有松絞りで知られる間の宿有松、絞りは高くて買えないけれど・・

2017年5月5日

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阿野一里塚

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市雪の句碑

『春風や坂をのぼりに馬の鈴』築山は少し崩れていますが、両側残っています。右手の方が築山の状況が良いです。

前後

このあたりは、「前後」といいます。「前後」という地名、初めて聞きました。名前の由来は「江戸時代の初め、親村の間米から見て南に位置したので前郷(前:南の意味)と呼ばれ、やがてぜんごうと呼び方が変わり、江戸時代末には前後と記されました。明治時代には現代のように、ゼンゴと呼ぶのが一般的になったようです。

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「寂応庵跡」石碑

いわれなど全く不明でした。

桶狭間の戦いで敗れた今川方の兵が眠る戦人塚に寄ることをすっかり忘れてしまいました!戦人塚はこのあたりにいくつもあったらしいが、宅地開発によって消滅し、今は1か所しか残されていないようです。

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桶狭間古戦場

現在は公園となっており、地元勇士の皆さんがボランティアで説明して下さいます。トイレや休憩スペースもありますので、休憩にも最適です。
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桶狭間の戦い

1560年(永禄3)5月、織田信長のいる尾張に侵攻する今川義元の大群を前に織田信長は明確な作戦も指示もしないままイビキをかいて寝ていたといいます。その様子を見た重臣達は口々に嘆いたそうです。今川が織田の丸根砦、鷲津砦に攻めかかったという報告を受けた信長は突如立ち上がり、出陣の号令を出します。実は信長には確かな戦略があったのです。当時、今川の元にいた松平元康(後の徳川家康)は、大高城に大量の兵を送り込んでいたため、今川義元が尾張の沓掛から狭間といわれる細い窪地を通って大高城へ入ることは明確でした。この狭間こそが少兵で今川の大軍に対抗できる唯一の戦術であると信長は確信していました。

狭間に差し掛かった今川軍の元に農民達が酒や餅を持ってやってくると、今川軍は狭間で小休止を取ることにします。しかしこの農民は「蜂須賀小六」や「前野長康」らでありました。

信長は急いで軍を進めます。更には突如豪雨が降り、今川軍の足止め、あっけなく義元の首をとったのです。地形を活かし僅か2,000の兵でその10倍の今川軍を破ったといことは「尾張に織田信長あり」と世間に知らしめたといいます。

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七石表(一号碑)

桶狭間の戦いで義元の戦死した場所を示す石碑です。

現在、地形はすっかり変わってしまったのでしょうか。地形が「狭間」だったことが感じられません。

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小さな松野根橋を渡ると有松絞りで知られる、有松の趣ある町並みが始まります。

有松は池鯉鮒宿と鳴海宿との「間の宿」です。有松絞りを製造販売する商工業の町として賑わいました。
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有松の案内板

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松木淡淡 句碑

『有松や 家の中なる ふぢのは那』 

有松絞りが掛けられた様子が、家の中にいても藤の花に見えて綺麗だな、という感じでしょうか。

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名古屋市の「有松町並み保存地区」、建物の一部が名古屋市都市景観重要建築物に指定、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

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有松山車会館

入館料を払い、中へ入ると丁寧に1組ずつ解説をして頂けます。
TOO001 有松天満社の秋季大祭で曳かれる3つの山車があります。こちらに展示されているものは、東町の「布袋車」、いつ造られたのかは不明だそうですが、1891年に道具屋から購入したものだそうです。

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東町の「布袋車」

からくり人形はリニューアルされているものの本体は当時のままです。先代のからくり人形は2階のガラスケースに展示されています。中央の人形が筆で文字を書くからくりが施されており、1Fのビデオではその様子が見られます。からくり人形が見事に文字を書きます!

