海が遠くなった新居関所−中世の史跡もあり、潮見坂からは絶景が

2003年8月24日

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12:20 新居をあとに白須賀へ向かいます。

風炉の井

中世、浜名橋付近に存在した橋本宿は、源頼朝とゆかりが深く、頼朝が上洛する折に茶の湯に使ったという井戸です。

浜名橋

今切口ができる前は浜名湖から浜名川が遠州灘に流れ出ていました。その川に架かっていた橋が『浜名橋』という橋でした。藤原家隆『東路や浜名の橋の朝霧にをちこち人のかわす声なり』と詠みました。浜名橋に朝霧が立ち込め、街道を歩いていく旅人の声が聞こえてくる・・というような意味でしょうか。中世、浜名橋付近は「橋本宿」という宿場があり、多くの遊女がいて栄えていたといいます。浜名川は地震により河口を塞がれ、今は用水路になりました。

教恩寺

1300年(正安2)の創建といわれています。鎌倉公方足利持氏より寺領を与えられ、天正年中(1573〜1591)に火災に遭って焼失しましたが、古い由緒をもつ寺として徳川家光より1648年(慶安元)に朱印地を与えられました。現在の本堂は応賀寺の下寺だった堂宇を1873年(明治6)に移築したものです。境内の「大イチョウ」は、根元に大枚の金子が埋められているということで「橋本が困ったらイチョウの下を掘れ」という言い伝えがありましたが、現在は枯死しています。1474年(文明6)の梵鐘は明応の津波で流された後、天正年間になって砂浜に埋もれていたものを発見され、火災に遭った寺の再興に役立てるために森町の一宮(現在の周智郡森町)に譲られました。その鐘には「遠州敷知郡橋本村教恩寺 天正十二年甲申二月八日以買得一宮来」と刻まれており、現在は袋井市の正福寺にあります。
旧街道北側の潮見坂にかけての細長く続く台地は「高師山」といい、古くから歌枕として有名な山でした。

紅葉寺跡

1190年(建久元) 源頼朝が上洛の折、橋本に宿泊し寵愛を受けた橋本の長者の娘が後に出家して妙相と名乗り、高野山より毘沙門天立像を勧請して建てたそうです。当時は本学寺といいました。後に足利義教が富士歴覧の際にこの寺に立ち寄り、紅葉を讃えたため、紅葉寺と呼ばれるようになりました。台地の中腹にあり、苔むした五輪塔などがあります。

検校ヶ谷

江戸時代、検校とは盲人社会の最高位を指し、座頭が検校になることは困難なことでした。その昔、盲目の座頭が検校の位を得るために、東国より京に上る途中、この辺りで道に迷い倒れ、その望みを絶たれてしまいました。その後、誰いうとなくこの谷を検校ヶ谷と呼ぶようになりました。

文学碑

『風わたる 浜名の橋の夕しほにさされてのぼるあまの釣舟』前大納言為家

『わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の浪はやすまで』阿佛尼

北側の台地は高師山と呼ばれ、南に浜名川、浜名の橋、太平洋が広がり、平安、鎌倉時代に和歌、紀行文などに登場し、風光明媚な場所でした。

藤原為家と阿弥陀

鎌倉中期の歌人で定家の次男、母は西園寺実宗の娘。歌道家をついで後嵯峨(ごさが)院の歌壇に君臨し、「続後撰和歌集」を単独で編集しました。1265年(文永2)に後嵯峨院から再び勅撰集の撰進を受けますが、藤原氏の流れである4名を撰者に加えたため、撰進作業は大混乱をきたし、為家は匙を投げてしまいます。そのため、「続古今和歌集」は歌風の調和が取れず、多種多様にして統一性を欠く歌集となってしまいました。阿仏尼は為家の側室で、鎌倉下行の紀行文をまとめ「一六夜日記」を記しました。為家の死後遺領相続問題に発展し子孫は二条・京極・冷泉家に分裂してしまいました。

立場跡

新居宿と白須賀宿の中間の立場で、代々加藤家が努めてきました。立場では旅人を見ると湯や茶を勧めたので、ある殿様が「立場立場と飲め飲めと、鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌を詠んだという話が残っています。

明治天皇御野立所跡

1868年(明治元)9月20日岩倉具視等を従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居へ向かう途中に休憩した場所です。明治天皇一行はその夜、新居宿飯田本陣に宿泊し、10月13日に東京に到着しました。

