石畳を抜け小夜の中山の茶畑は圧巻。旧街道らしい景色が続く

2003年4月27日

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14:00 日坂に向けて進んでいきます。

周囲の玉石積がとても綺麗です。右手が金谷宿の西の入口、不動橋です。不動橋は江戸時代には「西入口土橋」、「金谷大橋」などと呼ばれていました。

不動橋を渡ってすぐの右路地を少し入ったところが、「道銭場」です。中山新道の金谷側入口にあたります。中山新道は、1880年(明治13)に金谷宿と日坂宿の間を切り開いてできた有料道路で、道銭場は料金所です。日坂側の道銭場は、島田市佐夜鹿の県道381から南に少し入った民家の一角に案内があります。

坂道になってきました。徐々に勾配も増します。このあたりの玉石積みも綺麗です。

金谷坂石畳 入口

江戸時代、幕府が近郷集落の助郷に命じ、金谷峠の坂道を旅人が歩きやすいように山石を敷き並べたものです。近年、わずか30mを残して全てコンクリートなどで舗装されてしまいましたが、平成3年、町民600名の参加を得て「平成の道普請」が行われ、延長430mの石畳が復元されました。

金谷坂石畳・石畳茶屋

街道の石畳で往時を偲ぶことができるのは、この金谷坂のほか箱根峠、中山道十曲峠の3箇所だけです。

鶏頭塚

『曙も夕ぐれもなし 鶏頭華』自然石の石碑にはこの句と「六々庵巴静寛保甲子四年(1744年)二月十九日没」と刻んであります。巴静は、芭風を広めた江戸時代の俳人で、その教えを受けた金谷の門人たちは金谷坂の入口北側に句碑を建てました。

庚申堂

昔から土地の人々に信仰され、徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場としてたことが言い伝えとして残っています。

すべらず地蔵堂

長い間旅人の足元を守ってきた「滑らない山石を敷いた石畳」に因んで、このお地蔵様を「すべらず地蔵尊」と呼んでいます。合格祈願のお参りに多くの受験生が訪れるそうです。

諏訪原城跡

1573年(天正元)武田勝頼らにより東海道沿いの牧之原台地上に城を築かれました。1575年(天正3) には武田氏と徳川氏で激しい戦いが繰り広げられ落城し、徳川氏の城となります。武田氏守護神の諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と呼ばれていますが、史料には「牧野原城」、「金谷城」、「扇城」などの呼称で記されています。 後ろの神社が諏訪神社です。

大手口・一二号堀

大手口は、城の表玄関に当たる場所です。一二号堀は、三日月形の水堀で三の丸を守るものです。長さ89.7m、巾15.3m。

自然堀と人工の大小堀が13本ありますが、石垣などは用いられていないそうですが・・・草がぼうぼうで地形がよくわかりません。

九号堀

この堀は土橋によって2つに別れており、隠し堀の八号堀に続いています。自然湧水を利用した水堀で長さ109.0m、巾14.5mです。

菊川坂石畳

菊川坂の石畳は、平成13年に菊川地区の住民500名により江戸時代後期より残っていた区間を含めて約700mが復元されました。石は町民一人一石運動により約7万個が集められたそうです。

地元の人々に感謝しつつ、石畳を歩きます。

江戸時代の石畳

江戸時代は様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳は、近隣12ケ村に割り当てられた助郷の人達によって敷設されました。先程通過した復元の石畳と違い、かなり凸凹の石畳で、長い年月で石が丸まってしまったのでしょうか。

間の宿 菊川

金谷宿と日坂宿は1里24町と比較的近距離ですが、急所・難所が続くため間の宿として菊川が置かれました。間の宿では旅人の宿泊は禁止でした。川留めの場合などでも金谷宿の許可がないと宿泊はできません。また、尾頭付きの本格的な料理の提供も禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の「菜飯田楽」でした。下菊川の「おもだか屋」宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別だったと言われています。おもだか屋には御殿と呼ばれた上段の間があり尾州家(尾張徳川家)からの下賜品があったそうです。

菜飯田楽

大根の葉、あるいは小松菜などを湯通しし、鍋で煎り塩味を付けて炊きたての御飯に混ぜたものが菜飯です。田楽は豆腐の水気を切り串に挿して味噌を塗り、炙って焼いたものです。この菜飯と田楽を定食風に提供していたようです。

宗行卿詩碑・日野俊基歌碑

菊川の名は「吾妻鏡」の中に建久元年、源頼朝上洛の中で「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・・」と記されています。1221年(承久3)、承久の乱で鎌倉幕府に捉えられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中、菊川の里で残した詩です。

『昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川西岸に宿りて命失う』

「昔は南陽県(中国河南省)の菊水を汲んで飲むと寿命が伸びたというのに、今は東海道菊川西岸に宿り命を失う」

更にその100年後、1324年の正中の変、1331年(元弘元)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基が鎌倉へ護送の道すがら里で歌を残しています。

『いにしえむかかるためしを菊川の 同じ流れに身をやしづめん』

「宗行卿は菊川に宿った。同じ菊川の流れに私も身を沈めよう」日野俊基は、宗行卿と同じ境遇となった心境を詠んだものです。

矢の根鍛冶 五条才兵衛邸

矢の根とは、矢の根のところ、つまりは「鏃(やじり)」のことです。徳川家康が大阪城攻めのため、立ち寄った菊川の里で入手した鏃(やじり)が開運の鏃として有名になりました。掛川城主から土佐国主となった山ノ内一豊は、この矢の根鍛冶に対して、諸侯に差し出してもよろしいいう墨付きを与えたため、一躍有名になります。元禄年間に五条才兵衛家は断絶してしまいますが、「五条鍛冶」という名は引き継がれ菊川の土産として人気がありました。

小夜の中山

小夜の中山は、峠の名称です。このあたりから眺めるお茶畑は壮観ですが、このような大規模なお茶畑になったのは明治以降です。芭蕉の句に詠まれている「お茶」ですが、当時はこれほどの茶畑ではなく、細々としたものでした。

牧ノ原台地の茶畑

1867年(慶応3)、徳川慶喜は大政奉還により駿府に隠居します。その際、慶喜の身辺警護を勤める「精鋭隊」(のちの「新番組」)に属する武士たちも同行し、ともに駿府に移り住みました。ところが、1869年(明治2)の版籍奉還により、「新番組」は突如その任務を解かれ職を失ってしまいます。そこで、1869(明治2年)中條景昭は、露頭に迷った幕臣の救済策として目を付けたのが幕末以来、輸出品として急増していた「茶」でした。勝海舟に助力を借り、牧之原台地における茶畑の開墾を決断します。更には大井川の川越人夫も職を失ったため千人以上が開拓に加わったそうです。水不足の荒廃した台地での茶畑開墾は大変な苦労と失敗の連続だったといいます。今では、この牧ノ原台地の茶畑は約5,000haの東洋一の大茶園となりました。今日のこの美しい景色の背景を知るとまた違う景色に見えてきます。

久延寺

奈良時代の僧、行基により小夜の中山頂上に開いたという古刹です。1600年(慶長5)、掛川城主山内一豊が、関ヶ原合戦のきっかけとなる会津・上杉征伐の軍を大坂より進めてきた家康をもてなした茶亭の跡や、その礼に家康が植えたとされる五葉松が残っています。また、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても有名ですがこちらにある夜泣き石は本物ではありません。

扇屋

江戸時代、久延寺周辺には20軒ほどの飴屋があったそうです。現在は、扇屋のみが営業しています。扇屋の看板には「名物 子育て飴」と書かれています。扇屋は宝永年間の開業とされており、300年以上茶屋を営んできた老舗です。「子育飴」は、砂糖を使わずにもち米と大麦のみが原料の琥珀色をした水飴のようなものです。子育て飴の由来は「夜泣き石の伝説」で紹介します。残念ながら今日はおやすみでした。

小夜の中山公園

ゆるやかな台地を利用してつくられた見晴らしのよい公園で、歌人西行法師の歌碑が建てられています。『年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり 小夜の中山』西行法師、2度めの峠越えの時の歌です。

小夜の中山公園案内図

小夜とは、「塞」(さえぎる)の意、中山は、境界を指すそうです。悪霊をさえぎる塞の神が宿った峠という意味のようです。

小夜鹿一里塚跡

1604年(慶長9)に造られました。52里目の一里塚です。塚は失われていますが、周囲は綺麗に整備されています。

涼み松広場

小夜の中山夜泣き石のあった街道沿いの北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で一句詠みました。当時の松はもう無いようです。

芭蕉句碑

 『命なり わずかの笠の 下涼み』 これ以降、この松を「涼み松」と称されるようになりました。この句は延宝4年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記され、帰京の途次の作として記されています。

夜泣き石跡

妊婦の霊魂が移り、泣いたという石が夜泣き石です。明治元年までこの道の中央にありましたが、明治天皇御東幸の折、道路脇に寄せられました。その後、明治初年、東京で博覧会があり出品され、現在は国道1号線の小泉屋西側に移されています。久延寺境内にもありますが、本物ではありません。

