2020年8月11日

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12:00 長沼宿をあとに神代宿へ向かいます。

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津野公会堂の「神力演大光」

「じんりきえんだいこう」と読みます。浄土宗において、神仏の加護を願い、厄災を除かんことを願うときに用いる回向文ということですが、特にここにお寺などはないのですが・・長沼には転出したお寺がたくさんありますので津野公会堂は元お寺だったのかもしれません。津野公会堂には一茶句碑もあります。
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庚申塔

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赤沼公園

赤沼公園も洪水の被害を受けていました。トイレや遊具は流されずに残っていますが、使用できない状態です。土が残り荒れ果てた状態でしたが、一休みさせてもらいました。周囲の家もかなりの被害を受けたようで更地になっている土地もあり、また修復中の家もたくさんありました。

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妙願寺

1391年(明徳2)茨城県に創立しました。源義詮(みなもとのよしあきら)の家臣、鹿野林平が仏門へ入り林学と称し開祖したお寺です。1429年(永享2)長野市安茂里小市へ移り、1566年(永禄9)長野市津野へ移転、1752年(宝暦2)現在地へ移りました。

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妙願寺の一茶句碑

『牛馬も 元日顔の 山家哉』

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信州りんご発祥の碑

赤沼公会堂前に碑があります。明治29年の洪水は戌の満水に次ぐ水位で、桑の被害が甚大であったため、養蚕に変わりリンゴ栽培が始まりました。アップルライン沿いには農家のリンゴ直売所が軒を並べ、りんご狩りも楽しめます。

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赤沼公会堂の一茶句碑

『粒々皆苦心 半分はあせの玉かよ 稲の露』

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赤沼学校跡

現在、赤沼公会堂となっている敷地は、かつて赤沼学校でした。1874年(明治7)、赤沼村と赤沼河原新田村との2ヵ村で一学区の赤沼学校を創設しましたが、1894年(明治27)長沼村立長沼尋常小学校に統合し、閉校となりました。

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大田神社

創建などは不明ですが、12世紀はじめに再建されたことはわかっています。もとは「八幡社」でしたが、改名されました。

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大田神社の一茶句碑

『鳴きながら 虫の流るゝ 浮木かな』
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浅慶院

宮配耕地に薬師堂があり、長秀院二世角応長老が隠退して住んでいました。1742年(寛保2)戌の満水により堂宇が流出してしまいました。1787年(天明7)長秀院九世雲峰禅瑞の弟子、古夫一燈が堂宇を再建し、東光山浅慶院と改称しました。薬師瑠璃光如来の縁起が残されています。

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馬頭観音

大きな長屋門の隣に馬頭観音が祀られています。大正11年建立、文字のみの馬頭観音です。

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善光寺平洪水水位標

昭和16年に深瀬武助氏が私費で建設し、その後は赤沼区で管理していましたが、老朽化が進み平成元年に更新されています。?笑寺の水位標を基準に建てられています。寛保2年の戌の満水は記録によると6.4mに達したと言われています。

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新幹線車両センター

ここも2019年の洪水で大きな被害を受けた場所です。当時ニュースで見ましたが、衝撃を受けた映像でした。浸水した10編成は全て廃車になってしまったそうです。しばらくは北陸新幹線の本数が減っていましたが、2020年3月には元のダイヤに戻ったということす。

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馬頭観音

右側の文字馬頭観音は、明治25年建立とあります。左はもっと古そうで読むことができません。
TOO001 北国街道は北しなの線に遮られてしまいますが、跨線橋で渡れるようになっています。

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流死人菩提碑・子育地蔵尊

1742年(寛保2)戌の満水により千曲川流域に大きな被害が生じました。上流の松代藩領では1200人以上が流されて死亡、遺体は多賀神社の丘に多数流れ着いたと言われます。この碑は犠牲者の供養とともにこの地が最高水位だということを示しています。表面には「流死人菩提」、裏には、「満水此処マデ堪」と彫られています。

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豊野駅

1888年(明治21)豊野駅が開業すると各方面へ新道が開かれ、駅前には人力車や荷馬車が営業し、北信濃の交通の中枢になりました。戦後の昭和23年頃からリンゴの出荷が増加し、最盛期には年間2万5千トンの貨物輸送を記録しました。
14:30 暑さから休憩が増え、なかなか進みません・・宿の方の迎えが16:00に牟礼駅です。あと1時間半で牟礼駅まで行くことは無理そうなので本日は豊野駅より北しなの線で牟礼駅まで向かいました。残った行程はまた後日にし、本日の宿『上倉荘』へ向かいます。

2020年9月21日

前回のお盆休み、暑さからギブアップした豊野駅から牟礼までを歩きます。今回も車でやってきましたので、車は黒姫駅西口の広い無料駐車場へ置かせてもらいました。電車に乗る人のための駐車場だそうですが、ガラガラです。黒姫駅から北しなの線に乗り、豊野駅へ向かいました。

