2020年11月21日

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朝からかなりの雨が降っています。気温もかなり低く、街道歩きは無理ですね。天気予報ではお昼ころには雨が上がりそうです。そこで、午前中は行けなかった高田、直江津周辺を車で回ることにしました。

まずは、高田の寺町へ向かいます。寺町の無料駐車場へ車を停めます。車は全く停まっておらず、この雨では誰もいませんね。

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浄興寺

1224年(元仁元)、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人によって創設されました。

親鸞聖人

浄土真宗の宗祖として知られる親鸞聖人は、1207年(承元元)念仏禁止令により越後の国府(直江津)に流罪(承元の法難)となります。当時、親鸞聖人は35歳でした。居多ケ浜に上陸後、約1年を過ごしたのが五智国分寺内の竹之内草庵でした。1211年(建暦元)無罪放免となりますが、すぐには京都へ戻らずに7年を越後で過ごし、各地で説法をされました。この間に越後出身の恵信尼と結婚し、4男3女を授かったといわれています。後に妻子と共に常陸の国(茨木)稲田へ移り、1224年(元仁元)笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開きました。この禅坊を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺、略して浄興寺と名づけます。本願寺の創建より48年前でした。10年を稲田の浄興寺で過ごし、京都へ戻り1262年(弘長2)、90歳で亡くなられました。 浄興寺は後に信濃国水内郡太田庄長沼に移りますが、戦国時代、川中島の戦いで炎上したため、上杉謙信の招きで春日山城下に移り、さらにその後、現在地に移りました。

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親鸞聖人御本廟

親鸞聖人の頂骨が分骨され、収められています。また三世以降の歴代本願寺門主の遺骨も分骨され収められています。この本廟が建設されたのは割と最近で、1888年(明治21)でした。
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寺町 63寺

寺町は、高田城築城の際、城の防衛のため城下西側に作られたものです。現在も浄興寺を中心に63の寺があり、通りを挟んで二列に整然と配置される寺町の景観は、大変珍しい寺院群と言われています。

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小栗美作の妻おかんの墓

父である越前家松平直忠が改易となり、豊後国萩原(大分県)に配流中の1636年(寛永13)に生まれました。高田藩主・松平光長の異母妹にあたります。小栗美作は光長の信用が厚く、1651年(慶安4)におかんと結婚しましたが、このことが越後騒動の原因の一つにもなりました。この時美作二十六歳、おかん十七歳でした。3人の男子を儲けましたが、上の二人が早死したため、三男の掃部大六だけが残りました。おかんは、1665年(寛文5)高田大地震の半年前に病死されました。

越後騒動

1662年(寛文5)、高田地震により藩政を執っていた家老小栗五郎左衛門・荻田隼人が倒壊家屋により圧死してしまいます。

息子小栗正矩(小栗美作)が父親の高田城代を継ぎ、荻田隼人の跡は息子荻田本繁(荻田主馬)が清崎城代を継ぎます。

美作は藩政を主導するようになると、幕府から5万両を借り受けて高田の町の復興にあて、また藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改めました。地方知行制は地方に土地を与えそこで収穫したものが禄となりますが、蔵米制とすると藩の蔵から米を与える、いわば給与になるわけです。こうすることで損をする者も多かったといいます。

そんな折、藩主光長の嫡子が死亡してしまいます。光長はすでに60歳、すぐに世継ぎを決めなくてはならず、家中では小栗美作が自身の子を世継ぎにしようとしているとの噂が流れ、890名におよぶ藩士らは自らを「お為方(主の為になるよう務めるもの)」と称し、小栗美作の一派を「逆意方」と呼び、美作の隠居を要求しました。小栗は隠居し、大六に家督を譲るが、それでも対立と騒動は収まらず、光長は幕府大老の酒井忠清に裁定を訴え出ました。この時はお為方が敗れ、一方の美作派に処分者は無かったのですが、1680年(延宝8)家綱が死去し、綱吉が5代将軍に就任すると一変します。お為方は騒動の再審を願い出ます。綱吉が出した裁定は小栗美作とその子大六は切腹、お為方は八丈島、三宅島などへの遠島処分、高田藩は改易となる喧嘩両成敗の厳しいものでした。

