2023年5月4日

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9:00 宿泊した「ホテル万長」をあとに相川街道を歩いていきます。

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柴崎家住宅

「相川四町目」付近は岩石が海に張り出しており、1629年(寛永6)より始まった埋め立てによりできた町並みです。
柴崎家住宅から50mほどの右手が「弾誓寺」です。

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弾誓寺

開山は1608年(慶長13)弾誓上人、開基は1609年(慶長14) 但唱上人、1636年(寛永13) 長音上人により創建。長音が本尊、阿弥陀如来座像を彫り「大仏(おぼとけ)」といわれました。 1864年(元治元)大火のため焼失したため、現本尊は長音か但唱の作と言われている仏像を柏崎から譲り受け、妙輪寺の本堂を移築しています。

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角南主膳国寛奉行墓

1755年(宝暦5)に相川で病死し、葬儀を弾誓寺で行い埋葬されました。
弾誓寺は江戸時代、鉱山から逃げ出した労働者や罪人の駆け込み寺でした。罪人が寺の門の内側に入れば無罪になりましたが、門の前で役人に捕らえられた者もいたといいます。

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名号題目碑

弾誓寺の名声は佐渡中に知れ渡っていました。弾誓の名号を受けたいけれど、日蓮宗の信者なので躊躇する人がいたため、名号と題目を並べて彫られたということです。 これは今まで見たことのない名号碑ですね。

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コレラ供養塔

1879年(明治12)日本中でコレラが流行しました。佐渡でもあっという間に流行し、相川で亡くなった人は2ヶ月で272人と記されています。亡くなった人は富士権現のそばで荼毘にふされたとされます。 寺から離れた山中に「コレラ地蔵」があると書かれていた資料もありました。恐らく「西五十里道」の中間あたりにある「コレラ地蔵」のことと思われます。
「西五十里道」はまたべつの機会に歩いてみたいと思います。

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田村奉行の墓

弾誓寺のパンフレットに掲載があったのですが、どのような方なのかわかりません。

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国中山越古道(一揆集合路)

弾誓寺の境内には国中より山越えの古道があり、農民騒動時にはこの古道を通り弾誓寺境内に集合しました。
弾誓寺のすぐ先右手が「金比羅神社」です。そのすぐ先左手には「松榮家住宅」があります。

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金比羅神社

1640年(寛永17)創建。境内には航海の安全を祈り寄進された佐渡回船主の灯籠宿根木の回船主が寄進した狛犬があります。拝殿には船絵馬が多く見られます。往時は海の守り神として全島の崇拝を受け参拝者で溢れていました。

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廻船主寄進灯籠・船絵馬

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松榮家住宅

鉱山や廻船で繁栄した相川を代表する豪商の住宅です。国指定の重要文化財に指定されています。こちらは裏側で、国道側から見るととても立派な旧家です。
古い町並みを残した相川街道を180mほど進むと、現在「相川天領通り」と呼ばれる相川の中心地へ入っていきます。

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相川天領通り

天領通りを進み、枡形の突き当りを右へ曲がるとすぐ右手に「伊藤赤水」という「無名異焼」のお店があります。

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無名異焼(伊藤赤水)

無名異焼とは佐渡金銀山より産出する酸化鉄を含む鉱物を無名異(むみょうい)と言い、それを陶土に用い、高温焼成したものです。非常に硬く、たたくと澄んだ金属音を発し、使用するに従って光沢を増していくそうです。
相川街道はここも枡形になっていますが、塩竃神社へよるため、真っすぐの細道へ入っていきます。小さな橋を渡り、境内へ入ると稲荷神社があり、その奥に「塩竃神社」があります。

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塩竃神社

塩屋町の高台にありましたが、1629年(寛永6)現在地へ移りました。かつては神輿・鬼太鼓が町中を回り、賑やかだったとされます。

再び相川街道へ戻り、1つ目の右手路地が「紋兵衛坂」と呼ばれる細い坂道です。その先が「旧佐州館」となります。

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紋兵衛坂

山師、関原紋兵衛の住まいがあったところから名付けられました。ここを上っていくと大久保長安逆修塔がある大安寺があり、また寺町にも繋がります。今回は、寄り道せずに先へ進みます。

