船で渡っていた海上一里半、現代は徒歩で行く

2003年8月24日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
10:00 舞坂をあとに新居へ向かいます。

弁天島

弁天橋を渡り弁天島へ入ってきました。弁天島は明治時代より海水浴場となり、現在はリゾート地の趣です。

弁天神社

1709年(宝永6)今切渡しの海の安全のため、弁天島に弁天島が建てられました。境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原華山、松島十湖の文学碑があります。

弁天島と天女

「天橋立」のような美しい弁天島にある日、天女が舞い降りました。村人は喜び、社を建てるのでここに留まってほしいと懇願しましたが、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲崎の一部であった弁天は海に取り残されて島となりました。

種田山頭火歌碑

浜名湖「春の海のどこからともなく漕いでくる」 舞坂海浜公園の桟橋近くの駐車場にあります。

弁天島の鳥居

4月〜8月末までの温暖な時期は、弁天島海浜公園発着の渡し船に乗り、赤鳥居の立つ弁天島の天然の干潟、「いかり瀬」へ磯遊びに行くことができます。

松並木

消防倉庫

今切関所(新居関所)

今では埋め立てが進み、内陸になってしまいましたが、元々は海に面しており、旅人は今切渡しで海上一里半を経て関所へ直接上陸し、役人の取り調べを受け、許可が下りれば門から抜けて新居の宿場へ入りました。女性は箱根関所では江戸へは手形が不要でしたが、新居では上下ともに手形が必要でした。女性の出入りと鉄砲に関しては箱根の関所よりも厳しく取り締まられていました。

新居関所

地震、津波など江戸時代に2度移転しており、現在残っている関所は3度目の関所で、全国で唯一当時の建築が残る貴重な存在です。関所資料館には、関所手形など関連資料が展示されています。

関所の入口には炭太祇(たんたいぎ)の句碑があります。『木戸しまる音やあら井の夕千鳥』

関所役人

1600年の今切関所(新居関所)創設より1702年(元禄15)までは幕府直轄として関所奉行が任務にあたっていましたが、元禄15年以降は、三河国吉田藩へ関所の管理が引き継がれました。

関所面番所

旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、1854年(嘉永7)の地震により倒壊したため、翌年建て替えられたものが現在まで残っています。関所廃止後は明治6年から大正5年まで小学校として、その後昭和26年までは新居町役場庁舎として使用されていました。

足軽勝手・改め女

関所役人の内、足軽が休憩に使用していた部屋を「勝手」と呼んでいました。当時、勝手とは休憩室をいい、台所とは別にありました。足軽勝手の建物の西側に「改め女」がいた長屋が建てられていました。現在その建物がないため、便宜上「足軽勝手」を利用しています。

改め女

近在の農家の女性が2人いて、まず人相・体型などを証文と照らし合わせ、髪をといて密書などがないかチェックされます。更に怪しいと思えば裸にして改めていたといいます。しかし、事前に改め女の袖にカネを忍ばせることにより、かなり手加減してくれたようです。

吉田藩の管理下となってからの関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など計40人前後が交代制で任務にあたっていました。1862年(文久2)に参勤交代が3年に1度になり、同年、大名の奥方も帰国自由になるのをきっかけに関所は名ばかりとなり、明治2年に廃止されました。

関所高札

一. 関所を出入輩乗物の戸をひらかせ笠頭巾をとらせて通すへき事

一. 往来の女つふさに証文引き合わせて通すへき事、附乗物にて出女は番所之女を差出して相改へき事。

など関所での注意事項が書かれていました。

渡船場跡

1708年(宝永5)に今切関所が現在地へ移転してからの渡船場です。大正以降の埋め立てにより面影を失っていましたが、2002年(平成14)に渡船場の一部を復元整備しました。

大御門

大御門は、明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じ、原則として夜間は通行できませんでした。高札を置く枡形広場があり、東海道へ繋がっていました。礎石建ちではなく地表より2.7m下に礎石を据え、柱を埋めた掘立柱の門です。(2016年撮影)

高札

一度目の関所跡(大元屋敷跡)には『通女の歌碑』があります。「旅衣あら井の関を越えかねて袖に寄る波 身をうらみつつ」井上通女は江戸時代の歌人です。1682年(天和2)父に随伴して江戸へ向かう途中の新居関所で通行手形の書き方のわずかな不備を指摘されて通行できず、新しい手形をもらうため、大阪へ使いを出し帰ってくるのを待っていたときの心情を詠んだ和歌です。新居関所が女性に酷く厳しかった逸話として有名な実話です。(2016年撮影)

船囲い場跡

宝永の災害によって今切関所(新居関所)が現在地へ移転してから渡船用の船を繋いでいたところです。この入江には常時120艘の渡船が配置されていました。大名の通行などで多くの渡船が必要な場合は、寄せ船制度により近郷から船が寄せ集められて補っていました。現在周囲は埋め立てられたようで陸地ですが、江戸時代はこのあたりまで入江だったのでしょう。

旅籠紀伊国屋

紀伊国屋の創業ははっきりしませんが、主人が紀州の出身で、江戸初期に新居に移り住み茶屋を営んだのが始まりといわれます。江戸時代中期の1703年(元禄16)には徳川御三家紀州藩の御用宿となっており、その後「紀伊国屋」の屋号を掲げました。昭和戦後に廃業するまで約250年、旅館業を営みました。建物は明治初めの再建ですが、随所に江戸期の建築様式を色濃く残し、2001年(平成13)に解体修理を行い、当時の風情を体感できる施設として公開しています。

(※2016年撮影)

手筒花火

毎年年7月に行われる有名な「手筒花火」は寺道の西にある諏訪神社の祭礼です。花火の筒を腕にからませて舞い踊ります。手筒花火は吉田(豊橋)周辺で盛んでしたが、吉田藩が関所を管理してから新居へ伝わったとされます。

疋田本陣

建坪193坪、疋田家は庄屋、年寄役も務めました。現在御子孫が医院を開業しているようです。

飯田本陣

飯田武兵衛が努めた本陣は、天保年間の記録によると建坪196坪で門構え玄関を備えていました。1868年(明治元)には明治天皇行幸の行在所となり、更に同年、翌年、1878年(明治11)の巡幸の際、利用されました。行在所の建物は1885年(明治18)奥山方広寺へ移築されました。

小松楼まちづくり交流館

俵町より船町界隈は、明治末期〜昭和初期には歓楽街として栄えました。小松楼は当時最も栄えた置屋のひとつで、新居町出身の松井米吉氏が浜松で新聞店を営んだ後、大正初め頃置屋兼小料理屋として開業しました。平成23年より「小松楼まちづくり交流館」として開館し、内部を公開しています。(2016年撮影)

寄馬跡

宿場では公用荷物や公用旅行のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に100人の人足と100頭の馬を用意していました。足りない場合は、助郷制度で近隣の村より人馬を寄せ集め、集められた人馬の溜まり場が「寄馬所」と呼ばれていました。

秋葉常夜灯

新居一里塚跡

日本橋より69里目の一里塚。塚木は、東が榎で西塚が松でした。

棒鼻跡

一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出して枡形となっていました。棒鼻とは籠の棒先の意味がありますが、大名行列が宿場へ入る時にこの場所で先頭(棒先)を整えたことが棒鼻と呼ぶようになったと言われています。
12:20 新居をあとに白須賀へ向かいます。