2021年10月23日

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8:40 広丘駅前のコインパーキングに車を停め、前回のゴール地点「原新田」の交差点へ向かいます。100mほど進むと伊那街道(三州街道)と交差しますが、そのままさらに直進、原新田の交差点を右へ曲がり北国西街道を村井宿へ向かい、進んでいきます。

200m先の右手交差点に「原新田追分道標」があります。

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原新田追分道標

1869年(明治2)に建立された道標には『右 京 いせ きそ道 左 東京 いな すわ道』と彫られています。右手からの道は伊那街道(三州街道)で、ここが北の起点でした。1814年(文化11)には伊能忠敬一行が二手に分かれ、両街道を測量しています。
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善光寺名所図会に描かれた原新田追分

一里塚は街道から離れた畑の中に描かれており、初期の北国西街道は現在よりも西に通っていたと思われます。絵図に描かれた山ノ神社と津島社は「山神社津島社」だと思いましたが、位置関係がおかしいです。このさき右手の「山ノ神社」が描かれている神明宮でしょうか。

直進が街道ですが左へ入り、「山神社津島社」へ寄っていきます。

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山神社津島社

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原新田第二公民館

山神社津島社の境内ににある公民館は、大きな雀おどしが屋根に乗る立派な旧家です。社務所的な建物でしょう。

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原新田一里塚跡碑

神社南隅に一里塚の碑があります。塚は碑の東南方向30mのところにあったとされます。古北国西街道は現在の街道よりも西側を通っていたことになります。一里塚の碑は平成9年に建立されました。
北国西街道(善光寺道)へ戻り、100mほど右手に小さな「山ノ神社」があります。

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山ノ神社

この「山ノ神社」が善光寺名所図会に描かれている「神明宮」でしょうか。場所的には合致していますが・・・絵図には津島社も描かれていますので、先程の「山神社津島社」が移動したのでしょうか・・・
山ノ神社周辺は最近までは雑木林でしたが、開発が始まったようで宅地に造成されてしまいました。

山ノ神社から少し北へ向かうと「広丘短歌公園」があります。塩尻は明治・大正期にかけて多くの優れた歌人を輩出しました。周辺にはゆかりの歌碑が数多くあります。公園内には歌碑や万葉集に詠まれている植物が植えられています。

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太田水穂・島木赤彦・太田青丘歌碑

太田水穂

『大信濃 筑摩平の広丘の四方の見晴らしを占めし石碑』

島木赤彦

『高槻のこずゑにありて 頬白のさへづる春となりにけるかも』

槻とはケヤキの古称です。

太田青丘歌碑

『物思ふ葦にあればゆく 雲の高さに舞はむ心をわがもつ』

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大悟法利雄・中原静子歌碑

大悟法利雄

『いま出でし胡桃畑か郭公の われ驚かしあとを続けず』

中原静子

『霜寒みいさゝのゆれににし木の散る 夕ぐれを人まちてあり 閑古』

中原静子は広丘小学校へ新卒赴任し、当時広丘小学校校長であった島木赤彦に歌の指導を受けた、アララギ派の一人です。

広丘短歌公園を西側の出入口から出て、北へ70m右手に大きな石の「太田水穂墓碑」があります。

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太田水穂墓碑

晩年は鎌倉扇ヶ谷の杳々山荘で暮らし、1955年(昭和30)、79歳で亡くなりました。妻、四賀光子と共に北鎌倉の東慶寺に葬られているので、この墓碑の意味はよくわかりません。
山ノ神社脇まで戻り右へ曲がり、北国西街道へ出ると正面に広丘郵便局があり、建物前に「伊藤左千夫歌碑」があります。

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広丘郵便局の左隣にはとても立派な旧家がありました。

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伊藤左千夫歌碑

『虫まれに月も曇れるほのやみの野路をたどる吾が影もあやに いにしへの事を思ひつゝさび家を暗き林をかへりみるかも 家作りものものしきを煤さびて蚕飼に暗し世の移りかも』
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太田水穂生家・明治天皇御休所