お天気はどんより。いつ雨が降ってもおかしくない状況でした。

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黒姫駅の一茶句碑

左は黒姫駅西口駐車場の中にありました。

『こがらしや隣と云もゑちご山』

右は黒姫駅東口の正面にありました。

『蟻の道 雲の峰より つゞきけん』

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黒姫駅

1888年(明治21) しなの鉄道北しなの線、柏原駅として開業され、1968年(昭和43)黒姫駅に改称されました。可愛らしい外観の駅舎です。トイレは新築でとてもモダンで綺麗でした。駅内に立ち食いのお蕎麦屋さんがあり、小さいですが特産物や野菜などを売っているコーナーもありました。

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ふじのや

黒姫駅前にある古い旅館で、文化庁の登録有形文化財に指定されています。藤野屋の小林家は明治21年に信越本線が開通するとすぐに柏原駅(現黒姫駅)前に料理屋を始め、1910年(明治43)にこの建物を建設しました。
9:00 豊野駅を出発します。

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藤村文学碑

昭和63年に豊野駅開業100周年記念として建立されました。島崎藤村『破壊』第7章の一説が彫られています。文字は北野美術館秘蔵の藤村自筆稿『破戒』から写し取ったということです。

島崎藤村

文豪島崎藤村は1899年(明治34)4月、28歳のとき旧師木村熊二の招きで小諸義塾の教師として北佐久郡小諸町へ赴き、1905年(明治38)4月までの6年間を過ごしました。この間に詩から散文に転じ、日本自然主義の記念碑的作品『破戒』の稿を起こしました。藤村は明治34〜36年の秋と明治37年1月に飯山を訪ねたことが『千曲川のスケッチ』に書かれています。いずれも豊野停車場で下車し、蟹沢船場まで歩き、そこから川船で千曲川を下っています。『破戒』第7章・第12章に描かれている明治の豊野停車場の姿は、このときの見聞に基づいたものだそうです。

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多賀神社

鎌倉時代に近江の多賀大社の分霊を祀りました。街道は多賀神社を過ぎたところで曲がっていましたが、現在は真っ直ぐに変わりました。左手に写る「お百度詣り数取塔」は新しいものですが、そろばんの珠のようなものが付いていて往復した回数を記録できるようになっています。初めて目にしました。

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石殿型庚申塔

1652年(慶安5)の銘が入っています。以前は神社の下を通る北国街道沿いの中尾への分岐点にありました。入母屋、宝塔型の庚申塔は年代が古いだけでなく、善光寺平を中心とした北信地方に多く見られるそうです。

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飯山道道標

南面に「是ハ善光寺ミち」、東面に「これよりぜんくハうしみち」と彫られています。北国街道新町宿で分岐した飯山道が神代宿で、筋違いで交錯しています。

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御番所跡・神代村道路元標

御番所跡の碑のあたりは問屋でした。番所は碑の向かいの角にありました。

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神代宿本陣跡

本陣は飯山道の宿場として置かれていたため、松代道から飯山街道へ入り60mほどの場所にあり、現在は北豊野公民館となっています。本陣は藤沢家が務めました。

神代宿

多賀神社の枡形は無くなってしまいましたが、この南の枡形からが神代宿となっていたと思われます。神代村には善光寺町と飯山町を結ぶ飯山街道の馬継場(宿場)が早くから置かれていましたが、1739年(元文4)に新たに宿駅として指定されました。それ以前は長沼宿の次は牟礼宿でしたが、急坂も多く宿間は三里半(14km)と長かったため長沼宿が幕府に窮状を訴えます。負担が増える神代村は反対しましたが評定所裁許が下り、他の宿より100年以上遅れて宿駅として追加されました。本陣、脇本陣は飯山道で置かれていたままに、問屋のみ松代道沿いに新たに置かれました。明治9年に地名を「豊野」に改称されました。

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神代宿脇本陣跡

飯山街道を挟んで本陣の向かいが脇本陣で、横地家が務めました。
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観音堂・大日堂

13世紀に創建されたという伝説のある聖林寺が前身とされます。1729年(享保14)俊在という僧侶が宇山から現在地に寺を移し、油沢山正行寺と改めたといいます。観音堂として親しまれ幕末頃は毎年3月17日に祭礼相撲が奉納されました。公園山頂には三十三観音の石仏もあります。

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菅廼屋之祠

藤沢幾三郎の善行を讃え、1884年(明治17)に近郷の者によって建立されたものです。幾三郎は、1808年(文化5)神代宿本陣の次男として生まれ、1856年に神代村庄屋となり、飯山藩の郡中掌職として千曲川治水工事に尽力しました。

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豊野層

長野盆地が湖であった約180万年前の第四紀更新世の地層で、主に泥岩、シルト岩と砂岩からできています。最初は平らに堆積していましたが、その後の地殻変動によって押し曲げられました。(褶曲構造)地層はよく見えません・・・
往時の面影はほとんどなくなってしまった神代宿でした。

9:50 神代宿をあとに牟礼へ向かいます。