2019年8月11日

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上田駅前の「タイムズ上田信用金庫駅前支店」へ車を駐車しました。予定では、もう少し離れた天神1丁目のフレンドパーク(500円/24h)に停めたかったのですが満車でした。安いため人気があったようです。仕方なくタイムズへ。上田駅から、しなの鉄道に乗り大屋駅まで戻ります。

6:15 大屋駅を出発します。

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大屋神社

1842年(天保13)神明宮と熊野大権現の本殿が並んで建てられていたため、「熊野社」と呼ばれていたそうですが、両社殿ともに明治時代の火事で燃えてしまったため、新たに現在の本殿を建てたとされます。拝殿軒下に小舟が掛けてありますが、これは東郷元帥が千曲川で川遊びをしたときのものだそうです。
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道祖神、瀬沢川

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岩下の桜並木

昭和38年頃、岩下のお年寄りが道路の両側にソメイヨシノを植え、大切に育てられました。大木になった桜は満開時には桜のトンネルとなり、人々に愛されましたが古木となり平成23年安全のために伐採されました。柵に当時の写真パネルがいくつも飾られています。

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岩下一里塚跡

この辺りにあったとされる一里塚は現在ありませんが、小さな案内だけが掲げられています。

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天神社(天満宮)

菅原道真を祀っています。岩下郷は鎌倉時代の豪族、海野氏の領地内で神川が西の境であったとされます。天神社が勧請され天保時代から戦前までは天神講として地元では毎月お祭りが行われていました。現在は毎年4月に行われています。社殿横のケヤキは、樹齢千数百年といわれ長野県内では2番めの大木として天然記念物に指定されています。
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無量庵(観音堂)

1615年(元和元)の頃には龍洞院のが支配下にあり、1671年(寛文11)に釣月和尚が「無量庵」として開山しました。観音様は厄除け観音として知られ、主に百日咳、疱瘡、風邪にご利益があると言われています。

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岩下清水

古くから親しまれていた湧き水でこの先20mのところにもある、と書かれていましたが、もう一つの方は見つけられませんでした。洗い物等、生活用水として使われていたそうです。

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明治天皇岩下小休所跡・仁和寺宮嘉彰御遺跡

明治11年9月、明治天皇北陸巡幸に際し、この場所にあった尾崎惣作邸のこのために新築された一段高い御座所の間で小休されました。

仁和寺宮は、伏見宮邦家親王の第八子、1858年(安政5)京都仁和寺に入り、純仁法親王と称し1867年(慶応3)勅令により22歳で還俗し、明治元年会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍、会津藩降伏後高田を経て東京へ向かう途次、岩下村尾崎儀兵衛宅を御休所としました。

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伊波保神社(いわお)

創建年代は不詳ですが、古くは岩下東端の岩穂にあり、1617年(元和3)の水害のため現在地へ遷宮されました。1879年(明治12)には村社岩下村諏訪宮を伊波保神社に改称しました。本殿の彫刻は竹内八十吉によるものと言われています。

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双体道祖神

道祖神は1830年(文政13)に建立されました。昭和20年代までは、毎年子供たちによって道祖神祭が行われていました。
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火の見半島

下に下りられるようにコンクリートの階段が付けられていますが、岩に下りる最後の1段の高さが高く、足を滑られて千曲川へ落ちたら流されそうで、怖くて岩の上に下りられませんでした。

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太鼓岩

千曲川の真ん中に角礫火山岩の巨大な岩があります。対岸の小牧山の火山活動があった頃の噴火物が残ったと言われています。1928年(昭和3)には、上田八景に選ばれました。千曲川の水流が激しく岩に当たり「ドーン」と響くゆえ、「太鼓岩」と呼ばれたと言われていますが、一説には岩の両側が川(皮)であることから、とも言われています。
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太鼓岩と吊り橋

1930年(昭和5)太鼓岩の間に吊橋を架け、漁や近隣住民、観光客の便を図りました。しかし、1959年(昭和34)の伊勢湾台風の災害を避けるため、切り落としてしまいました。現在は鉄枠だけが残っています。また、太鼓岩は雨乞いの場として、干ばつの際には農民が岩に集まり礼祭を行っていました。

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旧北国街道

住宅と河原の間に旧道の細道が残っています。

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馬頭観音

1818年(文政元)加州(加賀)の飛脚仲間により旅や馬の安全祈願、供養のために建立したものと考えられています。

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神川(かんがわ)合戦の地(第一次上田合戦)

