2023年4月30日

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宿泊した「おぎの湯」から稲荷町の相川街道入口まで歩いてきました。昨日の夜から暴風雨で、朝には雨は上がっていましたが、どんよりしたお天気です。

9:25 相川街道を進んでいきます。

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稲荷町

相川街道の上り口にあたり、かつては「相川立町」とも呼ばれていました。 稲荷町の路地を、北へ向かって進みます。往時と同じ道幅と思われる細い道です。

TOO001 右手の墓地には多くの地蔵が集められています。急坂を上っていくと住宅はなくなり、周囲は樹林になってきます。

相川街道の入口から470mくらい進むとY字路があり、その角に題目碑と筆塚がありました。

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題目碑

1779年(安永8)建立の題目碑と「喬松斎宗雪一美先生之碑」と彫られた石碑があり、1922年(大正11)門人建立と彫られ、筆塚と思われます。

すぐ先左手に「椿地蔵」と「小木一里塚」があります。

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小木(木野浦)一里塚

一里塚は1655年(明暦元)頃に築造されたといいます。右手の塚は若干塚が残っています。塚の上の立派なシイノキは往時からのものでしょうか。
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椿地蔵

「一里塚のお地蔵さん」とも呼ばれています。1841年(天保12)頃に椿尾の名工、中川重太郎が越後本願主、信州知嶺の注文で造ったとされ、台座に椿の花が彫刻され、石工と本願主の名に加え講中22名の名が刻まれています。 伝承によると、かつて7度搬出が試みられましたが、いずれも荒天により船が出港できず、ついにはこの地に安置されたといいます。

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椿地蔵から140mほど進むと国道へ合流し、ここからは国道を進みます。旧道がくねっていたため、国道に取り込まれなかった旧道が所々残っています。国道に入り1.7kmほど進むと右手に旧道が残りますが、旧道へ入らずに40m進むと左手に石仏が集められています。
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石仏群

1843年(天保14)の供養塔や庚申塔、宝篋印塔などが並んでいます。国道工事で集められたものでしょうか・・

TOO001 40m戻り旧道へ入り、130mで再び国道へ。すぐ先左手から再び旧道へ入ります。このあたりは道が曲がっていたため、国道へ取り込まれずに残っていました。 150mで国道へでて、国道を180m進むと右手に「蓮華峰寺」の入口があります。

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蓮華峰寺入口と小比叡の茶屋跡

蓮華峰寺入口右手にある長屋門の家が江戸時代には茶屋だった家で、現在も「茶屋」という屋号だそうです。助郷人足の交代場所であったともされます。以前は上に駕籠が吊るしてあったそうですが、今は見当たりません。

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金十郎(金子家)の十王堂

茶屋跡の向かいに小さな十王堂があります。堂内には20cmほどの小泊石製の地蔵、閻魔大王が祀られています。
蓮華峰寺へ寄り道していきます。蓮華峰寺入口から230mほど進むと両側のヤブの奥に大きな石が見られます。

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蓮華峰寺領標石

笹や雑草でよく見えませんが、道の左右にあります。「従是南西東蓮華峰寺領」と彫られています。ここから蓮華峰寺の寺領となるようです。

さらに150mほど進むと左手に「宝積院」、右手に「蓮華峰寺」がありました。ようやく蓮華峰寺に到着しました。蓮華峰寺の駐車場にはトイレがあり、この先トイレがあまりないので、使わせていただきました。

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宝積院

蓮華峰寺の末寺で、佐渡四国古遍路第一番札所となっています。

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蓮華峰寺

806年頃に弘法大師・空海が開山したと言われる名刹です。現在は真言宗ですが、当初は天台宗の山岳仏教寺院でした。嵯峨天皇の勅願寺と伝わり、金剛寺、室生寺とともに真言の三大聖地とされます。現在は「あじさい寺」として親しまれています。