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旧佐州館、村田文三銅像

「佐渡おーりや館」は元佐州館という旅館で、太宰治や尾崎紅葉も宿泊したことがあります。現在は街歩きの拠点として、また簡易宿泊所として利用されています。
村田文三は1882年(明治15)相川で生まれ、佐渡金山で働いていました。民謡歌手として「佐渡おけさ」を全国に広めました。

100mほど右手に郵便局がある交差点が「相川札の辻」です。

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相川札の辻、相川町道路元標

往時、掟などが書かれた高札が掲げられた高札場がある辻を「札の辻」と呼ばれています。ここが相川街道の起点となっていました。相川街道はここまで。ゴールですね!! 相川町道路元標は、元は長坂の下り口にありましたが、道路拡幅のため現在地へ移されました。

さて、ここからも金山まで歩いていきます。金山まで歩いていく人はほとんどいないと思いますが、かなり色々な見どころがあり、楽しく歩けました。

相川札の辻を右に曲がるとすぐ右手に「旧相川税務署」、正面の上り坂が「長坂(籠坂)」、左手には「大日如来堂・阿弥陀堂」があります。

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旧相川税務署

この建物は1931年(昭和6)に建築されたもので、1970年(昭和45)まで税務署として使用されました。木造2階建の洋風建築です。

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長坂(籠坂)

坂の下に籠舎(牢屋)があったことから「籠坂」とも呼ばれていました。
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大日如来堂・阿弥陀堂

1606年(慶長11)田町から移転された牢屋と処刑場がここにありました。明治に入ると廃止され、無縁供養塔が建立されました。1940年(昭和15)中山峠にあった阿弥陀堂が刑場跡に移されました。恐らく昨日見た「阿弥陀堂跡」が移されたのだと思います。

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西坂

長坂の左側にあるのが「西坂」で、1719年(享保4)に奉行所へ上がるための道として造られた坂です。

西坂を上って佐渡奉行所跡へ向かいます。坂の途中には展望台もありました。

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佐渡奉行所跡

高級官僚の屋敷は奉行所内に建てられていましたが、公私を区別するため奉行所内から入ることは禁じられており、道路側から木橋を渡り出入りしていました。

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佐渡奉行所跡

1603年(慶長8)天領であった佐渡を直轄管理するため、奉行所が建てられました。奉行所内には行政部分と住居部分、直営工場(勝場)と3つの要素で構成されていました。現在の建物は、1859年(安政6)当時の行政部分のみが復元されています。
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奉行所内

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御白州

奉行所内には御白洲があり、裁判所としての機能も持っていたようです。どのような訴訟があったのでしょうか。

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奉行所の生活場

大久保長安などの代官が生活していた屋敷があった場所です。こらは復元はされておらず、囲みだけが造られています。
奉行所北側の「勝場(せりば)」へ向かいます。勝場は、採掘した鉱石を細かく砕いて金や銀を精錬する工場で、金や銀を管理するため1759年(宝暦9)に奉行所敷地内へ設けられました。

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勝場1

ちょうどガイドさんがいらっしゃって、詳しい説明を聞くことができました。

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勝場2

まずは掘り出した鉱石を鉄のハンマーで細かく砕きます。

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勝場3

さらに石臼に入れて、砂状にすりつぶします。

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ねこ流し

傾斜をつけた樋に布が敷かれており、砂状鉱石を含んだ水を上部から流し、金銀を取り出す方法です。中央の番台のような場所にベテランの女性が座り、金を懐に入れるような労働者を見張っていたそうです。ここから「ネコババ」という言葉が生まれたという説もあります。(諸説あります)
高齢のガイドさんでしたが、とても細かく説明してくださり、よく理解できました。ずっといらっしゃるわけではないようなので、とてもラッキーでした。

佐渡奉行所をでて北へ向かうと、右手の谷の下に「北沢浮遊選鉱場跡」が見えて来ます。

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北沢地区施設群

北沢には明治に入り佐渡鉱山の本部組織が置かれ、当時最先端の選鉱・製錬技術が用いられ、佐渡鉱山全体の一大拠点となりました。1937年(昭和12)には増産のため施設の大改修が行われ、1952年(昭和27)まで操業されました。

