鈴鹿川沿いの太岡寺畷を行く−江戸時代さながらの関宿

2018年04月28日

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14:00 空腹をこらえつつ、亀山をあとに関宿へむかってもう少しがんばります。

TOO001 亀山宿を離れて行きますが、まだまだ古い町並みが続きます。

光明寺

正徳元年、亀山城の「古御殿」は傷みも激しく、火事の懸念もあって撤去されています。この際に書院の一部が光明寺本堂として再利用されたと伝えられているそうです。残念ながら本堂は近年改築され当時の遺構ではなくりましたが、天井板や金具の一部は寺で大切に保存されているそうです。

お腹が空いた〜でもなかなかお店がないです・・・うどん店がありましたが、閉店しています。コンビニっぽい商店に入りましたが、お菓子などしか置いてなかったですね。・・・と、困っていると・・なんと美味しそうなレストランがありました!

コ・ビアン

14:00 ランチ休憩

洋食屋さんですが、外観は和風で素敵でした。

メニュー見てびっくり!安いです!ここはちょっと贅沢して一番高いランチに!といっても800円ですけどね。

豪華3点、ハンバーグ、からあげ、サーモンフライ、ライスとお味噌汁、お新香がついています。味も美味しいです!

シフォンケーキセットもお安く、お茶でもいいですね。オススメレストランです。

天照皇大神御鎮座跡 忍山神社

・・と彫ってあるようですが、何も説明などはありません。ここから南へ300mほど先に「忍山神社」がありますので、そこのことでしょう。日本武尊の叔母である倭姫は天照大御神を祀る場所を求めて、大和から伊賀、近江、美濃、尾張を経て伊勢国へ入り、桑名野代宮より忍山の地へ至ります。倭姫は忍山で半年間、天照大神を祀り、その跡が忍山宮と呼ばれました。忍山神社は日本武尊の妻、弟橘姫(オトタチバナヒメ)の誕生地ともされています。日本武尊に草薙剣を与えたのもこの叔母さんですね。小さな神社ですが、2000年以上の歴史があるのです。

御召替所跡(内池家母屋)

明治13年、明治天皇が亀山で陸軍を見学、その折りにこの地で御休みになり、御茶料三円を賜われたそうです。三円は現在の価値で6万円くらいのようですが、結構渋い金額ですね。。現在は、建物からは想像できないですが、焼き肉屋さんです。

野村一里塚

大正3年に南側は撤去されてしまいましたが、北側のこの塚だけは復元でもなく、正真正銘、江戸時代からのもののようです。三重県内でも当時から残っているものは、この野村一里塚、1つだけです。植えられている樹木は、エノキかと思ったらムクノキらしいです。目通り5mと巨木ですね。

亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡

打田家は、近江国から野尻村に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めたそうです。権四郎昌克は1702年(元禄15)、亀山領に関する記録集「九々五集」をまとめたとされる人物です。
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関西本線を越えます。単線ですね〜
TOO001 鈴鹿川へでて、川沿いを歩いていきます。

太岡寺畷

畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。鈴鹿川の堤の上を約2km、東海道の畷道としては、随一と言われたそうです。今では面影がないですが、当時は松並木が素晴らしかったようです。

名阪国道・東名阪自動車道の下をくぐります。

たくさんの浮世絵が掲示されています。

田んぼの向こうに今日宿泊する「カンデオホテル」が見えました。あとでここまで戻らないといけないのですよね〜

16:00 関宿に近づいてきました。 ポケットパークがあったので、ここで一休みします。

山並みの案内板

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関の小萬のもたれ松

・・・・現在は松は無く、モミジが植えてあるだけです。 江戸時代、久留米藩士の妻は夫の仇を討つため身重で有りながら旅をしていましたが、関宿山田屋にて小萬を生んだ後に病死します。小萬は山田屋の養女として育てられましたが、母の遺言により亀山城下で武術を修行し、1783年(天明3年)仇を討つことができました。この場所は、小萬が若者の戯れを避けるため、姿を隠してもたれたという松があったとされます。

関宿 東の追分

関宿はこの「東の追分」から「西の追分」までの1.8kmが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。東の追分は伊勢別街道との分岐になります。7世紀頃(壬申の乱の頃)には「鈴鹿関」が設けられており、1601年(慶長6年)に東海道宿場となります。

鳥居は、伊勢神宮「式年遷宮」の折り、廃材となった正殿の棟持柱が再利用されたものだそうです。式年遷宮とは、20年に一度、伊勢神社の正殿をはじめとする殿舎などを新たに作り替える行事のことです。

