2023年5月3日

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八幡館をでてすぐ先は1737年(元文2)に開村した「辰巳村」です。右手に長い塀がありますが、ここが開発者の本間太郎右衛門の屋敷だった場所でしょうか。この塀の前に「本間三千矛先生碑」と彫られた石碑があり、そのすぐ先に「八幡の地蔵堂」がありました。

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本間三千矛先生碑

どのような方なのかわかりませんでしたが、本間家は名家ですので立派な方だったのでしょう。
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八幡の地蔵堂

大きな石地蔵を中心に、小さな石地蔵がたくさんありました。

八幡の地蔵堂から530mほど進んだ右手に相川街道の標柱がありますが、ここが八幡の一里塚跡になります。

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八幡の一里塚跡

1875年(明治8)の村絵図に「一里塚」が描かれており、場所が確定されていますが、塚は消滅しています。
100mほど進み、右手の八幡小学校グラウンドの隅に「庚申塔とお堂」があり、さらにグラウンドを過ぎた先の相川街道と松ヶ崎街道の分岐点に「道祖神道標」があります。

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庚申塔とお堂

八幡小学校は以前、八幡宮の社地で流鏑馬神事などが行われ、天保の農民一揆の際には農民の集合場所でもあったとされます。庚申塔とお堂はその頃から残されたものでしょうか・・・

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道祖神道標

相川街道と松ヶ崎街道の分岐点にあり、正面に「道祖神」右側面に「右小木道」左側面に「左松ヶ崎道」と彫られています。1826年(文政9)、上州の本間覚助により建立。
相川街道と松ヶ崎街道の分岐点のすぐ先、右手には歌碑がありました。

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順徳上皇と冷泉為兼(京極為兼)歌碑

「鳴けば聞く聞けば都の恋しさに此の里過ぎよ山時鳥」

1221年(承久3)、後鳥羽上皇は倉幕府執権の北条義時に対し討伐の兵を挙げ敗れ(承久の乱)、父である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ配流されました。

『聞く人も今は無き世ぞ時鳥(ホトトギス) 誰をしのびて過す此里』

1298年(永仁6)、時の権の中納言京極為兼は、大覚寺統との皇位継承争いに絡んで失脚し、佐渡流罪となりました。佐渡では八幡に住み、また、赤泊禅長寺の毘沙門堂に滞在したとも伝えられています。在島5年後の1303年(乾元2) 赦免されて京へ戻りました。

すぐ先には「新田の観音堂」、140m先を右へ入り80m行くと「七軒町地蔵堂」があります。

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新田の観音堂と七軒町地蔵堂

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自衛隊のレーダー

遠くには金北山近くにある航空自衛隊佐渡分屯基地のレーダーサイトが見えています。

金北山

金北山は標高1,171.9mと佐渡内では最も高い山です。日本三百名山の一つであり、当初は「北山」と呼ばれていましたが、江戸時代に金鉱が発見されたことにより金北山と呼ばれるようにな日本海を監視するための自衛隊のレーダーサイトが金北山と妙見山との中間ほどにあります。山頂には勝軍地蔵を祭る金北山神社があり、古くから峰続きの金剛山、檀特山へと修験の「三山駆け」が行われていました。

七軒町地蔵堂から相川街道へ戻り、すぐ先に宝鏡寺、さらに題目碑、地蔵堂と続いています。

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宝鏡寺

室町時代に佐渡守本間氏の娘によって創建されました。明治時代に廃寺になった後、再興したようです。 三界萬霊塔と彫られた石碑は佐渡ではあまり見かけないですね。

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題目碑と地蔵堂

題目碑の一つには1863年(文久3)の銘があります。

八幡新町の交差点手前の左手にお不動さんがあります。

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ボケよけ不動さん

文政の銘のある秋葉山塔や庚申塔があり、お掃除をされている方もいました。

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ねこさんが祀られています(笑)
八幡新町の交差点は「八幡新町の屈曲路」と言われる場所です。交差点を左へ曲がり1つ目の路地が旧道です。