そのまま階段を下り帯刀坂公園前を通り県道へでます。県道から「北沢浮遊選鉱場跡」へ入っていきます。

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50mシックナー

近代の鉱山選鉱場跡です。水と不純物を分離する装置で、不純物は捨てられ、水は選鉱場で再利用されます。大きさは50mと国内でも最大の施設でした。
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北沢浮遊選鉱場跡

採掘された鉱石から不用鉱物を取り除く「選鉱」という作業を行っていた施設です。1936年(昭和11)に着工され、1952年(昭和27)に廃止されています。意外と短い期間しか使われていないのですね。 中に入ることはできませんが、近くまで行くことはできます。

選鉱場跡から来た道を戻るときに右手に案内板があることに気づきました。

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長谷川海太郎の生地

1900年(明治33)佐渡中学校で教官を務めた長谷川清の長男として濁川町で生まれました。長谷川家は代々相川で小判などを造る金座役人の家系でした。「北海新聞」の主席記者として招かれた父とともに函館へ渡り、後にアメリカへ留学。帰国後「新版大岡政談」「踊る地平線」「丹下左膳」などを林不忘、谷譲次、牧逸馬などのペンネームで発表しました。特に「丹下左膳」はたちまち人気小説となり、何度も映画化され大ヒットしています。

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長谷川海太郎の墓(鎌倉妙本寺)

1935年(昭和10)長谷川海太郎は心臓発作で鎌倉にて亡くなっています。36歳の若さでした。鎌倉妙本寺にあるお墓です。よく腰をかけて小説の構想を練っていたという巨石の上に墓標が設置されました。
鎌倉を訪れたときに撮影したもので、妙本寺本堂右手にありました。

再び帯刀坂公園横の階段を上り、県道へでます。奉行所前を通り過ぎると左手に見えてくるのが佐渡版画村美術館で、旧相川裁判所です。

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旧相川裁判所

佐渡奉行所にて行われていた裁判所としての機能は、1876年(明治9)に設置された裁判所に引き継がれ、1888年(明治21)にこの建物が新築されました。1969年(昭和44)には裁判業務が旧佐和田町に移管されましたが、建物はほぼ当時のまま残されています。

真っ直ぐ進むと道が左へ曲がり、「京町通り」へとはいっていきます。その曲がり角に時鐘楼があります。

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京町通り

往時は金山と奉行所を結ぶ主要道路でした。鉱山最盛期の繁華街で、江戸時代初期には3階建ての家も見られました。相川きっての豪商、山田吉左衛門もこの界隈に住み、両替や廻船を手広く営んでいました。

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時鐘楼

1713年(正徳3)佐渡鉱山産出の銅で鋳造したものです。「越後高田住 藤原家次」の銘があります。明治初年まで時の鐘として使用されました。鐘楼は1860年(万延元)改築されています。
時鐘楼を過ぎると緩い上り坂になってきます。細い路地には両側に趣のある建物が並び、とても雰囲気がいい道です。

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田中葵園出生地跡

1782年(天明2)相川に生まれ、佐渡奉行所の地役人でした。鵬斎の影響で矢島主計が私学励風館の建設を計画したことに対抗し、奉行金沢千秋に官立学問所の設立を願い出て、1815年(文化12)広業堂と町会所素読所を合併する形で奉行所内に「素読所」を設置しました。「佐渡志」の編集も手掛けています。

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無名異焼の旧町名碑

京町通りのあたりから無名異焼の旧町名碑がたくさん見られるようになります。一つ一つデザインが違っていて素敵でした。このあたりは「中京町」、かつて西陣織のお店があったそうです。
緩い上り坂をどんどん上っていき、郵便局を過ぎるとすぐ左手に「佐渡金山元鉱山長住宅」の看板が掲げてあります。さらに100m上ると右手に「旧相川拘置支所」がありました。

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佐渡金山元鉱山長住宅

佐渡金山鉱山長の住宅として1930年頃(昭和10年代)に建築された木造平屋建てです。現在は小さな映画館として利用されているようです。

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旧相川拘置支所

1954年(昭和29)新潟刑務所相川拘置支所として開設し、佐和田地区に移転する1972年(昭和47)まで使用されていました。内部は無料で公開されていますが、中には入らずに先へ進みました。
旧相川拘置支所の向かいには「鉱山住宅」があります。

