2021年5月3日

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12:30 大切通し・小切通しを抜け、長野自動車道の下をくぐり、麻績宿へ進んでいきます。

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題目碑・石碑群

この題目碑は陸海軍戦勝祈願のために建立されたようです。周辺から集められたと思われる馬頭観音は昭和のものもありました。

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麻績大橋(下井堀大橋)

麻績川に架かる麻績大橋には、1869年(明治2)の会田・麻績騒動において一揆の集合場所となり、千人を超える農民が集まったといいます。

会田・麻績騒動

明治新政府が大量に発行した新貨幣(太政官札)が、偽金(チャラ金)として使用できなくなり、農村の経済が混乱しました。同年の上田騒動もチャラ金騒動とも言われていますが、上田では農民の要求が受け入れられたとして、保福寺峠経由で筑摩郡北部にも広がっていきました。乱橋から青柳へ来たときには500人ほどであった農民は、下井堀大橋では1000人余りに膨れ上がったとされます。刈谷原、会田、麻績、青柳と北国西街道沿いの庄屋や酒造屋、米穀商、質屋、問屋などが打ち壊しされました。伊那県吏や松代藩兵により鎮圧され、首謀者2名のみが斬首されました。

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道標跡

『右はさくは道 左はいせ道』と彫られた道標があったようです。「さくは道」は作場道、農地への道でしょう。本物の道標はどうしたのでしょうか。どこかの博物館へ設置されているのか、無くなってしまったのか・・できれば詳細を書いた案内板がほしいですね。
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文字道祖神・馬頭観音

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馬頭観音や六十六部廻国塔

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双体道祖神・文字道祖神

国道沿いの馬頭観音や六十六部廻国塔などの古い石仏を見ながら、国道へ取り込まれなかった旧道へ入っていきます

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すぐに国道へ戻りますが、すぐにまた左手の旧道へ入っていきます。

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嫁の泣石

花嫁が嫁に行くのを嫌がり、石に抱きついて泣いたと伝わる石です。往時は泣く泣くお嫁に行く人は多かったのでしようね。

右側の石です。
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成田山石碑

階段を登ると小屋の中には祠があり、他に小さなお堂が一つありました。神社のようです。

善光寺道の案内図もあります。

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文字道祖神

近くには「暉月」と彫られた句碑もありましたが、詳細はよくわかりません。

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高札場跡と協志学校跡(南麻績学校)

このあたりには市が立ち、飢餓のために穀類を貯蔵した郷蔵があり、下井堀の中心地でした。

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下井堀一里塚跡

一里塚跡碑の上に「狐の社」という小さな稲荷がありました。
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一口坂碑とお地蔵様

一口坂碑の奥の方にお地蔵様があります。

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一口坂

麻績合戦に向かう木曽義仲の軍馬が坂を登り、笹を一口食べて元気を取り戻したので「一口坂」と呼ぶようになりました。

木曽義仲

1180年(治承4)以仁王より平家討伐の令旨が下り、木曽義仲は横田河原(篠ノ井)で越後の城四郎長茂との合戦に備え、麻績に陣を構えたとされ、木曽から麻績に向かった義仲の逸話が多く残っています。

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一口坂を登ると旧道らしい道が残っています。

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道標跡

『右山道 左善光寺道』ここも「道標跡」として擬木柱が建つのみですが、元々あった道標はどうしたのでしょうか。

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駒が石

木曽義仲の軍馬が通り過ぎた後、路上の石に蹄の跡が残っており「駒が石」と命名されました。

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駒が石の蹄跡

確かにドーナツ型の跡がついています。
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善導寺と御家人流刑地

鎌倉の御家人、光宗信生(みつむねしんしょう)が流刑された矢倉が見えました。冠木門の所が矢倉公園で、歌碑がありますが、反対方向のため寄りませんでした。左手の大きなお寺は善導寺です。

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石仏群

庚申塔、弥勒菩薩、首のないお地蔵様などが並びます。

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大きな道祖神と小さな双体道祖神

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麻績神社

常夜灯や石碑、本殿はかなり新しく見えます。「長野懸町村誌」にも記載がなく、詳細はわかりません。

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叶里塚古墳

この辺りは筑北地域の中で最も多くの古墳が分布しています。弥生から古墳時代にかけての集落が存在していました。古墳の様式から朝鮮半島からの渡来人や御厨に関係する人だったと考えられています。

