2022年9月21日

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13:30 石地宿をあとにいよいよ北国街道の最終地「出雲崎宿」へ向かいます。

TOO001 ようやく晴れてきて佐渡がはっきり見えてきました。

石井神社から700mほど進むと右手にあるのが旧勝見鉱泉です。普通の一軒家に見えますが、かつては鉱泉を沸かして立ち寄り湯として営業していました。

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勝見鉱泉跡

日本石油が明治末に掘削し、冷泉とガスしか出なかったのですが、これを利用して冷泉をガスで沸かす「石地鉱泉場」として大正時代に開湯しました。

2009年(平成21)に出雲崎を訪れた際に入浴したことがあるのですが、現在閉鎖されていたのが残念です。
さらに200mほどで勝見集落へ入ると右手に「勝見稲荷堂」と「法持寺」があります。

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勝見稲荷堂(源九郎稲荷神社)

源義経の兜の守護神を本尊として建立されたとも伝説が残り、また義経の正室、郷御前(北の方)が蛇崩れで悪蛇を降伏させた、義経の妾である静御前がこの地へ留まり御本尊を移した、長尾為景が戦勝の喜びに宝塔を納めたなど様々な言い伝えがあります。

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勝見稲荷堂の水鉢

水鉢の裏側には甲子丸、喜福丸など尼瀬所属の北前船の名が刻まれています。
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法持寺

「筆もたぬ身はあはれなり杖つきて今朝もみ寺の門たたきけり」

晩年の良寛が詠んだ歌は法持寺を詠んだものではないかと言われています。

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米山塔

法持寺の門前には大きな米山塔があり、元治元年(1864年)の銘があり、波で削られた蜂の巣岩が使用されています。
法持寺を過ぎると国道と旧道の二股となっており、右手の細道に石碑が一つありました。

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彌彦・ニ田 雨神社上陸地碑

この地に神社があったのでしょうか・・・全くわかりません。
国道へ出ると勝見マリーナ、再び海沿いを600m、国道を外れ二股を右手に入るのが北国街道です。旧道へ入ると緩い坂道上っていきます。この丘が「良寛旅立ちの丘」と呼ばれている「蛇崩丘」で、左手に「読孝婦の碑」と「松代藩士の墓」があり、さらに100m先の左手に「良寛出郷の碑」があります。

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読孝婦の碑

孝婦の碑を読む

『夏は涼阡に置きて自らは田を耨(くさぎ)り 冬は温室に安じて事之て虔を為す 林君命に因って嘗て孝を旌(あら)わす 雲浦の其の行天下に伝う』

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松代藩士の墓

出雲崎で奥州越列藩同盟軍との「久田(くった)の戦」があり、松代藩戦死者4人の名が刻まれています。

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良寛出郷の碑

『錫を振って親故に別れ 手を挙げて城聞に謝す 衲衣聊(のうえいささ)か破るるを補い 一鉢幾春なるを知らず』

この丘は背後の山が1766年(明和3)に大崩壊し地滑り地形となっています。「蛇崩丘」と言いましたが、最近は「良寛旅立ちの丘」と呼ばれているようです。

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旅立ちの丘から出雲崎宿を望む

1779年(安永8)良寛22歳の年、国仙和尚に従い、備中玉島円通寺への修行の旅にでます。この蛇崩の丘まで父以南と弟由之が見送ったとされます。母は現在の良寛記念館裏の丘から手を振ったとされます。
旅立ちの丘から緩い坂道を下り200mほど右手に「獄門跡」があります。

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獄門跡

出雲崎代官所の処刑場でした。処刑が行われると生首はさらし首として置かれ、通行人は恐る恐る通行していたと言われます。良寛は名主見習い時、処刑の立ち会いが嫌で出家したとも言われています。
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獄門跡の地蔵

