360本の見事な松並木は、東海道中随一

2005年5月4日

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9:00 御油をあとに赤坂へ向かいます。

御油の松並木

ここから東のかつての上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれた通り沿いは、今でも宿場町の面影を残す旧家が見られます。

御油の松並木

松並木は600mにも渡り、現在も360本の見事な松が見られます。1575年(天正3)、織田信長の奉行であった藤岡八右衛門らが植え、1604年(慶長9)、徳川秀忠が整備させたものです。江戸時代には600本以上の松があったとされます。

御油の松並木

街道沿いに樹木を植えるようになったのは、奈良時代からと言われています。当時は旅人を飢えから救うために食べられる実がなる木を植えたそうです。しだいに日差しや風雪を防ぎ、休息の場としての機能に変化していきました。

写生をされている方がいらっしゃいました。御油の松並木は、昭和19年には国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にも選ばれています。
次の赤坂宿までは1.7kmの道のり。東街道で最も短い距離です。東海道一の見事な松並木を眺めながら歩いていくと30分ほどで赤坂宿へと至ります。

弥次さん喜多さん、御油の松並木

陽も落ちかけた頃、弥次さんは御油宿の茶店の婆さんが悪い狐が出て、旅人を化かすので「此の宿に泊まらっしゃりませ」と言うのも聞かずに、先に行った喜多さんを追いかけます。松の鬱蒼と茂ったこのあたりで本物の喜多さんに追いつきます。茶店の婆さんが言ったキツネの話をすっかり信じて喜多さんをキツネが化けていると思い込み、突き刺し縛り上げてしまいます。そしておっ立てながら赤坂の宿へ向かいます。こんな滑稽な話が御油の松並木で繰り広げられました。

宮路山

標高361mの宮路山は、気軽に登れるため豊川市の代表的なハイキングコースになっています。コアブラツツジの群生地として知られています。コアブラツツジは、ドウダンツツジの仲間ですので、秋には美しく真っ赤になります。

関川神社

1001年(長保3)、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基の命を受け、関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされます。境内には『夏の月御油より出でて赤坂や』の芭蕉句碑があります。短い夏の月と御油から赤坂への短さを掛けた句です。

酒屋

御油と同じように赤坂は飯盛女が多い宿場でした。『御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い』とは、江戸時代の俗謡です。遊女の多い吉田、御油、赤坂が無かったら江戸へなど通うものか、と歌われています。

問屋場跡

茅葺きの問屋は、間口10.9m、奥行56.4m、慶長5年に幕府の命により設けられました。人馬の継立、問屋取締、年寄、帳付、馬差、飛脚役などの役人を置き、人足30人程、馬10頭を繋いで即時の用に供しました。

本陣跡(平松彦十郎)

赤坂宿の本陣は、1711年(宝永8)には4軒ありました。少し先に最も格式が高いとされた伊藤本陣、伊藤本陣のはす向かいに平松弥一左ヱ門本陣がありました。平松彦十郎本陣は江戸時代初期より本陣を務め、問屋も兼ねていました。宝永8年の間取り図によると422畳、門を備えた立派な建物でした。本陣門は白鳥法雲寺に移築されています。

尾崎屋

曲げわっぱ(木でできたお弁当箱)などの木工品や民芸品を製造・販売しているお店です。

尾崎屋の軒行灯

二階の連子格子に軒行灯がかかり、「東海道五十三次 赤坂宿 曲物民芸品製造卸問屋」と書かれています。

浄泉寺

京都誓願寺の善誉上人が、浄教寺を隠居寺として再興しようと考えましたが、境内が狭いため1588年(天昇16)に兄の市蔵正長の旧邸内に寺を建立し、浄泉寺を興したといいます。境内にあるソテツは、樹齢270年、「広重赤坂」のモデルとも言われます。

ソテツの寄進

ソテツには、肥やしとして釘などの金属を与えるため、「カネを食う」ものとして、或いはソテツのテツを「鉄」、金を失うなど、縁起が悪い植物として、旅籠や商家から寺や神社へソテツが納められることがあったそうです。

旅籠大橋屋

1733年(享保18)には、家数400軒のうち83軒が旅籠でした。大橋屋は旧屋号を鯉屋といい、1716年(正徳6)の建築とされています。赤坂宿の旅籠の中では大旅籠に属し、入口の見世間、階段、2階の部屋は往時の様子を留め、広重赤坂のモデルの旅籠とも言われ、中庭や灯籠も残っているそうです。

正法寺

聖徳太子が三河地域を訪れた際、赤坂上宮に太子を祀る堂宇(太子堂)を建てたことが創立の発端であるとされます。809年〜823年に、万巻上人が箱根神社再建の勅許を得るため上京しましたが、その帰途、病により太子堂にて療養し、816年(弘仁7)に死去しました。上人の弟子らは、太子堂を改築して上人を開基としました。鎌倉時代初期には、源範頼の息子範円(のりかど)が太子堂に居住しました。
1232年(貞永元)浄土真宗の開祖親鸞が関東から帰京する際、聖徳太子像を拝むため太子堂を訪れました。このとき範円は親鸞に教化されて弟子となり、名を了信坊に、寺を太子山上宮院正法寺に改め、天台宗から浄土真宗に改宗しました。宝徳年間(1449年〜1451)に現在地に移転しました。宝物を多く所有し、1890年(明治23)明治天皇が「消息、関白草紙、木蘭地袈裟、網代団扇」の4点を天覧しました。石碑には「聖徳太子、見真大師旧跡」と彫られていますが、見真大師とは、親鸞上人のことです。

高札場跡

よらまいかん

平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設です。当時の建築様式を再現し、2階には赤坂宿を描いた浮世絵を展示しています。「よらまいかん」は地元の言葉で、「寄っていこうよ」という意味です。

赤坂陣屋跡(三河町役所跡)

陣屋は代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱っていたところです。赤坂陣屋は三河の天領(幕府直轄地)支配の中心であり、当初はこの地へありましたが1689年(元禄2)神木屋敷(現赤坂保育園付近)に移されました。幕末に三河県役所に改められました。

八幡神社

702年の開祖とされており、986年(寛和2)の棟礼が現存しています。境内の2本のクスノキは、推定樹齢千年を数え夫婦クスノキとして親しまれています。「赤坂の舞台」という案内があります。

赤坂の舞台

杉森八幡社の境内には明治5年に建てられた回り舞台を備えた芝居舞台があります。平成12年にこれを復元し、年1回歌舞伎の公演が行われ、公演時には全国でも珍しい「小屋がけ」と呼ばれる竹ドームの屋根が付いた伝統の観客席が再現されます。

常夜灯

10:00 赤坂をあとに藤川へ向かいます。