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ガッタリ

木曽義仲の愛馬が長旅の疲れからここで「ガッタリ」と膝を折ったということからこのあたりの地名を「ガッタリ」と呼ぶようになったそうです。

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姨捨山礼拝所

月の名所として信仰された姨捨山(冠着山)を拝む場所でした。藤原家隆と通光の歌が刻まれています。『更級や姨捨山の高嶺より 嵐をわけて出づる月影』

碑は明治期に建立したものです。

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県道を進み、カーブが桝形跡、「麻績宿の石碑」と案内板があり、ここから麻績宿が始まります。

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御嶽碑

1864年(元治元)に建立された大きな石碑です。高遠石工の作品とされ、敷地内には、不動、双体道祖神や庚申石祠が並んでいます。

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反故塚

習字の書き損じの紙を古くは「反故」といい、これを埋めた塚ということですが、筆塚と同じ意味のものです。寺子屋師匠で、俳譜を白雄の弟子雄啄に学んだ臼井緩貢を讃えたもので、1827年(文政10)の建立です。
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麻績宿本陣(瀬戸屋)

「うす井」の庵看板が目を引く旧家があります。 江戸時代、麻績宿には29軒の旅籠がありましたが、中でも瀬戸屋(臼井孫右衛門)はひときわ大きな旅籠でした。瀬戸屋も本陣を名乗ったため、1860年(安政7)から幕末にかけては本陣をめぐる紛争となりました。現在の建物は明治初期に建てられたものです。

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本陣前の右手細い路地を下っていきます。なかなか雰囲気があって素敵な路地です。

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旧麻績小学校北校舎

昭和11年に建設されましたが、その後新校舎へ移ったため昭和46年からは中央公民館として利用されてきました。国指定登録有形文化財に指定されています。
細い路地を上り北国西街道へ戻り、再び北へ進んでいきます。

麻績宿

「麻績」という名は、飛鳥時代高麗から帰化人が入植して麻を栽培した頃からの由緒ある宿名です。麻は紵(お)とされ、麻糸にすることを績(う)むといいます。麻績(おうみ)が「オミ」と転じたものとされます。平安時代まで更級郡に属し、更級の月の名所として都でも知られていました。

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郷蔵跡

郷蔵は、飢饉などのために米を保存していた蔵です。左手に麻績城への登山口があり、そこから標高940mまで約1kmの山道を登ると城跡に至ります。

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麻績氏居館跡

戦国時代の麻績は服部清信が支配していました。麻績城は不測の事態のため険しい山に築かれていますが、こちらは麻績氏が日常的に暮らした館跡です。周辺には武家屋敷が並んでいたといいますが、遺構などはなく、現在は民家となっています。

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旅籠花屋跡

旅籠花屋は臼井平右衛門が商っていました。1855年頃(安政)には30軒の旅籠があったようです。猿ヶ馬場峠を控え、大変賑わった宿場でした。

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更科紀行の碑

『身にしみて大根からし秋の風』

『ひょろひょろなほ露けしやをみなえし』

昭和36年建立、揮毫は古刹、法善寺の大屋勇禅、大屋勇禅は俳句、詩歌、書画をこなす文人和尚でした。

更科紀行

1688年(貞享5)松尾芭蕉は名古屋を出発し、木曽路へ入り中山道洗馬から善光寺道へ、猿ヶ馬場峠を越え、姥捨に十五夜の名月を鑑賞しました。善光寺詣で後、江戸へ帰った芭蕉は「更級日記」として旅日記をまとめ、その翌年に「奥の細道」の旅へでました。

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麻績宿本陣

本陣は臼井忠兵衛家(屋号:中橋)が代々世襲していました。脇本陣は置かれませんでした。元禄から享保の頃は松本藩麻績組の大圧屋も務めていました。 「会田・麻績騒動」では門脇の松に室内から持ち出した畳、障子、布団を積み重ね、火が放たれたそうです。松は焼かれて枯れたようですが、その横に新たな枝がでたのでしょう。古い幹に縛って今は元気に育っているようです。大切に松を守られているのが凄いです。