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八幡新町の屈曲路

旧相川街道はクランク形に屈曲していましたが、1959年(昭和34)頃の改修工事で直線道路となりました。旧道は現在も残っています。

すぐに国道へ合流します。多くの民家が立ち並ぶ国道を350mほど進むと左手に「八幡町上地蔵堂」があります。

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八幡町上地蔵堂

一見、地蔵堂に見えない外観ですが、左手の柱に据えられた小さな「賽銭箱」があり、地蔵堂とわかります。
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石田川と河原田町道路元標

石田川を渡り330mほど進むと「本町」の交差点へ至り、「河原田町道路元標」が残っています。 河原田町は、中世から河原田城の城下町の中心として発展した街で、現在も多くの住宅がひしめいています。往時から道幅も広めであったとされます。

本町交差点から少し進むと丁字路となり、突き当りが諏訪神社です。枡形になっています。右へ曲がる道は「塩買道」と言われた両津港へ至る古道でした。

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諏訪神社

諏訪町との境界にあり、両町の鎮守です。創建年代は不詳ですが、1560年(永禄3)の河原田町が開かれる以前からあるとはいわれています。

諏訪神社横の公園に「どこでもドア」がありました!子どもたちが喜んでいましたね〜

諏訪神社前で左へ曲がり、すぐ右へ。1つ目の路地を右へ曲がると「寺町通り」です。

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寺町通り

専念寺・妙経寺・本田寺が並び「寺町通り」と呼ばれています。
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専念寺と妙経寺

専念寺は戦国時代に開山したとされ、鐘楼は、檀家で後に人間国宝になった名工・山本嘉作が1978年(昭和53)年に製作したものです。妙経寺は1556年(弘治2)に五丁木(金井町)から現在地へ移り、専念寺・本田寺は江戸時代初期までに移ってきたと言われます。

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本田寺(ほんでんじ)

室町時代に佐渡を治めていた佐渡守本間時直により創建されたと伝わります。本間家の菩提寺でもあります。また時直が佐渡守に任命され際の室町幕府からの任命書が今も残っているそうです。

本田寺境内には「獅子ヶ城移築裏門」や「東福城主墓」がありました。

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獅子ヶ城移築裏門

獅子ヶ城(河原田城・東福城)は本間氏の居城で、戦国時代には北佐渡を支配していましたが、1589年(天正17)上杉景勝の佐渡攻めで破れ、本間氏は自刃し落城しました。この獅子ヶ城の門が移築されているそうです。獅子ヶ城は現在の県立佐渡高等学校がある場所です。

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東福城主墓

「東福城」は獅子ヶ城のことで、本間佐渡守家代々のお墓のようです。
本田寺をあとに寺町通りを戻り、相川街道へ出ます。佐和田バスステーション前を通り、少し先を左へ曲がり松林を見に行きます。

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越の松原

尾崎紅葉はこのあたりで「はるばると 越の松原 ひと涼み」と詠んでいます。このあたりは「越の松原」と言われた河原田海岸の保安林です。寛永の頃までは砂丘で、砂が飛び散り耕作もままならなかったため、1643年頃より松を植え、江戸時代から地元の人々によって維持管理されてきました。
Ryokan浦島前を通り、相川街道へ戻り150m右手に「延命地蔵堂」があり、さらに400m進み「窪田」交差点に「窪田観音堂」があります。

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延命地蔵堂

大きな看板があるのでわかりましたが、普通の家にも見えます。
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窪田観音堂

本尊は十一面観音で、寛政年間の創建とされます。境内には秋葉山・湯殿山・庚申塔など多くの石仏が並んでいます。

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四国八十八箇所本尊

窪田観音堂の横の建物に収められています。四国八十八箇所をお遍路しなくともご利益が受けられるよう、造られたものでしょう。

130mほど進むと住宅地の隅に「窪田一里塚跡」の標柱がありました。

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窪田一里塚跡

塚は消滅し詳しい場所が不明でしたが、現地に一里塚の標柱がありました。
400mほど進み、小さな川を渡った先の右手に「窪田浦目付所」があったとされます。そのすぐ隣にお堂があります。

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窪田浦目付所跡

浦目付所は役屋の向かい側にあったとされ、扱い村は田中村から街道沿いに河原田・八幡など海辺の12ケ村でした。船や人の出入、海難、漁業など浦目付所の業務は多岐に渡ったそうです。
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観音堂?地蔵堂?