右手に入っていくと鐘楼堂と八角堂があり、奥へ進むと御霊屋と八祖堂があるのですが、先へ進むことができなくなっていたため経蔵横の奉行坂を下っていきました。

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鐘楼堂と八角堂

八角堂の外壁は極彩色で竜や葵の紋を散らした彫刻が優美です。江戸時代中期の建立とみられています。

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藤川忠治歌碑

『小ひえにて ふかたにの杉の木末になきうつる かけすのこゑのよくとほるなり』

1901年 (明治34)、佐渡羽茂の造り酒屋に生まれ、旧制新潟高在学中に河野慎吾主宰の歌誌「とねりこ」同人となります。東京帝大では大学短歌会に所属。卒業後は教師となり、法大、中央大、信州大、鶴見大の教授を歴任。著作に「正岡子規」、歌集「胎動」などが残されています。
奉行坂を下ると右手に「金堂」、その奥に「小比叡神社」、奉行坂の左手に「仁王門」が位置しています。

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蓮華峰寺金堂

本尊の聖観音菩薩が祀られた寺の中心的な仏堂です。1459年(長禄3)の墨書が発見されたことにより、それ以前の建築であることが明らかになっています。

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小比叡神社

入口の鳥居は、初代佐渡奉行の大久保長安と弟の大久保安政が、1608(慶長13)年に奉納したものです。もとは「山王大権現」と称していましたが、神仏分離令で「小比叡神社」に改められました。
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仁王門

仁王像は共にケヤキ材で、阿形像は寄木造、吽形像は一本割矢引造です。いつ造られたのかは不明ですが、蓮華峰寺の繁栄期の1300年代頃に造られたと考えられています。

仁王門を抜け、さらに坂を下っていき、唐門を抜け客殿へ至ります。

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唐門と客殿

客殿は1897年(明治30)の水害で倒壊したため、その後に建築されたものです。

独鈷堂(とっこどう)まで行きたかったのですが、草がぼうぼうで進んでいくことができませんでした。諦めて入口へ戻り、相川街道へ戻りました。国道へ出て450mほど進むと左手に旧道が残っています。

TOO001 ここから150mほど旧道が残っています。未舗装で昔の雰囲気が残っています。100mほどで「釜戸地蔵」があります。

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釜戸地蔵

真言供養塔、庚申塔、足尾山塔などが並び、多くの石地蔵があります。「歴史の道調査報告書」が発行された昭和後期頃には堂があったようですが、現在はありません。

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釜戸地蔵から先は道が少し荒れており、歩きにくいですが草をかき分けなんとか通り抜けられました。釜戸地蔵を過ぎると小木町から羽茂町へ入ります。20mほど荒れた道を進むと「清水山地蔵」があります。

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清水山地蔵

石祠に入ったお地蔵様は、1mほどの立像で1702年(元禄15)建立です。
清水山地蔵を過ぎるとすぐに国道へ合流します。

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おけさ柿の畑

佐渡の名産品の一つである「おけさ柿」の畑があちらこちらで見られます。種のない渋柿で、保管庫に炭酸ガスを充満させ渋抜きをした後に店頭に並ぶそうです
国道へ合流し、350mほど進むと右へ分かれる道があり、その角に「西方観音堂」、さらに国道を130m進むと「羽茂(村山)一里塚」があります。

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西方観音堂

堂内の聖観音像は、1767年(明和4)の銘があり、堂外には秋葉塔や念仏供養塔などがあります。

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羽茂(村山)一里塚

1652年(承応2)に相川羽田町札の辻を起点として9ヶ所に一里塚が造られたとされます。当初はエノキや松が植えられていました。羽茂一里塚は小木から2番目、相川からは8つ目の一里塚です。

国道となっている相川街道を900mほど進みます。この区間は住宅がほとんどなく、緑の中を気持ちよく歩いていきます。左手に小さなお堂の萱原神明と多くの石仏がある一角があります。

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氏井寿一顕彰碑

碑の上部には写真がついていたのですが、現在は壊れてしまっていました。またありえないような穴がいくつも空いているのです・・誰かが故意に傷つけているように見えます。
詳しい資料がないため、碑文を読むと、明治から大正時代の人で、羽茂用水で発電を企画・・のようなことが記されているため、電気関係に尽力した人のようです。全文は読めません・・1960年(昭和35)建立。