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獄門跡の供養塔

特に重罪人の生首は浜辺にさらされたと伝えられます。供養塔は天明年間の建立です。

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あっちこっちにとんぼがたくさんいます。

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荒谷橋

小さな荒谷橋を渡り200mほど進むと枡形(鉤の手)になっており、かつて番所があったとされます。

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枡形・番所跡

右へ進み、すぐ先左ですが、尼瀬油田へ向かうためそのまま直進すると油田跡が残っています。

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尼瀬油田

世界最古と言われる網堀式石油井戸で、1897年(明治30)から1985年(昭和60)まで使用されていました。坑内の深さは649.45mありました。最盛期は1889年(明治22)から1898年(明治31)の10年間でした。
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妻入りの街並み

大棟が直角になっている「妻入り」の古い町並みは、海岸線に沿い約4kmも続いているそうです。

妻入りの旧街道を150m進み右手へ入っていくと「出雲崎代官所跡碑」があり、代官所跡の奥に「消防殉難碑」があります。

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出雲崎代官所跡

出雲崎の代官所は幾度か移転していますが、1624年(寛永2)石井町よりここへ移転、1724年(享保9)地滑りにより羽黒町へ移転、1763年(宝暦13)再び尼瀬へ移転。事情は不明ですがもう一度移転して1808年(文化5)に再々度ここへ移り明治維新まで続きました。
1868年(慶応4)戊辰戦争時、官軍に攻め込まれそうになった場合には代官所を焼き払って引き上げることになっていましたが、町への延焼を懸念した代官は形式的に門前で焚き火をして退去、おかげで出雲崎は焼け野原にならず、現在も妻入りの町並みを残すことができたといいます。

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消防殉難碑

地元の方にに聞いた話によると、明治時代、浜に湧いていた石油に火を付けた者がおり、その火事を消すことがなかなかできず、消そうとした消防士数名が命を落としたといいます。

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出雲崎小中学校跡碑

1967年(昭和42)年に下校舎との統合によって移転するまで代官所跡の上の高台にあったようです。その後、良寛記念館の東側へ移り、現在は出雲崎駅近くへ移転しています。階段を上ると草地が広がっています。
小中学校跡碑横の階段を上ると左手に「代官所稲荷」があります。

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代官所稲荷

出雲崎町石井町から尼瀬に代官所を移す際、代官所の守護神であった稲荷も一緒に移すことになりましたが、稲荷様は「ここから移るのは嫌だ」と反対したため棟梁は困り果て、稲荷様には内緒で真夜中に社殿を解体し移転してしまいました。するとバチが当たったのか、棟梁の眉毛が全て抜けて無くなってしまいました。困った棟梁は墨壺の墨で眉を書いて仕事に出たという話が伝わっています。

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妻入りの町並み

北国街道へ戻り、すぐ先左手の細道を入っていくと「石油産業発祥地記念公園」があり、内藤久寛銅像や石油掘削に関する機械などがモニュメントとして展示されています。

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内藤久寛銅像

内藤久寛は1891年(明治24)石油の海底機械堀に成功しました。
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クリスマスツリー(自噴装置)と石油蒸留釜

クリスマスツリーは地下の油層・ガス層から自噴する油・ガスを地表に運び出すものです。 石油蒸留釜は1884年(明治17)新潟の田代虎次郎により考案された日本初の石油精製装置です。公園内は現在も天然ガスが発生しているようで、「火気厳禁」です。

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坑夫の像

1944年(昭和19)東京から美術報国推進隊(隊長:鴨田吾郎画伯)が従業員の慰問に訪れた折に作業員の雄姿を造形し、西山鉱場事務所の門前に設置されていたものが公園に寄贈されました。

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第1号井之遺跡

石油の海底機械堀第1号井戸の跡地が「石油産業発祥地記念公園」となっています。

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「燃える水」献上の図

古代から尼瀬には「草生水(くそうず)の澗」と呼ばれる石油が滲み出る船溜まりが知られていました。明治初期、ランプが輸入され石油の利用が知られ、地域一帯に手掘りによる採油が盛んになりました。
1891年(明治24)に機械による深層掘削を行い量産が可能となり、第1号井の跡地を「石油産業発祥地記念公園」としました。

