2021年5月1日

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7:30 宿泊した『ドーミーイン松本』を出発します。空はどんよりしており、午後から雨の予報です。急いで回らなければ!

まずは北国西街道(現在の本町通り)へでて、北へ向かいます。

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本町

松本城下の中心地として本陣のほか問屋、御使者宿も置かれていました。松本城下には旧町名の石碑があちこちに建てられています。「御使者宿」とは城下町特有の制度で、他藩からの使者を宿泊させた施設です。城内に泊めると城の内部の秘密が漏れるため城外に泊めるようにしていました。

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牛つなぎ石

1568年(文禄11)越後の上杉謙信が武田信玄に送った塩を積んだ牛車が塩の道をたどり、この場所へたどり着いたと伝わります。「敵に塩を送る」の語源となった逸話です。

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同心小路

元禄時代(1690年頃)、見回りなどの警備に就いた同心が10人ほど住んでいたと伝えられる小路です。
北国西街道(善光寺道)は千歳橋の手前で右に曲がりますが、このまま直進し「四柱神社」へ寄り道します。

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松本市道路元標

この広場は元々松本城の外濠でした。この先が松本城南大手門となりますが、大手門は1871年(明治4)の廃藩置県後に取り壊されました。

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女鳥羽川と千歳橋(せんさいばし)

千歳橋は松本城時代、大手門へつながる「大手橋」が架かっていました。木製の大手橋は、1876年(明治9)に取り壊され、大手門門台の石を利用して石橋に替えられ、千年使用できるようにと「千歳橋」と改称されました。昭和39年には現在の近代的な橋となったそうです。

「女鳥羽川」の由来

1669年(寛文9)松本城主水野忠直は妙義山山麓(松本市大村)に父忠職(ただもと)の廟所を造りました。忠直はそこから流れる小さな滝に京都清水寺の「音羽の滝」にちなみ、「女鳥羽の滝」と名付け、下流の川を女鳥羽川と呼びました。滝は現在も玄向寺内に残っています。

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四柱神社・御幸橋

四柱神社(よはしらじんじゃ)は1872年(明治5)松本に神道中教院として開設、松本城惣堀が1878年(明治11)に埋め立てられ、この埋め立てた場所に1879年(明治12)社殿が造営されました。 明治13年、明治天皇の信濃地方巡幸の際、竣工したばかりの橋を通って行在所に入られたということで「御幸橋」と命名されたそうです。

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明治天皇駐輦碑

明治13年、信濃地方巡幸の際、松本での行在所は四柱神社併設の神道事務局となりました。

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芭蕉句碑

『何の木の花とはしらず匂ひかな』

1688年(貞享5)伊勢神宮に参拝した時の歌です。

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縄手

松本城の堀と女鳥羽川に挟まれた細長い土手でした。埋め立てが行われ、明治12年に四柱神社が建立された後は四柱神社の参道として発展してきました。
幸橋を渡り、再び北国西街道へ戻ります。

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松本商工会議所発祥の地碑

明治13年に設立した松本商工会議所の発祥記念碑で、創立100周年となる平成20年に建立されました。

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中町

北国西街道(善光寺道)沿いの町として呉服問屋などが集まり繁盛していました。火災から守るためになまこ壁の土蔵造りの建物が並び、現在も「蔵の街」となっています。

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源智の井戸

城下町が形成される以前から飲用水として使用されていたといいます。往時、小笠原氏の家臣、河辺与三左衛門源智が所有しており、そこから「源智の井戸」と呼ばれるようになったと伝わります。松本の酒造業者はこの水を使って酒を作り、歴代城主は不浄を禁止する制札を出し清水を保護したそうです。
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善光寺名所図会に描かれた源智の井戸

天保14年に書かれた「善光寺名所図会」には、「当国一の名水」と右側のページに書かれています。(掲載は左ページ) 明治13年の明治天皇巡幸の際には、こちらの井戸が御膳水となり、明治天皇御前水の碑も建てられています。

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鈴木伊織の墓所・伊織霊水

鈴木伊織は、松本藩士で貞享騒動の際には農民に深く同情し、入獄中の農民の助命を図り、救済に奔走したとされる人物です。

貞享騒動(加助騒動)

