2021年10月23日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

12:20 村井宿をあとに松本宿へ向けて進んでいきます。

村井一里塚碑芭蕉富士塚から国道19号線を550m、長野銀行芳川支店から左の路地へ入っていきます。2、3分で天高くそびえる樹木が見えてきます。

TOO001

芳川の落羽松(タキジウム)

地質時代には北半球全域に繁茂しており、化石としては各所で発見されていますが、現在は北米南部からメキシコにかけてのみ見られ、信州では珍しいそうです。この落羽松は明治末期に芳川小学校の校庭に植えられたものです。
落羽松から少し奥に入ると大きな石碑があります。さらにその奥には「芳川小学校跡」の石碑があります。

TOO001

百瀬三七翁頌徳碑

百瀬三七は1833年(天保4)筑摩郡今井村中原家に生まれ、後に平田村百瀬家の養子になります。百瀬家は名主であり幕末に家督を継ぎました。四ケ村用水「四ケ堰」(しかぜき)の築造に尽力し、明治5年に完成しました。江戸時代からの堰は毎年出水のために流出し被害は甚大でした。三七は堰完成後も明治24年に没するまで堰の責任者となり、維持管理にあたりました。

TOO001

芳川小学校跡碑

昭和49年に移転し、現在は公園になっているようです。
元の北国西街道へ戻るとすぐに左手、中古車販売会社横に碑があります。

TOO001

相撲取の碑

恐らくこれが村井の相撲取の碑だと思います。石碑には「男山善十郎」と「相見山相蔵」と彫られ、裏面には「男 明治21年」、「相 明治16年」と彫られていますが・・関取だったのか・・詳しいことはわかりません。

TOO001

道祖神

1km近く進んだ平田南交差点右手には道祖神と五千石街道道標があったはずですが、日野自動車の工事で失われてしまったようです。道祖神だけが残っていました。
寄り道のため、平田南交差点を左に入っていきます。180m左手の平田公民館前に「平田学校跡」の石碑、さらにその先に「念称寺跡」があります。

TOO001

平田学校跡

現在平田公民館となっている場所は学校があったようですが、詳しくはわかりません。
TOO001

念称寺跡

1599年(慶長4)創建、開山は浄蓮社清譽受天上人、往時は広大な敷地であり建物も広壮であったといいます。

戸田光則の異常なまでの廃仏毀釈断行で明治4年に廃寺となりました。廃仏毀釈は地域差が大きいとされますが、特に水戸・松本・富山・岐阜苗木・伊勢・津和野・高知・宮崎・鹿児島においては激しい廃仏毀釈が行われたとされ、松本では1870年(明治3)の1年間で、164カ寺のうち124カ寺が廃寺になっているといいます。 本尊の阿弥陀如来像は諏訪郡米沢村紫雲寺に移されています。

北国西街道、平田南交差点へ戻り140m右手、リサイクルショップの脇に筆塚があります。

TOO001

筆塚

正面には「崇徳報功」と彫られ、徳を讃えた気高く優れた者に功を立てて、恩にむくいるという意味です。小笠原弘運・弘道親子を讃えたもので、1500人もの門弟を抱える寺子屋師匠をしていました。

TOO001

筆塚からすぐ先で国道とは分かれて、国道は左にカーブしていきますが、旧北国西街道(善光寺道)は真っ直ぐ進みます。暫く進むと右手は堤防となり、その向こうは田川です。
田川と街道が平行になった場所には片側に数軒の茶屋があったといいます。右手、堤防上に小さな石碑が2つあります。堤防の途中に巾1mくらいの細い階段があり、これを登ります。

TOO001

蚕玉神・道祖神

どちらの石碑も左下に「新茶屋中」と彫られており、往時このあたりに茶屋があった名残を留めています。
500mほど進むとY字路になり、右手が旧北国西街道です。旧道へ入って450m左手に「諏訪大明神前座跡地」という標柱があり、右手には「多賀神社」があります。このあたりは「出川」といいますが、出川は間宿でした。

TOO001

諏訪大明神前座跡地

「これより150m西」とだけ書かれています。西に150mは線路となっています。線路が敷設される前には諏訪神社があったのでしょうか。この諏訪神社は多賀神社へ合祀されているようです。扁額に「諏訪神社・多賀神社」となっています。

TOO001

多賀神社

滋賀県の多賀大社の分霊を祀っています。多賀神社には「御伽草子」の物ぐさ太郎ゆかりの伝承があり、延命長寿の神として信仰されています。1751年(宝暦元)には犀口水引大明神を合祀しています。
多賀神社前の道には「いちみち(市街道口)」という標柱がありました。神代よりの道で、弘法山古墳の石室の石もこの道を通って運ばれたとあります。

