2022年9月22日

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10:00頃宿泊した「割烹御宿みよや」を出発し、北へ100m程度進み左折して「いずもざき海遊広場」の方へ向かうと「おけさ源流の地石碑」があります。善勝寺の下にも「おけさ発祥碑」がありましたが、こちらにも似たような石碑がありました。

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おけさ源流の地碑

平安時代の終わり、奥州藤原氏の重臣で陸奥丸山領主、佐藤庄司元治の子、継信・忠信兄弟は源義経の忠臣として平家討伐に活躍しました。兄継信は頼朝に追われた義経をかばいそれぞれ戦死しました。
兄弟の母「音羽の前」はせめて戦場の跡を訪ねようと奥州を旅立ち出雲崎にたどり着き、この地で尼僧となり2人を弔いました。1190年(建久元)立派な最期を遂げた兄弟の報を聞き、尼僧達と袈裟法衣のまま唱え踊り「袈裟」が「おけさ」の起源であると伝わります。

1975年(昭和50)、おけさ源流の地記念碑を建立する会により建てられました。

北国街道へ戻り、善乗寺の西側にある細道が「俵小路」です。ここを上って行きます。

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俵小路

1724年(享保9)、丘の上に陣屋が置かれた際にその御蔵米を納めた米蔵への通路だったことからこう呼ばれたそうです。

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上ってきた道を振り返ります。この俵小路は急坂で米を運ぶのに苦労したといいます。
俵小路を上り詰めて国道352号へ出ます。そのまま西へ向かい下り坂を150m、左手に旧出雲崎小学校へ至る通学用階段があります。ここを上っていきます。この階段はさらに下にも伸びており、代官所跡の西側小路からつながっています。

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通学用階段

小学校が統合移転され今はほとんど使われていない階段ですが、元気な小学生の絵が書かれておりにぎやかに見えます。
階段を上り詰めると和食店の横に出ます。二股を右へ曲がり「良寛記念館」のほうへ向かいます。記念館の手前右側から階段を上ると「良寛と夕日の丘公園」へ至ります。丘の上には良寛さんにまつわる歌碑や像などがたくさんあります。

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良寛弟由之宛書簡碑

良寛の弟由之へ宛てた手紙が刻まれています。 「このごろ出雲崎にて」で始まるこの手紙は弟、由之が本陣争いに敗け、所払いになった際に心配して母の生地である佐渡や幼い頃の思い出を書きつづったものです。1970年(昭和45)、良寛記念館により建立。

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語らいの像

何を語り合っているのでしょうか、良寛と子どもたちが語り合っている様子です。 1993年(平成5)、出雲崎町により建立、制作者である茂木弘次氏は出雲崎出身の彫刻家で生涯、良寛さんを作り続けました。

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良寛と夕日の丘公園にはトンボが大量にいて、指に2匹も止まりました。
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良寛と夕日の丘公園からの眺望

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良寛歌碑

『あわゆきの なかにたちたる みちおほち またそのなかに あわゆきぞふる』

 1992年(平成4)出雲崎町により建立。揮毫は村上三島。1912年(大正元)愛媛県に生まれ、書道の普及、発展に寄与する傍ら良寛を敬慕していたそうです。

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良寛歌碑

「世の中にまじらぬとにはあらねども一人あそびぞわれはまされる」1993年(平成5)出雲崎町により建てられたものです。
夕日の丘公園から階段を下り、入場料を支払い良寛記念館へ入ります。展示室は1部屋だけでかなり小さな展示室でした。展示に関しても良寛さんの生涯や旅でのエピソードなどがほとんどなく、良寛さんがどんな人だったのか知りたかったのですが、全くわかりませんでした。良寛さんの年表が展示してありましが・・これだけではねぇ・・

