2020年9月22日

春日山城の見学は、ほとんどの人が春日山神社下の駐車場に車を停め、本丸を目指して歩いていくと思いますが、せっかくですから大手道を登り、左回りに春日山城を一周したいと思います。 車は大手道入口近く、御前水隣の「大手道駐車場」へ停めました。

10:00  「クマに注意」という看板があります。8月に2回、大手道と本丸付近で目撃されたとあります。少々ビビりながら大手道を歩いていきます。お天気はどんよりしています。

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大手道入口

この道は、江戸時代に描かれた春日山城の古絵図に大手道と記載されていたことから、当時の人々もここを春日山城の正面玄関と考えてようです。
TOO001 暫く畑の中の道を歩き、溜池横にある「大手道公園」を過ぎると山の中へ入っていきます。大手道公園にも車を駐車できるようです。

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番所跡

標柱のある小山は木戸が造れていた土塁の跡で、門があったと考えられています。
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亀割清水

水量は多くはありませんが、コップがおいてありました。周囲は畑ですので飲用はあまりおすすめできません。

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南三の丸

「ジョウ(城)の畑」と呼ばれ、古くから城内と意識されてきた。 土塁や堀で区画された郭が連なり、春日山城の最も重要な屋敷が集まっていたと考えられます。

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如意輪観世音菩薩

本丸へ向かうつもりが、途中で道を間違え正善寺方向へ向かっていました。如意輪観世音菩薩を過ぎて道が下っていったため気づき、戻りました。

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案内板にはちゃんと「本丸へ」と書いてありましたが、全く見ていませんでした。
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柿崎屋敷跡

上杉謙信の重臣柿崎景家の屋敷跡と伝えられる春日山城で最も大きな郭の一つです。城内で唯一ハンノキが自生する場所で、ここに池もしくは水堀があったと考えられています。屋敷へは、大手道から木橋をかけた南側の空堀を渡って入るように古絵図に描かれているそうです。
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御成街道

時の関白近衛前嗣が通ったことから御成街道と呼ばれます。謙信は二度の上洛を通じ、お互いに年も近く、酒好きであった前嗣と親交を深めました。謙信が、後奈良天皇・正親町天皇と拝謁できたのも前嗣の力添えによるものでありました。前嗣は、1560年(永禄3)、議信を頼って越後府中(直江津) に下向し、三年間滞在しました。

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上杉景勝屋敷跡

「御館の乱」で勝利をおさめ、上杉謙信の跡目を相続した景勝の屋敷と伝えられています。景勝は謙信の姉仙洞院の子で、 直江兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の一人までになりました。
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鐘楼跡

時刻や非常を告げる施設として使用していたと考えられます。

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大井戸

山城の井戸としては全国最大で、今でも満々と水をたたえています。数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や杓などが見つかっています。

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井戸曲輪

城の古絵図にも「井」と記されているそうです。西方の山々と礫層で繋がっており、サイフォンの原理で水が湧くといいます。

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油流

井戸曲輪西側斜面に「油流」とありました。油を流していたのか・・と思いましたが、急斜面で滑りやすいためこう呼ばれたようです。

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天守閣跡

上杉謙信の居城として知られる春日山城は南北朝時代に築かれたと言われていますが、天下の名城となったのは上杉謙信の時代です。謙信は1560年(永禄3)に普請を命じ、1573年(天正元)にも普請を命じ、この時をもって春日山城は完成したと考えられています。1607年(慶長12)上杉景勝の後に春日山城へ入った堀秀治が直江津港近くに福島城を新築して移ると春日山城は廃城となりました。
TOO001 春日山の名称の由来は、上杉氏が奈良の春日大社から祭神を勧請したことに由来します。

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本丸跡

南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれていました。標高180mの本丸からは、越後府中(直江津)と山々の支城跡や日本海が一望できます。

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護摩堂跡

上杉謙信が護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのがこの場所にあった護摩堂です。謙信は真言密教を深く信仰していました。

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毘沙門堂跡

毘沙門天が安置されていました。上杉謙信は仏教を守護する四天王の一つ毘沙門天を敬い、自らを毘沙門天の化身と信じ、軍旗には「毘」の一字を用いていました。出陣前には毘沙門堂に籠もり、戦勝祈願を行ったといわれています。

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諏訪堂跡

上杉謙信は諏訪大明神も信仰していたのでしょう。

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毘沙門堂

謙信が祈願した毘沙門天像は上杉家の移封に伴い会津を経て米沢に移されましたが、火災により被災したため、その像のかけらを体内に収めた分身像を高村光雲が制作し、1930年に当時の春日村に寄贈され、翌年に建設された毘沙門堂に安置されました。現在は盗難防止のため、青銅製の像と入れ替えられ、光雲が制作した像は埋蔵文化財センターの特別収蔵庫に保管されているようです。

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不識院跡

急死した上杉謙信の遺骸は、鎧を着せ、甕(かめ)の中へ納め漆で密封し、不識院に安置されたことが『上杉家御年譜』に記されています。謙信は出家した際に不識庵謙信を号していたため、霊所の名称も不識院と命名されたようです。その後は米沢の上杉御廟所へ埋葬されています。

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御花畑跡

城内の御堂に供える花や薬草を育てていたといいます。現在お花はなく、樹木が鬱蒼としています。。

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直江屋敷跡

上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられる上下3段の郭です。直江家は上杉謙信の父為景の代から仕え、NHK大河ドラマ「天地人」に描かれた直江兼続は謙信の跡目を継いだ景勝の家老となりました。景勝が会津へ国替えになった時に同行し米沢藩三十万石の城主になりました。