その先左手には大きな味噌樽が目を引く「丸正味噌」、さらにその先には「出川差矢場跡地」の標柱があります。

TOO001

丸正味噌

明治28年創業の老舗味噌・醤油蔵です。街道沿いに直営店が出されています。

TOO001

出川差矢場跡地

「矢場」とは古くは弓術の練習場をさし、弓場(ゆば)、的場(まとば)とも言うそうです。座った状態で六十六間(120m)を射り、江戸時代には矢数を競うことが 盛んにおこなわれていたといいます。火縄銃の射的もおこなわれたとみえ、多賀神社には1801年(享和元)、1830年(文政13)、1831年(天保2)、1864年(元治元)に奉納された的の大きさや的中の様子を書いた額が残っています。
すぐ先、右手に石仏群があります。

TOO001

石仏群

天保15年の髭題目碑などが並んでいます。手前の青面金剛像はかなり綺麗に残っています。
130m進み、左手の民家前に明治6年まであった「寺子屋跡」の案内版、その先左手出川公民館前に盛業学校跡地の標柱出川町の町名碑、公民館左手に六地蔵があります。

TOO001

盛業学校跡地

奥には信濃府三十三観音霊場 第27番札所松本三十三観音霊場 第9番札所の「大慈堂」があります。この大慈堂へ入る道端には高札場があったとされます。盛業学校は明治6年までこの地にあったようです。
2分ほど進んだ右手に明治5年から明治14年まで置かれた「旧信楽村役場跡」を過ぎ、80m右手に「出川番所跡」の標柱、さらにその先右手に「大庄屋中田家」の大きなお屋敷があります。

TOO001

出川番所跡

水野氏時代には藩領でしたが、1726年(享保11)戸田氏が入封すると幕府領になりました。隣接している村井・出川・岡田に番所が設置されました。

番所では米穀・塩・麻荷・材木などの物資の出入りや人改め(特に女性)や馬の通行などを監視しました。1743年(寛保3)、幕府領は松本藩預りとなり、17年間設置されていた番所は廃止されました。
TOO001

大庄屋中田家

江戸時代、出川組の名主を務め、江戸時代中期からは造酒屋を営みました。庭園は本格的な平庭式池泉回遊様式で、藩主の遠出のさいの小休所になり、また明治天皇巡幸の際にも小休所として使用されました。玄関前に小休所の碑が建てられています。

中田家から200m右手、田川沿いに一里塚の標柱が建っています。

TOO001

出川一里塚跡

塚はありませんが、名号碑と念仏供養塔が残っています。

TOO001

田川

塩尻峠を源とし、北松本あたりで奈良井川へ流れ込みます。
道なりに進み豊田橋を渡り、街道は直進ですが、「貞享義民刑場跡」に寄るため橋を渡ってすぐ左の道へ入り、田川沿いを140m、右手の堤防下の空地に石仏が3基並んでいます。

TOO001

貞享義民刑場跡

貞享騒動のリーダーであった庄屋の多田加助など28人中、11名がこの出川刑場で極刑に処せられました。

貞享騒動(加助騒動)

1686年(貞享3)、松本藩主、水野忠直は農民に無理な増税を強要、当時の周辺地域の1.5倍ほどの税としました。困窮した農民たちは多田加助をリーダーとし、松本城に詰めかけ、農民は1万人にも膨れ上がったともいわれます。当時、藩主水野忠直は参勤交代で不在であり、困った城代家老達は農民の要求を受け入れると約束し、その場を納めました。しかし、後日手のひら返して約束を反故にし、藩主の許可を得て多田加助ら8人を磔、家族ら30名を獄門の極刑に処しました。他の一揆に比較してかなりの重い刑でした。

TOO001

松本市内は晴天ですが、左手の北アルプスには厚い雲がかかっています。
北国西街道へ戻り、暫く進むと小さな橋が架かっており、案内板も設置されています。

TOO001

城見橋

北に松本城が見えたため、「城見橋」と呼ばれます。松本城側から渡ると出川刑場があったため、「がっくり橋」とも呼ばれたといいます。現在は建物が建ち並び、松本城は見えなくなってしまいました。
TOO001

逢初(あいそめ)神社

城見橋から100m右に少し入ったところにあるのが逢初(あいそめ)神社です。

TOO001

道祖神

さらに220m、薄川の袂に小さな文字道祖神がありました。
車がかなり渋滞しています。歩いているほうが遥かに早い感じです。松本市内はどこも道が混雑しています。 薄川を渡ったすぐ先右手に十王堂跡、さらに300m右側に「緑橋」の案内板があります。

TOO001

十王堂跡(博労町の十王堂)

松本藩は城下町に入る東西南北に十王堂をおいていました。博労町の十王堂は南端の十王堂です。建物はありませんが、石造物が残されています。1591年(天正19) 石川数正が松本へ移封された翌年に建立されています。

TOO001

緑橋

1615年(元和元)松本城主、小笠原秀政が長男忠脩(ただなが)、次男忠政を伴い大阪夏の陣に出陣しました。忠政は18歳、乳母は別れを惜しみ袖にすがり離さなかったため忠政は陣羽織の袖を切って発ったといいます。以後、「袖留橋」と呼ばれていました。明治11年の架替の際には取り壊された松本城大手門の石材を利用して石橋となり、名称を「緑橋」と改められました。
「緑橋」から100m、左手の信用金庫が本陣跡です。