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新五郎町の鉱山住宅

山師であった豊部新五郎が開いた町を「新五郎町」と呼ばれました。

一本道を更に進むと住宅が途切れ、鬱蒼とした樹木の中を進みますが、再び住宅が現れる手前に庚申塔があります。

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庚申塔

奥には小さな稲荷神社もありました。 庚申塔を過ぎると左手には大きな旧家、「高田家住宅」があり、そのすぐ先、左手に「有田八郎家跡」があります。このあたりは「大工町通り」と呼ばれていました。

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有田八郎家跡

1884年(明治17)真野新町の漢方医・山本圭の六男として生まれ、2歳のときこの場所にあった有田家の養子となりました。後に外交官となりベルギー、中国大使などを経て1936年(昭和11)外務大臣に就任、4度外務大臣を務めました。実兄は農林大臣を務めた山本悌二郎でした。

大工町通り

江戸時代の初期、鉱山の大工達が住んでいた町です。相川では金を掘る金穿りのことを「大工(でいく)」といい、家を建てる大工は「番匠」と呼ばれていました。

有田八郎家跡から100mほど進み、「無宿人の墓」へ寄るため、右手の細い山道へ入っていきます。

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無宿人の墓への道

現在は何もない山道ですが、石積みなどが残り住宅があったのだろうな・・と思えるような細道を上っていきます。「無宿人の墓」へたどり着く前に「普明の鐘」や「六地蔵尊」がありました。
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普明の鐘と六地蔵尊

現在建物などは全くありませんが、このあたりは往時「次助町」といい、鉱山労働者の居住地になっていたそうです。

途中、直進と右折への二又になりますが、ここは右へ進みました。数十メートル進むと「無宿人の墓」がありました。

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無宿人の墓

坑内作業中に亡くなった28名の生国・戒名・名前・年齢が刻んである墓碑は1853年(嘉永6)の建立。坑内の水を組み上げる人足として江戸・大阪・長崎の天領地から1800名以上の無宿人たちが目籠で送られてきました。失職、流浪の果に佐渡金山に送られ、殆どのものが相川で亡くなっています。

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妙法山覚性寺跡

1630年(寛永7) 開基、覚性房日儀により創建されました。1868年(明治元)廃寺となり、本寺阿仏坊妙宣寺に合併しています。
さらに奥には妙伝寺というお寺があったようです。もと来た道を戻ります。後からわかったのですが、先程の分かれ道を右へ曲がると「万照寺」の裏にでるようですね。このときはわからなかったため、最初に曲がった大工町通りのところまで戻りました。

大工町通りに出るとすぐ左手に「小川久蔵の生地」という案内板があり、その奥に「天満宮」があります。

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小川久蔵の生地

幼い頃は貧しく、妹を背負って教室の窓から先生の話を聞いて勉強したといい、父と共に足尾銅山にも働きにも出ました。1890年(明治23)佐渡では米の価格が急上昇し「大きな米よこせ騒動」と呼ばれた米騒動が起こり、若干22歳であった久蔵がリーダーとして活躍しました。騒動後、米の価格は落ち着きましたが久蔵は検挙され、7年の判決を受けて新潟監獄所へ送られ、天然痘により1893年(明治26)獄中死しています。瑞仙寺にお墓があるそうです。

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天満宮

扁額には「天満宮」とありますが、グーグルマップには北野神社となっています。天満宮は天神社、菅原神社、北野神社と呼ばれることもあります。創建年代等は不明です。
天満宮から先は住宅がなくなり、樹林の中の一本道を進みます。150mほど進むと右手に笹に埋もれるように小さなコンクリート製の祠があります。中には石造りの馬頭観音を中心に小さなお地蔵様などが祀られています。

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馬頭観音

馬頭観音を過ぎるとすぐ右手に「万照寺」があります。

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万照寺

上相川にあった要照寺とこの地にあった万行寺が合併して「万照寺」となりました。本堂裏には流人、大岡源三郎父子の墓があります。山門は奉行所の裏門を移築したと伝わります。
TOO001 このあたりは「諏訪町」で、信州諏訪の人が開発した町とのことです。現在は何もない山道ですが、往時は鉱山労働者の住宅などがひしめき合っていたのではないかと思われます。

