2019年8月10日

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7:30 車は昨日と同じく小諸駅前駐車場(500円/24H)に駐車し、昨日終了した本町の交差点へ向かいスタートします。

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養蓮寺

1493年(明応2)越前国足羽郡荒井城主井上筑前守信丸九代の孫、井上治部之助開祖とします。蓮如法主の信濃巡回に随行し、小諸城主の懇請により小室の郷「梅の木」に一宇を創立開基し、蓮如法主より寺号を「養蓮」と賜りました。1596年(慶長元)、5世・井上空念代により現在の墓地の場所に堂を建てますが、1650年(慶安3)の洪水で堂が流出し、1708年(宝永5)現在地に堂を再建し、現在に至っています。

雷電為右衛門の袂鐘

1814年(弘化11)、力士雷電が江戸より袂に入れて帰郷の折、菩提寺の養蓮寺に立ち寄り大関昇進と菩提を弔うために寄進した鐘が養蓮寺に残されています。鐘は四本柱と土俵で飾られ、「南無阿弥陀仏」と「華鯨大吼響如雷電雲霧所披音天一見」(蜀山人)が刻まれています。

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鍋蓋城跡、小諸藩城代家老屋敷跡

1487年大井伊賀野守光忠により、小諸にはじめて作られた鍋蓋城跡です。その後小諸が武田氏の支配下になった際に鍋蓋城を取り囲む形で街道が作られました。江戸時代には小諸藩城代家老(最上位の家臣)の屋敷として使われ、石垣は城壁の一部となっていました。

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脇本陣くめや

脇本陣は、石塚家が問屋も兼務し代々務めました。時々庄屋を兼務し古くから御用達も務めました。明治維新時に当主であった重平は、明治10年県下初の政治結社「盤鴻社」を作り、自由民権思想を訴えます。1885年(明治18)朝鮮事件において国事犯として罰せられますが、出所後は明治29年、35年と衆議院議員となり、大蔵省官房長にまでなりました。養蓮寺境内に顕彰碑があります。顕彰碑の碑文は臼田亜浪のものです。

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山謙酒造

江戸時代末期、問屋場として建てられたと伝えられています。小山家が明治19年ころに買取り、明治43年より造り酒屋を始めました。裏手には通りを隔てて酒蔵が並んでいます。

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那須野整骨院

明治中期には繭問屋として使われ、その後田村源一郎がここで医院を開業しました。田村氏は島崎藤村の随筆「千曲川のスケッチ、十三日の祇園」の項に、「懇意な医師T君」として紹介されています。
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小諸宿本陣

代々、上田家が務め問屋場を兼ねていました。主屋部分は1878年(明治11)佐久市鳴瀬の桃源院に移設されましたが、1995年(平成7)小諸市に寄付され、「せせらぎの丘」に再移築され、現在もギャラリーとして利用されています。

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本陣改修

現在、応急補修工事中です。かなり傷んでいるようですが、なんとか残して欲しいものです。

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天王社・十王堂と道祖神

右手の赤い堂が「十王堂」だと思われますが、十王堂は武州川越より欣求(ごんぐ)という道心(仏道に入り、悟りを求める者)がこの地へ来て建立したとされます。宝永年間(1704〜1710)の頃、十王13体を立て焔魔堂としました。以前は裏町西へあったそうですが、1707年(宝永4)現在地へ移転されたといいます。

天王社は、慶長年間(1596〜1614)、小諸城主仙石秀久の意向で東山道、清水駅付近に散在していた民家を街道筋へ村寄せし、同時に守護神であった天王社も市町問屋場西に移されてきましたが、現在は十王堂の横にあります。江戸時代には山車が囃子に合わせて城中を練り歩き賑やかだったようです。

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緩和井

大正ロマン風デザインの小さな丸い建物は、上水道の圧力を調整する施設だそうです。
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萬人講百番供養塔・馬頭観音

萬人講百番供養塔は、寛政12年(?)、建立馬頭観音は寛政2年建立

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中沢川

1742年(寛保2)8月の戌の満水では、千曲川水系の多くの川が氾濫しましたが、この中沢川に最大の被害が生じました。上流で土石流が発生し、500名余りが犠牲となりました。現在も深い谷となっていますが、大規模な治水工事がなされています。

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清水町の祠

明治時代以前は、この辺りは名高い清水が湧き出していたことから「清水町」といわれていました。祠の由来は不明ですが、毎年氏子総代や祭事係が中連飾りを行い、ご近所で管理されています。手前に井戸があります。ご近所の皆さんで利用されていた井戸でしょう。

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臼田亜浪生誕の地

1879年(明治12)、小諸のこの地に生まれた臼田亜浪は、小諸義塾で学び、和仏法律学校(現法政大学)在学中に短歌を与謝野鉄幹、俳句を高浜虚子に学び、記者となりますが、1915年(大正4)俳誌「石楠」を創刊し俳人としてデビューします。1945年(昭和20)東京大空襲により被災し「石楠」を休刊しますが、翌年、長野市に移り、「石楠」を復刊します。1951年(昭和26)脳溢血で亡くなりました。
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諏訪神社(青木神社)