TOO001

松本宿本陣・問屋跡・郵便局発祥の地

問屋を兼ねて倉科家が努めていました。明治時代には問屋業務を引き継ぎ、郵便局をしていました。松本の郵便局発祥の地として明治の書状集箱と配達人の像があります。

街道は直進ですが、ここで右へ曲がり「天神小路」を通り深志神社へ向かいます。350mほどあります。

TOO001

冨士浅間神社

元は里山辺林山の麓(林城登口近く)にあり、国司小笠原家が数代に渡り信仰していましたが、天文年中(1532〜1555)に現在地へ移したとされます。
TOO001

深志神社

1339年(暦応2)信濃国守護小笠原貞宗の創建と伝えられます。もとは「宮村大明神」といい、1504年(永正元)深志城(松本城)築城にあたり、社殿の向きを西面に直し辰巳方向の守護神としました。1841年(天保12)に深志神社と改称しました。

TOO001

善光寺名所図会の富士浅間と宮村大明神(現在の深志神社)

富士浅間の入口あたりに描かれている石碑は、鹿津部真顔の狂歌碑です。現在は深志神社境内へ移設されています。

TOO001

神牛

明治32年、菅公御正忌(ごしょうき・命日)千年祭にあたり、博労町から寄進されたもので、松本の名工、原田蒼渓により彫られたものです。父原田幸三郎も名工として知られます。
TOO001

参議有長歌碑(左)・菅原道真歌碑(右)

『天満る 神のめぐみぞ なほ深き ふかしてふ名の 世々にたえずば』

綾小路有長は、江戸時代後期から明治時代の公卿、華族であり、綾小路家14代当主です。

菅原道真歌碑

真仮名(まがな)で彫られていますが、難しいのでわかりやすく書くと 『ころふかばにほいおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ』と彫られています。道真が筑紫に流された時の歌として語り継がれています。筆跡は道真の真筆を写したものとされています。 真仮名とは万葉仮名とも言われ、漢字をそのまま仮名として読ませるものです。歌人、中沢重樹の父、中沢連城の門人等によって1850年(嘉永3)に建立されたものです。

TOO001

真顔狂歌碑

『立廻す高ねは雪の銀屏風 中にすみ絵の松本の里』

松本の美しさを詠んでいます。文政9年の建立。善光寺名所図会に描かれている狂歌碑です。昭和47年、日中国交回復後、初めて松本を訪れた中国卓球団が20枚もの拓本を取り中国に持ち帰ったといいます。

真顔

鹿津部真顔(しかつべの まがお)は、江戸時代後期の狂歌師・戯作者でした。数寄屋橋外の汁粉(しるこ)屋をしながら、はじめは恋川春町を師としていたため、恋川好町(すきまち)の名で黄表紙を書いていました。後に四方赤良(大田南畝)の門人となり、狂歌四天王の一人と称されるほどになりました。

TOO001

香風の情歌碑

『蟻も通さぬ人目の関を 夢は巧みに抜けて行く』

「情歌」とは都々逸(どどいつ)のことです。北城庵香風は1865年(慶応元)、松本城北の蟻ケ崎の生まれ。松本警察署で長く公使を勤め、若い頃より情歌を好み、門弟は数百人いたといいます。
深志神社を南側の出入口からでて、市民芸術館の裏側へでると「寛永通宝」のレリーフが付いた石碑がありました。

TOO001

銭座記念碑

1637年(寛永14)から1640年(寛永17)まで「鍋屋小路」に「寛永通宝」を鋳造していた銭座がありましたが、詳しい場所はわかっていません。「鍋屋小路」は現在の深志2丁目交差点から宮村町交差点の国道143号となっている道です。小路の面影はありません。
さらに市民芸術館に沿って歩くと大きな碑がありました。

TOO001

堅石由十(よしじゅう)君之碑

明治時代、松本市消防第三部長や県議会議員を務めていた堅石由十の徳を讃え、大正7年に建立された碑です。揮毫は白巖です。白巖は幕末の生まれで、明治の半ばに清に渡り、徐三庚(じょさんこう)という著名な書家に師事し、帰国後その書法を伝え、明治の書道界に大きな影響を与えました。
真っ直ぐ進むと「鍋屋小路」(現在の国道)へ出ますので、国道を北国西街道へ戻ります。深志二丁目交差点で本日の街道歩きは終了します。 松本駅へ向けてこのまま直進していきます。松本駅前に播隆上人像と深志の湧水があります。

TOO001

播隆上人像と深志の湧水

江戸後期に槍ヶ岳の初登頂を達成し、計5回、松本からの道を開きました。この像は玄向寺前住職がモデルなのだとか。

16:10 松本駅到着。広丘駅まで電車で戻り、車をピックアップ、帰りに浅間温泉「湯々庵 枇杷の湯」へ寄り温泉で疲れを癒やして帰宅しました。