夜泣き石の伝説

1805(文化2)、曲亭馬琴の「石言遺響」、1773年(安永2) 随筆「煙霞綺談」などによると、昔、お石という妊婦が小夜の中山に住んでいました。ある日お石が菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ、通りかかった轟業右衛門という男が、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げます。その時、お石の傷口から子供が生まれました。側にあった石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んで恐れたそうです。生まれた子は、夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられました。音八は成長すると、評判の刀研師となり、ある日の客が、「十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたった」と言ったため、この客が母の仇と知り、仇を討ちました。この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏を刻んだそうです。

広重 日坂の碑

1832年(天保3)、広重は幕府の行列に随行し、東海道を旅します。その体験や印象を描いた「東海道もの」は大変好評を得て、次々と発表されました。日坂の中央に夜泣き石が描かれています。まじまじと夜泣き石を眺める旅人が愉快です。

石垣と水路跡

「日坂宿田坂口町地内の石垣と水路跡」とだけ看板がありますが、詳しくは書かれていません。

広重 日坂

1842年(天保13)に発表した「狂歌入東海道」の日坂です。日坂ではほとんど小夜の中山と夜泣き石を描いていますが、この「狂歌入東海道」は視点を少し変えています。小夜の中山と夜泣き石は、広重が一番印象に残る景色だったのでしょう。

秋葉常夜燈

日坂は度々火災にあっているためか、秋葉信仰が盛んでした。日坂宿の常夜燈は、本陣入口のほか相伝寺境内、古官公会堂脇の3つが残っています。1856年(安政3)の建立です。とても綺麗な常夜燈で、150年近く経っているとは見えません。

日坂宿

1842年(天保14)の記録によれば、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒があったようです。

本陣扇屋跡

日坂宿本陣は、代々片岡家が営んでいました。敷地はおおよそ350坪、1852年(嘉永5)日坂宿の火災で全焼しましたが、再建し1870年(明治3)に閉じました。1879年(明治12)より、跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として使用されていましたが、取り壊され現存していません。

末広亭 池田屋

旅籠であった池田屋は、現在は一般の方の住居となっていますが、美しい外観が目を引きます。当時の造りではないようですが、往時をしのばせ、街道を行く旅人の目を楽しませてくれます。この池田屋のほか、街道沿いの家々には1840年(天保11)当時の屋号が書かれた木札が掲げられており、江戸時代の情緒が感じられます。

脇本陣 黒田屋跡

日坂宿の脇本陣は、時代とともに移り変わり何軒かが務めていました。黒田屋は幕末期、最後の脇本陣をつとめました。明治天皇が街道巡幸の際、明治2年と明治10年の2回、小休止されました。

萬屋

江戸時代末期の旅籠です。1852年(嘉永5)の日坂宿大火で焼失し、その後安政年間に再建されました。「川坂屋」が身分の高い人の宿泊した大旅籠であったのに対して、「萬屋」は庶民向けの旅籠でした。食事の提供をしない素泊まりの宿だったと考えられています。

宿の名物は蕨餅(わらびもち)で林羅山の「丙辰紀行」にもその名がみられるそうです。

川坂屋

身分の高い武士や公家などが宿泊していた大旅籠です。1870年(明治3)まで存続していました。茶室は掛川藩主太田資順が偕楽園に建てたものを明治初期、川坂屋へ移築されました。

襖の書(川坂屋)

「日坂出身の書家、成瀬大域によるものです。大域は、明治12年聖教の序を臨書し、明治天皇に献上し嘉賞の栄誉を受け、楠木正成の遺物である尚方の硯を賜りました。以後、居と自らを「賜硯堂」と号しました。」と説明されています。楠木正成は鎌倉時代の武将ですから、硯はとても古いものになりますね。そんな貴重なものを頂いたのは凄いですね。

上段の間(川坂屋)

床の間付きの上段の間をそなえ、当時一般の旅籠では禁じられていたヒノキ材を用いていることなどから、身分の高い武士などが宿泊した脇本陣クラスの格の高い旅籠だったと考えられます。

高札場

高札場は人目を引く場所に設置され、日坂では相伝寺観音堂内にあり、「下木戸の高札場」と呼ばれていました。高札の内容は日坂宿が幕領であったため「公儀御法度」が中心でした。現在掲げてあるものは「東海道宿村大概帳」に基づき、天保年間のものを復元してあります。

下木戸跡

治安維持のため設けられていた木戸は、大きな宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模な日坂宿では川がその役割を果たしていました。粗末な木橋が架かり、何かことが起きた場合は、橋を外していたと考えられています。
16:30 日坂宿をあとに掛川宿へ向かいます。

掛川駅前まであと8kmくらいですから2時間はかかります。日坂には交通機関がありませんので、なんとしても掛川駅まで辿り着かなければいけません。日暮れまで時間がありません。ここからかなり急ぎ足で行きます。