2023年4月29日

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北国街道を歩き、出雲崎へたどり着きました。出雲崎から佐渡をながめ、佐渡から金が運ばれてきたのだな・・と思うと、やはり佐渡へ行ってみたくなり、今回は佐渡の御金道、「相川街道」を歩くことにしました。

夜中のうちに車で新潟港までやってきました。万代島駐車場Eに駐車して朝まで仮眠し、6:00発の佐渡汽船のフェリーに乗船しました。

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おけさ丸

車を運ばない場合は予約しなくとも十分に乗船できるようですね。帰りはジェットフォイルを予約しました。ジェットフォイルは全席指定席のため、ゴールデンウィークなどの混雑時は予約が必須です。

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新潟市歴史博物館

出港するとすぐに見えたのがこの素敵な建物。いったい何かと調べたら「新潟市歴史博物館」でした。
乗船すると港で買った朝食を食べたり、初めての佐渡でしたので、船内をキョロキョロ見学などしていると8:30に佐渡両津港へ到着。フェリーだと2時間半かかりました。ジェットフォイルだと1時間くらいです。

佐渡には電車がないので、移動のメインはバスになります。佐渡のバス路線は様々あります。計画段階でかなり調べてきましたが、乗り換えなどもあり、ちょっと不安です。 まずは、両津港バスターミナルから8:40発の本線バスへ乗車し「佐和田バスステーション」へ向かいました。

途中、バスの窓からトキが飛んでいくのを見ました!佐渡へ到着早々にトキが見られるとは幸運です!

9:23佐和田バスステーション到着。今度は9:40発の小木線へ乗り換えです。佐和田バスステーションには待合室もありますし、トイレもありバスの時刻表や佐渡の観光パンフレットなどもあるので、待ち時間に情報収集。

9:40に佐和田バスステーションを出発した小木線は、10:42「小木」バス停到着の予定でしたが、バス停を間違えて「小木港バス停」で下車してしまいました。たいした距離でもないので、スタート地点の「木崎神社」へ向けて歩いていきます。

小木港が賑わっていました。どうやら3年ぶりにカーフェリーが直江津と小木港を就航したようで、記念の式典が行われていたようです。

小木みなと公園の前を通り、埠頭公園の一角にある小木幸丸展示館の前を通ると「佐渡おけさ盆踊発祥之地碑」と「御影石」が展示されていました。

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佐渡おけさ盆踊発祥之地碑

1926年(大正15)小木に住む 山本楚峯がバラバラだった佐渡おけさ踊りの足の運びを16足で一廻りするよう改良し、島内に広めたことの記念碑です。さらにこの記念碑を寄付したのも山本楚峯でした。

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御影石

明治初年頃、函館五稜郭の台場築造用、瀬戸内海産御影石を運ぶ舟が小木港付近で沈没しました。後年、地元の人々が荷揚げしましたが、既に台場不要となっていたため小木町が払い下げをうけ、木崎神社付近の海岸壁に利用しました。
1971年(昭和46)小木港整備事業により埋め立てることになったため町が保管し1985年(昭和60)この場所にベンチとして設置しました。

埠頭公園から200mほどで「木崎神社」へ到着します。

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木崎神社

1609年(慶長14)佐渡奉行、大久保長安により金銀輸送の航海安全を願い勧請され、また相川の金山から運ばれてきた金銀はここに保管され、船で出雲崎へ運ばれていきました。

佐渡の街道整備が進まなかった元和の頃は相川からここまで船で直送されていたようです。その後、承応の頃(1652〜54)からは街道の整備が進み、船での移送は少なくなっていきました。

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木崎神社本殿

現在の本殿は1695年(元禄8)佐渡奉行、荻原重秀が官営事業として造営したと伝えられています。拝殿は1889年(明治22)に改築されています。
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北前船奉納絵馬