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義民供養塔

中央に明和の義民供養塔、左右に寛延の義民を祀っています。1835年(天保6)建立。天保の一揆の3年前に建立されたもので、天保義民・宮岡豊後の関わりが考えられているそうです。
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萱原神明と廻国供養塔

廻国供養塔は、2m以上もある大きなもので、1796年(寛政8)建立です。天明真言供養塔も2m以上もある大きなものでした。菅原神明には23基もの石仏がありました。

萱原神明から100mほど進むと左手の石積擁壁の上に「弥次郎の釈迦堂」というお堂があります。

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弥次郎の釈迦堂

1888年(明治21)の県道工事の際、弥次郎(早川)家が敷地内へ堂を建築し、さらに国道の工事の際にも堂を新築し石仏を安置し、現在へ至っているそうです。とても大切に守ってきたようです。中央の釈迦石像の台座には「享保三年越州高田住六十六部供養仏□善逆修」と刻まれ、多くの石仏が堂の中に祀られています。

さらに175m進むと右手に「十三平の石祠」、そのすぐ先左手、コンクリートの階段を上ると「十三平の地蔵堂」があります。 この付近は林の中に2,3の塚があるとされ、地名から「十三塚」と言われてきたそうです。信仰の塚とも言われていますが、実態は不明だといいます。

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十三平の石祠

石祠の台座には寄進した人々の名前が彫られ、多くの石仏も祀られています。きれいな生花が供えられており、大切にされているようですね。
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十三平の地蔵堂

荒れた小さな堂の中には如意輪観音や石地蔵が安置され、堂外には石祠に入った地蔵や丸彫りの状態のいい地蔵などが並んでいます。

十三平の地蔵堂から240mほど進んだ右側の階段を数段上ったところに石仏が祀られています。

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石仏群

地蔵、庚申塔、1843年(天保14)の真言光明供養塔が並んでいます。国道工事で移動したのでしょうか。
TOO001 350mほど進み、右手の旧道へ入っていきます。このあたりにも「おけさ柿」の畑が広がっています。

270m先、突き当りの少し手前の右手側に「番所薬師堂」があり、突き当り右側が「ばんどこ跡」、その向かいに「ばんどこ辻の塔婆」があります。

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番所薬師堂

この薬師堂は元々、番所の屋敷仏で道中安全を祈願したものです。堂は新たに建て替えられました。

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ばんどこ跡(番所跡)

往時は「ばんどこ(番所)」という屋号の家があり、1652年(承応元)に設置された伝馬番所の跡だと言われています。

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ばんどこ辻の塔婆

ばんどこ辻には大きな真言供養塔が2基残っています。安永、天明期のもので、この時代は生活が不安定で「天下泰平・五穀成就」を願っているとされます。この付近には「バンドコ」「サカヤ」「アメヤ」「ミセ」などの屋号の家が残り、往時の街道の雰囲気を残しています。
ばんどこ辻を左へ曲がり、国道を越えた左手に「尻無尾地蔵堂」があります。

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尻無尾地蔵堂

創建は不明ですが、元禄の検地帳には記載がある地蔵堂です。堂内には佐渡では珍しい半肉彫六地蔵があり、その他多くの石仏が祀られています。

相川街道は真っ直ぐ進みますが、国道を右へ曲がり「気比神社」へ寄り道していきます。国道を100m進むと到着します。

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気比神社

創建年は不詳です。1907年(明治40)に熊野神社を合祀しました。佐渡には数箇所、気比神社があります。

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気比神社の能舞台

能舞台は佐渡に35棟保存されています。保存のために戸がつけられていますが、中には美しい老松が描かれています。
鳥居の左手のほうに「義民善兵衛碑」と「芭蕉句碑」があります。

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義民善兵衛碑

上山田村の中川善兵衛は1838年(天保9)、巡見使来島の際に佐渡一国惣代として、過重課税、地役人の不正、商品流通に関する是正を要求した訴状を巡見使に渡しました。善兵衛が捕まると善兵衛釈放を要求して2万人の農民が押し寄せ、一旦は釈放されます。その後一揆は激しくなり、打ちこわしが展開され、善兵衛は再び投獄され、判決が決まる前に牢死しました。しかし善兵衛の要求は後の政治に生かされたということです。 1887年(明治20)に全島の寄付金によってこの碑が建立されました。

