女性強し!女人堤防と日本武尊伝説を経て亀山城へ

2018年04月28日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

9:30  庄野宿をあとに、亀山宿へ向かって歩いていきます。

水を張った水田にコサギとカモ

平野道 道標

「平野道」というワードで調べても該当するような記事はないですね・・恐らくこの先、南の鈴鹿川を渡ると「平野町」という町があります。そこへ行く道・・ということでしょうかね・・

山神碑

三重県の鈴鹿山脈の麓では集落ごとに碑を建て、山の神を祀っていたそうです。この石碑もその一つだと思われます。

神戸領界石

「従是東神戸領」と刻まれています。江戸時代に建立されたものです。神戸藩(かんべはん)は、伊勢国河曲郡周辺を領有し、藩庁は神戸城(三重県鈴鹿市神戸)でした。

女人堤防碑

左側の小さいものも「神戸領界石」です。こちらの領界石は昭和33年に復元設置されています。

女人堤防の位置図

女人堤防

このあたりは鈴鹿川と安楽川の合流点、水害が多くこの村の人々は堤防建設の嘆願を出しますがが、神戸藩主は南岸の城下町である神戸の浸水を懸念して許可を与えませんでした。しかし村民は処刑を受けようとも堤防の築造を行うことにしますが、男子全員が処刑されてしまっては将来の村の生活に支障をきたすと考え、女性200人あまりで目だたない夜に工事を行い、6年の歳月を掛けて完成。その延長は400mにもなるそうです。 浸水被害はなくなりましたが、藩主に知られ、全員処刑されようとするまさにその時、処刑中止の早馬が到着し、難を逃れたばかりか、金一封と絹織物を与えられ、その功績を誉め讃えられたのです!

良かった!良かった!・・というお話しだが、6年もの歳月の工事期間中に藩主、あるいは役人にバレなかったとは考えにくいですね。恐らくバレていたように思います。 知ってはいたけど村人の事情も考えて見逃していた・・と言うことだろうとおもいます。

女人堤防北側

1803年「東海道亀山宿分間絵図」

中冨田の川俣神社

創建は不明です。1608年(明治41)に、和泉村の川俣神社に合祀されますが、氏子の希望で1948年(昭和23)に分祀を行い、再び中冨田の鎮守となります。

中冨田一里塚跡

エノキの大木があったそうです。奥の古めかしい石碑が「従是西亀山領」の領界石です。「亀山宿分間絵図」には「御馳走場」や「高札場」などがありますが、いずれも現地では不明でした。「御馳走場」は当時、東海道を往来する大名行列を接待する場所と考えられているそうです。

常念寺

「ひろせ道」道標

ひろせ道?北に「広瀬町」という地区があるのでそこへ至る道なのでしょう・・先ほども同じような道標ありましたね。いずれも街道ではないようだけど、街道よりもだいぶ巾が狭いですし、地元民の生活道路だったのでしょう。

西冨田の川俣神社

創建は不明です。1608年(明治41)に、和泉村の川俣神社に合祀されますが、氏子の希望で1948年(昭和23)に分祀を行いました。

安楽川

鈴鹿山脈南部の安楽峠を源流とする河川です。安楽峠の名の由来は、高低差が少なく楽に越えられた、ということからだそうです。河原の砂が白く、美しいです。上流は、花崗岩や珪長質の凝灰岩が多いのでしょうか。

なんだこれ!

調べてみますと、鈴鹿の横山商店さんにあるそうです。コンベア240という機種だそうで、スクラップ屋さんの社長さんがバラバラになっていたものを組み立てたようです。台座が見えなければ、飛んでるみたいですね。

和泉公民館

昭和初期の学校みたいな雰囲気です。

道標 「右 のゝぼ(り道)」

「ぼ」の半分から下はコンクリートに埋まってしまっています・・酷いですね。一旦外してちゃんと見えるように据え直せばいいのに・・あまりにも酷い・・「ののぼり」とは鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と考えられ、日本武尊御墓へ至る道だとも思われます。

道標 「右 のゝぼ(り道)」

左側にも少し新しい道標が見えます。

地福寺

ここ、小田町は「小田町道心かいどう」と呼ばれ、道心がたくさん修行した場所といわれています。当時は七堂伽藍の備わった寺であり、現在も「中堂」、道心達の風呂のあった場所として「風呂の谷」などの地名も残っています。1568年(永禄11)、織田信長の戦火にあい消失しますが、観音堂は常念仏堂として、1677年(延宝5)に建立されます。境内には多くの文化財があり、大切にされています。境内にはトイレもありまして、ありがたいです。