日本海で海運をした船を「北前船」と呼ばれました。北前船の船主らが海上安全を祈願し、奉納した絵馬です。

木崎神社の境内社として「船魂さん」が祀られており、その社殿のそばに大伴影氏の「社頭歌」碑がありました。

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船魂(ふなたま)さん

建立年は不明ですが、1593年(文禄2)には存在していました。海上鎮護の守神で、御神体は女性の髪、賽ころ、人形と伝えられます。宮司、畠山志摩の記録によれば、1756年(宝暦6)佐渡奉行が参拝、建築の勧進をしています。

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大伴影氏「社頭歌」

『蔭あふぐ松のきさきのかみやしろとことはにこそ守りますらめ』

「社頭歌」は 神仏に奉納するために詠んだ和歌で、奉納歌ともいいます。 大伴影氏は佐渡奉行所の組頭で、1827年(文政10)に没しているため、それ以前の建立と思われます。
木崎神社参道の東側斜面の少し上ったところに「木嵜神社旧跡」という石碑があります。

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木嵜神社旧跡

現在の前の社殿はここにあったようです。内の間を向いて石碑が建っています。
木崎神社から相川街道(小木道)が始まりますが、その前に城山公園に寄っていきます。木崎神社社右手の細い道から公道へでるとすぐに城山公園へ上る入口があります。かなり急な坂道を上ります。

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城山公園

標高38mの台地は「佐渡弥彦米山国定公園」となっており、中世には城がありました。海に浮かんだ亀に似ているところから「浮亀城」と呼ばれていました。

公園の看板からさらに奥へ進むと右手に大きな「天南星句碑」があります。

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天南星句碑

「天南星」こと塚原徹は1889年(明治22)小木の「信濃屋」という味噌・醤油醸造業をしていた与右衛門家に生まれ、早稲田大学で学んだあとに家業を継ぎ、町会議員を経て町長も務めました。1915年(大正4)に「新佐渡」の刊行に参加し、天南星の号で文化人としても活躍しました。
さらに奥に進むと寂れた展望台がありますが、上に登っても樹木が茂りほとんど景色は見えませんでした。広い芝生広場を横切り城山の西側にある細い園路を公園入口へ向かって進むと右手に「尾崎紅葉句碑」がようやく見つかりました。上ってきたときに公園看板のところを右手に進むとすぐに見つかる位置でした。

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尾崎紅葉句碑

『外の澗の月にうかれて 月涼し橋かけたやと 歌ひつつ』

「金色夜叉」で知られる明治の文豪、尾崎紅葉は1899年(明治32)、1週間の予定で佐渡へ来訪しましたが小木の芸姑、お糸と恋仲になり1ヶ月の長逗留となりました。この句は小木湊で詠んだものです。 1937年(昭和12) 塚原徹(天南星)によって建立されました。
城山公園をあとにもと来た道を下り、木崎神社の横を通り最初の十字路で左へ曲がり1つ目の交差点、行政センターの角に「小木町道路元標」がありました。

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小木町道路元標

下の方が埋められており、「小木町道」までしか見えません。
ここから2つ路地を戻り北へ向かい、ようやく相川街道を進んでいきます。

相川街道は、相川「札の辻」から豊田の分岐点までをいい、豊田から小木までを「小木道(金の道)」といい、豊田から赤泊までを「赤泊道(殿様道)」と言われていました。 赤泊道は江戸時代後期より、佐渡奉行の上陸地として公道になりました。

便宜的に佐渡の金を江戸へ運んだ道として相川街道と小木道をあわせて「相川街道」と呼びます。

木崎神社から真っ直ぐ北へ伸びる道へ戻り、相川街道へ入り60mほど進んだ左手が「下の番所跡」です。

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下の番所跡

小木の湊の発展、特に外の間の開発に伴い、1682年(天和2)に設置が認められました。「汐通し」「三味線堀」などはこの付近にありましたが、現在は埋め立てられ、残っていません。
下の番所跡横の路地を左へ曲がり突き当りまで行くと「丸亀屋」というお蕎麦屋さんの前に「三味線堀」の解説があります。

