土山の茶畑、かつての景勝地岩神社を経て三筋の宿場、水口へ

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今朝もホテルから土山宿まで戻るバス路線が不明なため、ホテルにタクシーの迎車をお願いしました。 昨日のゴール、土山西口バス停あたりまでタクシーで送っていただきました。 やはり5,000円程度かかりましたね。出費がかさみます。

さて、気を取り直して、9:00 土山宿西木戸あたりからスタートします。

すぐに旧道へ入っていきます。このまま旧道を進むと松尾川へぶつかります。そこが松尾川を渡る「松尾の渡し跡」になりますが、道がなくなってしまいますので、国道1号を行くか、その1本西側の道を進みます。松尾の渡し跡は、冬期は土橋がかかっていましたが、3月から9月末までは徒歩渡りでした。川を渡って登る坂を灰俵坂と言うそうです。地図では野洲川になっていますが、地元では「松尾川」というようです。

歌声橋

今回は国道を通らずに静かな道を進みました。松尾川を越えるには、国道1号線の白川橋かこの歌声橋を通ります。垂水斎王頓宮跡に寄るためには1号線を通ったほうがよかったですね。

松野尾川

歌声橋より撮りましたが、結構高い場所に橋が架かっています。

通ってきた道は明治以降にできた道です。旧東海道は、松尾の渡しの場所から垂水斎王頓宮跡を通り、この場所へつながっていました。

垂水斎王頓宮跡の案内板

斎王とは、天皇の名代として伊勢神宮の祭祀に奉仕するための未婚の内親王、または女王のことです。斎王群行(伊勢に赴く斎王の行列)は、平安時代の886年(仁和2年)に鈴鹿峠を越える新道(阿須波道)が開通したことで土山を通ることになり、京から伊勢までの5泊6日の行程で勢田・甲賀・垂水・鈴鹿・壱志の5箇所に頓宮(一時的な宮)が設置されました。

ここから戻り、垂水斎王頓宮跡、松尾の渡し跡も見たかったのですが・・今日は足のマメが痛く、思うように寄り道ができませんでした。 また、何かの機会に来られればいいのですが・・

頓宮村

『たばこや』と屋号が掲げられています。頓宮村のあちこちの民家に屋号が掲げられていました。江戸時代でもたばこ屋はタバコ屋だったのでしょうか。

頓宮跡とされる森が見えました。写真中央の森がそのようです。寄りたかったのですが・・今日は最短で歩いても足が水口まで保つかどうか・・です。

ポップコーンの自販機。今でも現役でしょうか。

瀧樹神社(たぎじんじゃ)

近くに二つの川が合流する落合があり、大昔から度々洪水の被害があったため、水門の神といわれる「瀧樹大明神宮」と菅原道真を祀る「天満宮」の二つの宮が祭祀されています。ケント祭りが有名だそうです。ケント祭りは室町時代から始まった田楽踊り(耕田儀礼)が現在に伝承された行事ということです。

茶舗

旧道らしい町並みが続いており、楽しい道のりです。

土山のお茶

「近江の茶」の起源は、平安初期の805年、伝教大師最澄が唐の国よりチャの種子を持ち帰り、比叡山の麓に播いたことが始まりとされています。比叡山の麓にある日吉大社のほとりには、その時のものと伝わる茶園があり、日本茶業発祥の地ともいわれています。 土山のお茶は、南北朝時代文和5年(1356年)、南土山常明寺の僧鈍翁が京都の大徳寺から茶の実を持ち帰って寺で栽培したのが起源とされていますが、広く生産販売がされるようになるのは江戸時代になってからでした。いち早く先進の製茶技術をとりいれ、街道筋では名物のひとつとして販売されていました。また、お茶の栽培に適した気候と土壌であったことから、開国から明治期にかけてお茶が輸出産物となるなかでその生産量は飛躍的に拡大し、現在でも近江茶の一大産地となっています。 ここ頓宮(とんぐう)にある、大茶園をはじめとして、土山町内の各地でお茶は栽培されています。

垂水頓宮御殿跡

倭姫命は天照大神のご神体の鎮座地を求めて巡行しました。土山町頓宮も巡行地のひとつです。「甲可日雲宮」があったとされ、殿舎がこの付近にあったのではないかと言われています。