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芭蕉句碑

『荒海や佐渡に横たふ天の川』

1689年(元禄2)松尾芭蕉が出雲崎の浜から遥かに佐渡を望んで詠んだとされている句です。建立年は不明です。
国道を戻り、尻梨尾地蔵堂のところを右へ曲がり相川街道を進んでいきます。260mほど進み左へ分かれ道がある辻に「横枕の道標」があり、そのすぐ先の高台に「義民の碑」があります。

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横枕の道標と義民の碑

道標には「往来人は 右相川道 左山道」と彫られています。道標のすぐ先には大きな義民の碑と共に古い石地蔵や石塔石祠入り地蔵、庚申塔などがあります。村山・上山田一帯は天保の佐渡一国騒動の中心地でした。

両側に田が広がる道を150mほど進むと左手に細い路地があり、この奥が「天保義民宮岡豊後生家跡」のようです。木製の案内柱が腐って転がっていました。

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天保義民宮岡豊後生家跡

宮岡豊後は、村山白山神社の神職であり、天保の佐渡一国騒動においては参謀として善兵衛を助け、調印とりまとめ・宣伝・集会の指揮などに携わりました。最初に善兵衛が捕まった時には蓮華峯寺境内に同志を集め、善兵衛釈放を要求し、一度は釈放させることに成功しています。騒動後には捕らえられ、牢獄で獄中死しています。
今も建物はありましたが空家のようでした。敷地内には墓所もあるということですが、人様の敷地のため確認はしておりません。

宮岡豊後生家跡から130mほど、二股に分かれる道を右手のほうへ入るのが相川街道です。暫く進むと国道350へ出ます。ここからは国道を進み、140m進むと右手に「奥村山の十王堂」があります。

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奥村山の十王堂

境内には多くの塔婆があります。堂内には地蔵・阿弥陀・観音などの石仏が並んでいますが、十王はありませんでした。この十王堂は熊野神社拝殿が移されたもののため、正面に薄っすら能楽の老松が描かれているのがわかります。

相川街道は、奥村山の十王堂を過ぎて右手の山道へ入っていきます。未舗装の旧道らしい道です。少し上ると左手に石仏が並び、さらに数十メートル進むと右手に木製の小さな鳥居があります。

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石碑群と荒磯山への鳥居

鳥居をくぐり、上っていくと大きな岩に祠があるそうですが、昨夜の雨で道はぬかるみ、勾配が急ですし断念して真っ直ぐ進んでみましたが、ついに道は無くなり・・鬱蒼と茂る雑草にはばかられ、旧道を進むのは断念し、国道へ戻りました。

奥村山の十王堂から国道を進み右手の旧学校を過ぎた右手奥に「四郎平辻の塔婆」があり、ここが旧道であったことがわかりますが、その先も進めそうにはなく、再び国道を迂回し200m、右手の路地へ入ります。70mほど進むと右手に「金五郎家の法華塔」があり、ここが旧道との合流点と思われます。

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四郎平辻の塔婆、金五郎家の法華塔

旧道を教えてくれる石塔が点在しています。

金五郎家の法華塔からは旧道となりますが、道はなく原っぱのようなところを横切り、国道も横切り、小さな田んぼ横の道へ入っていきます。この道は続いているのか・・ちょっと不安もありました。緩い坂を下ると水路沿いに田んぼが広がっていますが、そこにトキが2羽いました。こちらが気づくよりも先にトキが私達に気づいて飛び立ってしまいました。その姿は優美で、綺麗なピンク色でした。野生のトキを見られて嬉しい!でも本当にトキって敏感ですね〜

田んぼの先の水路に小さな石橋がかかっています。「夕立川の石橋」です。

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夕立川の石橋

2枚の石が谷川に架けられています。元々は3枚あったとされますが、現在は見当たりません。
夕立川の石橋を渡り、すぐ先の右手から山道を上っていきます。くねくねと上るとアスファルトの道に出ますので、ここからはアスファルトの道を進みます。130mほど進むと二股があり、ここを右へ入り75m先に十字路があり、この十字路を「上屋敷辻」といい、多くの石仏があります。