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しばらく進むと丁字路となり、案内の石碑があります。ここから右手へ上っていく道を「西五十里道」と呼ばれるようで、「笠取山」へいけるようです。さらには鶴子銀山跡へもつながっているようですが、草がボーボーでほんとにすすめるのでしょうか・・
私達は佐渡金山へ向かうため左手へ曲がり、すぐに金山の第三駐車場へでます。駐車場から県道へでると金山の施設群へ入っていきます。右手には「高任粗砕場と石橋アーチ橋」、左手には「搗鉱(とうこう)場跡」とあります。

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高任粗砕場と石橋アーチ橋

粗砕場は採掘された鉱石を破砕機で細かく砕く施設です。20mの斜面を利用して建設されました。1937年(昭和12)頃に建設され、1989年(平成元)の休山まで使われました。 アーチ橋は1904年(明治37)コンクリート普及前の人造石工法による石積みアーチ橋です。
高任粗砕場はここからは見学できないようで、金山見学の「道遊坑コース」をまわらないと行けないようです。

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搗鉱(とうこう)場跡

低品位の鉱石を粉砕し、水銀を用いて金を回収する施設で佐渡鉱山が官営鉱山だった時代の1891年(明治24)に第一、1893年(明治26)に第二搗鉱場が完成しました。1924年(大正13)焼失、翌年新設されました。 現在残っているのはこの時の基礎部分です。
左手に「無宿人小屋跡」、「角行坑跡」があり、さらに上っていくと佐渡金山の坑内見学コースの入口があります。

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無宿人小屋跡

1777年(安永6)幕府は江戸の治安対策と佐渡金山の人手確保のため、江戸の無宿人を佐渡金山へ送り込むことを決めました。彼らは坑内の排水作業に従事したため「水替人足」と呼ばれました。逃亡を防ぐため人足小屋へ入れられ、年に1回外出が許されるだけの過酷な生活だったとされます。佐渡へ連れてこられた無宿人は2000人ほどと言われています。

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角行坑跡

いつ頃掘られた坑道なのか不明ですが、こちらは立入禁止の坑道です。
角行坑跡を過ぎると右手に資料館があり、さらに上っていくと右手に「佐渡金山見学コース」の入口があります。

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佐渡金山

佐渡では平安時代の末頃からすでに砂金が発見されていましたが、佐渡金山が知られるようになったのは、1601年(慶長6)に相川で金鉱脈の採掘が本格的に開始されてからです。同年、佐渡は天領となり明治維新後は官有化され、時代とともに産出量は減少していきましたが、1896年(明治29)には三菱合資会社に払い下げられ、1989年(平成元)まで操業されました。
ここで金山を目指す「相川街道歩き」はゴールです。 さらに400mほど上ると「道遊の割戸」が裏側から見ることができます。左手には「大切山坑」があります。

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道遊の割戸

観光パンフレットなどの写真は南側から見たもので、「道遊坑」の見学コースへ入らないと見ることができません。

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大切山坑

山師、味方与次右衛門が1634年(寛永11)から14年かけて2400m掘り進め、1647年(正保4)ついに大金脈を掘り当てました。坑道が長くなることを想定し、坑内の酸欠・煙充満を防ぐため、当初より2本の平行坑道を掘り、途中で貫通させて新鮮な空気を確保しています。
このあと、金山の坑内を見学し夕方の両津港直行バスに乗り両津港で明日からの島内めぐりに使用するレンタカーを取りに行く予定としていました。しかし、相棒の身体の調子が良くなく、この日はここまでとし、ホテルへ向かいます。

14:10の本線バス(きりうむ佐渡行)に乗り「相川」バス停で降車。本線バス両津行きへ乗り換え、「金井」バス停降車。

「金井」バス停から徒歩3分ほど、本日の宿泊先『たびのホテル佐渡』へ到着です。

かなり具合が悪そうですが、なんとかホテルまで持ちこたえてくれました。