2020年9月22日

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9:50神代宿をあとに牟礼へ向かいます。お天気は相変わらずどんよりです。

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神代坂

上杉景勝が北信濃を支配すると、牟礼から善光寺へ行く道を禁じ、神代坂(香白坂)から長沼へ向かうよう命じたため、信越の往還になりました。

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神代坂の大石

街道脇の大きな石の上には馬頭観音が佇み、これより峠越えとなる旅人を見守っているようでした。

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旧道へ入っていきます。朝は雨が降っていたので道は少しぬかるんでいますが進んでみます。

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リンゴ畑の間を抜けていきます。舗装道(北信五岳道路)へでる手前はかなり草に覆われていましたが、なんとか出ることができます。

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北信五岳道路へでるとまたすぐ前方に旧道の入口があります。
TOO001 北信五岳道路から40mほど進むと現在はあまり出ていないようですが湧水があります。ここまでは車の轍もあり歩きやすいのですが、その先は草が繁茂し進むことは難しそうでしたので、戻って北信五岳道路を進みました。

TOO001 舗装道を700mほど進むとまた旧道があり、進めそうでしたので旧道へ入っていきました。

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400mほど進んだでしょうか・・最終的にはこのような状況に・・道はなくなりました。少し奥の斜面上に舗装道路が見えていますので、道なき道を進みなんとか舗装道路に出ることが出来ましたが・・かなり大変でした。舗装道路を進みましょう。

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白坂峠の一里塚

右側は道路拡幅で完全になくなっています。左側は半分ほど削り取られたような形になってしまいましたが、松代道で残っているのはこの一里塚だけです。
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白坂峠(582.2m) 

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長沼道道標

元々は30m先の善光寺道と合流する平出追分にありましたが、現在は民家の庭に移されています。「左長沼みち 右善光寺みち」と彫られています。

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芭蕉句碑

『しばらくは花の上なる月夜哉』 1688年(貞亨5)、「笈の小文」の途中で詠まれた句です。「笈の小文」は、江戸より鳴海、勢田から保美 (ほび) 村の門人杜国 (とこく) を訪ね、郷里で年越し伊勢に詣で、杜国と共に吉野で花見、高野山、和歌浦、奈良、大坂、須磨、明石を半年をかけて旅をした俳諧紀行です。句碑の建立は1844年(天保15)です。
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高山寺

加賀藩主が小休の折、必ず汲んだという井戸があり、藩士が住職と交わした書簡が多く残るそうです。かつて門前に大ケヤキと茶屋があり、善光寺平へ坂の上り口として休憩する人馬で繁盛しました。

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名号堂

親鸞聖人真筆の九字名号を祀っています。浄土真宗「二十四輩巡礼」の札所であり、堂前の石灯籠は国定忠治と親交があったという博労山崎仁太夫の寄進によるものとされ、高山寺にも仁太夫の石灯籠があるそうです。

1816年(文化13) 小林一茶は上原文路宅(現北島書店)に泊まり、往生寺でお花見をし、康楽寺を訪れます。康楽寺では、飯綱町平出の彦坂藤兵衛家が祀っている九字名号が御開帳されており、一茶は句を詠みました。名号には「南无不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」と書かれているそうです。

『花咲くや在家のミダも御開帳』

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行人塚の三本松

北に北信五岳(飯綱・戸隠・黒姫・妙高・斑尾)を南に善光寺平を望みながら一息ついた場所でした。高さ1mほどの塚盛があり、「行人塚」とよばれていました。塚にはいつしか3本の松が植えられ、「三本松」と呼ばれるようになりました。1950年(昭和25)に枯れたため、伐採したところ樹齢は約250年でした。

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行人塚の一茶句碑

1777年(安永7)一茶15歳の春、生家の柏原から江戸へ奉公に上がる時、父が牟礼まで見送ってくれたと「父の終焉日記」に記されており、この地が父子別れの場所と比定し、1961年(昭和36)地元の有志により句碑が建立されました。「父ありて明けぼのみたし青田原」裏には別れの文が彫られています。