駅前はロータリーとポケットパークになっています。てここで一休みします。

関西本線「井田川駅」

1929年(昭和4)に開業された駅ですが、2012年(平成24)に待合室が完成しました。現在は無人駅ですが、駅舎は新しく、とても綺麗です。駅舎の奥のトイレもとっても綺麗です。

日本武尊像

故郷、大和国(奈良県)へ向かう途中、「ノボノ」(亀山市北東部)で亡くなり、能褒野(のぼの)王塚古墳が日本武尊の墓とされており、宮内庁が管理しています。

旧井田川小学校跡

明治8年に開校され、大正4年〜昭和54年までこの地で開校していました。旧門柱の片方を石碑としています。

谷口法悦題目塔

熱心な日蓮宗の信者であった「谷口法悦」は、十七世紀頃一族を引き連れて各地の寺院、街道筋や追分など全国に百以上の題目塔を建立しています。しかし、その人物像は不明であり、宗門の歴史に一族の名前は一人として記録がないそうで、謎の人物です。

和田道標

「従是神戸白子若松道」と彫られています。東海道から神戸・白子・若松方面への分岐点であり、1690年(元禄3年)に建立し、328年前にもなります。三重県内では最も古い道標です。

広重「和田の坂道」

歌川広重、東海道亀山を描いたものの一つで、和田の坂道を描いたとされます。

現在の和田の坂道

石上寺

796年(延暦15)、那智熊野権現を勧請し、新熊野三社として祀ったのが「新熊野権現社」の起源で、同年弘法大師が訪れ、地蔵菩薩を建立し「那智山石上寺」と名付けたのが始まりとされる由緒あるお寺です。和泉式部が籠もっていたお寺とも言われています。

和田一里塚

道路拡幅で消滅し、現在あるものは復元したものです。

一里塚裏はポケットパークとなっています。

12:00 ここで一休みします。

能褒野神社二の鳥居

能褒野神社はここから北に4kmほどで、日本武尊陵墓の東側にあります。日本武尊の遺徳を偲ぶために1883年(明治16年)に創建された新しい神社です。

露心庵跡

1584年(天正12年)、神戸正武が亀山城を急襲します。城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退しますが、戦死者を弔うために塚を築きました。関氏一門の露心はその供養として仏庵を築き「露心庵」と呼ばれるようになりますが、明治になると廃寺となってしまいました。

交差点のポケットパーク

このあたりの東海道は、「巡見街道」となっている。巡見街道とは、江戸時代に巡見使が通った道のことです。既存の五街道や脇道、藩営道路などを連続させて、全国に張り巡らせてあります。巡見使とは、幕府が諸国の政情を視察させた役目の者で、二千万石以上の旗本を筆頭に100人を越える行列で行われていたそうです。

衣城しもむら

呉服屋さん?お店がお城になっています!
12:30 亀山宿江戸口門に到着です。ここから亀山宿となります。

江戸口門

商店街になっています。宿場町がそのまま商店街になっていることが多いですね。

福泉寺山門

1795年(寛政7年)築造。亀山市指定文化財となっています。

蓮如上人御旧跡

蓮如上人は室町時代の浄土真宗の僧であり、衰退していた本願寺を再興したとして、「本願寺蓮如」などとも呼ばれていました。左手の「法因寺」にしばらく滞在していたそうです。

蓮如にまつわる言い伝え

法因寺に滞在していた蓮如上人は、自ら「南無阿弥陀仏」と大きく書いた名号(仏・菩薩の称号)の軸を本尊として寺に贈りました。1547年(天正2年)火事により本堂が焼け落ちますが、、不思議なことに名号の軸の中でも、蓮如上人が書いたものだけが火の中から飛び出して本堂裏の柿の木に引っかかっていたといわれます。

黒田孝富墓

江戸時代末期の亀山藩士で、勤王派と公家を取り持ったりしていたのが仇となり、禁門の変で幽閉されます。鳥羽・伏見の戦い後、情勢が変化して釈放され、代奉行として藩政改革につとめますが、明治に入って暗殺されてしまいます。
東海道へ戻ると「東町ふれあい広場」

旧佐川邸跡碑

東町ふれあい広場内。商家であった佐川家は、佐野屋の屋号をもち、この場所に屋敷があったそうです。「伊勢国鈴鹿郡亀山宿内之図」によると「旅籠佐野屋源治」と記載があるそうです。