ほとんど手入れのされていないお堂でした。1m以上ある大きなお地蔵様は首がありません。

すぐ先に日朝寺、西光寺と続きます。

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日朝寺

高田寺町にある「日朝寺」と関係があるのでしょうか。高田の日朝寺は佐渡流罪を赦された日蓮上人が鎌倉へ戻る途中、日朝上人とであい、日朝上人が改宗したお寺です。この日朝上人について書かれた案内板があるのですが、お寺に関しての情報は書いていないため不明です。

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西光寺と沢根の町並み

沢根は1599年(慶長4)に成立したと記されています。成立には1542年(天文11)頃から本格的に採掘され始めた「鶴子銀山」が影響を与えています。「鶴子千軒」と言われた賑わいを呈し、海運をも発展させました。 湊には沢根御番所がおかれ、番所役人と地元の船問屋である加賀屋、播磨屋、越中屋など七軒の廻船主が詰めていました。

小さな荒町川を渡った右手が「五十里十分一役所」があった場所とされ、そのすぐ先右手に「称念寺」があります。

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五十里十分一役所跡

荒町川橋詰に役所が設置されたのは、1601年(慶長6)でした。鶴子・相川金銀山入用資材、この湊はとくに鍛冶炭の搬入が多かったといいます。鍛冶炭も金銀山での精錬に使用されたものでしょう。役所は搬出入の物資に十分の一税を課しました。1691年(元禄4)廃止となっています。
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称念寺

1631年(寛永8)開基、最初五十里称念寺の隠居所として左沢に建てられ、紙屋町に移転、1868年(明治元)廃寺となりますが、1877年(明治10)復興許可と共に現在地の炭屋浜町に移転したとされます。建物は残っていますが2008年(平成20)再び廃寺となっています。

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須田・・碑

碑文の彫りが浅く、残念ながら読み取れませんでした。
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加藤酒造店・いごねりの早助屋

加藤酒造店は1915年(大正4)創業の造り酒屋です。「金鶴」というお酒を造っています。 「いごねり」は海藻に絡みつくように育つ稀少な海草「いご草」だけを原料に作られる佐渡ヶ島の特産品です。

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城ケ丘公園

右手の本福寺をすぎた路地を入り城ケ丘公園の中を進み斜面を少し上ると「励風館」があります。

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励風館

1810年(文化7)、地元の造り酒屋、矢島主計が茶室造りの離れを仮塾舎としたもので、佐渡で最初の私学です。主計の師であった江戸の儒学者亀田鵬斎が数ヶ月の間、論語などを講じたとされます。1872年(明治5)学制発布により小学校が開校されたため閉館となりました。

矢島主計

1755年(安永4)沢根五十里の田中町に生まれ、若い頃に江戸へでて亀田鵬斎に学び、漢学者にとどまらず詩歌俳諧を好み、荒野の開墾や窯業など様々な業績を残した人物です。

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青野季吉ペンの碑

沢根出身の文芸評論家であった青野季吉(すえきち)の碑で、碑の下には季吉の愛用した万年筆が収められています。

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新建佐州五十里郷励風館記の碑

励風館をという学舎を拡大、充実するため1814年(文化11) 亀田鵬斎から400字余りの名撰文「新建佐州五十里郷励風館記」が寄せられました。

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高木邦子刀自之歌碑

『励風館にて そのかみのかたり草きき夜はふけぬ真野の浜風夏もすずしく 邦子』

1961年(昭和36)建立の碑で、揮毫は山田宣。 高木邦子は三笠宮妃殿下の生母で歌人でした。1959年(昭和34)佐渡へ来島し、この詩を詠んだそうです。
励風館の丘を下り、公園で一休みしてから相川街道へ戻ります。すぐ先左手が「須田嘉助商店」です。

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須田嘉助商店

1848年(嘉永元)創業の鮮魚加工のお店です。現在も船をもち漁業を行い、鮮魚加工製品を販売しています。ふぐの卵巣の猛毒を伝統的な技法で無毒化して食べる「ふぐの子粕漬け」が名産です。塩に2年漬け込み、それだけでは塩気がきつすぎるため、さらに酒粕で2年漬け込んで食べるのだそうです。