記念館の裏手に回ると旅立ちの丘と出雲崎宿の町並みを見下ろすことができます。

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旅立ちの丘と出雲崎宿

旅立ちの丘方面を眺めます。僅かな平地に家と家が重なり合うように軒を連ねる出雲崎の町並みです。

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良寛歌碑

『おきつ風いたく なふきそくもの うらはわがたち ちねのおきつきところ』

1982年(昭和57) 良寛景慕会による建立。
歌碑の左手を1段上ると良寛の母「のぶ」の墓があります。

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良寛の母「のぶ」の墓

右下に下っていくと山本家の菩提寺「円明院」の墓地へ続いています。
記念館の裏手から表へ出ます。記念館前の庭には「佐藤吉太郎顕彰碑」、「耐雪庵」などが点在しています。庭園は、石油王・中野貫一邸より移したものだそうです。

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佐藤吉太郎顕彰碑

出雲崎の郷土史家で良寛研究家でもあった佐藤吉太郎は号を「耐雪」とし、良寛の書などを記念館へ寄贈しています。1971年(昭和46)建立。

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亀田鵬斎書「釧雲泉の碑」

釧雲泉は長崎県島原の生まれで、南画家の木鐸(ぼくたく)と称された画家で、晩年は越後で遊び、出雲崎の蕎麦屋で酒に酔い急死。良寛とも交友があり、儒学者の亀田鵬斎がその死を哀れんで書いた1921年(大正10)建立の墓碑銘です。左手には釧雲泉のお墓があります。

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耐雪庵

1961年(昭和36)良寛遺墨展で「五合庵」を模して展示されたものが寄贈されています。燕市国上にある「五合庵」は各地での厳しい修行を終え、越後に戻った良寛が20年にも渡り最も長く居住した庵です。記念館の生みの親、佐藤耐雪(吉太郎)にちなみ名付けられました。

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良寛記念館

良寛記念館は1965年(昭和46)に建設されました。出雲崎の郷土史家で良寛研究家の佐藤吉太郎から寄贈された良寛遺品などが展示されています。
良寛記念館の駐車場向かいにも「良寛歌碑」があります。

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良寛歌碑

『君看雙眼色 沙門良寛書』、(君看よ雙眼の色)『不語似無憂 沙門良寛書』(語らざるは憂無きに似たり)「沙門」とは修行僧のことです。
良寛記念館をあとに旧出雲崎小学校の裏側を通り、多聞寺へ向かいます。

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多聞寺

725年(神亀2)行基開祖とされます。1568年(永禄11)上杉謙信の村上本庄攻めや、1585年(天正13)以降、上杉景勝による佐渡平定のための信仰となったと伝わります。
多聞寺を出て東へ向かい、国道352号と合流します。この交差点に「良寛記念館前バス停」があります。国道を東へ120mほど進むと右手に「浄玄寺」があります。

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浄玄寺と書簡の碑

1301年(正安3)建立、開基は常陸国新治郡大曽根村相馬氏性念とされます。元は海沿いにありましたが、2014年(平成26)に現在地へ移転しています。 浄玄寺は良寛の末妹、みか子が嫁いだお寺です。みか子は歌人しても名高く、七百首に及ぶ歌集を残し貞心尼とも親交を深めたとされます。夫の智現師没後は尼となり妙現尼と称し1852年(嘉永5)76歳で死去しています。 『墨染の君がたもとに摘み入れし 野辺の若葉も形見とそ見る』妙現尼が良寛追悼の歌としたものです。

石碑には良寛がこの寺に宛てた書簡が刻まれています。『阿弥陀経 一巻 御拝借 被下度(くだされたく)』書簡は2通、残されているとされます。書簡と行ってもかなり事務的なものですね。

浄玄寺からもと来た道を戻り、「良寛記念館前バス停」の少し記念館側に「良寛の古道」入口があります。小さな未舗装の道ですが、案内板もありますのでわかりやすいです。

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良寛の古道入口

1807年(文化4)良寛50歳の頃、中山の西照坊に仮住していました。訴訟騒動で揺れていた実家橘屋を見守るために通った道と言われています。

橘屋と敦賀屋の争い@

橘屋(山本家)、敦賀屋(鳥居家)、京屋(野口家)は出雲崎の御三家とされていました。良寛の母は佐渡出身ですが、橘屋の養子となり父である以南は入婿でした。以南は俳句吟行という名目で家へは帰らず、18歳で名主見習いとなった良寛は、以前より対立関係にあった敦賀屋との対立や斬首の立ち会いなどに嫌気が指したのか弟、由之に家督を譲り出家してしまいます。また15歳の若さで家督を譲り受けた敦賀屋の主は、良寛と学友でもありましたので、一層心を痛めていたのでしょう。