石油産業発祥地記念公園から国道を越えて海側に「道の駅・越後出雲崎・天領の里」があり、天領出雲崎時代館、出雲崎石油記念館など見どころがたくさんあります。

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御奉行船・紙風船

「天領出雲崎時代館」の写真です。このような奉行船(御用船)で佐渡の小木より出雲崎まで金銀、小判を運んだりまた、江戸からの巡見使を乗せたりしていました。

紙風船は魚師のおかみさんの内職仕事として盛んに作られるようになり、紙風船の90%は出雲崎で生産されています。 天領出雲崎時代館に行きましたら、お土産に紙風船を購入することをオススメします。とってもかわいい紙風船がたくさんあります。写真の他にいちごやペンギンなどいろいろありました!!私もたくさん購入しました。紙風船づくりの体験もできます。

柿崎を歩く予定の日に雨になってしまい、そのときにこの天領の里を見学しましたので、今回は立ち寄らずに進んでいきます。

石油産業発祥地記念公園から北国街道へ戻り、出雲崎宿の町並みの間を暫く進むと右手に「大黒屋」という和菓子屋さんがあります。

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大黒屋

100年以上、白雪こうを製造している和菓子店です。白雪こうは落雁に似た菓子で、現在も出雲崎の土産品として愛されています。
1830年(文政13)良寛が病に倒れ衰弱激しい折、滋養に富む「白雪こう」を送ってほしいと震える文字で出雲崎の菓子屋三十郎に宛てた手紙が残されています。古くは白雪こうをお湯に溶いて母乳の代用にしたほど滋養があったとされます。

大黒屋のすぐ先を右へ曲がり、階段を上るとさらに高台に善勝寺が見えますが、その横にヤギがいました!その先左手に「孝婦の碑」、隣に「おけさ発祥碑」があります。

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ヤギがいたよ〜

善勝寺で飼っているのでしょうか・・

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孝婦の碑

「ゆり」は隣の和島村の農家に生まれ、出雲崎尼瀬の出稼ぎ大工、作太夫の妻となりましたが、よく婦道を守り病弱の姑によく仕え、至孝であったといいます。1742年(寛保2)徳川将軍家よりその行状を褒められたとされます。

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おけさ発祥碑

平安時代の終わり、奥州藤原氏の重臣で陸奥丸山領主、佐藤庄司元治の子、継信・忠信兄弟は源義経の忠臣として平家討伐に活躍しました。兄継信は頼朝に追われた義経をかばいそれぞれ戦死しました。
兄弟の母「音羽の前」はせめて戦場の跡を訪ねようと奥州を旅立ち出雲崎にたどり着き、この地で尼僧となり2人を弔いました。1190年(建久元)立派な最期を遂げた兄弟の報を聞き、尼僧達と袈裟法衣のまま唱え踊り「袈裟」が「おけさ」の起源であると伝わります。

善勝寺に上って行こうと振り向くと何やら動物がチョロチョロと・・これは?

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いたち?テン?

結構大きかったので、これは「テン」でしょうか?初めて見ました!害獣とも言われますが、可愛いですね。
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善勝寺

1288年(正応元)釈迦堂を日朗上人により日蓮宗に改宗され、善勝寺と改称しました。

善勝寺の東隣りにあるのが良寛さんゆかりの「光照寺」です。

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光照寺

承保年間、蛇崩沖で荒木甚助が海の中に光るものを見つけ拾い上げたところ、三尊聖観音菩薩像でした。上杉謙信の母により開基、本堂を建立し「光照坊」としましたが、天正年間に「光照寺」と改められました。

石段下の「良寛禅師剃髪之寺」と彫られている石碑は相馬御風の揮毫で『ももとせの昔は昔今の世に在きば如何にと思はゆるかも 御風』とあります。この碑は1930年(昭和5)良寛百回忌を記念して建立されたものです。

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大歌碑

1779年(安永8)、備中玉島の円通寺大忍国仙は光照寺へ来ました。良寛は和尚に請い、4年間修行した光照寺を離れて和尚とともに備中へ同行することになります。良寛は出発するにあたり、心境を長歌にして残しており、この歌が碑に刻まれています。
1980年(昭和55)良寛百五十回忌を記念して建立された碑で、揮毫は良寛研究で知られる渡辺秀英。