280m先の漁具店横の路地を右へ入ると「観誓山知空堂」があります。

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観誓山知空堂

佐渡西国三十番、そのすぐ上にも小さなお堂があり、小さなお地蔵様がたくさん収められていました。

450mほど進み、沢根小学校入口交差点のすぐ先を右へ入ると「総鏡寺」があります。

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総鏡寺

総鏡寺の境内にある小さなお堂が「善宝寺」です。総鏡寺本堂の右手にあるのが「芭蕉句碑」です。

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善宝寺

沢根篭町の総鎮守です。創建の年代は不明ですが、近世の篭町には魚師が多く、海の守り神として勧請されました。高さ180cmの石積みに185cmの堂宇は1597年(慶応2)、地元の初代明石近陽により再建されました。かつては暗くなると明かりが灯され、灯台の役割も果たしたとされます。

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芭蕉句碑

「荒海や佐渡によこたふ天の川」

1682年(元禄2)に奥の細道で訪れた出雲崎で詠まれた句です。1798年(寛政10)加賀北金坊、佐渡一静(漢学者矢島主計)により建立されました。
相川街道へ戻るとすぐ左手に「本光寺」、「池田菓子舗」があり、少し先の右手に「大乗寺」があります。

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本光寺と池田菓子舗

池田菓子舗では「沢根だんご」が販売されています。沢根だんごは、天保の頃、沢根の佐藤久次郎により考案されました。佐藤家は代々、廻船業を営んでいましたが、久次郎の代に持船が難破してしまい、家業を止め妻と茶屋を始め、「下町中の茶屋」と呼ばれていました。「沢根だんご」を売り始めたところ、相川街道を通行する人々の評判となり大変繁盛しましたが、1893年(明治26)子孫が北海道へ移住した為途絶えました。しかし、その後も団子を売る店が3軒残り、その1軒がこちらの和菓子屋さんのようです。

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大乗寺

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トキ!

動かない・・・

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大乗寺から200mほど、「相川街道」と書かれた標柱のところを右へ曲がります。

沢根から相川へ抜ける峠道は「中山道」や「奉行道」などとも呼ばれます。特にこのあたりは「相川小路」と呼ばれてきました。
「中山道」は1628年(寛永5)に整備されたといいます。以降、国中から相川への大動脈として使用されてきました。

曲がると住宅が少なくなり、水田が広がってきます。150m進んだ右手の細い坂道を上ると「田上地蔵堂」があります。

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田上地蔵堂

由緒書には「昔、地蔵権現と称するも不浄の者通行すれば必ず罰あり、よって改称す」とあるそうです。多くの地蔵や石仏があるのですが、お堂は朽ちてきており心配です。

道なりに進み左カーブを曲がり、突き当りを右へ曲がります。曲がって80mほど左手に地蔵があり、右手が「田上清水」です。

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田上清水

旅人のオアシスとして大切に守られてきました。恐らく草に埋もれた瓦屋根の小さな小屋が水源でしょうか。流れる川は播磨川です。自噴口の近くに小さな石地蔵が置かれています。

300mほど進んだ五差路に「かなくそ平」の案内板があります。

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かなくそ平の案内板

金銀を精錬する際にでる鉱石のクズが「金糞」と呼ばれています。鶴子銀山の精錬所跡への案内板です。ここから北東に行くとあるようですが、このまま相川街道を進んでいきます。
かなくそ平の案内板を過ぎるといよいよ上り坂となってきました。現在は大きくS字カーブになっている道のあたりに、往時は一気に上って下る「鬼坂」と呼ばれた坂道がありました。

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鬼坂

田上より中山集落へ上る急坂です。旧道は坂の中間地点で左折し、竹林を200mほど進み現道と合流していたそうです。また鬼坂は難所ゆえ、何度もその道筋が変更されてきたといいます。

S字カーブから右手の谷を覗き込むと、うっすら道のような形態が見られました。ですが、通ることはできないため、アスファルトの道を進んでいきます。2つ目のカーブに差し掛かると住宅が増え、中山集落へ入っていきます。集落の端に差し掛かると右手に「沢根太神宮」がありました。

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中山集落と沢根太神宮

相川までの山道である相川街道は「中山街道」とも呼ばれ、1628年(寛永5)頃開かれ牛馬の往来で賑わいました。1885年(明治18)新道が開通すると峠を越える人は激減しました。