建物は200年ほど前のものといいます。屋号は「油屋」で、街道を挟んだ向かいには広丘村役場があり、その隣が「牛屋」でした。 太田水穂の「生い立ちの記」には『私の家は街道脇にあった。父は旅道者が好きで茶を入れてやり、香の物なども出して薦める』と記しています。庭には大きな太田水穂・五郎・青丘の歌碑があります。

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島木赤彦下宿跡・牛屋

赤い雀おどしを乗せた建物は、建築用のシートで覆われています。牛屋の建物は短歌公園へ移築されるそうです。「牛屋」は屋号です。

島木赤彦

島木赤彦は明治9年に諏訪で生まれ、明治27年、長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に進学、ここで同級生として太田水穂に出会います。彼らと交流するうちに短歌や俳句、文学に夢中になっていきます。尋常師範学校卒業後は教師となり、明治42年には広丘尋常高等小学校の校長として赴任し、この「牛屋」に下宿し、庭に面した八畳二間続きの部屋に下宿していました。牛屋には歌人が集まり、文化サロンのようであったといいます。しかし、わずか2年ほどで茅野市の玉川尋常高等小学校へ校長として赴任しました。

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廣丘村道路元標

牛屋から80m右手駐車場前に「廣丘村道路元標」があります。
道路元標の交差点を左へ曲がり、200mほどで「短歌館」、「歌碑公園」が見えてきます。

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短歌館

建物は1868年(明治元)に建てられ、塩尻市大門の中山道沿いにあった柳沢家を移築したものです。平成4年にオープンしました。

短歌館と広丘小学校に隣接した周辺は短歌公園となっています。短歌館から西へ向かい、グランド沿いに一周してみます。

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階の木

見たことのない葉っぱだな〜と思い、樹名板を見ると聞いたことのない「階の木」という名前が書いてあります。調べてみと中国にある孔子の墓所に植えられており、「学問の木」とされ、教育機関のシンボルツリーとなっているそうです。紅葉がとても綺麗だそうですが、日本ではあまり植えられていないようです。
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太田水穂歌碑と広丘国民学校歌碑

『命ひとつ露にまみれて野をそよく はてなきものを追ふことくにも』

校歌は太田水穂により作詞されたもので、広丘小学校に初めてできた校歌です。碑は卒業生により平成22年に建立されました。

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島木赤彦歌碑・窪田空穂歌碑

『いさゝかの水にうつろふ夕映に菜洗ふ手もと明るみにけり 柿の村人』

「柿の村人」は島木赤彦の別号です。

『あき空の日に照るみとりにほひ出て 見はます四方にあふれなむとす』

窪田空穂(うつぼ)は明治10年、長野県東筑摩郡和田村(現松本市和田)で生まれ、太田水穂に刺激を受け短歌を作り始めました。早稲田大学の教授になってからは、歌人・国文学者として、精力的に古典研究を行い、万葉集や古今和歌集、新古今和歌集の三大評釈は、特に今日高い評価を得ています。松本市には生家や記念館があります。

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牛屋移築

島木赤彦が下宿していた「牛屋」は短歌公園内に移築するそうで、現在基礎工事を行っているようです。

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四賀光子ほかの歌碑・若山牧水歌碑

『鉢伏の山を大きく野にすゑて 秋年々のつゆくさの花 四賀光子』

『春鳥のいかるかの聲うらかなし 芽ふきけふらふ木立の中に 若山喜志子』

『いく重やまみやまの奥の山ざくら 松にまじりて咲きいでにけり 潮みどり』

『うす紅に葉はいち早く萌えいでゝ 咲かむとすなり山ざくら花 若山牧水』

短歌公園を北側からでて、北部公園テニスコートのほうへ向かう途中、左手に大きな牛馬観世音石碑、石仏群、太田青丘歌碑と続いています。

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牛馬観世音史跡地・石仏群

原新田は1643年(寛永19)に現野村区から独立しました。昭和30年後半までは牛馬が農耕の労働力でした。徐々に機械化され牛馬の飼育はなくなりましたが、祀りの地として石碑を建立し集落の史跡地としています。

