旅の道連れは「富士山」。富士山と一緒に旅をしよう!

2002年8月11日

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富士山と愛鷹山

広重の描いた原宿の浮世絵は、富士山と愛鷹山、浮島ヶ原を描いています。旧道からは原っぱらしい場所は見えませんが、国道1号まででるとそれらしい景色が広がります。この日は雲が広がり、富士山も愛鷹山も残念ながら見えませんでした。

桃里改修記念碑

江戸時代のこのあたりは、浮島ヶ原に開墾された新田の一つ、「助兵衛新田」がありました。1908年(明治41)に名前がよくないということで、二代目鈴木助兵衛の希望で「桃里」という地名になったことを記念した石碑です。愛鷹浅間神社の前にあります。初代助兵衛は幕末の遠州浪人で駿河・阿部郡上土の開拓に尽力した人で、二代目助兵衛も明治になって浮島ヶ原の開拓に多大な貢献をしました。

望嶽碑

1808年(文化5)、尾張藩の典医であり墨竹画にも優れていた柴田景浩が、この地から望む富士山の美しさに感銘を受け建立したものです。立円寺の境内にあります。

碑文の大意

生来山が好きな私は、山を描くことも好きである。富士ほど珍しい山は他になく、中でもこの場所からの眺めに勝るものはない。参勤交代で何度もここを通ったが、休憩をとるたびについ富士に見とれてしまう。できることなら富士のふもとで息絶えたいが、思うに任せられない。だからせめて己の髪を切り、この場所へ埋めておく。死後、私の魂が再び、この場所に戻ってこられるように。私の姓名は柴田景浩、字を子博といい、龍渓と称される者で、尾張藩の侍医をしている。

富士をかたどったような石碑です。今日はここからも富士山は雲に隠れて見えませんでした。

ゲラテック号遭難碑

1979年(昭和54)清水港より救援米を運ぶ途中、台風により遭難し柏原海岸に打ち上げられ、2人の船員も亡くなりました。船は六ヶ月かけて解体され、遭難者の慰霊碑が建立されました。慰霊碑とともにいかりも置かれていました。

柏原尋常小学校の跡碑

明治6年、立円寺境内に柏原学校を開校。明治9年に廃され田中新田に浮島学校として移されましたが、明治23年に尋常小学校柏原分校として、再び立円寺境内に置かれます。昭和4年に元吉原尋常高等小学校分教所となります。昭和7年、柏原大火により焼失し、元吉原尋常高等小学校に合併されました。

増田平四郎碑

1836年(天保7)大飢饉や度重なる水害から村を守るため、増田平四郎浮島沼の干拓を計画しましたが、代官所からの許可がなかなか下りず、ようやく着手したのは計画から27年後のことでした。その後も資金難や高波に破壊されたり、何度も危機がありましたが、「スイホシ」と呼ばれる大排水路は1869年(明治2)に完成しました。現在の昭和放水路と同じ位置です。

沼田新田一里塚

江戸から33里、129.69kmの一里塚がありました。

松の防砂林

放水路に沿った松の防砂林を歩いて少し海を見にいってみました。
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田子の浦

田子の浦と聞くと真っ先に思い出すのが百人一首です。『田子の浦にうちいでて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ』山部赤人、万葉集に詠まれた古来の田子の浦は薩?峠の麓から倉澤、由比、蒲原付近一帯を指していたようです。

高橋勇吉と天文堀

天文堀は高橋勇吉により1836年(天保7)から1850年(嘉永3)の14年間をかけて完成させた排水用の掘割です。勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫でした。財産を工事費にあて、天文の知識や土木技術に優れた人物であったことから人々は「天文堀」と呼びました。現在は土地改良や道路改良などで天文堀を見ることはできないそうです。

吉原宿へ

日が暮れてきました。駅まではもう少しです。

16:30 吉原駅到着。今日はここから帰宅します。

2002年10月13日

前回は、吉原宿へ入ったところで終了しました。今日はまず吉原宿の見学からです。

8:00 吉原駅出発。今日もいいお天気です。

吉原宿は高波で3度も移転を余儀なくされています。吉原駅付近が元々吉原宿だったあたり「元吉原」でした。

左富士神社

1796年(寛政8)創建。1908年(明治41)、名勝である左富士にちなみ、悪王子神社から『左富士神社』に変更しました。
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吉原左富士

広重の「吉原左富士」は、このあたりの構図だということですが・・実際は左というよりは正面のちょっと左よりくらいの感じでしたね。

平家越え橋

和田川に架かる小さな橋です。後ろの煙突は製紙工場のものです。吉原は製紙の街です。

紙のまち富士

富士川上流地域では紙すきが行われ、江戸時代中頃には江戸に広まり「駿河半紙」として人気がでました。明治時代になると宿駅制度の廃止に伴い、馬子などの大量失業が懸念され、これに備えて吉原宿出身の内田平四郎が1869年(明治2)に新たに開墾した土地にミツマタを栽培しました。1879年(明治12)伝法村の栢森貞助は和紙工場を設立し、家内生産から工場経営への先駆けとなりました。その後は豊かな水、田子の浦港や東名高速などの交通の利便性を背景に製糸工場が続々と誕生し、富士市は製紙で栄えました。

平家越え

1180年(治承4)富士川合戦において、源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の羽音を源氏の大軍の襲来と間違え、平家の軍勢が戦わずに逃げ帰ったという碑です。平家の軍勢が陣を取っていたのがこのあたりだと言われています。富士川は西に6kmほど行った場所になりますが、当時は東に湾曲していていたそうですが、江戸時代の延宝年間に岩本山の南に「雁堤」ができてからは、現在のように南へ直下するようになったそうです。

東木戸跡

吉原宿

宿場はアーケードの商店街となり、当時の面影は全くありません。

吉原宿は高波で3度も移転を余儀なくされ、それため海岸から遠く北に向かったこの場所となりました。1682年(天和2)にこの地に移された宿には、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠100軒以上とかなり大きな宿場だったと思われますが、現在は全く面影もなく、また跡地の案内もないため、当時を想像することもままならない状況です。

9:10 吉原宿をあとに、蒲原宿へ向かいます。