2020年11月22日

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11:30 潟町宿へ進んでいきます。どこまでも澄んだ青空が広がっています。

黒井から先は浜辺の八千浦地区を東北へ進んでいきます。1889年(明治22)黒井、上荒浜、下荒浜、遊光寺浜、石橋新田、夷浜、夷浜新田、西ケ窪浜が合併し八千浦村となりました。昭和29年、直江津、八千浦村、諏訪村、保倉村が合併し直江津市となり、昭和46年高田、直江津市が合併し現在は上越市となっています。

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八千浦中学校

校歌作詞は、当時新潟県立高田高等学校の校長であった小和田毅夫氏で皇后雅子様の祖父にあたります。小和田氏は幼少期から師範学校入学までを黒井で過ごされたそうです。

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上荒浜の諏訪神社

江戸時代の上荒浜は13戸、90人くらいとの記録があります。農業よりも漁業が中心で最近まで盛んに行われていました。

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大根干し

木に大根の実がなっているように見えました(笑)
上荒浜はほんの100m程度で終わり、下荒浜に入ります。下荒浜にも諏訪神社があり、創建は不明です。元は海に近い所にあったようですが、昭和37年に日本海水化工の建設に伴い現在地に移転されたようです。 江戸時代の下荒浜は13戸80人程度、馬数頭との記録が残っています。

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順徳天皇碑

1221年(承久3)、承久の乱で鎌倉幕府に敗れた上皇は京都から北陸道を経て佐渡へ流される途次、荒浜村で休憩したと伝わっています。佐渡では佐渡院と称されますが、1249年(建長元)順徳院となります。佐渡では21年を過ごし、佐渡で崩御しました。明治7年に遺骸が京都へ帰るときも休憩したということで記念碑が建てられました。

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遊光寺浜の諏訪神社

各集落に諏訪神社があります。なぜ諏訪神社が多いのでしょう。

諏訪神社に祀られているのは建御名方神です。出雲王国の大国主命が越の国の姫・沼河姫を娶り、二人の間に生まれたのが建御名方神でした。また、現在の新潟の地の「潟」を干拓して稲作に適した土地に改良したのが、建御名方神であったともいわれています。

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遊光寺浜

下荒浜も500mほどで通過し、遊光寺浜へ入っていきます。1595年の文禄検地によると、遊光寺浜村は家8軒、25人と記されています。

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大根干し

新潟では冬が近づくとどこの家庭でもたくわんと割干し大根を入れたはりはり漬けを作ったそうです。現在も続けておられるご家庭がありますね。雪深い越後の冬を越すための保存食です。

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夷浜(えびすはま)

地名の由来は661年、大和時代に当地を蝦夷討伐の拠点としたことからと言われます。『夷浜米大舟(ベイダイシュウ)』という郷土芸能が残っています。400年前、飢饉に苦しんでいた大潟の人たちに救済の米を運んだ奥州(山形酒田)の船乗りが伝えたとされている民謡です。潟町、土底浜、黒井でも地区の祭りで踊られているといいます。北前船とも関係が深いことから、上越市の文化財に指定されているそうです。

1595年の文禄検地によると、夷浜村は家25軒、85人との記録があります。

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信光寺

1622年(元和8)親鸞聖人に帰依した浄信が今よりも海岸に近いあたりに開いたと言われ、明治27年に現在地へ移転しました。その際、難破した北前船の用材を使用して再建したといいます。

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筆塚

「子弟中」とあるので筆塚だと思いますが、名前が読み取れません。

1kmほど歩くと夷浜から西ケ窪浜となります。

西ケ窪浜西端にある諏訪神社の脇に水の枯れたことのない窪地があったことが名前の由来といいます。1595年の文禄検地によると家30戸、人口98人との記録が残っています。

また、西ケ窪浜には「宝光寺」というお寺がありましたが、住職尊慶は上杉景勝が会津へ移った後に領主となった堀氏に反対し、一揆の主要人物となり堀氏に破れ追放、寺は取り壊されたとのことです。

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犀浜の製塩

「西ケ窪浜こどもの家」の横に案内板があります。

上荒浜から直海(のうみ)浜までの18ケ村の塩を「犀浜塩」と言い、製塩が重要な副業となっていました。

製塩の方法は揚浜式製塩法といい、砂浜に長方形の塩田をつくり、海水を何回も振りまき塩の結晶がついた砂を集収します。これを再び海水に溶かし、濃い塩水を作り更に煮立てます。日照時間と天候から4月末から9月初め頃まで行われていました。江戸時代には高田の塩問屋に卸したり、牛馬に積み直接農村へ売りに出ましたが、1905年(明治33)塩の専売が制度化されたことにより次第に縮小し行われなくなってしまいました。

