2022年9月20日

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11:30 宮川宿をあとに現在は国道352号線となっている北国街道を椎谷宿へ向けて進んでいきます。清水不動尊から560mほど進むと右手に学校の門がありました。

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高浜小中学校跡

1902年(明治35)、宮川尋常小学校と椎谷尋常小学校が統合し、高浜尋常小学校が開校しました。1947年(昭和22)より高浜小学校と改称され、中学校も併設されました。1984年(昭和59)に中学校が閉校し、2012年(平成24)に小学校も閉校され、現在は校舎が残っているのみです。

学校跡を過ぎても住宅や建物は全くありません。国道なので車は頻繁に通りますが左手に海、右手は山・・という道を650mほど進みます。歩道はあるのですが、誰も歩くことがないのでしょう・・蜘蛛の巣がいっぱいあり、なんと大きな蜘蛛が肩に乗っていて大騒ぎ!!

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椎谷の集落に入ってきました。妻入りの古い町並みが残っています。椎谷は歌枕の「越の高浜」から明治から昭和32年までは「高浜町」でした。現在は柏崎市へ編入され「柏崎市椎谷」です。
椎谷郵便局の裏山が「椎谷角城跡」とされます。

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椎谷角城跡

1506年(永正3)頃から始まった永正の乱の時に長尾為景軍によって築かれたと考えられているようですが、詳しいことはわかっていないようです。北国街道側からの登口はなく、華蔵院の中から入れるようですが、よくわかりません。
郵便局から70mほど進み右へ曲がり、140mほどで「華蔵院」があります。

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華蔵院

817年(弘仁8) 密韶和尚により建立。1768年(明和5) 了宥上人が再建、椎谷藩堀氏の祈願所で椎谷観音堂を境外仏堂として管理しています。

華蔵院より北国街道へ戻り150m、四阿や案内板のある路地を右へ入っていき、階段をのぼり小高い丘が「椎谷陣屋跡」です。

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椎谷陣屋跡

椎谷藩は、堀氏一万石で1616年(元和2)の立藩より1871年(明治4)の廃藩に至る約250年間、15代に渡り椎谷陣屋を治所として領内を統治しました。また参勤交代のない「定府大名」でした。

初代藩主、直之は1616年(元和2)に妙法寺村超願寺に仮陣屋を設けましたが、1619年(元和5)に椎谷に陣屋を構え、その後の4代藩主、直宥は元禄年間(1688〜1764)に椎谷の唐箕前(とうみのさき)に陣屋を移し、1715年(正徳5)の5代藩主、直央の時にこの地へ移りました。

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椎谷陣屋跡

3000坪の敷地に藩主邸、馬場、砲術稽古場、武具蔵、勤番所などがありましたが、1868年(慶応4)戊辰の役で焼失しました。

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陣屋の平面図と陣屋絵図

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椎谷陣屋藩邸跡

陣屋は標高20mほどの高台に設けられていましたが、藩邸も戊辰の役で焼失しました。現在は陣屋稲荷が祀られています。
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裏門跡と裏門から見える椎谷の町

陣屋跡の反対側から北国街道へ戻ります。坂を下るとすぐ右手が「椎谷の馬市跡」です。

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椎谷の馬市蹟(梅屋跡)

椎谷の馬市は椎谷藩主初代、堀直之が馬の改良を奨励したことから始まります。毎年6月に行われ、東北地方からも人馬が集まり、最盛期には8千頭の馬、1万人の人が集まり、昭和初期まで続いていたようです。 梅屋は馬市の宿元でした。
現地の看板では安芸、白河と並び「日本三大馬市」と言われたとありますが、ほとんどの資料には備後・豊後安芸・白河・伯耆のいずれかで「日本三大馬市」とされています。椎谷は春日新田・栃尾とともに「越後三大馬市」とされていますが・・ただ、大変賑わったことは間違いありません。