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三味線堀跡

小木港は江戸時代、金の積み出し港でした。1802年(享和2)の小木半島沖地震により内の澗は1m以上隆起し、波打ち際も40m以上陸上から離れてしまいました。番所での業務にさしつかえたため、1806年(文化3)堀を作り舟が出入りできる水路、「三味線堀」が築造されました。

ちょうどお腹もペコペコなので「丸亀屋」さんでおそばをいただきました。メニューはもりそばとざるそばしかないそうで、もりそばを注文しました。佐渡のそばのつけ汁は「あごだし」(とびうお出汁)です。店主さんに聞くと昨今はトビウオが不漁とのことで、別の似たような魚を代用品として作っているそうです。それでも関東の出汁とは違う美味しさがありました。

丸亀屋さんから北へ50mほど進んだ右手に「赤梨屋」、その向かいに「かしや」があります。

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赤梨屋とかしや

赤梨屋は、能登黒島や越中の船員が宿泊しました。かしやも数度あった小木の大火を免れています。海岸の隆起により前面道路が高くなり、入口に段差があります。

相川街道へ戻り、最初の路地を右へ曲がるとポケットパークがあり、「尾崎紅葉句碑」があり、左手角に「旧ごんざや旅館」、旧ごんざや旅館の路地を曲がりすぐ先右手に「旧喜八屋旅館」があります。

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尾崎紅葉句碑

『汗なんど拭いて貰うて別れけり』

芸姑、お糸とであい長逗留となった小木で、別れ際に詠んだといわれる句です。

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旧ごんざや旅館

1899年(明治32)頃は料亭「旭楼」でした。佐渡へやってきた尾崎紅葉が芸姑のお糸さんと出会った楼閣で、後に権座屋という旅館になり、画家の小杉放菴や藤田嗣治、中川一政、陶芸家の浜田庄司、河合寛治郎、作家の水上勉など著名人も多く宿泊しています。
一時廃業していたようですが、現在は「ゲストハウス華屋」として営業しています。

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旧喜八屋旅館

喜八屋は前身を「和泉屋」といい、小木港開港時に問屋五人衆に数えられていました。江戸時代より廻船問屋を営みましたが、1904年(明治37)の小木大火後は旅館として再建しました。創業時は2階建てでしたが、1928年(昭和3)増築して木造5階建になりました。
相川街道へ戻り50mほど進むと左手に「半内屋」、さらに50mほど左手に「かどや跡」、その隣が「北村薬品」があります。

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半内屋

明治の商家で、船乗りとの折衝する役割でした。
小木は街道の雰囲気を残した建物が多く残っていて、歩いていて楽しいです。

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かどや跡と北村薬品

作家、長塚節(たかし)は1906年(明治39)に佐渡を旅しました。紀行文としてまとめられたのが「佐渡が島」です。旅館「かどや」に宿泊したことが記されています。

かどやは小木で一番大きな3階建ての宿屋でした。また、かどやのおかみさんをたいそう美人と褒めています。 1899年(明治32)には尾崎紅葉も宿泊しています。大正末期に当主が植木屋に転職したため、旅館業は辞めたようです。

北村薬品は昭和初期に建築された洋風建物です。京間取りでレトロなステンドグラスがあるとされます。

長塚節(たかし)

1879年(明治12) 茨城県常総市に生まれました。正岡子規の門弟となり伊藤左千夫、高浜虚子、河東碧梧桐らと全国を旅し作品を残しています。 「佐渡が島」が「ホトトギス」に発表されると高浜虚子はこれを傑作と讃え、夏目漱石の口添えで朝日新聞に長編小説「土」が連載されました。また、『鍼(はり)の如(ごと)く』と題する231首の作品を残し、日本全国に句碑が残されています。佐渡には羽茂に「佐渡が島」の一節が彫られた文学碑が建立されています。 1915年(大正4) 喉頭結核により36歳の若さで亡くなりました。師の正岡子規は34歳で亡くなっています。互いに短い生涯でしたが多くの作品を後世へ残してくれました。