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石神彦五郎碑

出雲崎の代官で1864年(元治元)に没した(別の資料では1865年(元治2)) 石神彦五郎の顕彰碑のようです。
光照寺をあとに石段を下り、直進し北国街道へ戻ります。北国街道を北へ55m、右手郵便局向かいの小路が「金銀御用小路」で、案内板があります。

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金銀御用小路

佐渡で産出された金銀は佐渡小木港より船で運ばれ、出雲崎に荷揚げされここより馬に積み替えられ「御用」の札を立てこの小路より出発し北国街道、追分から中山道を通り11日間をかけて江戸へ運ばれていました。
御金蔵は最初名主、橘屋(良寛生家)の裏にありましたが、1706年(宝永3)尼瀬町米屋伝吉屋敷裏に移されましたが、正確な位置はわかっていません。 さらにその先右手に「堀部安兵衛住居跡」、向かいが「旧新津邸」の案内板があります。

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堀部安兵衛住居跡

1690年頃(元禄年中)新発田藩士であった中山安兵衛は生家が没落し浪人中の19歳頃に江戸へ向かう途中、この家へ暫く住み、手習い師匠をして暮らしていました。奥の養泉寺に彼の用いた酒杯が伝えられているそうです。(一説に俳人摩詰庵雲鈴のものとも)

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旧新津邸

新津恒吉は昭和シェル石油の全身の一つ、「新津石油」の創業者で(明治3)尼瀬生まれ。22歳頃に精油業を始めその後、事業拠点を新津市(現新潟市秋葉区)へ移しました。工場の出火や水害などにもあいましたが、事業を再生し成功を収めました。
宿場町の面影を残す出雲崎宿は歩いていても楽しいですね。160mほど左手には「廻船問屋熊木屋跡」があり、そのすぐ先には出雲崎観光協会が運営する「出雲崎寄港地の町家」があります。

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廻船問屋熊木屋跡

1848年(嘉永元) 儒学者の頼山陽の父を持つ頼三樹三郎が訪れています。江戸で儒学を勉強していましたが、寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分となり、東北地方から蝦夷地へと遊歴したそうですからその折にここへ訪れたのでしょう。 1849年には京都に戻り勤王の志士として活動しています。 大正から昭和にかけては安田靫彦、中村岳陵、小川芋餞、郷倉千靱などの画家、文学者で良寛研究家としても知られる相馬御風、画家で良寛研究家でもあった津田青楓らは幾度も訪れたとされます。

北前船

江戸時代から明治時代にかけて日本海沿岸を経由して西日本と北海道を結ぶ航路で、船自体が商品を買い、これを売買することで利益を上げる「買積み廻船」が主です。寄港地には廻船問屋や商家の大規模な建物が立ち並び、独特の文化が花開きました。出雲崎の廻船問屋としては泊屋(佐野家)、敦賀屋(鳥井家)、京屋、熊木屋などがあり、海運業だけではなく貸家業、金融業なども行っていました。

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出雲崎寄港地の町家

出雲崎町の北前船に関する資料を展示する施設です。 出雲崎は北国街道の宿場町として、また北前船の寄港地として栄え、越後一の人口密度だったとされます。

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消防倉庫

消防団の倉庫も街に合わせたデザインになっていますね。
出雲崎寄港地の町家から80mほど右手の細道を入ると「妙福寺」、妙福寺の階段の向かいが「旧泊屋」です。

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妙福寺

境内に「俳諧伝灯塚」があります。奥の細道で芭蕉が訪れた後、芭蕉門下の2世東華坊は2度出雲崎を訪れ、3世盧元坊も訪れました。1755年(宝暦5)出雲崎の俳人近青庵北溟は当地で詠んだ句を刻して碑を建立しました。現在の碑は大正年間に再建されたものです。