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渡邊健蔵君之碑

「門弟中」とありますが、寺子屋師匠でしょうか。書は石湖博となっていますが、こちらもどのような方であるのかわかりません。

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軍艦三笠乗組

道中には戦争でなくなった人々の碑がたくさんありますが、三笠に乗っていたという人は初めて目にしました。三笠は今でも横須賀に係留され現存し、公開されています。

西ケ窪浜を700mほど進むと犀潟に入っていきます。

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黒井宿を過ぎて海岸沿いを進んで行くと、木の板を貼った外観が特徴的な建物が多くなってきました。『鎧張(杉板下見貼)』と呼ぶそうですが、更に縦に押し縁を打ち付けてある住宅も多く見られます。
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犀潟の諏訪神社

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古宮台場跡

天保15年に幕府の命により高田藩が築造したとされる大筒台場「古宮台場」には平成3年に教育委員会と観光協会によって建立された石碑がありますが、寄らずに先を急ぎましたが、犀潟公園の案内板にある地図を添付しておきます。

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惠光寺

本堂には雪を防ぐため窓や開口部に横板がならべます。このようなものも雪囲と言うそうですが、簡単に取り外しができるよう、柱には金具が取りつけられています。
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延命地藏尊

コンクリートの覆屋に收まる延命地蔵は、鋳物製のようです。

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円蔵寺

木喰上人が彫った毘沙門天と不動明王の大きな像が安置されているそうですが、見ることはできませんでした。いずれも1805年(文化2)、木喰上人88歳の時の作で、上越市吉川区神田町の無量庵で刻まれた後、廃堂に際し1962年(昭和37)に円蔵寺へ移されたそうです。仏像には「八十八歳」の銘が入り、高さは1m弱とされます。

木喰上人

俗姓を伊藤といい、1718年(享保3)山梨県に生まれ、22歳で仏門に帰依し、その後45歳で木喰戒(火食を絶ち、五穀をさける)を受け、92歳でこの世を去るまで、5度の日本廻国を行いました。上人は、昼は寺に集まる人々の病気や苦悩の相談相手となり、夜は黙々とナタをふるい、一夜に最高3体を刻んだと言われます。現在、全国で確認されている木喰仏像は350体程とされます。
TOO001 円蔵寺から海に出て、ちょっと休憩・・・あ〜日本海まで来たんだな・・としみじみ思います。風が強く寒いですね。東北電力上越火力発電所が見えます。

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イソヒヨドリ

北国街道へ戻り、再び潟町宿を目指して進んでいきます。戻った道の左手角の住宅庭に「明治天皇小休所御前水碑」がありました。

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明治天皇小休所御前水碑

詳細な情報はありませんが、ここで休憩され、今は見当たりませんが往時は井戸があったのでしょうかね・・

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新堀川

人工の堀です。水門が設けられています。

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新堀川開削由来記碑

高田藩家老の小栗美作により大潟新田開発が行われてきましたが、元々冠水地帯のため、1646年(正保3)現在の朝日池から上越市保倉川口まで13kmの潟川を完成させ、排水路としましたが、大雨のときは保倉川からの逆流が多く、また1751年(宝暦元)の大地震で決壊してしまいました。

潟川の改修と新堀川1550mの開削を幕府に願い出て6年、1756年(宝暦7)に完成しましたが、その年の長雨で崩れてしまいました。その後、田村新田笠原氏、下増田新田大竹氏父子数代に渡る努力により80年ほどの後の1835年(天保6)ようやく完成しました。
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潟守神社

新堀川を守るため、川の両側に潟守新田を立村、神明宮(潟守神社)を建立しました。

新堀川を左に折れ、水門を見に行ってみます。

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新堀川暗渠排水工事竣工記念碑・灌水防除事業竣工記念碑

新堀川は開削後も幾多の改修整備が行われ、大潟の耕地は肥沃地となっています。

新堀川を渡ると「犀潟」から「渋柿浜」となります。
北国街道へ戻り、潟町宿へ進んでいきます。450mほど右手に「見真大師御旧跡」の石碑が見えます。

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見真大師御旧跡

専念寺の参道にある明治27年建立の石碑です。見真大師とは親鸞聖人のことです。

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専念寺

専念寺は、1207年(承元元)、親鸞聖人が越後へ流罪になったおり聖人の第一の弟子、西仏房(さいぶつぼう)が開いた寺と伝えられています。寺には親鸞聖人89歳の木像や越後へ流罪になった35歳の時の姿や越後から関東へ旅立つ姿、そして親鸞聖人直筆の「六字名号」など親鸞聖人ゆかりの品が祀られているといいます。僧温は、専念寺に生まれたとされます。