関宿は、当時の古い町並みがかなり残されていてタイムスリップしたような町並みが続きます。

浅原家

屋号「江戸屋」米屋・材木屋などを営んでいたそうです。

御馳走場

ここの説明では、大名行列を迎える場、あるいは接待する場とされています。平たく言うと大名が通過する際に町役人が出迎え、挨拶をした場所です。

雲林院家

「かいうん楼」と称し、隣の「松鶴楼」と並んで芸妓置店でありました。飯盛女や遊郭の代表的なものです。

百五銀行(ひゃくご銀行)

建物は新しいものですが、周囲の景観に合わせるデザインが施されていて素敵ですね。

関宿はお食事処やカフェがいっぱいあります。

関宿はカフェもトイレにも困りません。

関まちなみ資料館

江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつを「まちなみ資料館」として開放しています。亀山市関町の文化財・歴史資料の展示・町並み保存事業による、関宿の町並みの移り変わりを写真展示しています。今日はもう閉まっていました。

鶴屋脇本陣 波多野家

お城のような千鳥破風をもち、二階には虫籠窓があしらわれています。虫籠窓とは、漆喰で塗り込められた堅格子窓です。

問屋場跡

後ろの建物は「中町三番町山車」です。「関の山」の語源となった関の山車は、16基あったそうですが、現在は4基が残っているそうです。
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岩木屋 吉澤家

明治から大正にかけ酒・味噌・醤油の醸造業を営んでいたそうです。

川北本陣跡

関宿には川北本陣、伊藤本陣の二軒の本陣がありました。ここは、江戸時代初期から関で本陣をつとめていた川北家の跡です。川北本陣の門は、延命寺の山門として移設されているそうです。

伊藤本陣跡 松井家

現在残っている街道筋に面した部分は、家族の居住と大名宿泊寺の道具置場とする建物があったそうです。広重の「本陣早立」は、伊藤本陣が描かれたものとされています。

旅籠 玉屋

「関に泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と詠まれた三大旅籠の一つです。江戸時代の旅籠建築を修復し、旅籠で使われていた道具や歴史資料が展示してあります。4:30までですので、残念ながらもう入れません・・入館料は300円です。

高札場

郵便局前です。平成15年に復元されたものですが、当時の様子がよく現れています。

薬屋さん

足袋やさん

福蔵寺

創建は、1583年(天正11)。織田信長の三男織田信孝の菩提寺として開かれます。信孝は信長が本能寺の変で倒れると豊臣秀吉と家督争いで対立し、後見人だった柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れると、二男織田信雄によって居城である岐阜城が取り囲われ降伏、大御堂寺で切腹し検視役だった大塚俄左衛門が福蔵寺に持ち帰り篤く葬ったと伝えられています。境内には小万の墓もあり、英照皇太后が宿泊した書院や萩屋脇本陣から移築された門が残されています。

「日本の道100選 旧東海道関宿」

日本の道100選は、「道の日」制定を記念して1968年、1967年に建設省(現国土交通省)によって選ばれた特色ある優れた道です。100選ですが、なぜか104本選ばれています。 文化省選定の「歴史の道100選」というものもあります。このあとの東海道、鈴鹿峠・土山は「歴史の道100選」に選定されています。

関地蔵院

最古の地蔵菩薩で知られているそうです。741年(天平13年)、奈良東大寺の僧、行基が諸国に流行した天然痘から人々を救うために安置したと伝えられています。「関の地蔵に振り袖着せて、奈良の大仏婿に取ろう」の俗謡でも知られています。かつて本尊の開眼祈願を一休さんにお願いした逸話から境内に一休像が残っています。

塀の中にもたくさんのお地蔵様がおられます。

17:00 さーて、今日はここまででした。もっと先まで行く予定でしたが、もう歩いてホテルまで行くことも出来ないですし、関駅は近いけどホテルは近くにないんですよね〜このあたりは。東海道最大の難所は箱根でしたが、現在の旧東海道歩き旅の難所は、ここ「鈴鹿」周辺ですね。関・土山・水口までは駅がないですし、ホテルもないです。路線バスもよくわかりません。

予約したカンデオホテルは亀山駅と関駅の中間です。

交通手段はタクシーしかないので、関駅まで歩いて駅でタクシーを呼ぶことにします。

街道おんな唄の碑

瀬川瑛子の唄のようですが、詳細はよくわかりません・・

道の駅 関

JR関駅のすぐ隣です。地元特産品の銘菓やローソク、地元産の野菜などが売られています。定食屋さんも入っていますのでお食事もできます。

JR関駅

やっと到着です。ここから電話をかけて、関タクシーさんに迎車をお願いしました。5分ほどで来て下さいましたよ!関駅からカンデオホテルまでは¥1000円ほどだったと思います。