2020年10月24日

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長野駅前のコインパーキングに車を駐車しました。新幹線口付近のコインパーキングは値下げされてきましたね。以前は24時間1000円ぐらいしましたが、今回600円のパーキングを見つけました!! 長野駅より「しなの鉄道戸倉行き」へ乗車、屋代高校前で下車します。

8:45 屋代高校前を出発します。屋代高校前駅から北国街道へでるまで600mほどあります。今日はお天気がよく、爽やかな秋晴れです。

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勝軍地蔵

「勝軍地蔵」と書かれていますが、勝軍地蔵は坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったという地蔵菩薩で、鎧、兜をつけ、右手に錫杖を、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているものをいいます。田中宿でもみましたが、やはり馬にまたがったものでした。
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秋葉社

こちらの秋葉社は大きな石の上に乗っています。水害を想定しての対策でしょうか。

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雨宮縣村道路元標

後ろの古い家、二階窓の横に「入口」と書いてあります。どうやって入るのか・・・なぞです。

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法輪寺

標柱に「天正年中 草創400年」とありますので、1573年〜1593年頃の創建のようですが、お寺の中にもそれ以外の案内はなく、詳しいことはわかりません。しかし本堂はとても立派な急勾配の入母屋造でした。

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雨宮の渡し

雨宮の渡し跡は、小さな公園となっており、川中島合戦を詠んだ頼山陽直筆の碑が建立されています。1561年(永禄4)の八幡原での川中島合戦において、妻女山(斎場山)に陣を構えていた上杉謙信は武田信玄の策略(啄木鳥戦法)を事前に察知し、直ちに妻女山を下り、雨宮の渡しを渡り、八幡原に兵を進めました。千曲川の流れは北へ移り、往時を偲ぶものはありません。

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雨宮坐日吉神社

『あめのみやにいますひよしじんじゃ』と呼ぶそうです。「雨宮の御神事」「獅子踊り」という神事芸能があり、500年を超える伝統があると言われています。
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善光寺道名所図会に描かれた雨宮坐日吉神社

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宗?(そうぎ)歌碑

『ちはやぶる神の御前の草枯るる何をしるしに雨の宮とは』

宗?は、1421年(応永28)から1502年(文亀2)、室町時代の連歌師です。生まれは紀伊とも近江とも言われています。連歌とは、上の句と下の句を複数人で順番に詠んでいくものを言います。1488年(長亨2) 北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となりました。生涯を通じ、たびたび各地を旅していますが、直江津から関東に向けた旅の途次、箱根の地で没しました。

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舊御公札場趾

雨宮坐日吉神社前に高札場があったと思われます。

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市神

市の取引の無事や集う人々に幸をもたらすと信ぜられる神様です。道の神の信仰ともまじるとされます。
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斎場橋

雨宮坐日吉神社の「雨宮の御神事」では、この橋から4人の獅子(獅子となる人)を逆さにつるし、獅子が水面を叩く(落とす?)「橋懸り(はしかかり)」と呼ぶ神事が行われています。神事の写真を見ると、バンジージャンプの頭からというような感じです。

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梅城岡川先生寿碑・岩佐珍儀君碑・雨宮小学校跡地の碑

梅城岡川先生寿碑

一番右が「梅城岡川先生寿碑」です。号は「梅城」、本名、岡川五郎、教育家・書家でもあり、明治11年ころより雨宮学校に教員として務めていました。この碑は昭和3年に雨宮小学校に建立されたものです。

岩佐珍儀君碑

中央が「岩佐珍儀君碑」1886年長野県生まれ。16歳の頃茨城県の叔父の寺で農作業に励みますが、もともと虚弱なため体を壊し、様々な難病が併発し、悲観した岩佐は首を吊りますが、未遂に終わります。父、叔父に説教され自らの非に気づき、養生して必ず健康になると誓いました。そこで様々な健康法を試み、元気になってからは朝から晩まで裸で材木運びなどの仕事をしたそうです。「裸仙人」と呼ばれ奇人扱いを受けたといいます。明治末から大正時代にかけて多くの健康法が流行し、現在に至るまでの民間療法の起源であるこの時代の大正3年、岩佐は「岩佐式強健法」を出版しました。

雨宮小学校跡地の碑

一番手前が「雨宮小学校跡地の碑」です。雨宮小学校の詳しい経緯はわかりませんが、1967年統合のため廃校になっています。

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唐崎城

朝日城、藤崎城とも呼ばれたとされます。南北朝末、応永年間に雨宮氏により築城されたと伝わります。生仁館の本城で、雨宮摂津守、あるいは生身大和守の居城であったともいわれ、一説には宇藤摂津守安時がここへいたということで麓を宇藤坂といいます。招魂社から山頂までは徒歩15〜20分程度のようです。

