開港期の横浜を色濃く残す−景勝地の台場の海は遥か遠くに

2002年5月3日

14:00 川崎宿を後にして神奈川宿へ向かいます

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市場一里塚跡

江戸より五里目の一里塚です。説明板には「1877年(明治9)の地租改正により払い下げられてが左側の塚は現存している」と書いてありますが・・・現在、塚の形状をとどめているとは言えませんね。「昭和初期までは塚の上にはエノキの大木が繁茂していた」とありますが、そのエノキもなくなってしまったようです。

鶴見川を渡ります。

鶴見橋関門旧跡

1859年(安政6)、横浜開港にともない、神奈川奉行は外国人に危害が及ばぬよう、横浜への主要道路の要所へ関門や番所を設け、横浜へ入る者を厳しく取り締まりました。生麦事件以降は川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20箇所もの見張り番所が設けられましたが、明治になり廃止されました。

生麦事件の碑 1862年(文久2)、生麦村で薩摩藩主・島津久光の行列の前を横切ったイギリス人3名を殺傷した事件。後に賠償問題のこじれから薩英戦争となり、薩摩は完敗します。その後、長州と同盟を結び倒幕に突き進んでいくことになるのです。

オランダ領事館跡

横浜開港時、各国は神奈川宿を開港場として要求したため、ここにあった長延寺にオランダ領事館をおきました。横浜村が開港場となり1862年(文久2)に横浜市弁天地区へと移転するまで、ここへ領事館が置かれていました。長延寺も移転し、現在は公園になっています。

神明宮

神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが、定かではないようです。「新編武蔵風土記稿」によると1299年(正安元)の勧請とされています。また、かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現れ、洲崎神社およびこの神明宮に祀ったとの伝承も残っているそうです。

境内に残る梅の森稲荷には若い女旅人に纏わる哀れな話も伝わるそうですが、どのようなお話か、ということは全く不明でした。

東海道分間延絵図

金蔵院

平安末期に創建された古刹。家康より十石の朱印地を許され、本堂前には家康の「御手折梅」と称される梅の古木があったと言われます。

高札場(復元)

高札場と松並木を再現してあります。

成佛寺

鎌倉時代の創建とされます。三代将軍家光の上洛の際、宿泊所として神奈川御殿の建設のため、現在地に移転されました。神奈川御殿がどこにあったかは定かではありません。

1859年(安政6)の開港当初、アメリカの宣教師の宿舎として成佛寺が使用されたそうです。

外国宣教師宿舎跡

ヘボン式ローマ字を考案し、最初の和英辞典を完成させたヘボンは寺の本堂に住んでいたといいます。聖書や賛美歌の邦訳に尽力したブラウンは庫裏に住んでいたそうです。

慶運寺

1447年(文安4)、室町時代に芝増上寺三世によって開創されました。開港当初はフランス領事館としても使用されました。

浦島寺とも呼ばれており、浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など伝説にちなむ遺品が保管されています。

浄瀧寺

日蓮が安房から鎌倉へ向かう途中に弟子となった妙湖尼が1260年(文応元)に創建。横浜港開港当時には、イギリス領事館となっていました。

イギリス領事館跡

戦国時代には兵火により何度か焼失し、1945年(昭和20)の横浜大空襲でも本堂を焼失しました。現在の本堂は1955年(昭和30)に再建されたものです。

神奈川の大井戸

宗興寺の脇にある。東海道中でも名水として有名でした。天気により水量が変わったので「お天気井戸」とも呼ばれていた。

権現山

かつてこのあたりは権現山と呼ばれ、本覚寺のある高島台と尾根づたいに繋がる急峻な山だったそうです。戦国時代の関東支配者上杉氏の家臣上田蔵人は北条氏に寝返り、謀反を起こし、この権現山に砦を築いて立てこもったといわれます。

幸ケ谷公園から東京湾側を望む

幕末から明治にかけて、権現山は埋め立ての材料として削られ、現在のように低くなってしまった・・・かすかにベイブリッジが見える。海ははるか遠方になりました。

権現山合戦の跡

現・幸ケ谷公園

権現山合戦は、結局は上杉氏の勝利となったが、後に上杉氏の力は弱まり、北条氏による関東支配が始まりました。

本覚寺

臨済宗の開祖栄西によって鎌倉時代に草創されたとされます。

絵図には「本覚寺」と「三宝寺」がみられます。

本覚寺「アメリカ領事館跡」

ハリスは自ら神奈川湾内を見通すことができる本覚寺を領事館に決めたという。領事館時代に白ペンキを塗られた山門はこの辺りでは唯一の江戸時代の建築。
お寺が「領事館」として使用されることが多かったのですが、これはお寺には立派な門があり、暴漢者などから外国人を守るため有効だったからだとされます。

かえもん公園

小さな公園ですが、高島嘉衛門の邸宅跡が公園になっています。明治2年、政府は日本発の鉄道、新橋・横浜間に建設着手するが、現在の横浜駅から 桜木町にかけての一帯は当時は海で、そこに幅76m、全長1400mの築堤を造らなければなりませんでした。この難工事を嘉衛門が請負い、期間内に見事に完成させたといいます。現在、高島町として町の名前にもなっています。こうした工事の他にもガス会社、学校の設立、易学の普及など数多くの功績を残す人物です。

ここまできて道を間違えてしまったことに気づく(汗) ありゃ、広重の浮世絵で有名な台町通ってないよ〜 本覚寺から上に上がってしまったのがいけなかった。

とりあえず旧道へ戻り

神奈川台関門跡

「関門」と呼ばれる番所、見張所は川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20箇所あったといいますから、そのうちのひとつですね。明治に廃止されました。

ここから台町へ戻りました

このあたりの台町は、かつては「神奈川の台」と呼ばれる海沿いの景勝地でした。描かれているのは「旅籠 櫻屋」です。

広重「東海道五十三次 神奈川」に描かれた台町の坂。旅籠 櫻屋を引き継ぎ、1863年(文久3)に創業した「料亭 田中屋」、現在も営業しています。明治には龍馬の妻、おりょうが働いていたことも有名です。海沿いだったこの場所、現在の海岸線は遥か遠く・・・こんなにも埋め立てられてしまったのですね・・

川崎宿から神奈川宿までの道のりは、開港という大きな時代の転換期を感じさせる道のりでした。

17:00 神奈川宿を抜けて、保土ヶ谷宿へ向かいます。

日暮れまで時間がないぞ!急げダッシュ〜!