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高田姫・初代高松宮妃墓所

右の大きなものが高田藩主松平光長の母、高田姫のものです。

高田姫は2代将軍秀忠の3女で勝子といい、3代将軍家光の姉にあたります。1624年(寛永元)光長は高田藩主となりますが、幼少であったため暫く江戸屋敷で過ごし元服した後の1634年(寛永11)母とともに高田へ入りました。勝子は母、お江与に似た気性で、福井藩主の隠し子問題にも介入し孫娘と藩主の自殺を招いたとも言われます。墓は三回忌に建てられました。
左の小さなものは高田姫の娘で、初代高松宮妃となった寧子のものです。2代将軍秀忠の養女となり、初代高松宮へ嫁ぎましたが、宮様が若くして亡くなったため、再び高田へ戻り、高田で亡くなりました。

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天崇寺

長恩寺として天文年間(1532〜1555)に上杉謙信が春日山城下に開基したといいます。後に高田城下の寺町に移転しました。明治維新後は藩主の保護も無くなり、また廃仏毀釈の流れの中で、1883年(明治16)浄土宗極楽寺と合併し、浄土宗極楽山天崇寺と名称を改めました。
直江津へ車を走らせていると雨も少し小降りになってきました。

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福島城跡

1607年(慶長12)上杉景勝の後に春日山城へ入った堀秀治が直江津港近くに福島城を新築し、春日山城は廃城となりました。慶長15年、2代藩主、堀忠俊となるとお家騒動が勃発したため改易となり、家康6男松平忠輝を移し、さらに忠輝は高田城を築いて移ったため、福島城は廃城となりました。たった7年しか使われなかったお城になります。なぜ城を移したのかは定かではありませんが、関川、保倉川の氾濫ではないかと言われています。

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福島城絵図

小学校内の校門左手に石碑がありますが、この日は校門も開いておりました。

福島城周辺には駐車場がありません。コインパーキングも見当たりませんので道路上に少しの間停めます。
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湊八幡宮

1063年(康平6)港守護神として創立したと伝えられています。1606年(慶長11)福島城の築城とともに城の鎮守として祀られました。1614年(慶長19)に福島城が廃されるとのみとなりました。明治6年に一旦は春日新田の春日神社に合祀されますが、その後湊屋敷、舞台屋敷へ移し、明治40年、現在地の大隅屋敷へ移し社殿が建立されました。

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福島城祠

中には古い小さな石祠が納めてあり、福島城に祀られていた祠であると思われます。
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おたすけ地蔵

お供え物がたくさんあり、現在でも深く信仰されているようです。色々と助けていただけるのでしょう。

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川こし地蔵尊

こちらは逆にお供え物などは一切ありません。船で川を渡っていた往時は信仰されていたと思いますが、現在は川を越えるのは容易なことで、忘れ去られたような感じを受けます・・・
港町から車を移動させ、船見公園駐車場へ停めます。青空が見えてきました。

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船見公園駐車場から海にでてみました。北国街道の旅で初めて目にする日本海の海でした。とうとう日本海まで来たのだ、と感慨深く眺めていました。 駐車場から西へ200mほどの公園中央には人魚の像もあります。

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琴平神社

文化年間(1804〜1817年)の洪水の際に祠が見つかり、四国の琴平神社から分霊したといわれています。境内には芭蕉句碑、安寿と厨子王の供養塔、山椒大夫の碑などがあります。

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芭蕉句碑

金比羅神社には芭蕉句碑があります。

『文月や六日も常の夜には似ず』

1689年(元禄2)七夕の前夜に直江津の句会で詠んだ句です。芭蕉は奥の細道紀行において、7月2日新潟、3日弥彦、4日出雲崎、5日鉢崎を経て6日に今町(直江津)を訪れ7日も滞在し、8日〜10日まで高田で過ごしています。
句碑は文化年間、地元の俳人福永里方らが建立しましたが、幾度かの大火で焼け、応永年間に福永珍玩らが再建したものです。側には同じ句の新しい句碑も建立されています。

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安寿と厨子王の供養塔

中世に成立した説経節の「さんせう太夫」を原作として、浄瑠璃などで演じられ、ゆかりの各地で民話化しています。1987年(昭和62)に関川改修のため現在地へ移設されました。