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太田青丘歌碑

「隣より又隣よりつぎつぎに 牛啼きいでて村明けてゆく 太田青丘の歌を聖州書く」とあります。

太田青丘

太田青丘は明治42年に太田水穂の兄の三男として原新田に生まれ、幼少期に太田水穂・四賀光子夫妻の後継者として養子となり、東大文学部、大学院を卒業、法政大学にて中国文学教授を経て昭和45年から48年にかけては宮中歌会始選者となりました。

次の十字路を右へ曲がり400m、北国西街道へ戻り松本へ向けて再び進んでいきます。350mほど進むと国道19号線と合流します。

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このあたりは開発で何も残っていません。国道19号を800m、寄り道のため広丘吉田のあたりで右へ曲がり、線路を越えて北西へ向かいジグザクに住宅街の道を進んでいきました。
四ヶ堰円筒分水へ向かう手前の用水路脇に大きな石碑がありました。

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想故郷変化の碑

急激な都市化により失われてゆく故郷に思いをはせた文章が綴られた碑です。揮毫はあの長野オリンピック「水すまし」発言で有名な長野県知事吉村午良氏(在任昭和55年〜平成12)によるものです。
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四ヶ堰円筒分水

改修中のようで、水が流れていません・・・残念です。

松本市芳川地区の村井、小屋、野溝、平田の四ケ村を灌漑する用水を四ケ村用水「四ケ堰」(しかぜき)といい、塩尻堅石の奈良井川から七ケ堰として取水し、この円筒分水まで流れここで四ケ村へ均等に分水する施設になっています。四ヶ堰は明治5年に完成していますが、円筒分水ができたのは昭和9年、現在の円筒分水は2代目でコンクリート製になっています。

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水神

円筒分水のそばには「水神」も祀られています。 高速道路の下を通り、塩尻北IC交差点を右に曲がり、北国西街道へ戻ります。

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自動車学校交差点から国道を170m、下吉田交差点より左手の旧道へ入っていきます。旧道へ入って150m、右手に牛馬観世音があります。

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牛馬観世音

大きな牛馬観世音の石碑は「馬頭観音」と同じ意味のもので、牛馬の無病息災や安産を祈願するもの、あるいは死んだ牛馬の供養塔です。
さらに330m、右手に「村井学校跡」の石碑と案内板があります。

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村井学校跡

明治5年に創設され、はじめは民家を仮校舎としていましたが、後に常照寺へ移り「村井学校」と称しました。明治6年広智学校と改め、明治8年、新校舎が現在の芳川小学校に落成しました。

すぐ先左手に「神明宮」の森が見えます。

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神明宮

創建は不明ですが、平安時代から信仰を集めていたとされます。このあたりは昔、「ムカデ町」と呼ばれていたといいます。なぜ「ムカデ町」なのかはわかりません。往時は茶屋や飲食店があり、客引きの声で賑わったとされます。

神明宮隣の公民館前に村井宿高札場、村井口留番所跡の標柱があります。

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村井宿高札場

「信州松本通見取絵図控」には旧問屋山村家前に高札場が描かれています。道路事情により現在地へ移されました。案内板には「復元」とはないのですが、資料には「復元」となっています。

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村井口留番所跡

案内板の向かいの住宅地が番所でした。
1726年(享保11)から1744年(延享元)までの17年間、番所が置かれていました。それまでは洗馬本山に番所が置かれていましたが、松本藩主が水野忠恒から戸田光徳に変わり、広丘などが幕府領となったため村井が藩境となったため番所が村井へ移されました。木曽・諏訪・伊那口の出入りの取締り、主に米・塩・木材の出入りや女性の通行改めを行っていました。