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有松絞りの工房で、有松絞りを使った小間物などを売っています。

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服部幸平家住宅の蔵

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服部家は絞問屋であったそうで屋号が「井桁屋」。現在はこの建物の中で絞りで作成された小物などが販売されています。

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広重の浮世絵にも有松絞りが描かれています。

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有松は古い町名もが残り、自動車の通行も無く本当に素敵な間の宿です。
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(左)中町の山車庫、(右上)竹田家住宅、(右下)岡家住宅

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有松一里塚

大正13年頃までは完全な形で存在していたらしいのですが、民間に払い下げられたと同時に消滅しました。2012年(平成24)に復元されました。まだまだエノキは小さいけれど復元されて良かった! エノキはお日様いっぱい浴びてすくすく育っていくでしょう。また何十年後、大木となったエノキに逢いに来たいですね。
天満社や長坂古道も行きたいところです。長坂古道は、東海道よりも古い桶狭間村道で、桶狭間村絵図にも描かれています。いつかは歩きたい道です。

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平部町常夜灯

1806年(文化3年)に建立された常夜灯です。平成15年からは夜になると点灯させているそうです。

このあたりから鳴海宿に入ります。鳴海宿は古い建物と真新しい建物が混在する町並みでした。

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史跡散策路コース 地図

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紫雲山 金剛寺

1760年(宝暦10年)創建と伝わります。

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中島砦跡

今川義元との戦いの際、鳴海城を包囲するために織田信長が築いた3砦(丹下、善照寺、中島)の1つです。砦というと山などの高いところにあるイメージですが、ここ中島砦は川沿いの平地でした。現在は民家の庭であり、石碑は、樹木に覆われて全く見えない状況でした。桶狭間の戦いで信長が勝利し、今川が尾張から撤退すると、これらの砦の役割も終えました。

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瑞泉寺

1760年(宝暦10)の創建で、瑞泉寺二十世呑舟の開山とされています。本尊は木像行者菩薩像で行者堂ともいいます。1942年(昭和17)、本尊行者菩薩の金剛杖から曹洞宗紫雲山金剛寺に改められました。境内には西国三十三観音の祠があり、堂内の十六羅漢像は明治時代の鳴海焼の逸品だそうです。

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千代倉家

現在はおそば屋さんのようですが、ひっそりとしており、開いているのかどうか不明です。現在は小さな小屋が建っているだけですが、当時はこの裏手に広大な土地を保有していた千代倉家は、鳴海小作争議の中心となりました。

鳴海小作争議

  1917年(大正6)鳴海地区に於いて、小作人が小作料の減免や地位の保全を要求して立ち上がった事件です。明治維新後、参勤交代が無くなったため、地主は農業に力を入れますが、凶作となったことから小作人は、小作料の引き下げを申し出たことが騒動のきっかけとなります。裁判にまでなりますが、1923年(大正12)に和解が成立し、小作料が引き下げられました。大正デモクラシーのはしりと言われます。民主主義的思想の背景が小作人達を突き動かしていったのではないでしょうか。千代倉は当時の「下郷家」の屋号。この時の和解案「千代倉案」を作成した地主であります。「千代倉案」によって騒動は和解し、小作料減額がなされました。

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鳴海城址

現在は鳴海城址公園となっています。細くかなり急勾配の坂道を上がった小高い丘の上にあります。

鳴海城

鳴海城は室町時代に築城され、戦国時代には信長の父である豊臣信秀の支配下であり、山口教継が城主を務めていましたが、信秀が亡くなると城ごと今川へ寝返ります。今川は外様の山口教継を信用せず、今川家譜代の岡部元信に城主を変更し、今川直轄の城となった。信長は兵を率いて城を攻めますが、失敗したために先ほど見た中島砦などの3砦を築きます。最終的には桶狭間の戦いで勝利した信長が城を取り戻しました。

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公園にもトイレもありましたけど、あまり使いたくない感じでした。駅のトイレが綺麗で無難でした。

13:50 鳴海宿 到着