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峩山先生の碑

寺子屋や私塾の先生でしょうか・・詳細はわかりません。斜向かいには大きな題目碑があります。

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土口の石垣

土口は洪水の常襲地帯でした。対岸の雨宮地区の同意があれば堤防を築造する予定でしたが同意が得られず立ち消えになってしまったため、住民は各々石垣を積んで住居を嵩上げしていき、現在のようになりました。

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十王堂跡

「十王堂跡(焔魔堂)」の標識しかありませんので、詳しいことはわかりませんが、南東に200mほどの正応寺の近くに十王堂があります。この十王堂が移転先なのではないかと思います。

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土口一里塚跡

一里塚はなくなり、跡地に標柱が建つのみです。
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振袖地蔵尊

僧が彫られていると思いますが、袈裟が振り袖のように見えたのでしょうか。戒名が彫られたもの、筆塚、千人供養塔など多くの石仏が集まっています。

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長野電鉄屋代線廃線跡

屋代線は、長野県千曲市の屋代駅から長野県須坂市の須坂駅までを結んでいましたが、2012年(平成24)廃線となりました。レールは取り除かれましたが、トンネルはそのまま残っています。
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水天宮と馬頭観音

千曲川沿いに水難除けの水天宮が祀られています。

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水難供養塔

岩野村は1742年(寛保2)の戌の満水でほとんどの家屋が流出し、松代藩内では最大の被災地となりました。男58人、女102人流死したとされ、男女差が大きかったとされます。

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薬師山

笹崎山は、薬師山とも呼ばれ神仏の宿る山として昔から崇められています。頂上の瑠璃殿には目の病を治すという如来様が祀られ、ナムアミダブツと爪で彫り亡者の霊を慰めたという話が伝わっています。

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岩野山貞治郎碑

岩野出身の関取を顕彰する石碑です。この石碑の後ろのあたりに廃線となった長野電鉄屋代線岩野駅があったようです。今は砂利の駐車場のようになっていました。

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芭蕉句碑

會津比売神社の参道入口にあります。

『赤あかと日は難面(つれなく)も秋の風』

句は、奥の細道金沢入りの途次のもので、句碑の建立は明治15年頃です。書は、両角吾仏です。両角吾仏は、文化3年松代町清野の六左衛門の子として生まれ、松城肴町に移り医院を開業していたようです。
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會津比売(ひめ)神社

初代科野国造の武五百建命の妻とされる「会津比売命」を祀り、妻女山の麓に鎮座しています。斎場山に布陣した上杉謙信は戦勝を祈願しました。

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上杉謙信槍先の泉

昭和時代に「上杉謙信槍尻の泉」の水をここ引いたものだそうです。水量は少ないです。

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上杉謙信鞍掛松

1561年(永禄4)、川中島の戦いで斎場山に陣をおき、山麓の会津比売神社に必勝を祈願したとき、馬の鞍を掛けたという松ですが、松は枯れてしまい現在は3代目の松だそうです。初代の松は大人二人が手で抱えるほどの老松だったといいますが、現在の松は幹周30cmほどの若い松です。
會津比売神社より上信越高速道路の下をくぐり、妻女山へ向かいます。15分ほど登れば到着するということで、行ってみました。

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上杉謙信槍尻の泉

水はほとんど出ていません。江戸時代にはもう少し下に、昭和後期にはもう少し上にあったとか。こうした古くからの水場は多少の位置変更はよくあることです。問題は湧水が出なくなってしまうということです。上信越自動車道、薬師山トンネルができ、水みちが変わってしまったのでしょうか・・周囲の手入れの問題でしょうか・・

上杉謙信槍尻の泉の民話

1561年(永禄4)川中島合戦の時、妻女山に陣を置いた上杉謙信は、戦いの勝利を神仏に祈願するため、時折、麓の会津比売神社や岩野村にあった聖観音菩薩像(伝行基作)に赴いていました。ある日のこと帰途についた謙信は、あまりにのどが渇いたので馬から降り家来の直江山城守に、「槍をかせ!」と命じ「妻女におわすよろずの神よ、我に清き水を与え給え!」と地に伏し、一心に祈りそしておもむろに立ち上がって空高く槍を構え、「えい!やっ!」と地面に槍の石突き(槍の柄の先端で地面に立る部分)で強く突いたところ、そこから勢いよくきれいな水が湧き出しました。『現地案内板より』