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村井宿

中世、豪族村井氏によって集落をなした町で、宿駅として定められたのは1612年(慶長17)。 1840年(天保11)、村井宿の書上帳によると総戸数81戸、本陣、脇本陣が1軒づつ、旅籠4軒があったとされます。明治20年、明治27年の2度の大火により往時の姿は失われていますが、本陣、脇本陣などの建物は大きく、立派でした。明治35年に篠ノ井線が開通すると、宿駅としての役割は終わりました。 また、村井は東山道「覚志駅(かかしのえき)」があったとされますが、原新田や堅石という説もあります。

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村井宿・脇本陣・問屋

問屋を兼ね山村家が務めていました。今は小児科の病院のようです。大きな敷地に立派な門や住宅です。山村家の祝殿(山村家稲荷社)は松本市重要文化財に指定されています。

山村家の角を右に曲がり、山村家稲荷社へ向かいます。山村家が経営する山村小児科医院の前に山村家の稲荷社があります。現在は一般公開され、見学することができます。

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山村家稲荷社(祝殿)

社殿は棟札から1819年(文政2)に建築されたと推定されます。唐獅子、龍、鶴、松、虎など精巧な彫刻が施されています。作者は不明ですが、彫刻の特徴から和田神社本殿の建築者である小松七兵衛と推定されています。
北国西街道(善光寺道)へ戻り、数十m進むと右手が上問屋跡です。

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村井宿の町並み

左手に本陣・中村家、さらに数十m右手に明治天皇村井御小休所跡の碑があります。

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村井宿本陣・問屋

問屋を兼ね中村家が務めており、伝馬業務は脇本陣と半月交代で行っていました。主屋は大正時代に建て替えられたもので、風格ある旧家、という趣です。現在は酒造業を行っています。

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明治天皇村井御小休所跡

1880年(明治13)、明治天皇巡幸の際、本陣中村家で小休されました。
200mほど進むと鉤の手になっています。右が北国西街道(善光寺道)ですが、寄り道のため左へ曲がり100m、右手墓地の中に「鰤(ブリ)場跡」の案内板があります。

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ブリ場跡

松本・塩尻地方では大晦日にブリを食べる習慣があります。富山湾で捕れたブリは飛騨では「越中鰤」と呼ばれ、野麦峠を越えて信濃へ入ると「飛騨鰤」と呼ばれました。浜の4倍の価格で売られたそうです。西側のJR沿いの小字名、「ブリバ」が残っています。

鉤の手へ戻り再び街道を進んでいきます。鉤の手からすぐ右手の三叉路には大きな筆塚がありました。

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筆塚

表には「中島養節先生、中嶋〇〇先生」とお二人の名前があり、裏には「門弟中」とあります。残念ながらどのような方なのかは不明でした。明治26年の建立。

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国道19号線

さらに250m進むと国道19号線にぶつかり、しばらくは国道となった北国西街道を進みます。国道にでてすぐ右手にあるのが村井一里塚跡の石碑です。
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村井一里塚碑と芭蕉富士塚

一里塚には松が植えられていたといい、道路拡幅のため明治40年頃に取り壊されました。一里塚の碑は晩年を松本市で過ごした書家、秋山白巌(はくがん)の揮毫により昭和25年に建立されました。

『霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き』

芭蕉が箱根越えで詠んだ「野ざらし紀行」の句と文を模して村井宿の人々が江戸後期に富士見橋脇に建立しました。

菅江真澄は信濃富士と呼ばれる安曇野松川村の有明山がこのあたりから見えると記しています。 そのために芭蕉のこの句が選ばれたようです。文化10年、村井宿の銘が刻まれています。

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善光寺名所図会に描かれた有明山

12:20 村井宿をあとに松本宿へ向けて進んでいきます。