅人の便宜のため1607年(慶長12)に架けられました。元々は「江尻橋」となる予定でした。渡り初めの儀式の時に地元の老夫婦が渡ろうとすると突然、童子が現れ先に渡ってしまい、消えてしまいました。

童子が転じて「稚児」となり、橋の名は「稚児橋」となったそうです。不思議な童子は巴川に住むかっぱだったと語り継がれています。

11:40 江尻をでて、府中へ向かいます。