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山道へ入ると最初はは西へ向かい、多聞寺の裏を経て弧を描き東へ。山道は綺麗に整備されており、階段やロープ柵、案内板もありました。

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しばらく進むと左手の奥のほうにお墓が見えました。これが「敦賀屋」のお墓でしょうか。さらに進むと突き当りがT字路になっています。案内板もあり、右へ曲がります。

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お地蔵様

T字路の角にお地蔵様が2体、祀られていました。

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T字路から少し進み、左へ曲がっていくと左手に「薬師堂跡」があります。

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薬師堂跡

永禄年間(1558〜1570)尊澄法師が円明院に滞在中、ここに堂を建て薬師如来を安置したと伝わります。毎年冬になると薬師如来は円明院に移され、春には再びここへ戻されていました。1961年(昭和36)第二室戸台風により堂は倒壊、大雨で路傍の石仏も倒されました。

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薬師堂跡の宝篋印塔

現在薬師如来は円明院へ、石仏は円明院の境内へ移されています。
薬師堂跡には四阿がありますので、少し休憩していきました。樹木が鬱蒼としており、遠くの景色などは見えないのが残念です。

TOO001 あとは下っていくのみです。誰もいない山道は静かです。

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良寛の古道出口

針葉樹の中をどんどん下っていきます。あっという間に古道の出口、「中山」へ到着しました。休憩も含めて約30分でした。

中山からの良寛の書簡

与坂の三輪家(大阪屋)の娘おきしは、与坂の山田家へ嫁ぎましたが、夫と死別後、実家へ戻り有髪の尼となり徳充院と称し、後に剃髪して維馨尼といいました。年代は不詳ですが、中山から徳充院宛に出した書簡が残されています。 「御病気如何候や、随分心身を調ふるようにあそばさるべく候」維馨尼は徳昌寺の弟子として(文政元)江戸へ托鉢へでました。良寛は「天寒し自愛せよ」の詩を送っています。

山道を抜けアスファルトの道を100mほど進むとT字路へぶつかり、ここを左へ曲がり150m、左手に「西照坊」があります。西照坊へ上がる道の右手に「良寛詩碑」があります。

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良寛詩碑

『いずもざきにてはるののにわかなつみつつきじのこえきけばむかしのおもほゆらくに』

西照坊に仮住まいしていた良寛でしたが、1811年(文化8)生家橘屋が没落したのちは、彼の脚も遠のいたとのことです。

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西照坊

中山の百姓総代南波家が妙喜尼のため、安永のはじめ開基した尼寺の小堂です。良寛がこの坊を知ったのは光照寺での修行時代と考えられています。1795年(寛政7)備中より帰国した良寛さんはさらに越後を転々とし、出雲崎に仮住まいをしたのは50歳のことでした。ここで争いの渦中であった生家、橘屋の情報を得たと思われます。

橘屋と敦賀屋の争いA

1805年(文化3)橘屋が住民に過剰な負担を求めたとして、水原奉行所へ訴え出ました。訴訟騒動のストレスから良寛の弟、由之は酒や女に溺れ荒んだ生活を送るようになっていきます。 1824年(文化7)高札を立てる権利も敦賀屋へ移り、その係争でも敗け、橘家は家財取り上げの上所払いとなってしまいました。そのご、以南は京都で自殺。1825年(文化8)由之も出家し、歌の宗匠として晩年をおくり1834(天保5)亡くなったと言われています。

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西照坊の石仏

12:15 『良寛の古道』歩きはここまでです。出雲崎駅までは結構な距離がありますので、「出雲崎交通」さんへ電話をして西照坊まで迎えに来ていただきました。15分くらいで来ていただき、料金は2,000円程度だったでしょうか。 出雲崎駅より柏崎駅へ戻り、車をピックアップ。帰路につきます。『北国街道歩き』はこれで全て終了しました。本当に楽しかった〜次はどこへ行こうか、ワクワクします!!