かどやから50mほど進むと右手に「鍋屋」、その向かい辺りに問屋5人衆の「藤井」があります。

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鍋屋

問屋20人衆のとなり、越中船の定宿でした。小木-出雲崎を結んだ定期船「占魁丸」の就航に尽力しました。

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小木のメインストリート

歩いている相川街道の南側は1802年(享和2)の大地震までは海岸線となっていました。
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久松屋商店と常磐屋

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藤井(問屋5人衆)

「問屋5人衆」とは公安業務を受け持つ公的な役割と町民を指導する役割を担っていました。七尾・能登からの廻船の定宿でした。ガラス雨戸・戸袋があり内部の欄干までよく見えます。
すぐ先、右手の金子屋手前の路地を入り、光善寺へ向かいます。

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光善寺への路地

道なりにくねくねと90mほど進むと右手に「諏訪町集会所」がありこれを過ぎた路地を右手へ入ると参道の階段があります。
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光善寺

小木港の発展に尽力した第10代佐渡奉行、竹村九郎右衛門が1630年(寛永7)相川から移したお寺とされます。本尊は阿弥陀如来とされます。

光善寺本堂の左手、少し高くなった場所に「竹村奉行の墓」があります。

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竹村奉行の墓

小木湊の開発を行ったのがこの竹村九郎右衛門と鎮目市左衛門でした。竹村九郎右衛門は1619年(元和5)に佐渡へ入国し、1631年(寛永8)に没しました。小木の港湾整備を行うとともに相川長坂町にあった光善寺を小木町へ移し、自らの菩提寺とし内の澗を見渡せるこの場所に葬られました。
光善寺から相川街道へ戻ると路地の角が「金子屋」、75mほど進んだ右手が和洋折衷の「旧小木郵便局」があります。

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金子屋・旧小木郵便局

金子屋は土蔵造りの店舗になっており、かつては百貨店といわれ、呉服から書籍、雑貨まであらゆる物が売られていました。旧小木郵便局は大正時代に郵便局として使用されていた洋館です。

旧小木郵便局のすぐ先右手へ入り、50m進むと左手に「安隆寺」の入口があります。

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安隆寺入口と仁王門

日蓮の赦免を知らせるため小木海岸に漂着した六老僧の一人、日朗を助け僧となった学法房(後の性善坊日顕)が元小木に創建したといい、1656年(明暦2)、廻船問屋の風間長右衛門により現在地へ移転しました。奉行、巡見使の宿札があり、奉行所との関係が深いとされています。

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安隆寺から見た小木の町

石段を上り仁王門をくぐった先の右手に3名の句が記された句碑がありました。

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安隆寺の句碑

藤井百花

『浮き雲の果や帰らんもとの水』

藤井百花は小木・竹窓軒、金井良談の門人で、川上喚涛が明治時代まで生存した宗匠とされます。

土屋永輔

『秋風にのりのえによし湊のふね』

安隆寺に於いて歌仙興行の折の発句。新穂長畝の人。江戸、阪昌文、京都、里村昌逸に歌仙を学び、後に相川に居住しました。

尾崎紅葉

『これやこの転法林檎有難し』

1899年(明治32) 小木へ来た尾崎紅葉は10日ほど小木の「旭楼」に滞在し、安隆寺に参詣したと記録があります。
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鐘楼と本堂

奉行所との関係が深いことから、安隆寺は本陣としても利用されていたようです。

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祖師堂

開祖である性善坊日顕上人を祀るお堂でしょうか。
本堂左手の鳥居をくぐり、一対の灯籠を過ぎ石段を上り高台へ向かうと平坦地になります。奥に七面堂が建っています。

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七面堂

拝堂は 18 世紀後期の建築と推定され、正面の向唐破風造の向拝は、後世に付加されたもので、19 世紀中期から明治頃と推定されています。かなり傷んでおり、このままで大丈夫なのか・・心配です。
安隆寺を下り、相川街道へ戻ります。向かいの道を少し入ると右手に「上の番所跡」の案内板があります。