長泉寺

記録では、1558年(永禄元年)に中興されたそうです。

9:40長泉寺前は公園になっており、ここで一休みさせていただきます。

大野市場一里塚跡

現在は碑が建つのみですが、周囲は植物で綺麗に彩られていました。

大日川掘割

水害で甚大な被害を受けていた大野村・市場村は、1699年(元禄12)から4年かけて野洲川へ延長504間(約916m)、川幅4間(約7m)の排水路を掘割しました。人工の河川を4年で1km近くも掘り進めるとはなかなか大変なことだったと思いますね。

掘割の向こうにもお茶畑が広がります。土山周辺は、ちょっとした空地もお茶畑になっています。

東海道反野畷(なわて)

畷とは真っ直ぐな道のことです。東海道はここから見るとわずかにカーブしており、先が見えなくなりますが、江戸時代当時は、人家もなく遠くまで一本道が見えたのでしょう。

東海道松並木

当時からのものでしょうか。樹齢等はわかりませんが、往時の面影が残り楽しめます。

マツクイムシなどで駄目になった松を伐採後、オブジェとして利用しています。信楽はお隣さんのためでしょうか・・このあたりの民家前には信楽焼きのたぬきが多いです。様々なデザインの狸がなかなか面白いですね。

領界石「従是東淀領」

淀藩は、前年に廃藩となった伏見藩に代わり、1623年(元和9)に立藩されました。山城国、現在の京都伏見に淀城がありました。ここ大野と伏見ではかなり距離があります。また、これより東が淀領ということは、土山宿側が領地ということになります。飛地となっていたのでしょうか。

野洲川

鈴鹿山脈の御在所山(標高1,210m)から発し、途中で野洲川ダムと青土ダムの2つのダムを経て甲賀市を西に流れ、琵琶湖へ流入しています。

花枝神社

851年(嘉祥3年)創祀の古刹です。現在は「社格」は廃止されていますが、「村社」とあるので、大野村の氏神様として仰がれているようです。

大野小学校同窓会館

公園のようになっており、古いですがトイレもありました。

長圓寺 旅籠 松●●跡

旅籠の名称はツツジで見えません。元々は禅宗でしたが、1579年(天正7)に浄土宗に改宗されました。建物は比較的新しいですが、歴史あるお寺です。

10:30 公園で休憩

本日は3日目のため足の豆が痛く、休憩が多くなります・・・

眞風軒の漢詩

江戸時代後期から明治時代の人物であり、甲賀郡内を散策し、各地の風情を漢詩にした人です。『茶摘の季節に土山を過ぎて、大野村に来て見ると、茶の樹が整然と植えられており、新芽が深緑の美しい色をしており、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。葉を蒸すと緑茶になり、発酵させると紅茶になることを知っていましたか。また、外国へも輸出されていることも知っておりますか』という内容だそうです。

お茶の木が整然と並び、まさに今は、先程の『眞風軒の漢詩』のような季節です。

旅籠 丸屋跡

茶舗

江戸時代の屋号は「ぬしや」

旅籠 井筒屋跡

旅籠 篤居屋跡

大野村は間宿でした。本宿を守るために、幕府は間宿での宿泊は禁止していました。しかしそれは表向きで、本宿よりも割安にし、旅人には重宝されていたと思います。

旅籠 中屋跡

しかし、旅籠が多いです。闇での宿泊だと思いますが、これほどあると何かお咎めなどなかったのでしょうか。

旅籠 日野屋跡

レトロな防火水槽

タイル張りで「防火水」とあり、大正から昭和初期くらいのものでしょうか。樋からの雨水を貯めるようになっているようです。合理的です。

旅籠 小幡屋跡、明治天皇聖蹟

1868年(明治元年)〜1880年(明治13年)の間に4回、この小幡屋で休憩されたそうです。

安中酒造場

明治17年創業の安中酒造場は、鈴鹿山系の伏流水と近江米、昔ながらの道具を使用し、手間隙かけて酒作りをしているそうです。

安中酒造さんの酒樽のモニュメントです。

たるの中には自慢のお酒が並んでいます。

旅籠 金屋跡

旅籠 田畑跡

三好赤甫旧跡

三好赤甫(みよしせきほ)は、幕末に大野村で代々魚屋を営む三好家の長男として生まれ、上京すると文人と交流を深め、俳句の研究に没頭し「窓あかり」などの句集を残します。 この生家の魚屋が現在は日本料理屋「赤甫亭」として営業しているようです。