神川は群馬県との境にある標高1332mの四阿山から発し、支流を集めて千曲川へ注いでいます。上田合戦とも呼ばれる戦いは、1585年(天正13)を第一次上田合戦、1600年(慶長5)を第二次上田合戦と呼ばれ、いずれも真田氏徳川氏の戦いでした。第一次上田合戦が神川合戦に相当します。大河ドラマ「真田丸」では家康についた真田家の家臣、室賀正武が真田昌幸の暗殺に失敗したため上田城を攻めたとされていますが、真田昌幸が上杉景勝と手を取り、徳川家康に背いたため攻めたという見方もあります。家康は7000の兵を送りますが、対して真田氏の兵はわずか1200とされますが、真田昌幸の智と土地の利を生かした罠と戦術で家康を撃退したとされます。家康側は1300名もの戦死者を出したのに対して真田側は40名ほどだったそうです。
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蚕影神社・馬頭観音

詳しくは判りませんが、「蚕影神社」は、江戸時代に茨城県つくば市の蚕影神社から各地に分祀されたものらしいので、この神社もそうしたものの一つで養蚕が盛んであったこの地故のものでしょう。

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水天宮・道祖神

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ハープ橋とお地蔵様

北陸新幹線第2千曲川橋梁のことで、形が楽器のハープに似ていることから「ハープ橋」と呼ばれています。猛スピードで新幹線が通過していきます。

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新幹線記念碑

昭和57年、北陸新幹線のルート案が発表されて以来、下堀区民による反対運動の中で建設され、平成9年に開業しました。移転家屋100棟、墓地の移動など多くの犠牲を伴うも、バイパスや道路、コミュニティーセンター、公共下水、信濃国分寺駅の新設などの交換条件により協力、合意が得られたとされます。左手のケーブルは、千曲川橋梁のケーブルです。

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愛宕社

詳しいことは判りませんが、愛宕信仰は、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥したものです。火防の神様で、全国に900社あるといわれています。

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旧本陣柳沢家

かつて上田宿海野町にあった本陣と問屋を兼ねた柳沢家は、明治時代にこの地、下堀に移転しました。重厚な石垣や門がかつての本陣を彷彿します。
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髭題目碑

このあたりから「上堀」という地区に入ってきます。上堀は以前、もっと千曲川に近い集落でしたが、1742年(寛保2)の洪水被害が大きく川岸から離れた現在の場所に移りました。

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山辺糀店

1860年創業、当時の屋号は「堀糀屋」、創業以来伝統的な糀造り(糀蓋製麹法)、味噌造り(木桶による天然醸造)を継承しています。原料は地元産の米・大豆と天日塩、今も薪を使って米を蒸し、大豆を煮ているそうです。
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国分寺道標

左の写真のものが古くからのもので、信濃国分寺への道を示し西参道へ繋がっていました。ここから国分寺へ寄り道したいところですが、このまま上田を目指し、国分寺は明日に見学することとして、通過します。

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踏入村井戸

踏入村の生活用水や旅人の喉を潤した古井戸です。昔から7月に井戸替(掃除)を行い、8月には砂文字天之川伝統行事が行われています。平成7年、50年ぶりに行事が復活し、日本七夕行事百選に認定されました。井戸の深さは4.5mととても浅いです。現在はポンプにカバーが掛けられて、汲むことができません。
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道祖神

踏入村では、かつて街道の両側に土手が築かれ50本ほどの杉が120mにわたり並木となっていました。徐々に枯れ1812年(文化9)には10本ほどになり、上田藩では新しい苗木を植えて、保存に尽力したそうです。

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信州大学繊維学部

1910年(明治43)に上田蚕糸専門学校として、蚕糸に関する最初の高等教育機関、また長野県下初の官立学校として設立されました。養蚕が盛んなこの地方ならではの大学ですね。この広いキャンパス常田庄の政務を取り扱う政庁があった場所として推定されています。敷地からは弥生から古墳時代にかけての土器や住居跡が発掘されています。