安寿と厨子王

無実の罪で筑紫(福岡県)へ流された夫の岩城判官を追い、夫人は安寿と厨子王の二人の子供を伴い、信太郡(福島県)を離れ、姥竹(乳母)と共に直江津にたどり着きました。その夜、応化の橋の下で一夜を過ごそうとした4人でしたが、そこに通りがかった人買いの山岡太夫の甘言に乗って屋敷に泊めてもらい、翌朝「親不知子不知があるから陸路ではなく、海路で京へ上るとよい」と小舟に乗せられます。しかしそれは罠であり、母と姥竹を乗せた舟は佐渡へ、安寿と厨子王を乗せた船は丹後(京都)へ、それぞれ人買いに売られ離ればなれになるのです。悲観した姥竹は舟から身を投げ、憐れに思った土地の者が塔を建てて供養したとされます。更に丹後の山椒太夫に売られた安寿は沼に身を投げたため、姥竹の塔のそばに供養塔が並べられました。そして山椒太夫から逃げ、後に丹後の国守に出世し、佐渡の母を助け出した厨子王が、この直江津に足を運んだことから、土地の者はさらにこの供養塔を大切にしたとされます。

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山椒大夫の碑

森鴎外の代表作の一つ『山椒大夫』は、説経節の「さんせう太夫」に想を得て書かれたものと言われています。「直江の浦」、つまり直江津の情景が細かく描かれています。

鴎外は明治15年に軍医として新潟県を訪れ、高田に宿泊、直江津を徒歩で通過しています。「北游日乗」という日記には加賀街道の景色や出会った人々のことが漢詩で残されています。このときの印象が物語の中に強く反映されています。

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聴信寺

芭蕉は奥の細道の旅で美濃の商人宮部弥三郎の紹介状を持ち、聴信寺へ立ち寄りましたが、忌中のため宿泊を断られてしまいました。しかし次の日に再訪し、句会を開いています。

火災が多かったため、本堂は土蔵造りです。

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直江津町道路元標

印刷屋さんの植え込みに道路元標があります。ほとんどは道路上にあるものですが民地にあるのは珍しいですね。

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福永十三郎功徳碑

住宅地の一角に小さな福永神社があります。直江津の魚商人の権利確保に尽力した福永十三郎の功徳碑は1882年(明治15)に建立されました。台座には「生魚商人中」と刻まれています。福永神社は1932年(昭和7)に十三郎を神として祀った神社です。

福永十三郎

福永十三郎は今町の大肝煎で越前屋、廻船問屋、生魚の取締を行っていました。往時は直江津で水揚げされた魚も高田城下の田端町を通さなければ販売できず、田端町に独占されていました。1760年(宝暦10)直江津商人の窮状を訴えるため江戸へ上がり、老中による裁きを嘆願しました。裁きは高田藩へ委任され、1772年(安永元)には生魚の販賣権について今町に入荷した2割を今町で販賣できるようになり、また塩干魚製造も解禁になりました。この知らせを持って十三郎は江戸から帰る途中に高田城下の田端に寄り、そこで急死しました。当時は毒殺の噂もありました。墓所は上杉謙信も眠る林泉寺にあるそうですが、今町の人々は火葬の際の灰を集め、地蔵尊を安置したといいます。その場所は現在の「福永神社」と思われます。「灰塚地蔵」と呼ばれた地蔵は徳泉寺に移されたと文献にはあります。

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旧直江津銀行

直江津銀行は、明治28年「直江津積塵(せきじん)銀行」の名称で発足し、新町通りに本店が建築されました。明治39年の大火により焼失しましたが、明治40年には再建されました。大正4年に銀行は破綻しましたが、 海運業を営む高橋達太が建物を取得し、大正9年に約400mを曳家により現在地に移します。その後、回漕店の社屋として使用していました。ライオン像は、高橋達太の要請により、柏崎市の小川由廣が制作したものです。上越市最古の擬洋風建築であり、館内には銀行当時の金庫、木製カウンター、ドイツ製天井扇風機が残されています。

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御館跡

御館は、小田原城主北条氏康に敗れ、越後へ逃れた関東管領上杉憲政のために上杉謙信が造営した館で、後に憲政から関東管領職を継いだ謙信が政庁としても使用したと言われています。

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御館配置図

上杉謙信の家督を巡って二人の養子が対立すると、関東管領の館が争いの舞台になりました。越後全域へ拡大する内乱となり、御館の乱と呼ばれます。

発掘調査後に一部が公園として開放されていますが、当時の敷地はかなり広大だったようです。
11:30 雨も上がり、そろそろ街道歩きに出発する時間となりましたので、直江津駅へ向かいます。直江津には越後国分寺や居多神社などまだまだ見どころがたくさんありますが、『加賀街道』を歩く時に見学しようと思います。

南口のコインパーキングへ駐車し、妙高はねうまラインで高田へ向かいます。1時間に1本程度しか電車がありません。11:36発には間に合わず、12:30頃の電車へ乗りました。