市町・柳町・新町の総鎮守です。創建年代は定かではありませんが、1741年(寛保元)青木の地より遷宮されました。現在の拝殿と本殿は1847年(弘化4)に建てられたものとされます。拝殿前向拝上の彫刻は、上田市常田の竹内八十吉作と記されています。旧地の青木には、樫の大木が3本ありましたが、ある時暴風雨のため倒れ、大木は小諸城の大手門になったとされます。

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小諸石楠句碑

『浅間ゆ 富士へ春暁の 流れ雲 亜浪』

『千曲野や かへりみすれば 遠閑古 好子』

『夢深き 花を鎮めて お城の燈 平城』

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布引観音道標

大きな道標の右横にも小さな道標があります。直進は北国街道、左へ進むと大久保村を経て「布引釈尊寺」へ至ります。

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手城塚城跡

築城年代は定かではありませんが、戦国時代の大井氏が宇当坂の館によって村上氏と対峙したところ、小諸の要衝を守る郭の一つとして築城したものと考えられています。後の『小諸砂石鈔』によれば、長尾安芸守祐景が居住したとあり、長尾氏は大井氏の一族のようです。手代塚城、手白塚城とも書くようです。

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小林勝五郎寿碑

謡曲の師として、弟子が300名余りいたそうです。1892年(明治25)に門生が寿碑を建立しました。
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道祖神と髭題目塔

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花川親水公園の道祖神

花川の名は「名大が桜」という小諸の民話の中に朝日がさせばその影は善光寺まで、夕日がさせば碓氷峠までとどき、その花びらが田んぼに溜まって苗代の用意ができないほどの桜の大木が花川の近くにあったという言い伝えから名付けられたと言われています。

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東山道清水駅跡・星見の井戸跡

東山道は古代の官道の一つで、律令制度が整備された7世紀以降に成立されたとされます。官道には30里(約16km)ごとに駅(うまや)がおかれ、全長は270m、清水駅は信濃にある15の駅の一つです。駅には駅長が置かれ、10疋の馬を常備していました。現在の石碑が置かれている場所は西木戸あたりだったようです。石碑のすぐ下には星見の井戸と呼ばれた井戸跡があります。

星見の井戸

鳴海の天神七不思議の一つに数えられています。この中では昼でも星が見えると伝えられていた井戸です。現在は土砂で埋まってしまっていますが、深さは1m程度だったとされ、中からは熙寧元宝(1068〜1077年)の宋銭が見つかっています。

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青木一里塚

少し崩れてきていますが、南塚のみ残っています。

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『菱野荒佛元』と彫られているように見えましたが、どういう意味か、ちんぷん。菱野はここから北へ3kmほどの浅間山山麓なのですが・・・
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西光寺

828年(天長5)の開山とされています。現在の場所には小諸城(鍋蓋城)の鬼門除けの寺として建立され、「大供」地名ゆかりのお寺だといいます。戦時中には小林亜星さんら杉並区の大宮小学校50数名の疎開先でした。

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白鳥秋声歌謡碑

この歌謡碑のいわれは全くわからないのですが、この西原の碑の近くに『芸於游』と彫られた自然石があるそうなのですが・・・そちらは見つかりませんでした。伊藤深水が戦時中に2年半、この西原に疎開しており、その記念碑らしいのですが・・伊藤深水は大正から昭和にかけての浮世絵師であり、歌川派浮世絵の正統を継いでいます。美人画が得意で、大変人気のあった絵師でした。朝丘雪路の父でもあります。

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深沢川・深沢観音跡

戌の満水で深い沢ができ、街道は上流に迂回しまし、深沢観音は滋野の東漸寺へ移りました。跡地は廃道となっています。
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たかこの布あそび

「藍染・ちりめん・紬類・着物のリフォーム」のお店のようですが、芸術的な屋根が目を引きます。

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十王堂

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筆塚

碑文によると、信濃国小縣郡滋野村の吉田口氏の筆塚のようで、彼は書道を教えていたようなことが彫られています。嘉永5年に病没され、筆塚は明治27年に建立されたようです。
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大石沢眼鏡橋・石仏群

残念ながら、草がボーボーで石積みの眼鏡が全く見えません・・・

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八幡神社・片羽八幡水

「八幡様の清水」といわれ古くから地元の人々の飲み水、生活用水、灌漑用水として大切にされてきました。明治11年、明治天皇北陸巡行が行われ、天皇一行が当地を訪れた際、この八幡水で茶を立てたため「御前水」とも呼ばれるようになりました。