1686年(貞享3)、松本藩主、水野忠直は農民に無理な増税を強要、当時の周辺地域の1.5倍ほどの税としました。困窮した農民たちは多田加助をリーダーとし、松本城に詰めかけ、農民は1万人にも膨れ上がったともいわれます。当時、藩主水野忠直は参勤交代で不在であり、困った城代家老達は農民の要求を受け入れると約束し、その場を納めました。しかし、後日手のひら返して約束を反故にし、藩主の許可を得て多田加助ら8人を磔、家族ら30名を獄門の極刑に処しました。他の一揆に比較してとんでもなく重い刑となります。農民の救済に奔走したのが、鈴木伊織です。一説には伊織が処刑中止の許しを得て、馬で松本まで戻りましたが、あとわずかというところで馬は倒れ、伊織も気を失い、処刑に間に合わなかったとも言われます。

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旧念来寺鐘楼

鐘楼は1705年(宝永2)に建立されたものです。念来寺は1619年(元和5)に開山されましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり伽藍は破却されましたが、鐘楼は時の鐘としての役割を果たすため、難を逃れました。
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槻井泉神社

881年(元慶5)に従五位下を授かった延喜式外の槻井泉神社との伝承がありますが、定かではありません。昔は式外神社として立派なお宮で湧水の傍らに巨木があり、大きな森を形成していたといいますが、現在は小さな社で、森もありません。

塩尻にも「槻井泉神社」があります。(長野市にもありますが・・・)塩尻の「槻井泉神社」も『元慶5に従五位下を授かった』神社として紹介されています・・・ですが、こちらも元々は「八幡宮」と呼ばれていて、推定された後に神社名を変えているので、どちらとも言えないですね。。。どちらかというと・・塩尻の槻井泉神社が本家に近いかな〜と思います。現在も深い森林に覆われていますし、敷地は広く大きな神社です。

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餌差町十王堂の石仏群

松本城主、石川氏が築城にあたり東西南北に鎮護と里程の基準とするために十王堂を設置しました。創建当時はもう少し西にあったとされます。

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餌差町十王堂

明治4年の廃仏毀釈により破壊されていましたが、昭和11年に現在地へ再建、現存する唯一の十王堂です。

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女鳥羽の泉

江戸時代末期創業の造酒屋「善哉酒造」の前にある清水です。当初は槻井泉神社の水を引いて仕込み水としていましたが、水量に不安があったことから昭和62年に敷地内地下30mから名水を掘り出しました。

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寺子屋龍章堂跡

浅香家屋敷の敷地内に下横田町寺子屋龍章堂がありました。教室は50畳、寺子は70人にもおよんだといいます。1847年(弘化4) 浅香永隆が開き、1872年(明治5)学制発布により廃業。師匠は浅香永隆、左京、左仲らがあたりました。建物は1886年(明治19)2月の「山辺小路の大火」で焼失しました。

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正一位稲荷大明神

「寺子屋龍章堂跡」のさらに奥にある稲荷神社で、浅香家の屋敷神だったようです。
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正行寺

松本城主、石川氏が国替えにより松本へやってきた際、菩提寺であった島立の栗林にあった正行寺を松本城大手門西脇へ移転させ、子の康長が現在地へ移転させました。開基は宇治川の戦いで知られる佐々木高綱(了智)とされます。

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正行寺(善光寺道名所図会)

善光寺道名所図会にも描かれる大きなお寺でしたが、1803年(享和3)餌差町から出火した「飴屋火事」により本堂などを焼失、1842年(天保13)頃より復興が始まり、完成は1858年(安政5)。現在の本堂は昭和46年の再建です。

1759年(宝暦9)、1776年(安永5)、1825年(文政8)に遊行上人が松本へ廻国され、いずれも正行寺へ滞在しました。

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乃木希典石像

明治の陸軍大将、乃木希典(まれすけ)は、祖先が佐々木高綱とされることから、正行寺を訪れたということで、石像が建てられているようです。

松本の廃仏毀釈

発端は、新政権が出した太政官布告「神仏分離令」と1870年(明治3)に出された「大教宣布」にありますが、あくまでも神道と仏教の分離が目的であり、寺を打ち壊す目的ではなかったとされますが、これが拡大解釈され寺院を破壊する者が現れました。廃仏毀釈の強弱は地域差が大きいとされますが、特に水戸・松本・富山・岐阜苗木・伊勢・津和野・高知・宮崎・鹿児島においては激しい廃仏毀釈運動が起こったといいます。