月明運動で知られる山崎斌(あきら)は本陣臼井家で1892年に生まれ、草木染をはじめ失われゆく古来の織物、和紙の復興に尽力しました。

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大和屋

往時は造り酒屋でしたが、現在は地域の町おこしの拠点となっているようです。
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旧役場跡・麻績村道路元標

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上問屋跡

問屋は慶長期には1件でしたが、後に2軒となり、上問屋(岩渕家)が月の前半を、下問屋(葦澤家)が月の後半を分担し継送業務を行っていました。

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高札場跡

高札場跡の右隣あたりが「下問屋跡」になります。
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旧家と牛つなぎ石

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麻績番所跡

江戸時代初期は松本藩領でしたが、松本藩主水野忠恒の刃物沙汰により改易となり、1743年(寛保3)年以降は天領となりました。

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海善寺の道標

「南無阿弥陀佛」と「是よ利 ひだ里 せんかつ寺道」と彫られています。1682年(天和2)建立です。

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海善寺

古くは光明院戎全寺といい、麻績宿中心地東の山裾にありましたが、1501年(文亀元)裏山が崩れ、堂宇も倒壊したため現在地へ移転、再建し「海善寺」と改めました。創建は出土した石塔群から鎌倉時代と考えられています。
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麻績城主服部左衛門清信供養塔

室町時代末期、麻績城主として入部した服部左衛門清信、加信斎兄弟(あるいは清信・清正父子)の供養塔であると伝えられてきましたが、鑑定の結果、鎌倉時代と室町時代の組み合わせと推定されています。

麻績城と服部清正

麻績城は服部氏によって築かれた城です。1550年(天文19)信濃府中を手中にした武田氏、2年後には法善寺に高札を掲げ、青柳城の青柳清長を従えて服部氏を追い払い、青柳氏が麻績氏を名乗り、麻績城主となりました。武田氏滅亡後は小笠原貞慶が支配しましたが、本能寺の変後、上杉景勝は逃れていた服部清正を入城させました。しかし、麻績服部氏は青柳氏と共に徳川へ寝返り、これに激怒した上杉景勝は麻績城を攻め、服部清正を八幡の志川で磔にしたとされます。

なんと目まぐるしい時代の変化と麻績城主・・・

本日はここまでとします。タクシーへ乗車するため、聖高原駅へむかいます。

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無くなった名号碑

ここには大きな「南妙法蓮華経」の名号碑があるはずでしたが・・実際は無くなっていました。どこへ行ったのでしょうか・・・

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豊受大明神

詳しくはわかりませんが、1847年頃(弘化4)の古地図には「大神宮社」として描かれています。

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明治神宮

なぜここに明治神宮があるのかはわかりません。最近勧請されたものでしょうか。
聖高原駅前には「駅前歌碑公園」があり、麻績を訪れた旅人の歌碑がずらっと並んでいます。

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芭蕉句碑

『さざれ蟹 足這いのぼる 清水かな』

1791年(寛政3)秋、麻績宿の歌人、鳥?、可吟、暁平らによって猿ヶ馬場のお仙の茶屋跡にこの句と同じ句碑が建てられています。

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岩渕要句碑

『重々と屋の上に雪つもりいて暗き町かも吾が子いま亡し』

岩渕要は明治19年、麻績宿中町に生まれました。この句は麻績の岩渕家で生まれた長女の死を悼んで詠んだものです。

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信生法師・伊賀光宗歌碑

1225年(元仁2)麻績御厨矢倉村に配流されていた鎌倉幕府の重臣、伊賀光宗を友人の信生法師が訪ねた際のものです。

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聖高原駅

1900年(明治33)の開駅時には「麻績駅」であった駅名を1976年に観光開発のため「聖高原駅」に変更されてしまいました。麻績は由緒ある名前なのに変えてしまうとは・・残念です。
15:00 聖高原駅に到着しました。駅前にアルピコタクシー営業所があります。この日はタクシー乗り場にすでに止まっていてスムーズにタクシーに乗ることができました。本日宿泊するのは『シェーンガルテンおみ』です。ホテルまではタクシーで1,800円程度でした。