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上の番所跡(十分一口屋)

1802年(享和2)の大地震まではこのあたりが海岸線でした。1606年(慶長11)小木に番所が置かれ、この筋を「番所通り」と呼ばれました。また問屋もこのあたりにあり「十分一口屋」と呼ばれていました。番所は北向きに門があり、建物は現在の魚晴の下あたりにあったとされます。
相川街道へ戻り2、3軒進むと右手が「七右衛門」、左手が「ござや」です。そのすぐ先左に「天南荘」、その先に「泊屋」があります。

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生そば 七右衛門とござや

「七右衛門」は5代続く老舗蕎麦屋で、1905年(明治38)頃に建てられました。吹き抜けが特徴的だそうです。「ござや」は廻船問屋の一つで、真野新町、松ヶ崎方面などの定宿でした。

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天南荘と泊屋

天南荘は、画家の棟方志功、詩人の相馬御風などが宿泊したとされます。

泊屋は1751年(宝暦元)に問屋20人衆の一人となり、越後寺泊方面の船の定宿でした。
天南荘から50mほど進み、右手の細い路地を北へ入ると「阿弥陀院」です。阿弥陀院の奥の北側に稲荷町の由来となっている「稲荷神社」があります。

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阿弥陀院

はじめは浄土系、後に真言宗に転宗したとされ、阿弥陀と大日の二体の本尊が祀られています。境内には六地蔵や水子地蔵などがあります。

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稲荷神社

この稲荷神社があることから、このあたりは「稲荷町」と呼ばれていました。 8月に木崎神社例祭に奉納する「小獅子舞」は、元々はこの稲荷神社に奉納されていたと伝われます。

阿弥陀院を出て50mほど住むと相川街道は右へ曲がっていきます。明日はここから相川へ向けて歩いていきますが、今日は小木に一泊しますので素通りし、相川街道を離れてすぐ先の泉財川沿いを左へ曲がっていきます。100mほど南へ進むと左手に木造の「旧小木小学校」が残されています。

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旧小木小学校

1877年(明治10)建築の洋風2階建。体操場もあり、往時は島内随一の校舎と評されました。
ここでまだ14時。宿は早くても15時からなので「内の澗」前の公園でぼーっと30分ほど過ごし、その後本日宿泊する「おぎの湯」まで500mほど歩いていきました。公園から北へ100mほど行くと小さな「琴平神社」があります。神社は小さいのですが、大きな赤い鳥居が目を引きます。

内の澗と外の澗

佐渡汽船のフェリーターミナルがあった港が「外の澗」です。城山を挟み、2つの天然の良港をもつ小木港は1672年(寛文12)西廻り航路の寄港地となりました。東風が強いときは内の澗に、西風が強いときには外の澗に停泊しました。暴風の時には両澗を繋いだ「汐通し」の堀を使って安全な澗へ船を避難させていました。「汐通し」の堀は、現在ありませんが、小木町道路元標がある西から東へ向かう道がその跡地となります。

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琴平神社

「明治維新後、12代広橋庭世の時代に神仏混淆を解き「金比羅神社」を建設し、従来の修験を廃し神官となる」と案内板にあります。明治の神仏分離令で「金比羅神社」に改めたということのようです。

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社頭歌碑

どなたの歌か、どのような歌か・・わかりませんでした。

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琴平神社の鳥居

香川の総本社と同様にかつては門前に回り舞台を有する芝居小屋「琴平座」があったそうです。
ここからは、坂道を上り本日宿泊の「おぎの湯」へ向かい、明日から本格的に「相川街道」を歩いて行きます。