上屋敷辻も真っ直ぐ進み、砂利道となり、行き止まり?と思われるような鬱蒼とした竹やぶの右手奥に「双体道祖神」があります。

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上屋敷辻の石仏と双体道祖神

宝篋印塔、石祠に入った如意輪観音など11基が並んでいます。宝篋印塔から数えて8番目の念仏供養塔の下に「釘念仏供養」の文字が彫られています。日光の寂光院(廃寺)から広まった民間信仰で、土佐と南佐渡にのみ残っていると言われていますが、ちょっと調べると各地にごく僅かに残っているようです。

双体道祖神は佐渡で唯一のものと言われています。銘はありませんが、彫りが簡易で少なくても江戸初期頃のものと考えられています。

TOO001 砂利道の先が相川街道です。一見、行けないようにも見えましたが、無理に入っていくとその先は、竹やぶの中になんとか歩ける道がありました。国道手前にはコンクリートの階段があり、国道へおりて向かいにわたります。

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旧道入口

国道の先は通れるのかな〜?というような藪のトンネルでした。腰をかがめてトンネルを進むとすぐに立って歩けるようになります。左手に墓地があり、40mほどでアスファルトの道へでます。50m進むと左手に「亀川の塔婆」と呼ばれる石仏群があります。
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亀川の塔婆

光明真言供養塔や石祠に入った地蔵がありました。この石祠には中の壁面に地蔵が7体ほど彫られており、見たことのない造りになっていました。

90mほど進むと「小泊の一里塚」、さらにそのすぐ先の分かれ道の角に「猫の場の塔婆」と呼ばれた石仏群がありました。

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小泊の一里塚

道路改良や風化で小さくなっているようですが、左右ともに残っています。右手側の塚には大きな石で環状に囲まれています。

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猫の場の塔婆

猿田彦大明神碑と石祠に入った石仏があります。
集落を抜け、民家が途切れると鬱蒼とした坂道をくねくね下っていきます。この坂道を「松倉坂」というそうですが、右手の少し奥に多くの石仏が集められています。

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松倉坂の石仏群

道路工事で一箇所に集められたものでしょうか。非常に多くの石仏が集められています。
松倉坂を下りきり、50mほど進んだ先はアスファルトの道から旧道への入口があるはずでしたが・・うーん・・通れそうな道がありません。この旧道の途中に「張道家」があるのですが、道がなさそうでしたので、そのままアスファルトの道を進んでいきました。すぐに国道へ合流します。迂回路の国道を進み右手に羽茂農協前を通り過ぎるとすぐ右手に「上棚の庚申塔」があります。

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上棚の庚申塔

ここが旧道の出口のはずでした。「相川街道」と書かれた小さな看板があるので、やはり通れたのかもしれません。
さらに水田が広がる国道を100m進み、路地を右へ曲がります。

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小泊須恵器窯跡群

羽茂小泊の段丘斜面に分布する古代窯跡群からは須恵器と瓦類が発掘されています。瓦は佐渡国分寺に供給された可能性が高いと考えられています。
左手の水田脇あたりには「小泊の茶屋」があったそうです。水田を越えカーブの左手あたりが石工の宗家、「岡崎権三郎家跡」で、重厚な石垣が巡らされています。

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岡崎権三郎家跡

小泊集落は椿尾集落とともに石工で栄えた村でした。小泊石工の先祖は鎌倉末期に三河国(愛知県)岡崎から来た平家の子孫権三郎で、現在は岡崎家ではありませんがこの屋敷が本家の跡です。 五人衆、七人衆と言われた草分け百姓があり、一族は正月に集まり「赤旗餅」という赤い餅を食べあっていたそうで、小泊の1/3は岡崎姓とされます。
岡崎権三郎は、1877年(明治10)に北海道小樽市に移り、佐渡の物産(主に石臼)交易により成功し、市会議員・議長も務めたとされます。交易品には小泊の石臼が北前船の底積品として大量に運ばれ、小泊では石臼組合を結成し後押ししました。また、佐渡の能楽を小樽に伝え、屋敷に能楽堂を建築したとされます。小樽では現在も「岡崎家能楽堂」として保存されています。

岡崎権三郎家跡を過ぎ、すぐ右手に「如意輪寺」があります。

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如意輪寺

「佐渡八十八ヶ所霊場」の83番札所です。

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如意輪寺の七観音と六地蔵

六地蔵の中央が大師石像だと思われます。石工の里らしく、素晴らしい石仏が並んでいます。他に明和・天保義民供養塔があるそうですが、どの石仏かわかりませんでした。

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岡崎権三郎顕彰碑?