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四ツ屋一里塚

両側の塚が残っています。東塚は民家の奥にありますが、街道からも見えます。牟礼神社の所有となっています。

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四ツ屋のエノキ

エノキは古来より一里塚や並木に植えられています。樹高約18m、幹周2.9mの巨木です。
『街道の日本史』には「四ツ屋一里塚からやや離れて1m余りの地蔵尊や馬頭観音が残されており、この辺りは仕置場だった」とありますが、それらしい地蔵尊がありませんでした。

四ツ屋のエノキを過ぎ、少し寄り道します。トイレにも寄りたいため、『いいづな歴史ふれあい館』へ向かい、公園の公衆トイレへ寄り、矢筒城跡方面へ。ぐるっと遠回りし、北国街道へ戻ります。

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いいづな歴史ふれあい館

北国街道牟礼宿の宿場の街並みを再現したジオラマシアターや旅籠の実物大模型や飯綱の古代から現代までの歴史にまつわる展示がされています。また、天体観測室もあり星空の観察などもできるそうです。
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永正地蔵

地蔵と石龕(せきがん:像を納める厨子)は、昭和の初めころに付近から掘り出されたものです。「首切松の地蔵」と言われてきました。奥壁に「為二親永正四年」(1507年)の銘がありました。この地の地名は「地蔵堂」であり、古くに地蔵堂があったと考えられます。五輪塔と板碑は周辺から出土したものです。

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そば畑

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矢筒城跡

正面の矢筒山(566.7m)の頂上に矢筒城本丸がありました。別名「城山」とも呼ばれていました。信濃国水内郡太田荘の地頭島津権六郎(信濃島津氏)が居城したと伝えられています。上杉氏の会津国替えに同行し、直江兼続の采配で武士を全て連れて行ったため、廃城になったとされます。永正の地蔵堂と矢筒山の間の「表町」は、発掘調査により戦国時代には城下集落が広がっていたことが明らかになっています。

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矢筒城館跡

ここより中部北陸自然歩道として指定されている道を登っていくと「矢筒城本丸跡」にたどり着けます。城跡には平和観音が鎮座しています。病院のあたり、矢筒山の麓に館があったことが発掘で証明されています。

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お米がミステリーサークルのように倒れていました。初めて目にしたのでびっくりしましたが、たくさんお米が付いた稲穂は風で倒れやすいようですね。新米が楽しみです。
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牛落し坂のへい筆塚

「牛が転げ落ちるほどの急坂」といわれた難所でした。車道のかたわらに細い坂道が旧道ですが、現在は舗装されていていますが、傾斜は昔のまま。今も転がりそうですね。『へい筆塚』は、寺子屋の師匠、高野久之丞の筆塚です。

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古屋敷の石仏

「古屋敷」はこのあたりの字名のようです。住居表示が変わり、現在の住居表示としては使われていないようです。石仏は元々は斜面の下にあったのでしょう。石積擁壁を作る際に擁壁内に収められたと思います。

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牟礼宿の石碑

これより牟礼宿です。東の枡形は上部に北しなの線が通ります。八蛇川にかかる牟礼橋を渡ると牟礼宿へと入っていきます。
14:10 本日はここまでです。牟礼駅より車を駐車した黒姫駅へ戻ります。牟礼駅までは約700mと少し距離があります。

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お地蔵様

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信濃物産鎌工同盟会創立記念碑

450年程前の川中島合戦の当時、武具や刀剣類の修理のために 当地へ移住してきた鍛冶職人に里人が鍛治の業を習い、農具、山林用具作りに生かされました。切れ味の良さ、使いやすさ、耐久性が特徴でした。特に「信州鎌」は全国に普及し評判でした。
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牟礼駅のロール牟礼駅長室

「ロール駅長」と「助役クロオ」は夏から秋まで出勤するそうですが・・・今日はいないです・・会いたかったのですが、出勤は毎日ではなく、主に日曜日のようでした。残念です。

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黒姫駅ホームの一茶句碑

牟礼駅より北しなの線で黒姫駅へ向かいホームに降り立つと、そこにも一茶句碑がありました。ホームにあるのは珍しいですね。

「やれうつな蝿が手をすり足をする」

黒姫駅西口駐車場から車をピックアップし本日の宿泊地、赤倉温泉の『香嶽楼』へ向かいました。次の牟礼宿から二本木宿はお盆に決行しましたので、明日は二本木宿からの出発になります。