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帯郭

斜面の中程を水平な帯状に削り出しています。特に重要な郭を防御するために造られたと考えられ、春日山城には本丸と直江屋敷を取り巻くように造られています。

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虎口

城の玄関にあたる場所をいいます。敵が場内に入りにくくするよう、食い違いになっています。

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空堀

謙信像裏手から登るとここへ通じ、それを断ち切る空堀です。平時は橋がかかっていたようです。

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上杉少弼(しょうひつ)入道宅跡

上杉少弼入道とは誰なのか・・・上杉謙信との説もありますが、別に館跡がありますし、謎です。

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千貫門

三方が土塁と土手に囲まれ、一見、道と見える切通は実は空堀で、「塹濠跡」のところで敵を崖下に落としたと考えられています。

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塹濠跡

千貫門から道と見える切通を通らせ、ここから敵を向こう側の崖下に落としたようです。

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小川澄晴千代之霊碑

春日山神社を創建した父と母を弔うため、小川未明によって1940年(昭和15)年に建てられたものです。

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刀法直心影流 倉地正實先生碑

大正12年建立。高田藩剣道師範役、直心影流鹿島神伝16代 倉地正久(1909年(明治42)没)という方の情報はあるのですが正實先生の名前は見つかりません。倉地正久氏のご子息でしょうか。

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北海稲荷大明神

上杉謙信は飯綱明神を信仰し、兜の前立にしていたことは有名です。疾走する霊狐に迦楼羅(かるら)姿の飯綱明神(飯綱権現)が前向きに乗っているものです。

小川澄晴が春日山神社を創建しようと土地や募金など奔走していた折、完成の暁には北海稲荷を招霊し、祠に祀ることを約束しておりましたが、明治34年、神社完成後、反故にしていたようです。ところが蒲原地方の婦人の枕に白衣白髪の北海稲荷大明神が現れ、これを聞いた澄晴は驚き、ここへ祠を造り春日山神社の鬼門の守りとしたということです。

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春日山神社

童話作家、小川未明の父で旧高田藩士、小川澄晴が謙信を祀るため、山形県米沢市の上杉神社より分霊を迎え、建立した神社です。本殿は宮大工江崎長三郎の作で、1901年(明治34)の建立です。小川澄晴は夫婦と一人息子の未明と社務所に居住し、未明が東京へ出てからは毎年帰省していた実家になります。

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老母屋敷跡

長尾為景の後室で謙信の生母である「青岩院」(虎御前)が住んでいました。謙信の幼名の「虎千代」から後に「虎御前」と呼ばれるようになったようです。信心に篤く、謙信の信仰にも影響を与え、為景の死後は仏門に入り、その菩提を弔う余生を過ごしたといいます。

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小川未明詩碑

童話作家の小川未明の詩「雲のごとく」が書かれています。

『雲の如く高く くものごとくかがやき 雲のごとくとらわれず』

未明は家族とともに15歳から春日山神社の社務所で暮らしました。今では道路がありますが、当時は野中の一軒家、一人っ子で近所に遊ぶ友もなく・・・山を歩いては自然石を集め、日本海を眺め、自然に向かい合い、空想にふけっていたようです。この頃の経験が彼の作品に大きく影響を与えたといいます。

碑の裏には童話作家で友人の坪田譲治がこのように書いています。「明治30年代、先生はこの山上にあって空想し、瞑想し、憧憬する孤独な少年であった。すなわちここは未明文学の故郷である。」

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コシヒカリアイス

お米のつぶつぶが入ったアイスです。味は普通ですが、だいぶ歩いてきましたので美味しくいただきました。

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上杉謙信銅像

上越市内を見下ろす謙信の銅像は、高さ3m余り、昭和44年に滝川美一によって制作されました。

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演馬場跡と茶屋

「演馬場」とはどのようなものでしょうか。流鏑馬などを指すのでしょうか?

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相撲場

毎年夏に行われる「謙信公祭」のときには、奉納武道大会があり、相撲大会はここで行われます。

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白山神社

御前清水の奥にありますが、訪れる人もなくひっそりしています。境内には小川や小さな池がありました。

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御前清水

よく整備された水場です。年間を通じて水を汲みに来る人が絶えない名水ということですが、極めて水量が少ないです。水温も高く、危機的状況ですね。
13:00 大手道駐車場まで戻ってきました。春日山城の見学はこれで終わりです。3時間ほどかかりました。

次は車で5分ほどの「林泉寺」へ向かいます。林泉寺前には広い無料駐車場があります。

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林泉寺惣門

惣門は、春日山城の搦手門を移築したと言われますが、あれれ?茅葺きじゃない・・いつの間にか茅の上に銅版が葺かれたようで、少し残念です。

コロナのため門は閉じられています。早くても4月頃まで閉めるそうで、謙信の供養塔なども見に行くことはできません。非常に残念です。

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林泉寺山門

林泉寺は、謙信の祖父、長尾能景(よしかげ)が父の菩提を弔うために創建した長尾家の菩提寺です。謙信は7歳から14歳まで名僧・天室光育(てんしつこういく)のもと文武の修行を積みました。信仰心が深いのはこの時に培われたものと言われます。山門は1925年(大正14)の建立です。
13:20 今日はここまでです。まだまだ名所はたくさんあります。残念ですが時間切れです。これより地元に戻ります。加賀街道を歩く時に、また来たいと思います。