僧温(そうおん)

渋柿浜の専念寺に生まれました。名を慧麟(えりん)といい、のちに僧温と改名し、1823年(文政6)、妙高市姫川原の正念寺の住職になりました。正念寺は3代続いて京都西本願寺の勧学になった寺であり、僧温も勉学に励んだため、勧学(現在の龍谷大学の教授に当たる)に出世した学者でした。生涯の間に『大経講録』など、たくさんの仏教書を著しました。

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茶筅塚(ちゃせんづか)の碑

棟方志功が寺で描いた絵や会津八一(渾斎)が揮毫した茶筅塚の碑などが寺の宝とされます。茶筅塚は、使い古した茶筅の供養をするため塚のようです。
600mほどで渋柿浜から上小船津浜へ移ります。

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竹田酒造店

1866年(慶応2) 竹田清左衛門が漁舟の船着場である上小舟津にて酒造業をはじめました。

世界的な賞を受賞した「かたふね」という銘柄のお酒が造られています。
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下小船津浜の諏訪神社

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諏訪神社の手水

藁葺に銅板屋根の立派な手水がありました。

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舟つなぎ石

小船津浜には潟湖から砂丘を横断して日本海へ流れ出る川があり、河口に湊(船津)があったと伝わっています。船着き場にあったとされる石が諏訪神社本殿裏にあります。

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浄照院の鐘楼門

浄照院の薬師堂(瑠璃殿)には、自然石で造られた座像の薬師如来が安置されています。諸悪病に効き目があり、お産は軽く済み、子宝を授かると漁民を始め、多くの人に信仰されました。

浄照院の薬師如来

昔、浄照院が明照寺と呼ばれていたころのこと、下小船津の漁師が、魚を取りに海辺に行くと、波打ち際に仏像を見つけました。3尺以上もある、優しい顔の、手に薬壺を持った仏像でした。明照寺へ運ぶと住職は、薬師如来様だ、寺の宝物にしようと本堂の隅に安置されました。1788年(天明8)に明照寺が浄照院とその名を改め、1863年(文久3)第8世恵雲和尚の時、瑠璃殿が新しく建てられ安置されました。毎年10月に祭礼が行われています。

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土底浜(どそこはま)

上小船津浜、下小船津浜と経て1kmほどで土底浜へ至ります。信号が縦ですね。雪が多いのでしょうか。

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土底浜の諏訪神社

江戸時代の土底浜は、下土底浜村、上土底浜村と別れていたようで、下土底浜村は家16軒、61人、上土底浜村が家4軒、16人との記録が残っています。
1kmほど進むと土底浜から宿場であった潟町に入ります。

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火防地蔵尊

昔は防火を目的とした土塁が築かれていた場所だと言われています。

火防地蔵尊のいわれ

1819年(文政2)潟町の鍛冶屋惣助の屋敷が火元で、108軒を全焼するという大火事がありました。提灯の置き忘れが原因のため、提灯火事といわれています。この火事の前夜のこと、1人の坊さんが笈を背負い、村中を「火事があるから気をつけよー、用心しろよー」とふれまわっていました。すると翌晩、大火事が起こり、村人達は、「あの坊さんは地蔵様に違いない」といい、大急ぎで御堂へ行ってみると、お地蔵様は目に涙をたたえ、全身が黒こげとなっていました。その上、かも瓜(冬瓜)の種が体中、隙間なくついていました。それ以来火防地蔵尊と呼んで信仰しているそうです。
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明治天皇潟町行在所碑

明治11年の北陸東海巡幸の際、9月12日に行在、9月25日に小休されました。潟町組22か村の大肝煎であった田中謙五郎宅内、浜側140坪に行在所として上段の間を備えた御座の間が新築されました。御前水井戸も同所にあるということですが、屋敷の裏側にあるのか、見ることはできませんでした。

また、田中謙吾は幕末のころ和算家・測量家として知られます。成人して江戸へ出て、有名な関流の和算家長谷川善左衛門寛について、数学・測量術を学び、数学の免許皆伝、測量術の免状を受けました。砲術の大家高島秋帆について、砲術を学んだともいわれています。

行在所の向かいに市神があります。市神から3,4軒先の左手が庄屋であった八木家です。

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市神

市の立つ場所に祀られる神様ですから往時はここに市が立っていたのでしょうね。
その先、右手の西念寺へ入っていきます。西念寺には「亀田伊兵衛」のお墓があるということです。

