御油の古い町並みを歩くと、今にも留女に呼び止められそう

2005年5月3日

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13:30 吉田宿をあとに御油へ向かいます。

聖眼寺

平安時代に吉祥山のふもとに建てられましたが、鎌倉時代に下地に移転したと言われています。1564年、徳川家康が吉田城を攻撃しました。(下地合戦)下地は最前線となり、家康は聖眼寺に本陣を構えました。家康は、聖眼寺の太子堂で必勝を祈願し、金扇を授かり、采配をふるったと伝えられています。家康が使った金扇馬標は太子堂に縁起があるそうです。下地合戦は聖眼寺の僧が使者として吉田城にいき和ぼくを成立させ、終結しました。このため聖眼寺は幕府や吉田藩から保護を受けました。

松葉塚

聖眼寺には、古碑松葉塚、1769年(明和6)の再建松葉塚、1754年(宝暦4)建立の古碑松葉塚の所在を示す標石があります。

『古碑松葉塚』

1687年(貞享4)芭蕉が愛弟子杜国の身を案じで渥美郡保美の里を訪れる途中、寺へ立ち寄り詠んだ句が彫られています。『松葉を焚て手拭あふる寒さ哉』

『再建松葉塚』

近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」と刻まれています。「芭蕉翁」の三文字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆によるものです。

『標石』(写真)

「寺内に芭蕉塚有」と彫られており、松葉塚を示すものです。

下地一里塚跡

日本橋より74里目の一里塚です。現在は石標があるのみです。

瓜郷遺跡

低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地している「瓜郷遺跡」は弥生時代中期から古墳時代前期(2000年前〜1700年前)にかけての集落の跡です。

豊橋魚市場

1553年(天文22)、今川義元が片浜十三里の魚を三河吉田の飽海熊野(あくみくまの)神社の社殿前で売ることを許したことが始まりとされています。海辺の産地市場ではなく、消費市場にあたりますが、海にも近いため産地市場の一面もあります。設立は1913年(大正2)、1966年(昭和41)魚町より現在地へ移転しました。

伊奈村立場茶屋跡

茶屋本陣、加藤家(初代は大林平右衛門)では「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名でしたが、現在は古井戸のみが残っています。明治天皇も遷都の折に加藤家で休憩されました。芭蕉句碑、烏巣句碑も一緒に並んでいます。

芭蕉句碑

『かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し』 1688年(貞享5)、芭蕉が伊奈村立場茶屋の加藤家を訪れた時に詠んだ句です。唐辛子と菜汁のみの質素な生活を隠していないことに感心した句でしょう。

烏巣句碑

『ももの花 さかひしまらぬ かきね哉』 烏巣は加藤家の生まれで謙斎といい、芭蕉と親交があり、京都で医者をしていました。

伊奈一里塚跡

日本橋より75里目の一里塚です。塚はなくなり、石碑が建つのみです。後ろの山本太鼓店は慶応4年創業の老舗です。
佐奈川の河川敷の草をが食べていました。草刈りの手間を省くために羊を放しているようです。

秋葉山常夜灯

1800年(寛政12)の建立です。

大社神社

近隣に三河の国府が置かれていたとされ、境内には国府廃寺跡の礎石が残っています。
18:20 国府駅から名鉄名古屋本線にのり、豊橋まで戻り駅前の豊橋ターミナルホテルに一泊しました。

2005年5月4日

8:30 再び昨日のゴール地点の大社神社へやってきました。大社神社から出発します。

御油一里塚跡

日本橋より76里目の一里塚です。現在塚はなくなり、石碑が建てられているのみです。

常夜灯

御油は、東海道と姫街道(本坂通)が分岐する追分の宿でもありました。姫街道は、浜名湖の北を通り、見付に至る道です。常夜灯の横に秋葉神社への道標、砥鹿(とが)神社への道標があります。
御油宿は、鉄道や国道から外れたため開発を免れ、浮世絵に描かれたような江戸時代の面影を残す古い家並みが残っています。

高札場跡

ベルツ花夫人ゆかりの地

本名は戸田花子。父熊吉の生家が御油宿の旅籠「戸田屋」でした。戸田屋があったとされる場所がこの地です。戸田屋は没落、一家離散し父の熊吉は江戸の荒井家に養子となり、花子は神田明神下で生まれました。明治新政府がドイツより招いた日本近代医学の祖と言われ、ベルツ水で有名なベルツ博士と結婚し、ベルツ夫人となりました。西明寺にはベルツ夫妻の供養塔があります。

ベルツ水

1876年(明治9)、東京医学校教師であったベルツ博士が、箱根の旅館で働く女性の手が荒れているのをみて創製したといわれています。日本独特の製剤で、日本薬局方名はグリセリンカリ液。皮膚軟化剤として皮膚のひび、あかぎれなどに塗布します。アルカリ性のため、顔の化粧水としては不向きだそうです。

問屋場跡と広重「御油」

御油宿は前後の赤坂、吉田とともに遊女が多く、特に次の赤坂宿とは目と鼻の先だったため、旅人を自分の宿へ泊めようと「留女」による客引きは強引だったそうです。広重の「御油 旅人留女」では、留女が必死に客の袖を引っ張る様子が描かれています。

いがや

昔は味噌や醤油を商っていたのでしょう。今は、ミニ博物館のようなお休み処のような場所です。

本陣跡

御油は、本陣2軒、脇本陣は置かれず、旅籠62軒、最盛期には100軒以上とも言われています。この場所は鈴木半左衛門が務めた本陣跡です。現在はイチビキ鰍フ敷地となっています。

イチビキ

1772年(安永元)、醸造株をもとにみそ・たまりしょうゆの醸造業を始めます。明治33年には、中村兄弟商会として製造・販売を開始します。明治44年に御油に工場開設し、日本最大級のみそ仕込桶「丈三桶」での仕込みが始まります。大正8年には大津屋株式会社として豊橋に工場が建設されました。昭和36年に社名が「イチビキ」と改められ現在も味噌・醤油を始め様々な商品が製造されています。

大つや

イチビキさんの前の会社名が大津屋ですので、イチビキさんの建物ですね。
9:00 御油をあとに赤坂へ向かいます。