常田

常田の名は古く、鎌倉時代のはじめ常田庄と呼ばれていました。常田は1583年(大正11)真田昌幸が上田城を築いた後、城下囲八邑(村)の一つとして重視し、科野大宮社近くに屋敷割をして作ったのが常田のはじめです。城が築かれ目る前の古くから鋳物師が住んでおり、その技術は優れ1797年(寛政9)香炉を朝廷に献上することを許され、幕末には上田藩の大砲を鋳造しました。

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科野大宮社

「延喜式」に記載はないようですが、それ以前の古社で国分寺との関係も考えられ、あるいは信濃国府の総社であったとも考えられています。拝殿裏には屋根が架けられた御神木の古株が保存されています。1692年(元禄5)神木が枯れ、藩主・仙石氏が屋根を掛けて保存するよう命じ、それ以来ずっと屋根が掛けられているそうです。「善光寺名所図会」(天保14)には、屋根のかけられた神木が描かれています。
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毘沙門堂・佐久間象山勉学の地

文政7年に龍洞院を辞した活文禅師は、岩門の大日堂に隠居し寺子屋を開きました。1829年(文政12)にこの毘沙門堂へ移り、寺子屋を続けここで生涯を閉じました。佐久間象山、赤松小三郎をはじめ、1000人余りに教え幕末から明治維新にかけてこの地方で活躍した人物が多いです。

上田宿へ入ってきました。上田宿内には城下町らしく、枡形がいくつもあります。科野大宮社の通りは「足軽町」と呼ばれていたこともあり、当時は下級武士や足軽が住んでいました。枡形のあたりには、番所もあったそうです。

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日輪寺

1545年(天文14)、真田家の先祖である海野小太郎幸義によって建立されました。真田家先祖の法名からの名前だとされます。観音堂裏の墓地には「洋舶彙事」の著者成沢寛経、写真家の成沢玲川のお墓があります。8月の初旬にはりんご祭りが行われています。りんごは古くから薬とされ、夏は胃腸を壊す人が多かったため、大いに賑わったとされます。

六文銭

上田の街中は六文銭だらけです。真田家の家紋が六文銭に改められたのは、幸隆が武田家に臣従したときからと言われています。それまでは滋野氏の家紋、月輪七九曜でした。六文銭は「六道銭」を表し、三途の川の渡し賃として棺に入れるもので、武士が戦いに挑んでは行きて帰れぬものという強い意志を表しているといいます。

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勢至堂

天明3年の浅間山大爆発で犠牲になった人々の霊を弔うために仁右衛門が建立しました。勢至菩薩は、智慧を開発する仏様だそうです。
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日輪寺天井絵

観音堂の天井絵が素敵です。色とりどりのお花の図柄が美しいですね。

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横町

城下町のうち、海野町が発展するのにつれて、旅籠屋や商家、職人などが増加し海野町から南に折れ、街道筋にできた横の町であるため、横町と呼びました。この町は北側に延びて鍛冶町に続いています。横町と鍛冶町は寺が多く、城下町防備のために並べたと言われます。

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開運出世稲荷神社

ビルの横にひっそりと佇むお稲荷さんです。いつ頃からあったのかわかりせんが、灯籠はかなり古そうで鉄柵で厳重に守られています。
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富士アイスの志゛まんやき

1個80円、一つ購入し食べ歩き。ただの大判焼きじゃない、などと思いましたが食べてみると大違い!皮はちょー薄く、あんこが満パンに詰まっていて、更にあんこはとろーっと。びっくりするほど美味しかったです。安くて美味しい!これが一番です!また食べたいですね。

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高市神社

恵比寿様・大黒様を祀っています。1583年、真田昌幸が上田城築城の折、城下町の元町として海野町を作り、商いの守護神として勧請しました。

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運の石

高市神社の御神体として海野の白鳥神社より丸々した石を授かりました。御神体に直接触ることはできませんので、真田昌幸、幸村のゆかりの地、高野山の九度山より縁のある神石を移し「運の石」として祀っています。

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上村旅館跡

明治の文豪、森鴎外は陸軍副医官であった20歳の頃、明治15年上田を初めて訪れ、ここ、上村半左衛門の旅館「上村館」に宿泊しました。鴎外は徴兵検査のための公用の旅でここへ2泊し、「北游日乗」を書きました。8年後、再び上田へ訪れ、上田駅前に開店した上村館支店に宿泊しています。この建物は大正4年に改築し、現在に至っています。