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西念寺

亀田伊兵衛

享保年代の初期、干ばつと長雨のため上越地方は凶作となり、潟町の田んぼは、昔の大潟そのままの湖となってしまい、川浦代官所に窮状を救ってくれるようお願いしましたが、受け入れられませんでした。そんな時、奥州山形の弁財船頭目、亀田伊兵衛は米俵を満載した船を今町(直江津)から、大阪に向かって出港という間際、潟町の庄屋八木氏と出会いました。凶作で、犀浜、特に潟町が一番困っていることを述べまると、「国へ帰ってから考慮しましょう」と言い残し、出港していきました。数日後、潟町の浜浦に米俵を満載した弁財船がやってきました。伊兵衛は、約束を実行し、米を運んで来てくれたのでした。伊兵衛は一旦帰国しましたが、妻子を連れて再び潟町に戻り永住することを申し込みました。

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花光庵跡地

亀田伊兵衛の墓は、この花光庵の墓地に埋葬されました。現在庵の建物はありませんが墓地は残っています。表札によると享保年間から昭和37年までは庵があったようです。亀田伊兵衛は花光庵に立派な半鐘を寄進しましたが、後に戦争のために供出されてしまったそうです。

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亀田伊兵衛の墓

伊兵衛さんは大病にかかり、1750年(寛延3)に亡くなりました。この墓石は昭和27年に発見されて、昭和47年に現在地へ移設され立派な台座に据え直されています。
西念寺をあとに南の「神明宮」へ向かいます。神明宮の手前、左手に「潟町宿開宿記念碑」がありました。

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潟町宿開宿記念碑

黒井宿から柿崎宿まで砂丘の道が四里(約16km)も続くため、ほかの宿より50年ほど遅れて1660年に中間の潟町宿が新設されました。開駅250年の記念碑が神明宮前に建立されています。

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潟町の神明宮

潟町郵便局前から参道が伸びています。
神明宮から北国街道へ戻りつつ、大潟町中学校前を通ります。

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小山作之助歌碑・胸像

大潟町中学校の校門脇にありました。胸像まで雪吊がされていてびっくりです。銅像も雪の重みで壊れてしまうのでしょうか。

小山作之助

1886年(文久3)潟町新田(現大潟町)の石油業を営む小山作八の長男として生まれました。父の手伝いをしながら元高田藩士の私塾で漢学を学び、1880年(明治13)に上京します。明治学院前身の築地大学で英語、数学を学び、文部省音楽取調掛(現東京芸術大学)に入学します。東京音楽学校の助教となり、後に教授にまで昇進しました。愛弟子には滝廉太郎もいました。「夏は来ぬ」佐々木信綱の歌詞に作之助が作曲したものです。1927年(昭和2)に亡くなるまで音楽教育に尽力されました。
大潟町中学校から南へ向かう細道を通り、潟町町内会館へ向かいます。

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亀田伊兵衛顕彰碑

潟町を飢餓から救った亀田伊兵衛顕彰碑は、潟町町内会館前にあります。昭和37に潟町の米大舟保存会が建立したものです。
潟町町内会館から西へ100m、ようやく北国街道へ戻ってきました。

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潟町村道路元標

中頸城郡潟町村は1889年(明治22)、九戸浜村、雁子浜村、浜雁子新田、九戸雁子上下浜立会が合併しました。

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米山道道標

『米山道・左奥州道』と刻まれています。米山道は米山講の参詣道で、米山南西麓の別当寺密蔵院を経由し米山に至ります。

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泰翁塚

筆塚なのでしょうか。大きく立派な石碑ですが、由来は全くわかりません。

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白妙地蔵尊

由来等はわかりませんが、堂の中には6体ほどのお地蔵様が並んでいます。

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どんどの池(弁天池)

4つの池があり、上流側から水源地、飲料水池、野菜洗池、洗濯池となっています。現在も簡易水道の水源となっています。

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どんどの石井戸

文化年間頃に九戸浜村のススキ原にどんどん湧き出る泉があり、村人たちは切石で囲み、飲水にするため水桶で運ぶ人で賑わい、簡易水道ができるまでの長い間、この水で暮らしてきました。昭和49年に碑を建立。 石がくぼんでいる場所は水を汲んでいたところのため、すり減っているそうです。

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筆塚

上部には「清輝」とあり、下部には「発起門人中」、揮毫は佐藤彦十郎とあり、明治24年の建立のようですが、どのような方の筆塚かはわかりません。
15:30 本日宿泊する『鵜の浜温泉 みかく』に到着しました。鵜の浜温泉は昭和33年、帝国石油のガス・石油の掘削によって開発された温泉です。地下700mより弱アルカリ性43℃の温泉が湧き出ています。温泉は江戸時代には無かったようです。