如意輪寺の向かいに蔦の絡んだ石碑があります。蔦の中に石碑があるのはわかるのですが、どのような石碑であるのかはよくわかりませんが、このあたりに「岡崎権三郎顕彰碑」があるらしいのです。顕彰碑には岡崎権三郎の略歴が刻んであるそうです。
相川街道を80mほど進むと「小泊白山神社」へ入れる路地があり左へ曲がると境内へ入れます。国道側からが本来の入口のようです。

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小泊白山神社・能舞台

白山神社は石工の宗家・岡崎権三郎家の西側に隣接してあります。元々は岡崎家の屋敷神だったといわれます。神社の銘石や拝殿前の幟枠石は小泊石の代表「ナカナギ山石」が使われているそうです。境内には珍しい石臼塚も残されています。

能舞台は明治初期以前の建築と推定され、正面には松と竹の絵、天井には「道成寺」で使用する鐘穴があります。演能は1975年頃(昭和50年代)に途絶えたとされます。

能『道成寺』

道成寺で再興した釣鐘供養の際、白拍子の女が供養の場へ入り込み、釣鐘を落として中へ入ってしまいます。昔、ある女が毒蛇となり裏切られた男を追い詰め、男は道成寺の釣鐘へ隠れます。しかし毒蛇は釣鐘もろとも焼き殺してしまいました。 女の執念が未だに消えていないことを知った僧達は祈祷により釣鐘を引き上げると、中から大蛇が現れます。争っていると大蛇は鐘を焼こうとして自身を焼くことになり、川の中へ沈んでいきました。

この釣鐘を吊る仕掛けが能舞台に残っていると言うことです。

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石臼塚

石工で栄えた小泊集落では多くの石仏も造られ、石製品は他国へ移出されていました。往時の生活必需門の石臼もその一つでしたが、時代とともに使われなくなりそれを集めて塚にしたもので、1977年(昭和52)に小泊老人クラブで造ったものです。石臼が300個積みあげられており、全国的にも珍しいといいます。
もと来た道を戻り、相川街道との角にある大きな地蔵が「林の地蔵」のようです。

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林の地蔵

石祠に入った地蔵は結構大きく、1m以上あります。1711年(宝永8)建立。光明真言一億萬遍供養塔は1706年(宝暦3)の銘があります。その周囲にはたくさんの小さなお地蔵様が囲んでいます。
再び相川街道を進んでいきます。林の地蔵を過ぎると道なりですが、道が右へ左へとカーブし、その先は水田に沿って真っ直ぐ230m、左手に「下嵐田の庚申塔」と呼ばれる石仏群があります。そのすぐ先右手の樹木に大わらじが吊るされていました。

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下嵐田の庚申塔

石祠の中に祀られている庚申塔が「下嵐田の庚申塔」でしょうか。地蔵も石祠に祀られています。他に足尾山塔、真言供養塔、廻国供養塔などがありました。

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大わらじ

道切りの護摩供養札付き大わらじが吊り下げてあります。2月に如意輪寺に当番が集まって作成し村境の4ヶ所に下げられるそうです。

現在まで続いているのがすごいですね。
大わらじを過ぎたあたりから下っていくのですが・・・

TOO001 道なき道・・・草が深いですし、昨夜の雨でドロドロ・・なかなか大変な状況で、転ばないようにかなり慎重に下って行きました。国道へ出た時には「ホッ」としましたね。スリルがありました。