松本藩では、最後の松本藩主戸田光則の新政府に対する「忖度」が背景になって、激烈な廃仏毀釈が吹き荒れました。1870年(明治3)の1年間で、164カ寺のうち124カ寺が廃寺になっているといいます。戸田光則は、幕末、新政府につくか幕府につくか大いに迷ったとされ、最終的には新政府に付きますが、これ以降急速に新政府に対して忠誠心を持ち、新政府へのアピールとして廃仏毀釈を激化させたとされます。

正行寺の佐々木了綱は新政府の情報を事前につかみ、廃仏毀釈は全国的に同規模で行われているものではないと知っており、最後まで抵抗したため、正行寺は廃寺を免れました。

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上松線乗合自動車発祥の地碑

1921年(大正10)年、上田〜青木間の鉄道(青木線)が開通し、この鉄道を松本まで延伸しようと計画が立てられましたが、実現に至りませんでした。1928年(昭和3)、この場所に上松自動車を設立し、これによって松本と上田を直接結ぶバス路線が開通しました。

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松本医学専門学校の碑

昭和19年に官立医学専門学校が設立されますが、校舎と寄宿舎の確保が条件となっており、寺院が校舎を、多くの民家が臨時宿舎として提供されたため、松本医学専門学校が誕生し、後の信州大学医学部創設に貢献しました。
北国西街道(善光寺道)を突き抜け、進路を西にとり松本城へ向かいます。

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松本城

戦国時代初め、守護大名小笠原氏の支城として深志城が築かれますが、1550年に甲斐の武田氏に追放され武田氏は信濃支配の拠点としました。武田氏滅亡後、小笠原氏は再び深志城を取り戻し、名を「松本城」と改め、城下の整備を始めました。

小笠原氏が関東へ移ると石川数正、康長父子により天守の建築(1593〜1594)が行われ、近世松本城の姿が整えられました。江戸時代以前から天守が残る「現存天守12城」の一つです。

天守へ登りたいところですが、以前にも登りましたし、本日はスルーしますが、『現存天守』ですので、一度は入ってじっくり見学したほうがいいですね。

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松本城太鼓門

北側に太鼓楼があったため、「太鼓門」と言われます。太鼓楼には鐘と太鼓があり、城内に時や情報を知らせていました。明治初年に破却、後に復元されたものです。

写真は二の丸側から撮っていますが、玄蕃石(げんばいし)は門の外側、外堀側にあります。大きな石で、この石は伊深(岡田)から運ばれてきたとされます。
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二の丸跡と明治天皇駐蹕碑

二の丸御殿は初め、藩の副政庁として造営されましたが、1727年(享保2)本丸御殿焼失後は正政庁となりました。廃藩後、一時筑摩県庁舎として用いられましたが、1876年(明治9)に焼失しました。

1880年(明治13)松本地方巡幸時、二の丸御殿跡地に新築された松本区裁判所に立ち寄られました。裁判所は1978年(昭和53)に移転しましたが、石碑はこの地に残されています。

二の丸を通り、御門橋で堀を渡り松本城を後にします。大通りへ出ると左へ曲がり、「松本神社」へ向かいます。

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松本神社

1636年(寛永13)丹波守光重が播磨国明石在城の時、叔父である松平孫六郎の御霊を城内に祀り、暘谷(ようこく)神社と称しました。1726年(享保11) 丹波守光慈が松本へ移封された際に現在地へ移しました。その後、今宮八幡宮、片宮八幡宮、共武大神社、淑慎大神社との合祀の際に、「松本神社」と改めました。

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堀内桂次郎先生碑

明治29年大柳町の自宅に郁文学舎を始め、地方青年のための英語・ 数学・漢文を教授しました。後に、私立郁文学校となりました。

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浅井烈邸跡

教育者であり、長野県歌「信濃の国」の作者として知られる浅井烈は、1849年(嘉永2)松本鷹匠町(現松本神社西側)、大岩昌言(マサノリ)の三男として生まれ、後に堂町(現北深志2丁目)の浅井家の養子となっています。
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旧開智学校

「祟教館」から続く松本藩校を受け継いで、明治6年に開校され、明治9年に洋風校舎が建築されました。巨額の工事費はその7割が松本町全住民の寄付によって賄われました。しかしその材料は藩主戸田光則が戸田家菩提寺全久院を廃仏毀釈の対象として打ち壊し、このバラされた建材や松本市内の他2つの廃寺とされた建材が使用されたといいます。廃物希釈がこんなところにも影響しているとは驚きでした。