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牧家一里塚跡

塚はなく、石碑が立つのみです。北塚横には立場茶屋があったとされます。また、雷電の碑は、当初はこの場所にありました。

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雷電の碑

雷電の碑は、2つあります。手前のものが古い碑で、佐久間象山の筆で江戸時代のものですが、碑の破片を身につけると出世するとか勝負に勝つなどの迷信が信じられ、多くの人に削りとられ、碑文が読めなくなったため、象山夫人と夫人の実兄、勝海舟により明治時代に新しい碑が建てられました。
ここから雷電生家へ向かうため、街道を離れ北へ向かいます。

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雷電生家

この建物内は公開されていましたが、誰もいません。時間内でしたら自由に開けて見学することができます。

雷電為右衛門

雷電為右衛門は、1767年(明和4)ここ大石村(現東御市滋野)に生まれました。幼名は太郎吉でした。太郎吉が幼少の頃、母が庭で風呂に入っていますと、突然雷鳴とともに激しい夕立にみまわれました。太郎吉は母を風呂桶ごと抱えて家の土間に運び込んだという逸話があります。また、碓氷峠を荷を付けた馬を引いていたところ、加賀の大名行列に出くわしてしまい、道が狭く避けることが困難だったため、太郎吉は荷を積んだ馬の足を持ち上げ、高く掲げて無事に行列を通し、殿様から褒められたという逸話もあります。

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雷電の銅像

道の駅 雷電くるみの里にある雷電の銅像です。

その後、太郎吉は千曲川対岸の長瀬村の庄屋、上原源五右衛門に寄食し技と学を磨いていたところ、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた折り、才能を見込まれ1784年(天明4)江戸相撲へ入ります。1790年(寛政2)に関脇へ、寛政7年には大関へ昇進し、実に16年27場所の長きに渡り大関を保持し九割六分二厘という最強の力士でした。江戸時代は番付上の地位には「横綱」がなかったので、「大関」が最高位でした。

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雷電の墓

雷電は文政8年、59歳で亡くなります。左側が雷電のお墓ですが、右側の酒樽と杯を模したお墓が雷電の父、半右衛門のお墓です。お父さんはお酒が好きだったため、雷電がこのような形で作ったとされます。

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明治天皇小休跡

明治11年、明治天皇北陸巡行が行われ、天皇一行が当地を訪れた際にこの地で休憩されたそうです。
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堅牢な長屋門と筆塚

自然石の色が変化し碑文がほとんど読み取れず、どなたの筆塚かもわかりませんでした。

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念仏堂と諏訪神社

戌の満水で土石流となった所沢川の犠牲者を供養しています。諏訪神社の横は公園となっていて新しいトイレもできていました。

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芭蕉句碑と馬頭観音

芭蕉句碑は、諏訪神社の参道向かい民家の庭にあります。『あかあかと日はつれなくも秋の風』

このあたり、加沢付近には戌の満水により大きな石が点在していたとされます。現在は庭石などに利用されているそうです。

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善光寺道標

田中宿へ入ってきました。戌の満水で壊滅的な被害を受けた田中宿ですが、その後は復興しますが、1868年(慶応3)大火災で再び宿場は壊滅状態となってしまいます。その後に再建された古い町並みが残っていましたが、現在は道路が大きく拡幅され、左右とも全く往時の面影はありません。

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剣持道祖神

色彩された男神と女神、剣と衣のひだで男女の陰陽を表しているとか。150年ほど前に建立されたようですが、ハッキリとした年代はわかりません。
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筆塚

どなたのものか全くわかりませんが、田中宿には筆塚が多いですね。

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常田水道記念碑

常田公民館奥にある「常田水道記念碑」、1940年(昭和15)建立。

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石造仁王像

左側は吽形像で口を閉じ、右手に金剛杵(こんごうしょ)を持っています。裏に「明和三年(1766)建立」と刻まれ、雷電の母が願をかけたと伝えられ、翌年、雷電が生まれました。右側は口を開いた阿形像で裏に「寛政八年(1796)」と刻まれています。雷電が大関なった翌年で、雷電の母が感謝の気持ちで奉納したと伝わります。

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戌の満水供養塔

1742年(寛保2)8月、諸川が出水し各地に被害が生じました。千曲川水系、諸河川のうち小諸城下を流れる中沢川に最大の被害が生じ、泥水を押し出し土石流となり、川筋の六供・田町を押し流し、本町の両側をひとのみにし、城中に達し三の門、櫓、足柄門を流出した大災害となりました。流域全体では2800人以上亡くなったと言われています。

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脇本陣跡(高木屋)

田中宿脇本陣跡の大きな看板が掲げられています。

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田中宿本陣跡

小田中新右衛門が士官を辞して本陣と問屋を務めました。本陣門が保存されています。明治天皇小休所碑もあるということでしたが、見当たりませんでした。

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勝軍地蔵

武装して騎乗した丸彫武人像は、背面に「天明六年(1786)」台座に「寛政五年(1793)」と刻まれています。勝軍地蔵は悪行や煩悩を破り、勝つという仏様で防火神としても信仰されています。数回移転された後に元の場所近くの現在地へ安置されています。
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縣村道路元標・筆塚

11:40 田中宿をあとに海野宿へむけて進んでいきます。