往時は谷底まで下りて川を渡っていたのでしょうが、今は国道の橋で渡り、すぐ先の擁壁の一部に不動明王が祀られています。

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椿尾の石塔群

1816年(文化13)の光明真言供養塔、不動明王像、安政の奉唱不動○○塔が並んでいます。以前はここから上る旧道の上り口の湧水地点にあったそうですが、国道の付替工事により現在地へ移されています。
椿尾の石塔群からは国道を右へ入っていき、旧道を上っていきます。一見、草が茂り道には見えないのですが、少し入っていくと上へ上る道らしきものがあります。

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椿尾への旧道と石仏群

つづら折れの道を少し上ると石仏群があり、ここが旧道と確信できます。

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海岸段丘を一気に上り、ぐんぐん高度を上げると海が見えました。

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ほどなくアスファルトの道にぶつかり、右へ曲がりさらに坂道を上ります。ようやく民家がちらほら見えてきました。椿尾集落です。

椿尾集落

江戸時代、隣の小泊集落と共に村のほとんどの家が石仏・石塔などの石製品を製造し、島内はもちろん北海道や北陸などの遠隔地まで移出販売していました。

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三叉路の石仏群と茶屋跡

寛保の青面金剛塔、享保と1792年(寛政4)の真言供養塔、1820年(文政3)の念仏塔が並んでいます。 「茶屋」という屋号の家が残り、往時は休憩を取る旅人で賑わっていたようです。茶屋の西側の段丘が突出した先端部分には中世の城郭であった「椿尾城」がありました。
この三叉路を左へ曲がります。すぐ左手の大きな旧家が石仏師の笠井寛治氏のお宅です。

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石仏師笠井寛治氏宅

庭にはたくさんの石仏があり、さすが石仏師のお宅ですね。
このあたりの左手に「夏焼観音堂」があるということですが、見つかりません・・・椿尾集落を道なりに抜けていくと丁字路に突き当たります。左へ曲がり少し行くと左手に玉泉寺跡があり、その奥に六地蔵七観音、岩本山の石仏があります。

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玉泉寺跡

玉泉寺は、西三川地域の七か寺と共に小木の小比叡山蓮華峰寺の末寺でした。1868年(明治元)に廃寺になっています。大きな光明真言塔は1793年(寛政5)、1865年(元治2)の奉唱満慈球咒一百万遍供養塔などがあります。
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六地蔵七観音

六地蔵は、台座に1825年(文政8)の銘があります。石工の名は記されていませんが、島内一の名工と言われた「五兵衛」の作と伝えられています。中央の如意輪観音は、この地の和讃講中が六地蔵と同時に建立したものです。

七観音菩薩は、台座に1852年(嘉永5)の銘があり、椿尾の石工、善平、伊左衛門と施主の名が記されています。

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岩本山の石仏

六地蔵七観音の裏手、海が見える海岸段丘の急斜面に点在する多くの石仏が「岩本山の石仏」と呼ばれます。ここにある石仏はほとんど椿尾石でできています。

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岩本山の石仏

TOO001 玉泉寺跡をでるとすぐ左手に旧道の入口があります。80mほど旧道が残っています。一旦、アスファルトの道へ出て、向かいの階段が旧道にあたります。

TOO001 往時とはちょっと変わったと思いますが、この下る階段付近の斜面を下っていたのが旧道でしょう。階段を下りきると未舗装の道となり、昔は源太郎橋まで旧道がつながっていたようですが、現在は直接源太郎橋まで行くことはできず、その一つ上流の橋で川を渡ります。

高崎川を渡り、川沿いを海へ向かって進んでいくと「源太郎橋」がありました。

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源太郎橋

太郎橋は木製の趣ある橋ですが、通行できなくなっていました。
すぐ先が高崎の集落です。

バスの時間が15:45、次のバスは17:35とだいぶ時間が空いていたので、15:45のバスに間に合うよう、「玉泉寺跡」からはかなり急いで歩きました。小木線の相川方面へのバスに乗り「背合」バス停下車。本日宿泊の「ふれあいハウス潮津の里」に到着しました。

旧道が歩けるのかどうか・・心配しながら進みましたのでなかなか時間がかかりました。旧道を歩く人は殆どいないようで、かなり荒れていましたが、なんとか無事に怪我もなく、楽しく歩けてよかったです。