「椎谷の馬市蹟」から50mほど先の左手の空き地に「明治天皇椎谷御小休所碑」が建っています。

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明治天皇椎谷御小休所碑

椎谷宿の本陣は羽田車屋が務めていました。1878年(明治11)明治天皇北陸巡幸の際には羽田車屋で小休されました。現在は建物もなくなり、碑が建つのみです。
そのすぐ先を右手へ入り、坂道を上りさらに行くと椎谷観音堂の山門になりますが、その手前で右へ曲がります。

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椎谷の御膳水へ

道なりに330m、小さな川の手前で左へ曲がるととても気持ちのいい道になります。さらにこの細道を200mほどで「椎谷の御膳水」へ到着します。さらに奥には「椎谷不動堂」、不動堂の左手を50mほど奥へ進むと「不動滝」があります。
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椎谷の御膳水

この不動堂の湧水で入れたお茶を明治天皇に差し上げました。

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椎谷不動堂

弘法大師が諸国を行脚した際、この地に不動明王を安置し、暫くこの地に滞在したといいます。堂は200年ほど前に建立されたそうですが、戦後荒れていた堂は取り壊され、現在の堂は1991年(平成3)に再建されました。

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不動滝(身隠しの滝)

弘法大師が祀った不動明王はその後、夜明けの霧が立ち込める朝に突然、不動堂裏の滝の中に身を隠してしまったことからこの滝を「身隠しの滝」と言うようになったということです。
よく見るとパイプから水が導水されているようで、自然の滝は消滅しているのかもしれません。

地理院地図にも道は描かれていませんが、椎谷不動堂は椎谷観音堂から山道を下ってくるルートもあるようです。恐らく観音堂駐車場の奥だと思います。

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道路にサワガニが歩いていました!
椎谷観音堂の下まで戻り少し上ると左手に小さな観音堂、右手に仁王門があり仁王門へ上がって行きます。仁王門前には芭蕉句碑があります。

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芭蕉句碑

『草臥(くたびれ)て宿かるころや藤の花』

1688年(元禄元)芭蕉が大和行脚で詠んだ句です。句碑は江戸の俳人巣也(そうや)が1821年(文政4)俳諧行脚でこの地に来て滞在中、椎谷観音堂で咲く藤の花を見て、土地の俳人武田岡右エ門とこの句を選んで建立したものです。

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椎谷観音仁王門

風よけの波板で残念ながら門はよく見えません。
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椎谷観音仁王門

朱塗りの仁王門は明治期の建築と推定されています。

仁王門をくぐり、頓入坊が築いた石段を少し上ると左側に「頓入沙弥入定窟」があります。

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頓入沙弥入定窟

1789年(寛政元)自らお経を唱えながら入定したという頓入坊の入定窟です。
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頓入坊の顕彰碑と墓石

仁王門から観音堂へ続く石段は330段あるとされています。 刈羽村正明寺村の巻口清八は暴れん坊で、村人から嫌われていました。ある時村人は清八を縛り上げ、海へ投げ入れましたが奇跡的に助かり、観音様に感謝しました。すっかり改心した清八は、多くの人たちに迷惑をかけたことを反省し、観音堂で剃髪を行い出家し頓入坊と称し、罪滅ぼしに観音堂まで楽に上がれる石段を18年の歳月をかけて築きました。

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石段・栄寿丸石鳥居

石段の中頃にある明神石鳥居は1802年(享和2)椎谷栄寿丸の船主小三郎と水夫5名が奉納したものです。石工は「長州赤間関松屋伊兵衛清道」と銘が刻まれ、北前船の船主が航海中の安全を祈願して奉納したものです。正面右には1868年(慶応4)の戊辰戦争で官軍の砲弾が命中した跡だと言われています。