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妻女山展望台

善光寺平が一望できる展望台です。北アルプスも見えるということでしたが、雲が多く見えませんでしたが、眺望は素晴らしいものでした。現地案内板によるとこの妻女山(さいじょさん)に上杉謙信が布陣したと記されています。

妻女山と斎場山

元々上杉軍が陣を設けた場所について、『甲陽軍鑑』の記載は「西條山」(さいじょうざん)です。この記載は江戸時代中期に松代藩(真田家)から「妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也」(真田氏史書『真武内伝』)と指摘を受けているが、江戸期の地図は概ね「西條山」あるいは「西条山」と記載されているようですが、昔の書物の漢字は違うことが多々あります。現在の妻女山を地元の人は「赤坂山」と呼び、ここから更に西へ1kmほど行った「斎場山」が上杉軍が陣を設けた場所だといいます。 さてどちらが本当に上杉軍が陣を設けた場所なのでしょうか・・いろいろな人のホームページを読むとやはり「斎場山」が正解ではないでしょうか。

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罹災横死者供養塔

1847年(弘化4)年の善光寺地震で罹災した2810人の供養塔です。震災から2年後の1849年(嘉永2)建立されました。

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松代藩戦没者招魂碑

1868年(明治元)の戊辰戦争で戦死した人々を招魂するもので、ここで幕末期に松代藩士らが銃撃訓練をした縁で建立されたといいます。

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松代妻女山招魂社

戊辰戦争の際松代真田藩の藩士として従軍し、戦死された五十二柱の御霊を祀るために、第十代藩主真田幸民が明治二年に建立した神社です。

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深谷鸞生の句碑

『志ら雲に果ハ徒ゝミては那ふかし』

深谷鸞生(らんざん)は、1810年(文化7)長野市篠ノ井生まれ、「信陽俳家月之交」では、右方最上段筆頭となり、碑は門弟らにより建立されたようです。門弟代表として、小山梅曦と刻まれています。小山梅曦は「信陽俳家月之交」では3段目だそうです。

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東宮殿下御遊覧所の碑

東宮殿下が松代に来られたのは明治35年のようです。当時の皇太子ですから後の大正天皇ということになります。
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妻女山を下山し、再び北国街道を東へ進んでいきます。

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東宮殿下御遊覧之跡道程碑

ここから左手へ入り清野小学校を右に曲がると妻女山へ登る登山道があるようです。皇太子はその登山道から招魂社へ登られたのでしょう。

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道島田圃

このあたりは耕地の区画整理で旧道が無くなっていますが、国道よりも静かで歩きやすいので田圃の中の細い道を進みました。恐らく右手は屋代線が走っていた元線路敷だったと思われます。

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長芋

このもさもさした植物が長芋です。松代藩真田時代より自家用栽培の形跡があるそうで、戦後になると販売用として多く栽培されるようになり、畑の深いところを効率的に耕せるトレンチャーが導入されると飛躍的に栽培されるようになりました。現在は病気などで衰退しましたが、昭和中期には生産量日本一でした。今でも岩野、清野あたりでは多く見られます。
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髭題目碑、秋葉社、道祖神

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大信寺

1362年(貞治元)の創建といわれます。裏の墓地には、猿のお墓や松代藩氏の墓もあるそうです。

源五郎と小猿

紙屋町の源五郎は渋温泉で助けた子猿を大切に育て「まつ」という名前をつけて我が子のように可愛がりました。手伝いや買い物までして源五郎夫婦のために一生懸命働きました。死後、親孝行をしてくれた猿のために墓を作ってあげました。
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雨乞いの地蔵

日照りで干ばつの時はこの大信寺の三体地蔵を荒縄でぐるぐる巻きにして千曲川に投げ込めば必ず雨が降ると言われ、三体地蔵を雨乞い地蔵と呼んでいます。毎年8月の地蔵盆には鑑貞地蔵、雨乞い地蔵、六地蔵の縁日として「おかんてんさん」と呼ばれ、盛大なお祭りや供養が行われています。

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小山鶴太郎像

小山鶴太郎は、1883年(明治16)創業の「松代製糸会社」、明治31年に「六文銭合資会社」と名称を変えましが、この「六文銭合資会社」社長でした。明治32年発布の尋常小学校特別学級規定適用の第一号となり、松代小学校の教師高田寿二郎、長岡助二郎らの協力を得て、社資によって工場で働く工女らに夜間小学課程の授業を実施しました。卒業証書授与も行い、「工女教育の先鞭者」と慕われました。
12:30 大信寺を過ぎ、神田川を渡ると松代城下です。ここからは松代城下の散策に向かいます。