元宿

白須賀宿は元々、現在のこのあたり、元宿にありました。白須賀とは、「白い砂浜」という意味で、遠州灘の浜辺の宿場町でした。1707年(宝永4)の地震による津波により大半の家が流されてしまったため、翌年に潮見坂上に移転しました。そのためこのあたりを「元宿」「元白須賀」などと言われます。

一里塚跡・高札場跡

本宿の高札場跡です。このあたりは一里塚を「一里山」と呼んでおり、石碑にも「一里山址」と彫られています。

蔵法寺

潮見観音で有名な蔵法寺。潮見観音は遠州灘で漁師の網にかかって引き上げられた仏像です。宿場を壊滅させた宝永の地震の前夜、この観音が参勤交代で白須賀宿へ宿泊していた岡山藩主池田綱政の夢枕に立ち「この地に大危難があるゆえ、早々に立ち去れ」と告げられたため、一行は早々に出立したため難を逃れたとされる伝説があります。二川の岩屋観音にも同様の伝説があります。

潮見坂

東海道の名所として名高い潮見坂は、西からやってきた旅人が初めて富士を見られる場所として、晴れれば今でも富士を見ることができます。室町時代に富士遊覧の旅をした足利義教は「今ぞはや願ひみちぬる潮見坂心ひかれし富士を眺めて」(潮見坂で早くも富士を眺められて満足だ)

おんやど白須賀

1707(宝永4)に白須賀宿を襲った津波の記録を紹介したパネルや、東海道の名所潮見坂を行きかう庶民の旅模様を再現したジオラマなどを展示しています。

潮見坂公園跡

潮見坂上はかつて織田信長が武田勝頼を滅ぼし、尾張に帰る時に徳川家康が茶亭を新築し信長を接待したところです。大正13年に公園となりましたが、現在は中学校の敷地となっています。

潮見坂上の石碑群

明治天皇御聖跡碑、夏目甕麿と息子の加納諸平顕彰碑、藤屋五平顕彰碑、義僕平八郎顕彰碑や忠魂碑、元白須賀町長の山本庄次郎、医師石川榮五郎らの石碑が建てられています。明治天皇は江戸へ行幸する途中に潮見坂上で休まれました。
潮見坂上からは、広重「白須賀 潮見阪図」に描かれた浮世絵と似た景色が楽しめます。

白須賀宿へ入ってきました。白須賀宿は遠江国(とおとみのくに)西端の宿場町です。東海道本線、国道1号線からも遠く離れて、ひっそりとした佇まいと古い町並みが残されていました。

曲尺手(かねんて)

枡形と同じものですが、地方独特の言い方です。曲尺手は軍事的な意味合いもありますが、大名同士が道中、かち合わないようにする役割もありました。大名行列がかち合うと、格式の低い大名は籠から下りて挨拶をしなければならず、これを避けるため側近が予め行列の見えない曲尺手へ先に行き、かち合いそうであれば、寺などへ緊急避難して休憩をとり、時間調整していたそうです。

大村本陣跡

大村庄左衛門宅跡で、1864年(元治元)の記録では、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とあります。

脇本陣跡

白須賀宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒がありました。現在も格子戸のある古い民家や間口の狭い家並みなど江戸時代の面影を残しています。

夏目甕麿邸跡

白須賀生まれの国学者。酒造を業とし、国学を内山真龍に学び、のちに本居宣長 の門に名を連ねた賀茂真淵 の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を出版し、国学の普及につとめました。著書に「古野の若菜」等数編があります。加納諸平 は甕麿の長子で、柿園と号しました。若くして紀州和歌山の本居大平 のもとに世話になります。乞われて加納家の養子となり、のちに紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となります。 諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作があるようです。

西の加宿であった「境宿」で売られていた柏餅は白須賀宿の名物でした。

白須賀宿の火防

宿場の移転以来、津波の心配はなくなりましたが、冬季に西風が吹き度々火災にあいました。そこで作られたのが火防で、火が広がらないよう3.6m?8.2mの土地に火に強い槙が10本くらい植えられ、宿内に3地点、6か所が設けられていました。火防は、「火除け」、「火除け地」などと呼ばれていました。火防はかつてはどこの宿場でも見られましたが、現在静岡県内に残っているのは白須賀だけです。

高札場跡

14:40 白須賀をあとに二川へ向かいます。