石段を上って行くと自動車道にでます。その先左手に「大龍上人廟跡」と書かれた案内板がありました。

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大龍上人廟跡

上人は西山町鎌田(椎谷から東へ2kmほど)渋谷家の出身で、幕末の高僧です。京都御所において公家等に密教の教化に努め、宮中より上人号を賜り「心明上人」と称しました。晩年、椎谷観音堂へ訪れ、一廟を建立したとのことです。

TOO001 さらに石段を上り、330段を上りきると椎谷観音堂の壮大な建物が目の前に。藁葺の観音堂の右手に大欅と宝物殿があります。

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椎谷観音堂

811年(弘仁2)に海中から現れたと伝わる観音様が本尊、子授け観音として知られます。現在の観音堂は1770年(明和7)の建築です。

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椎谷観音大欅と宝蔵館

樹齢は1000年、目通り6.6mの大欅は柏崎市の天然記念物に指定されています。 宝蔵館は1924年(大正13)の建築です。観音堂は椎谷藩の厚い庇護を受け、椎谷藩堀家から寄進された宝物が宝蔵館に奉納されています。また、北前船や馬市に関する絵馬なども多く奉納されています。

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古北国街道

当初、椎谷から机立間は薬師堂の手前から観音堂左側を経由して堂山へ上る道がありましたが、天保年間に15代藩主堀之敏が海岸線の新道を開削したと考えられています。

この図は、椎谷陣屋跡の入口の四阿に掲示されていたものです。この道が今でも歩けるのかどうかはわかりません。
観音堂から左手へ行くと「香取神社」があります。

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香取神社

椎谷藩4代藩主、堀直宥が下総国(千葉)の香取神社より勧請し建立したもので、新潟県唯一の香取神社です。拝殿は1840年(天保11)の建立でしたが、2007年(平成19)の中越地震で大きな被害を受けましたが、旧材を活かして修復されました。
大龍上人廟跡まで石段を下り、帰路は車道を通っていきます。車道を下ると椎谷鼻灯台のあたりで北国街道へぶつかり、ここを右へ曲がって行きます。

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椎谷鼻灯台

1955年(昭和30)に建設されましたが、中越地震の際に基礎部分に亀裂が入ったため、2010年(平成22)に円筒形6階建ての灯台に建て替えられました。

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北国街道通行止め

現在、通行できなくなっています。2007年(平成19)の中越沖地震は観音岬の北8km、深さ17kmを震源とし柏崎や刈羽村で震度6強を記録しました。周辺の海岸は25cm隆起し、国道でもあった北国街道は不通となり、椎谷トンネルが新設されることになりました。
右手に日本海を見ながら北国街道を椎谷宿まで戻ります。

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夕日が丘公園

ここから望む日本海へ沈む夕日は綺麗らしいとのことですが、今日は曇っており景色は残念な状況です。

夕日が丘公園の中に「栗原医師殉職之碑」がありました。

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栗原医師殉職之碑

1944年(昭和19)予防接種のため旧大田小学校へ豪雨の中自転車で向かう途中、椎谷峠で入拝山の崖崩れに巻き込まれて遭難、土砂とともに波打ち際まで押し流されて殉職。

『子燕の飛ぶやそばなる親燕』

栗原医師は趣味で俳句をたしなみ、碑には一句が刻まれています。元は灯台へ500m先の旧道北側に建立されていましたが、椎谷トンネル工事のために現在地へ移されました。
椎谷のバス停から柏崎駅へ戻る予定ですが、結構時間が余ってしまいました。椎谷陣屋入口の四阿でバスを待ちました。椎谷のバス停はこの四阿から90mほど「椎谷の馬市蹟」へ進んだあたりです。

15:10のバスで柏崎駅まで1時間近くかかったでしょうか。台風も過ぎ去り、少し雨に降られましたがビショビショにはならず良かったです。柏崎駅で車をピックアップ、少し遠いですが、「じょんのび温泉楽寿の湯」で温泉へ入り、明日は早い時間に出発ですので車中泊しました。