沢根太神宮から少し進むと突き当りになり、ここを左へ曲がり100mも行くと「中山一里塚」です。

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中山一里塚

相川街道、最後の一里塚です。東側の塚内には石室がある珍しい一里塚で、石室には六地蔵が祀られています。一里塚の近くには茶屋もあったとされます。

山の中の静かな道を120mほど進むと右手に「澤根大神宮」の赤い鳥居をくぐり、少し上っていくと拝殿があります。

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澤根大神宮

沢根大神宮前には「中山の茶屋」があったといい、慶安年中(1648〜53)沢根町の茶屋庄次郎が始めたとされます。

100mほど進み左へ10mほど入ると「法華塚」、さらに250m、往還右側に「ゲイギ塚」があります。

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法華塚

日講上人は17世紀中頃に佐渡を訪れ、日蓮上人の霊場を参詣し布教をしていましたが、幕府に弾圧され日向国(宮崎)へ流され、1700年(元禄13)配所で没しました。弟子の日長上人は九州まで師を訪ね、帰国後、この供養塔を建立しました。1775年(安永4)脇に日長上人の供養塔が建立されました。

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ゲイギ塚

街道を通る人が祠に石を投げて、うまく入ると道中無事であると言われています。祠は1797年(寛政9)に造られましたが、石があたり傷んでいます。 石が入ると元気がでるため「ゲイギ」と言われるようになったとされます。
しばらく進むと十字路になり、アスファルトの道はここまで。真っ直ぐ未舗装の道を進みます。

TOO001 しばらく進むと笹が倒れ、笹を避けながら突進します。ずっとこれだったらやばいな〜とドキドキでしたが、すぐに歩ける道になりました。

往還左手に笹に埋もれるように大きな石がありました。

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亀甲石

深い海の底で石灰質が固まったものを「ノジュール」といい、表面に亀の甲羅のような模様が現れるため「亀甲石」と呼ばれたと現地案内板にはあります。 長さ3.8m、厚さ1.3m、往時は亀の形にそっくりで感嘆したそうですが、現在は頭部が欠損しています。旧沢根八景の一つといいます。
亀甲石から400mほど進むと右手に「加藤家の墓地跡」という案内板があります。加藤家の墓地跡を過ぎるとすぐにキリシタン塚へ到着です。

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加藤家の墓地跡

1604年(慶長9)、大久保長安に随従し、代々船手役を担った加藤家の墓地でした。菩提寺は相川中寺町の大超寺(廃寺)でしたが、享保の頃中山へ移したとあります。しかし現在この場所には墓石はありません。どこへいったのでしょうか・・・初代、加藤和泉の墓石は五輪塔で鉱山用の石臼の上に乗っているらしいのですが、ここにはありません。案内板があるだけです。反対側を見ると景色が綺麗でした。

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キリシタン塚と峠の茶屋跡

1637年(寛永14)島原の乱が起きると幕府はキリシタンを厳しく取り締まるようになります。この場所でおよそ100名の信者が処刑されたといいます。長い間、場所が特定されていませんでしたが、1912年(大正元)に大江松雄が発見し整備されたものです。

また、この場所には1815年(文化12)相川八百屋町の庄七が峠の茶屋の営業をはじめました。佐渡へ赴任してきた奉行は、ここで旅装束から羽織袴へ着替えて奉行所へ向かったとされます。 金山の水替人足として送られてきた無宿人達にも甘酒が振る舞われていたと記されています。

キリシタン塚から500mほど下ると「馬清水の跡」と書かれた木柱があります。

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馬清水の跡

「昔は三間余りの池があり。往来の者喉渇きてこの水を飲む。狂乱入水して死す。この水飲むべからずとて埋める 牛馬のほか人たるもの是を忌む」と書かれた資料があるそうです。何か有毒な成分が含まれていたのでしょうか。怖いですね。

このあたり、相川へ下っていく坂道を「前坂」と言います。

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キリシタン塚と中山供養塔の間に1832年(天保3)建立の三角形の台座の庚申塔があるはずですが、見当たりませんでした。
さらに前阪を下っていくと右手に大きな供養塔があります。

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中山供養塔(新獄門場)