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本陣・問屋場跡

酒蔵や糀室をもつ造り酒屋であったため、広大な敷地であったとされます。上田宿は宿場の出入口だけでなく、横町と海野町、常田などの入口などにも木戸があり、往来が自由にできなかったようで、木戸を開放してほしいという訴えが何度も上田藩に出されています。

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明治天皇行在所跡

明治11年の明治天皇北陸東海御巡幸の折、行在所として滞在されたのを記念して建てられた石碑です。宿泊されたのは、当時洋風三階建の上田街学校(現清明小学校)でした。

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大手門跡・上田街学校跡

1878年(明治11)ここに町民の学校として、上田の明治文化を象徴する洋風建築3階建ての上田街学校が建設され、天皇の宿泊先としても利用されました。その後、上田尋常小学校文教所となり、1898年(明治31)焼失。校長、久米由太郎はその責を負って自殺し、1915年(大正4)その子、久米正雄はこの事件を小説「父の死」として発表しました。

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日本人久米先生の碑

明治時代、上田街学校の校長だった久米由太郎を称える碑。1898年(明治31)久米由太郎は、校長をしている上田街学校(上田尋常小学校文教所)が火災で焼失させた自責の念より自殺してしまいました。題額は上田市長、浅井敬吾の筆によります。
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真田十勇士

真田十勇士は、明治末の立川文庫が創作した、真田幸村とともに活躍したヒーロー達です。上田の町に可愛いキャラクターが点在しています。

海野六郎

滋野一族のうちの海野氏一門の出です。比較的目立ちませんが、十勇士のまとめ役で知略をもって徳川を悩ましました。

由利鎌之助

鎖鎌の名手、穴山小助との一騎打ちで生け捕りにされ、以来、幸村の家来となり、大阪の陣では勇猛果敢に戦いました。

三好清海入道

真田昌幸と縁戚、身の丈六尺(約180cm)、大男で怪力の持ち主です。筋金を打った太い樫の棒を振り回し戦いました。

根津甚八

滋野氏一族、幸村の影武者の一人となって、大阪夏の陣で討ち死にします。

望月六郎

滋野三家の流れをくむ人物です。火術が得意で早くから昌幸親子に従い、幸村の側近として智謀をふるい影武者にもなり、大阪冬の陣の「真田丸」でも活躍しました。

猿飛佐助

甲賀流忍術の名人。山中で猿と遊んでいるところを戸沢白雲斎に見つかり、忍者となります。真田の角間渓谷の絶壁で修行し、鳥居峠で幸村と出会い家来となります。家康の身辺を探ったり、青海入道と諸国漫遊もしました。

霧隠才蔵

伊賀流忍術の名人。佐助と山中で出会い、忍術比べをきっかけに幸村に仕えることになります。大阪夏の陣では家康の本陣に飛び込み、首を取ろうとしますが失敗してしまいます。

十勇士のうち7人まで出会うことができました。次回の北国街道歩き旅の時に、上田駅方面の十勇士を訪ねたいと思います。

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電信小路

この小路は1878年(明治11)、電報を取り扱う電信分局が置かれたことから「電信小路」と呼ばれるようになりました。作家新田潤は、1904年(明治37)、この地に生まれ、「煙管(きせる)」、「片意地な町」、「崖」、「映画館のある町」などの小説で上田の町を舞台に庶民の生活を生き生きと描き、「小説は裏町育ちである」という言葉を残しています。

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原町市神社

真田昌幸が上田城を築き、城下町造りをするにあたり、市の守護神である高市事代主命を勧請して祀ったと伝えられています。御神体は円形の自然石です。5と10の付く日に市が開かれました。(後に8と10の付く日)天保年間に諏訪の名工立川和四郎により改築された社殿は明治2年の「チャラ金騒動」で焼失し、明治12年に再建されたものです。

チャラ金騒動(上田騒動)

明治2年8月に起こった百姓一揆。青木村より蜂起し、城下町へ乱入、米屋・酒屋・菓子屋などの商店を打ち壊し、焼き討ちしました。海野町155軒全焼、横町23軒、原町32軒が焼けてしまいました。柳町、木町、紺屋町などにも家財を流されたり、お金が取られたり、打ちこわしなど多くの被害がでました。ニセ金が出現し、「チャラ金」と呼ばれた「新二分金」が通用しなくなったこと、物価高騰、五万両の調達金割当に対する反発などが引き金となったとされます。