「荒波や佐渡によこたふ天河 芭蕉」

「雪に波の花やさそうて出雲崎 盧元坊」

「五月雨の夕日や見せて出雲崎 支考(東華坊)」

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旧泊屋

北前船で財を成した廻船問屋、泊屋佐野家の邸宅で、船着場や蔵などが残されています。
100m進むと左手に「公家小路」の案内板、その80m先の右手が本陣敦賀屋跡で現在は芭蕉園となっています。芭蕉園には芭蕉の銅像や天河句碑が建立されています。

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公家小路

1681年(元和元)小倉大納言実起卿とその子、宰相公連卿、竹内刑部大輔季伴卿の3人は佐渡へ配流となり都より木曽路を経て客船宿の山城屋で風待ちをしていました。
「古郷を出でにしよりも悲しきは 馴れにし人の波の別れ路 実起」と詠み、この小路より船上に出たとされます。地元では小路に石を敷いて崇敬したと伝えられています。

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芭蕉園、本陣敦賀屋跡

1689年(元禄2)奥の細道を行脚していた芭蕉は、この芭蕉園斜め向かいの旅籠「大崎屋」に一泊しています。またここは、良寛の生家・橘屋と名主職を争った「敦賀屋跡」です。

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旅籠「大崎屋」

天領の里に造られている「大崎屋」です。芭蕉が銀河の序を詠んでいる様子ですね。

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天河句碑と芭蕉銅像

『荒海や佐渡に横たふ天河』

1689年(元禄2)松尾芭蕉は奥の細道の旅の途中、出雲崎へ立ち寄った際に残したものです。1954年(昭和29)芭蕉真筆の銀河の序を刻み句碑が建立されました。

芭蕉苑から100mほど右手の高台にあるのが「円明院」です。

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円明院

1315年(正和4)創建と伝わり、良寛の生家である橘屋山本家の菩提寺であり、良寛の弟・宥澄が第十世の住職を務めています。墓地から良寛記念館裏手へ行けるようですね。
120mほど進むと石井町の交差点へでます。右手を見ると手前に「住吉神社」、その奥の高台に「石井神社」が見えます。

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住吉神社・石井神社

石井神社創建は不明です。延喜式に比定される古社ですが、他にも候補がたくさんあるようです。元は十二所神社といい、出雲崎井鼻にありましたが、711年(和銅4)現在地へ移り、神事は名主橘屋山本家が執り行い、大祭も1690年(元禄3)橘屋によって始められています。
石井町の交差点を過ぎるとすぐ左手に橘屋跡に建つ良寛堂があります。

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良寛堂・橘屋跡

良寛は1758年(宝暦8)名主、山本以南の長男として橘屋に生まれました。元の屋敷地は現在の2倍あったとされ、屋敷前は高札場にもなっていました。

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良寛堂

良寛堂は佐藤吉太郎計画、安田靫彦画伯の設計により1922年(大正11)に建立されました。 堂内には良寛が常に持ち歩いたという石地蔵をはめ込んだ多宝塔に「いにしえにかわらぬものはありそみと むかひにみゆるさどのしまなり」と良寛自筆の歌が刻まれています。

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良寛像

良寛の母の故郷である佐渡ヶ島をみつめる良寛の後ろ姿、何を思うのでしょう・・・
良寛堂をでて古い町並みを170m、右手に「出雲崎代官所跡」があります。その向かい辺りに「出雲ア町道路元標」、そしてそのすぐ先が今日宿泊する「割烹御宿みよや」へです。

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出雲崎代官所跡

戦国時代、上杉氏の陣屋が置かれた場所で「秋田屋敷」と呼ばれていました。1616年(元和2)天領となった際には出雲崎最初の代官所となりました。1625年(寛永2)に尼瀬稲荷町へ移転しました。

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出雲ア町道路元標

北国街道はここでゴールです。北国街道本道、松代道、北国西街道、全て歩破しました。正確にはわかりませんが、300km程度と思われます。長い道のりでしたが、山道も海沿いの道もある北国街道は楽しかったですね。

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割烹御宿みよや

本日はここ「割烹御宿みよや」へ宿泊します。そして明日は出雲崎の「良寛古道」を歩いてみたいと思います。