カワイイ!電車のような自動販売機

樋口本陣跡

小さな木製の看板だけです。見落としそう・・

亀山城大手門跡

東海道から歩いてくると、この大手門が目の前にバーンとあったのでしょう。東海道は大手門にぶつかって左に折れるようになっています。

高札場跡

交差点の角に高札場跡があります。

亀山城東三之丸跡

大手門を左折すると道が綺麗に整備されています。旧街道の趣のある道になってきました。道幅も当時とあまり変わらないのではないでしょうか。

遍照寺

少なくても17世紀初頭には存在していたことが明らかになっていますが、その詳細はわかっていません。寺内には数々の文化財があるそうです。

亀山宿内は古い家が多く残っていてとっても雰囲気がいいです。車もほとんど通らなくて、歩いていて楽しいですね。

当時の屋号が掲げられています。

塀が傾いていて倒れそうです。

東海道はこの坂をあがっていきますが、ここで亀山城へ寄り道するため、右に曲がっていきます。

お堀の一部ですが、工事中ですね。

亀山城

亀山城は1265年(文永2年)に若山町に関実忠が築塁したと記されており、その後、現在の位置に移されたのですが、その詳細はよくわかっていないようです。

本丸多門櫓

現在、改修工事中でいい写真がとれません・・櫓内部は見学ができます。天守閣はすでになく、建物はこの多門櫓だけのようです。

ますみ児童公園

多門櫓前のますみ児童公園は、亀山公園の一部のようで、SLが展示してありました。なぜここにあるのかはわかりませんが、柵があるものの間近に見ることができます。この公園でちょっと休憩しました。

飯沼慾斎誕生の地

江戸時代の医者で本草学者、草木図説を出版しています。この方を知らなかったのですが、草木図説をググると、カラーでとっても細かい図が描かれた植物図鑑で、びっくりしました!

本丸多門櫓

残念ながら、樹木でよく見えません・・・

藩主交代の碑

1744年(延享元年)、伊勢亀山藩主板倉勝澄が備中松山へ移り、備中松山から亀山へ石川総慶に替わります。交代は2度目とあります。亀山においては、板倉・石川氏が廃藩置県となるまでの126年にわたって藩主をしていたそうです。

ポテトチップスの自動販売機〜!

はじめてみました。こういうものがあったのですね。

さっき通り過ぎたポケットパークまで戻って来ました。ここからまた東海道です。

西町問屋場跡

東町と西町からなる亀山宿は、東町の樋口家(本陣)と西町の若林家(米問屋)が交代で業務を行っていました。問屋場の位置は道路改良などで厳密には確定できないそうですが概ねこのあたりに若林家の屋敷、借家、問屋場が並んでいたことが確認出来ているそうです。

道標 右東海道 左停車場道

大正3年 田中音吉建立。停車場道とは、ここから400mほど南の「亀山駅」へ至る道のことだろうと思われます。亀山駅は明治23年に開通したようであるため、時代的には一致すると思います。

道標 右郡役所 左東海道

大正3年 田中音吉 建立。鈴鹿郡役所はここから北へ200mくらいの亀山町西丸の明倫館跡地、現在の亀山中学校に置かれていたようです。

飯沼慾斎生家跡

先ほど亀山城で「誕生の地」とありましたが・・あちらは「亀山市」が誕生地ということなのでしょうか・・

旧舘家住宅(枡屋)

土日祝日は無料で中を見学できるようです。枡屋は幕末から大正にかけて呉服商を営んでいました。この建物は明治6年に建てられ、木造二階建ての趣ある旧家です。

西之丸外堀

図のCの部分が復元されているようですが・・なんかね〜って感じです。復元するならもっとなんか当時が感じられるような趣向の凝らし方があると思いますが・・少し残念です。

京口門跡

こちらも工事中で少し残念な感じです・・観光地は土日の工事はしないでほしいです。

歌川広重 亀山「雪晴」

坂から見上げる京口門が描かれています。

明治期の京口門

坂の下から見上げるような京口門、広重の浮世絵のまま、壮麗です。

1914年(大正3年)京口橋が架けられたため、坂を登る道筋が途絶えてしまいました。写真には、橋の下と向こうに元々の坂道が写っています。

現在の京口橋

照光寺

山門前にも大きな「雪晴」が展示されています。当初は、玉泉寺といいましたが、板倉重常の妻、板倉筆子の法号から照光寺と改名しました。鹿島新当流の奥義を極め、石井兄弟に討たれた赤堀水之助の墓や石川総安に召抱えられて儒臣となった山木善太の墓などが境内にあります。(赤堀水之助は、野村地区まちづくり協議会のホームページでは「病没」したことになっています・・?)

亀山宿は、綺麗に整備されていました。静かな佇まいで見どころもたくさんありましたが、工事が多かったのが少し残念でした。タイミングが悪かっただけですが・・

すごくお腹が空いてきましたが、こういうときに限ってお店がないんですよね〜

14:00 空腹をこらえつつ、亀山をあとに関宿へむかってもう少しがんばります。