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原町問屋跡

荷物の継送りをする問屋がありました。原町の問屋は滝沢家が務め、柳町・田町の世話役も兼ね、年寄役数人を補佐に町政にも携わっていました。問屋では、大名の通行の際は川西や塩田方面のたくさんの人馬が集まり、佐渡の金を江戸へ送るときには厳しい警戒が敷かれました。

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池波正太郎真田太平記館

直木賞作家、池波正太郎氏が著した「真田太平記」の取材ノートや池波氏の遺愛品などを展示しています。最近、NHKで雲霧仁左衛門を見ていたので池波先生には興味津々。蔵で行われている映像が全て見たかったのですが・・1本20分で5本くらいあったでしょうか・・時間がなくて断念しました。

入場時、「上田六文銭手形」を購入しました。800円で上田の色々な資料館や博物館に入場できます。お得な上に6つのスタンプを集めると記念品がもらえます。

池波正太郎と真田太平記

池波正太郎「真田太平記」は、戦国時代から江戸時代にかけて上田の地を治めていた真田氏を描いた歴史長編小説です。池波氏はこの取材のため度々上田を訪れ、真田氏ゆかりの地を丹念に歩かれています。それ以前にも信州をこよなく愛し、よく信州旅行をされているそうです。劇作の師である長谷川伸氏の書庫で「松代町史」の中に登場する真田信之に興味を持ち、それから真田氏にかかわる物語を数多く書きました。「真田太平記」は週刊朝日の昭和49年1月から昭和57年12月まで実に449回が掲載されました。

木町(きまち)

1622年(元和8)上田城主が仙石氏に変わった頃、木町橋の東側を木町、西側を東鎌原町と呼んでいました。時代が下ると橋の西側も木町と呼ぶようになります。町名は木材が積まれていた事によります。江戸時代を通じて橋の西側は武家屋敷でした。
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柳町

往時の面影を色濃く残す街です。格子造りや蔵造りの家々が軒を連ね、造り酒屋や蕎麦屋などの飲食店が並んでいます。卯建が上がり、鶴や亀がついていたり、文字が描かれている卯建もあるそうです。映画「青い山脈」や「犬神家の一族」などたくさんの映画のロケ地でもあります。

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親付き切子格子

写真右の二階に付けられている格子は「親付き切子格子」と呼ばれます。長いものが「親」、短いものが「子」で、色々なパターンがあります。海野では「海野格子」と呼ばれていました。

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保命水

1881年(明治14)新田の海禅寺に湧き出る清水を木管で引き、その後町の北と南に石の井を造り、中間2箇所に蛇口をたて、人々の生活用水としました。1922年(大正12)上田市に上水道が開設されるまで利用されていましたが、現在はこの場所しか残っていません。1949年(昭和24)上田市に水道事故があり、全市が断水した時には水源として貢献しました。

保命水を左に曲がると「紺屋町」です。紺屋町は染物を生業とする人々を海野郷から移した町で、街道北の矢出沢川に染めた反物をさらしていました。

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新宮橋と蛭沢川・みはし

土蔵が並び、表とは異なった趣があります。

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菱屋

昭和5年武田兵助商店の味噌醤油醸造部門として発足した武田味噌醸造です。味噌が作られているのは矢出沢川を渡ったところにあり、北国街道沿いのこのショップは、平成18年に開業しました。

北国街道歩きはここまでとして、南下して上田城へ向かいます。

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赤松小三郎案内板

1831年(天保2)上田藩士芦田勘兵衛の次男として木町に生まれ、後に藩士赤松弘の養子となります。江戸へ出て、勝海舟に師事し共に長崎でオランダ人より蘭学・航海術、横浜のイギリス人より英国式兵学などを学び、1866年(慶応2)京都に英国式兵学塾を開き、薩摩藩を始めとする多くの藩士に兵学を教えます。民主的な政治、西洋的な思想を描きますが、1867年(慶応3)兵学塾の門下生であった中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されてしまいます。36歳の若さでした。生家跡は、ここより100mほど北西に石碑があります。

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二の丸北虎口

二の丸にあった3箇所の虎口のうち、東・北虎口のみ石垣が残っています。平成3年に実施した発掘調査では櫓門の礎石が確認されました。仙石忠政は二の丸北虎口にも櫓門を建造する計画だったようですが、病死により実現しませんでした。