大通りを渡りますが、大野の古い町並みがまだまだ続きます。

旅籠 東屋跡

わらぶき屋根が素敵です。まだ残っていたのですね。

古い町並みを抜けると水田が広がり、気持ちいい道のりです。やがて国道1号線へぶつかります。

このあたりで、土山ともお別れです・・・ 「馬子唄全国大会」とあります。箱根馬子唄、鈴鹿馬子唄、秋田馬子唄などいずれも大会があるようです。鈴鹿の馬子唄全国大会は、27回開催されています。

水口に入ってきました。「みずぐち」かと思いきや、「みなくち」と読むそうです。

11:30 道路沿いのポケットパークで少し休憩します。

ここから県道を西へ少し行き、すぐに右手、静かな旧道へ入ります。

稲川碑

『石碑の下からは今でも清水が湧いています。江戸時代には東海道を行く旅人が喉を潤していました。1647年(正保4年)水口城代の山口重成が土山宿と水口宿の間には飲み水がなく、困っていたため稲川沿いに井戸を掘って水を湧き出させたといわれています。また、村の言い伝えでは、源平合戦の最中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた折、 稲川端の清水で目を洗うとたちまち血涙が止まったとのことです。いつしか村人はこの水を景清の目洗い水と呼ぶようになりました。』 ・・・と案内板には書いてありますが、肝心の石碑が見当たりません・・・

後で調べると、どうやらこの案内板から北へ100mほどの稲川沿いにあるようですが、セメント工場のような場所の敷地内にあるようですね。見ることはできないようです・・

図中の中央あたりに稲川碑、水を飲んでいるような旅人が描かれ、右端には標石が描かれています。

経塚(きょうづか)

経塚は、経典を埋めて塚とするものであり、祈願や供養、積徳の行として行います。始まりは末法思想(仏法の効力がなくなる)から経典を後世に伝えようとしたと思われます。この経塚は、801年(延暦20)このあたりに化け物が出没したため、村人がお経を土中に埋め、塚としたと言い伝えられているそうです。経塚には碑を建てる場合が多いように思いますが、ここには碑はないようです。

古民家カフェ 一里塚

おっしゃれなカフェですね。営業しているのか不明です。

今郷一里塚跡

明治初めに撤去されてしまいましたが、現在は復元されたものがあります。現在の位置よりも東にあったようです。元々は桜が植えられていたそうですが、現在は、エノキが植えられて います。

東海道四十九半お休み処

現代の旅人が無料で休憩できる施設です。箱根の「接待茶屋」を思い出します。江戸時代の旅人が接待茶屋にたどり着いたときの気持ちが少し感じられます。

建物の中にはたくさんの人のメッセージが残されていました。京都からスタートした人はまだまだ序盤。私達のように日本橋からスタートした者は、もうじきゴール。 皆さん、足が痛いと書いてありました。私もとてつもなく痛いです。でもみんなおんなじ。がんばってる。顔も知らない皆さんのメッセージを読み、元気がでました。

私もメッセージを残してきました。

高札場跡

静かな道です。今日は祝日のため、日の丸を掲げているお宅がありました。昔はよく見かけましたが、最近は見かけなくなりました。バスに小さな日の丸がついているのを目にする程度です。