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旧開智学校の教室

懐かしい教室が再現され、各教室には明治時代の教科書などが展示されてました。明治時代から昭和初期の教科書はなかなか面白いです。

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明治天皇巡幸碑

1880年(明治13)に明治天皇は松本へ巡幸され開智学校も見学されました。

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明治天皇巡幸時の絵図

千歳橋左奥に開智学校、千歳橋を松本城に向かって渡ると左手角に電信局、右手に御幸橋、奥に四柱神社などが描かれ、四柱神社に「行在所」と書かれています。

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旧司祭館

1889年(明治22)松本カトリック教会により旧藩政時代の武家屋敷跡に建築された西洋館でした。取り壊し予定でしたが、松本市へ寄贈され現在地へ移設されました。

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中島先生頌徳碑

開智学校裏の広場に頌徳碑がありました。碑は1908年(明治41)、門人によって建立されました。

中島這棄(これすて)

松本藩士であった祖父中島這如の代から藩の算学師範を務め、父の中島這季は江戸の長谷川寛の門人となり、『算学教導百首』『算法百首の歌』『一瓢百題』『掌中匂股規矩要録』など多くの和算書を著しました。這棄も家学を継ぎ、藩士に数理や経学(儒教)を教授します。38歳で失明しますが、門弟の教育は継続しました。明治維新の際は藩政改革に参画し、のちに松本藩学、筑摩県学、開智学校の教授を歴任しました。

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賢忠寺跡

1642年(寛永19)三河国吉田城主であった水野忠清が将軍家光により松本城主を命じられた際、三河国長源寺住職を伴い、1644年(正保元)澤村に長源寺を建立し父、水野忠重の霊牌を安置しました。後に賢忠寺と改称しました。1800年(寛政12)に建て替えられましたが、明治の廃仏毀釈により取り壊されました。

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首かせ地蔵尊

水野氏が三河より運んできた古いものです。この地蔵は子供の身代わりとなって首を切り落とされたといいます。この首を借りて祈願すると子供の病が治るというので、首は方々に借りられていったといいます。首を返さない人がいて、長く「首なし」でいましたが、近くの石工が新しい首を造ってくれたといいます。
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澤村墓地

このあたり一帯は賢忠寺の墓地でした。往時の絵図や絵額が残され、寛政12年に建て替えた時の図面も残っています。墓地内には歴代住職の墓も残されています。

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高橋家住宅

1726年(享保11)に高橋家が戸田氏に従い、鳥羽から松本へ移住してきたときに松本藩が用意した社宅のようなものです。石置屋根が復元されています。

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福島安正大将の生家跡

1853年(嘉永6)松本藩士、福島安広の長子として生まれ江戸へ出て軍事学を学び軍人となります。ドイツ公使館付きとなり、任期満了後帰国前に単騎シベリア横断を決行した人物です。

彼がシベリアを横断したのは明治25年、シベリア鉄道が完成したのが明治35年、氷点下50度にもなる冬のシベリア横断は世界でも初めてのことで、当時世界を驚かせました。表向きは個人的な冒険でしたが、真の狙いはロシアの東洋進出の実態を探るための情報活動でした。1892年(明治25)ベルリンを出発、ウラル山脈を越えて外蒙古へ入り、アルタイ山脈の北へ沿ってイルクーツク、バイカル湖の南岸からチタ、チチハルを経て明治26年にウラジオストク到着。実に3500里(13,744km)、488日に渡ります。

かなりの偉業だと思いますが、全然知りませんでした。ほとんど誰も知らないのでは・・・?
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近藤次繁生誕地

1865年(慶応元)松本藩士鶴見次喬の二男としてこの地に生まれました。1897年(明治30)日本初の胃切除術が東京大学の近藤次繁によって行われ、東大退官後は駿河台病院を設立し、晩年は日本外科学会、日本臨床外科学会、日本医科器械学会の創立に尽くしました。

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福徳稲荷

ここは元は上村氏の屋敷でしたが、その後は鶴見氏により春夏の祭りが執り行われてきたとあります。明治45年に北深志の大半を焼き尽くす大火がありましたが、稲荷は難を逃れました。

11:40 寄り道はここまでです。ここでようやく北国西街道(善光寺道)へ合流し、岡田宿へ向かって進んでいきます。