上田城

1583年(天正11)真田昌幸が築城した平城で、徳川の大軍を2度に渡り退けた名城とされます。2度もの実戦の歴史を持つ近世城郭は全国的にも例がないといわれます。

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百間堀の樋

現在の陸上競技場が「百間堀」でした。二の丸北虎口の土橋には東側から西側の堀へ水を通すために木で作った樋を埋めてありましたが、地中に埋めた木製の樋は腐りやすく、度々改修が必要だったようです。1702年(元禄15)幕府に提出した修復願には「木樋が腐って壊れてしまったので、石の樋に変えたい」と書かれているそうです。

VR上田城

スマホ用のアプリです。あちこちの案内板にQRコードが貼ってありますので、とりあえず入れてみました。上田城の「VR」の印がついている場所ではバーチャルで往時の上田城が見られるようになっていました。この「百間堀」も利用可能エリアで、当時の様子がよくわかります。なかなか楽しいアプリでした。

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赤松小三郎記念碑

先程、生家近くの案内板にあった「赤松小三郎」の記念碑です。民主的な政治、西洋的な思想を唱えていたため、1867年(慶応3)「人斬り半次郎」に暗殺されてしまいます。

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小河滋次郎頌徳碑

「弱き者の友たれ」を理念とする人で、現在の民生委員制度の生みの親です。文久3年上田藩医、金子宗元の次男として生まれ、世界初の人工癌を作った山極勝三郎と共に学びました。東京専門学校(元早稲田大学)の第一期生として卒業、その後東大で学び内務省へ入省、国内法の改訂、整備を次々と行い、また少年犯の保護・教育のため感化院の設立に力を入れますが、役所の方針と考えが合わずに退職します。当時、全国的に物価上昇、米騒動などが勃発し荒れていました。 特に大阪が酷く、大阪府知事の要請により大阪府民の窮状を改善することに力を注ぎ、「方面委員制度」をつくり、これが現在の民生委員制度となります。

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山極先生の碑

山極勝五郎は、1915年(大正4)世界で初めて人工癌を発生させることに成功し、癌研究に大きく貢献しました。昭和4年、ドイツより癌研究の最高賞「ノルドホフ・ユング賞」を贈られています。石碑は昭和15年建立。胸像は昭和43年に作られ、台座には博士の句『癌できつ 意気昂然と 二歩三歩』と刻まれています。曲川は、博士の俳号です。

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上田市立博物館

現在の博物館周辺は、廃城前には6棟の土蔵が並んでいました。1788年(天明8)に築造、1843年(天保14)には新たに2棟増築したいと幕府に願い出ています。籾蔵(もみぐら)として使われていました。

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三吉米熊胸像

1860年(万延元)長門国長府藩士、三吉慎蔵の長男として山口県下関市に生まれました。父の慎蔵は坂本龍馬の盟友「槍の慎蔵」として知られます。成人し上京後、駒場農学校(現東大農学部)を卒業し、長野県の職員となり、渡欧して2年間養蚕技術を習得し帰国します。明治25年初の養蚕教育の学校「小県蚕業学校」の初代校長に就任します。また、明治43年開校の上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)の創立委員と教授を兼ね、日本の養蚕業に多大な貢献をした人物です。
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真田石

真田信之が松代へ移封を命じられた際に父の形見として持っていこうとしましたが、微動だにしなかったという伝承が残ります。現在ある石垣は仙石忠政が作ったものですので、全くの伝承ですが上田の人々がいかに真田氏を慕っていたか伺われるエピソードです。

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上田城東櫓

本丸には7棟の櫓がありました。いずれも1622年(元和8)真田信之の松代転出後に上田城主となった仙石忠政が行った1626年(寛永3)からの上田城復興工事の際に建てられました。現在、隅櫓は3棟ありますが、2棟は明治維新後、他所へ移築されていたものを現在地へ再移築したものですが、西櫓のみが寛永期の建築当初の部材を残し、外観も当時の姿をとどめています。

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真田神社と真田井戸

この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦に通じていたとされます。敵に城が包囲されても抜け穴より兵糧を運び入れるにも兵の出入りにも不自由しなかったといいます。

15:00 上田駅へ戻り、駅前駐車場においてある車をピックアップ。駐車料金はちょうど1000円でした。本日も「道の駅みまき」へ車中泊します。