宝善寺

創建等は不明です。元々は真言宗であり、のちに改宗したようです。現在の本堂は明治2年に築造されたそうです。

道標? 「県道西明寺水口●●●」最後のほうはわかりませんが、県道の道標のようです。最近のもののようですね。

岩神社

かつては野洲川に面して巨岩・奇石が多く、景勝地として知られていました。

「伊勢参宮名所図会」によると当時は社がなく、岩を祀るとあります。

村人は子供が生まれると岩の前に立ち、旅人に頼んで子の名前を決めてもらう習慣があったと記されています。

八幡神社

奥の森が神社ですが、結構立派な本堂が見えますが、地図にものっていない神社です。新城観音堂が併設されています。

東海道の松並木の碑

戦争により多くの松並木がなくなりました。

現在は若い松が植えられています。いつか大木になるでしょう。

新庄村

昔は綺麗な茶店があり、善哉餅(ぜんざいもち)を商っていたそうです。

水路橋

川の上に水がたっぷり入った橋、どんどん流れていきます。

不思議な光景です・・・

秋葉水公園

13:10 公園で一休みします。足の手当てが必要でした。足の豆がはじけ、めちゃめちゃ痛いです。歩いていると、冷や汗が出てきます。

東見付跡

1605年(慶長10年)以降に「江戸口」として整備されました。享保年間作成の「水口宿色絵図」によると、枡形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれていました。

松原町 曳山蔵

水口神社の春祭り、「水口曳山祭」は、1735年(享保20年)、水口神社の祭礼に、当時の9村の氏子が更なる繁栄を祈願して曳山を築造・奉納したことに起源をもつそうです。その後は曳山の数が増え(およそ30基が確認)現在は、16基の曳山が残っています。賑やかな曳山巡行と江戸祭囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られます。

水口は古くから伊勢への道が通り、室町時代には宿村として開け、市も立っていました。しかし、現在のような町の基礎ができたのは、1585年(天正13)、秀吉が家臣の中村一氏に命じて水口岡山城を築かせてからであります。

水口宿本陣跡入口

細い路地を奥に進みます。

明治天皇行在所御旧跡

本陣跡の石碑、明治天皇聖蹟

水口宿本陣は、代々鵜飼氏が経営にあたり、間口の一般の三件分に相当する広大なものでした。明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって歴史を閉じ、その後、建物も撤去されました。

桔梗屋文七

1905年(明治38年)、着物洗い屋さんとして創業したようです。現在は別の場所ですが、クリーニングやさんとして手仕上げの高級クリーニング店を営んでいらっしゃるようです。

高札場

三筋

水口宿は道路が3つに別れた「三筋」と呼ばれる道路形態で、このような道路形態は非常に珍しいそうです。

水口宿は、甲賀郡内では最大規模でした。1843年の記録によれば家数692件(うち旅籠41件)とされます。当時の宿場の名物としては、干瓢(かんぴょう)、葛細工、煙管(キセル)、泥鰌汁(どじょう汁)などが知られます。葛細工とは、植物の葛のつるで編んだ籠などであり、「水口細工」と呼ばれる。

水口細工

旅人のお土産として重宝され人気が高く、幕末には町の一大産業に発展していました。明治に入ると外国での人気が高まり、一度に何万個もの注文があったそうです。しかし、昭和40年代になると突然姿を消します・・・平成になり、復活させようと試みるも、製法が不明でなかなか難しいものだったそうですが、試行錯誤の結果、なんとか材料や製法をつきとめます。 伊勢神宮の式年遷宮(20年に一度社殿などを新調する)には、古来から水口細工が宝神として奉納されていましたが、昭和28年から途絶えています。 次の遷宮には奉納できるといいですね。とっても綺麗で精巧な細工です。

東町の曳山蔵

問屋場跡

江戸中期以来、大池町南側に場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました。

大池町休憩所

休憩所、駐車場、バス停とトイレがあります。裏にからくり時計があります。

大池町のからくり時計

曳山のからくり時計です。江戸時代の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上には「ダシ」と呼ばれる 作り物をのせて町内を巡行します。「ダシ」は毎回趣向を変えて、その出来栄えを競い、巡行見物のひとつの楽しみになっているそうです。

三筋の町のからくり時計

石橋

「水口石橋駅」名の由来の石橋です。橋の下は川ではなく、人工的な水路です。宿場用水だったのでしょうか。

近江鉄道は単線です。

近江鉄道 水口石橋駅

14:45 本日はここまでにします。

これ以上は歩けません。水口石橋駅は無人駅でした。

貴生川で草津線へ乗り換えて京都、京都から新幹線です。最寄の新幹線の駅が名古屋から京都になりました。ゴールが近づいている証です。

水口石橋駅の時刻表

1時間に1本か2本。ちょうど行ってしまったばかりで1時間近く待つことになります。

かわいい電車が来ました〜また次回は、ここからスタートです。お疲れ様でした。