海土町にあった獄門がこの場所へ移されました。供養塔は1788年(天明8)、九州小倉の人が獄門場供養のため建立しました。獄門場には首が並び、古老の口伝では人々は見ないように目をつぶって走り抜けたといいます。
中山供養塔を過ぎると山道は終わり、アスファルトの道へでます。

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うず橋(宇津橋)中山旧道出口

相川街道は中山旧道をでるとそのまま真っ直ぐ進んでいました。現在はなくなっていますが、ここに「うず橋」という橋がかかっていました。道はなくなっていますが、小さな小川は流れています。
相川中学校の校庭を横切っていた相川街道ですが、廃道となっているため、中山旧道をでると左へ曲がり一旦県道へ出て迂回します。相川中学校入口の交差点を右へ曲がり60m進むと左手には旧道が残っています。右手は自動車販売店、左手は空地になっています。50mほど下ると再び県道へぶつかりますが、県道を越えてさらに真っ直ぐ進む細道へ入っていきます。

TOO001 最初はアスファルトの道ですが、すぐに未舗装になり、その先は笹に阻まれます。道が続いているのか心配しながらしばらく進むと笹に埋もれた「十一面観音堂井戸」がありました。

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十一面観音堂井戸

「十一面観音堂井戸」と彫られた石柱は、1963年(昭和38)建立と彫られ、下の方には寄進者8名の名前が彫られています。この先に「観音堂跡」がありますが、この観音堂はこの井戸のあたりまでの広い敷地を有していたと思われます。
さらに笹をかき分け、しばらく進むとなんとか普通に歩けるようになり、すぐ右手に「念仏車」、「石窟の六地蔵」、「観音堂跡」と続きます。

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念仏車

現在残されている念仏車は1801年(享和元)の銘があります。これは1682年(天和2)に加賀源右衛門が建立した念仏車のあとに再建されたものです。
また、この念仏車の北側に処刑場がありました。「佐渡風土記」には「地蔵堂の坂の上、仕置場の前に後生車があった」と記されています。

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石窟の六地蔵

1761年(宝暦11)建立の六地蔵です。この六地蔵は1751年(寛延4)の一揆で処刑された人々の供養のために建立されたものです。石窟の柱などにもびっしり文字が刻まれ、かなり大きく立派な地蔵が埋もれるようにあります。なんかもったいないな〜ほとんど誰も見ないようですし・・・

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観音堂跡

1730年(享保15)五郎左衛門町の来迎寺五世定誉によって建立されました。本尊は石造十一面観音で、変事の前兆や海が荒れると、沖を通る船のために近くの松に灯明をつけてくれるという伝説があります。
50mほど坂を下ると舗装した道へでます。左へ曲がり、すぐに右へ。さらに緩い坂道を下っていくと右手に「大日堂」があります。

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大日堂

寛永年中(1624〜44)に小川村生まれの道心が道中の安全を祈願して堂を建立し、大日如来を安置したと伝えられます。入口にある石地蔵は1646年(正保3)下戸村金光寺に建立しましたが、1688年(貞享5)現在地へ移されました。

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佐渡牛

左側の堂には近代に寄進された佐渡牛の原型といわれるコンクリート製の臥牛が安置されています。鉱山で使われた牛を供養するために祀られたとされます。

写真右手の「馬頭観音?」もちょっと変わっていますよね。馬がずっと上の方に浮遊していて、下に彫られているのは観音様ではなく、お坊さんのようで・・・

さらに坂を下ると「御番所橋」に至ります。往時はここに「下戸番所」がありました。

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御番所橋

1629年(寛永6) 橋を渡った右手に六坪の「下戸番所」ができました。現在建物はなくなっていますが、小さな橋には「御番所橋」とあり、石垣も残っています。番所では1691年(元禄4)まで十分一役(税金)を徴収していました。

沢根からこの御番所までを「中山道」と呼ばれています。ここで「中山道」は終了です。御番所橋を渡り、ここから相川の街へ入っていきます。

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相川の町並み

右手「相川小学校」のあたりには「下戸御米蔵」があり、年貢米が収納されていました。

15:50 本日宿泊する「ホテル万長」に到着です。道が続いているのか・・ドキドキの場所もありましたが、中山道の山歩きはとても楽しい道のりでした。 明日はいよいよ相川街道終点の「相川札の辻」まで歩き、佐渡金山へ向かいます。