2020年8月14日

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9:30 宿を出発します。本日は晴天、最高気温は31度くらいです。新潟県に入ってからは最高気温がだいぶ下がりました。

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スキー神社

大正時代に日本で最初のスキー犠牲者を慰霊するために建てられました。当初はスキー場の一角に鎮座していましたが、1940年(昭和15)の豪雪で社殿が倒壊したため、翌1941年に現在の星野公園へ移されました。社殿正面にはスキー板が掲げられています。

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妙高薬師

1911年(明治44)、妙高温泉開湯の際に上越市寺町の天崇寺(てんそうじ)より勧請したものです。座像に銘はなく、制作年代や作成した仏師は不明ですが、鎌倉時代後期、関東の仏師によるものと推定されています。

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星野錫(しゃく)頌徳碑

明治から昭和初期に活躍した実業家で美術画報の社長、星野錫は、日本に初めてスキーを伝えた旧オーストリア・ハンガリー帝国軍人のレルヒ少佐と個人的に交流を重ね、日本初のスキー場付き温泉ホテルや妙高スキークラブを作り、妙高だけでなく日本のスキー観光の基礎をつくった先駆者です。
星野公園は、星野が屋敷などの土地を寄付し整備されたものです。

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霧下そばの碑

昼夜の気温差が大きく朝霧が発生しやすい場所を「霧下地帯」といい、ここで栽培されるそばが「霧下そば」と言われ、最高の風味があるとされます。妙高、黒姫、戸隠、木曽などが古くからの産地とされます。

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化祝坂神明神社

越後から来た人々は、毛祝坂集落で身なりを整え、化祝坂神明神社へ詣で、関川関所へ向かっていたようです。

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清き泉

手書きの案内板には、北国街道毛祝(粧)坂集落は、近江国佐和山城主石田三成の一族で、関が原の戦いに敗れ、かねて親交のあった春日山山麓、茶畑上杉氏旧城地に淨国寺(現上越市寺町三)を訪ねて来たそうです。加賀藩主前田利家とも盟友で、前田家は、代々毛祝坂集落を通行の際はこの清水で身を清め、身なりを整え、先程の毛祝坂神明神社に参拝し、関川関所に向ったそうで、前後百九十余回の参勤交代で、通行のたび参拝を欠かせなかったといいます。石田三成の一族が落ち延び、毛祝坂集落に定住した伝承があるようです。

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毛祝坂(けわいざか)

化粧が変化したもので、関所手前のこの集落で身なりを整えたことに由来するようです。

毛祝坂新田は藩主松平光長の命により街道の助成村として上原宿から移り住んで誕生しました。

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深沢川

源流は池の平で、往時は川を渡るため50mほど上流を迂回していました。
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田切一里塚跡

一里塚跡の標柱は妙高北小学校に設置されていますが、一里塚は深沢川北側にあったようです。

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白田切川

妙高山の南地獄谷から流れ出ているため、温泉成分により水が白濁しています。

昭和53年5月、妙高山中腹の南地獄谷で地すべりが発生、白田切川を土石流が流下し赤倉温泉などを巻き込みながら下流側の信越本線の橋梁などを押し流す大規模な災害となり、13名が犠牲になりました。

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聖徳太子と馬頭観音

田切宿の桝形に江戸中期の聖徳太子と馬頭観音が佇んでいます。

「聖徳太子」と彫られた石碑を時々見かけます。聖徳太子は一度に何人もの人から話を同時に聞けた、などの伝説を聞いたことはありますよね。こうした聖徳太子の伝説化は平安時代からほぼ完成されていたとされ、また、日本の「仏教の祖」という面からも太子信仰が広く普及していったとされます。また、多くの寺院を建立したことから「大工の祖」としても信仰され、江戸時代には、大工・左官・鍛冶屋・桶屋の間で盛んに講が行われるようになったとされます。
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田切宿問屋

問屋を務めた郷戸家は信濃国郷戸村(飯山市)の出身で、上杉謙信の臣下となり川中島の合戦に参加しました。1580年(天正8)、上杉景勝は田切宿の問屋に郷戸源助を指名し伝馬・宿送、さらに武田氏の印判状を持つものを関山宿まで継送るよう命じたといいます。現在は宿場の面影は全くなく、問屋がどこかもよくわかりません。

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田切 諏訪神社

詳しいことはわかりませんが、大きな杉に囲まれた小さな神社です。

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田切のハルニレ

一里塚と見間違えるような大きなハルニレの木です。街道が掘り下げられたためこのような形になったそうです。

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筆塚

ハルニレの下に幕末に建てられた筆塚があります。
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田切古道(郷田切川迂回路)

田切を越えるためには上流側へ迂回するのが通常ですが、郷田切川は例外的に下流側へ迂回していました。その迂回路が残っていますが、草がかなり生えており中に入っていくのは躊躇されました。草のない秋から冬には歩けると思います。わずか200m〜300mほどの古道ですが、郷田切川を越える橋が無くなっています。

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筆塚と馬頭観音

二俣宿

二俣宿は田切宿との合宿で、大田切川と郷田切川に挟まれた交通の難所にありました。1816年(文化13)赤倉温泉の開湯によって、温泉場入口の宿場として栄えました。1878年(明治11)9月11日、明治天皇は午前7時に関川の行在所であった大石家を出立、二俣宿の脇本陣畑山三十郎家で小休されたということです。二俣宿脇本陣に「明治天皇御休所跡」の石碑が建っています。

赤倉温泉の開発

妙高山麓に温泉が湧くことは古くから知られていましたが、宝蔵院領であったため開発は難しかったといいます。1814年(文化11)田切村庄屋、中島源八らは温泉を開くこと、その残水を使って新田を開発すること、宝蔵院と交渉することを高田藩に願い出ました。結果、宝蔵院へ迷惑料、冥加金(みょうがきん)を支払うことで合意しました。温泉場と一本木新田が開かれ、1824年(文政7)には旅籠屋13軒となりました。

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二俣宿脇本陣

問屋を兼ねていた畑山家には『畑山先生碑』が建てられています。畑山三作は幕末に寺子屋を開いていました。また傍らには『歌開始海の碑』も建てられています。畑山正隆は、昭和42年歌開始魚で佳作、昭和52年、海で選歌十作に入選したそうです。

『温泉の町の流れに熱帯魚年どし殖えて群なし泳ぐ』(昭和42年・佳作)

『蛍いか魚津の海にひしめきて星なき夜のうねり明るし』(昭和52年・選歌)

昭和42年の歌開始魚では、堀口大学も参加しています。

『深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり』

歌開始とは

人々が集まって共通の題で歌を詠み、披講する会を「歌会」といいます。「万葉集」にも記載があり奈良時代には行われていたようです。宮中では年中行事としての歌会などのほかに、毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会として催しになる歌会を「歌会始(うたかいはじめ)」といいました。

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西蓮寺

1276年(建治2)、親鸞聖人の弟子西祐により創建されました。
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二俣宿馬寄場

昔は二俣宿全ての馬を洗えるほど大きかったといいます。防火の役目もありました。馬寄場の上には石仏が佇んでいます。

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御舘の乱無名戦士の墓

1578年(天正6)、御館の乱の際の無名戦士の墓と伝えられています。14基の小さな五輪塔が並んでいます。

御館の乱

1578年(天正6)、越後の龍と言われた上杉謙信は春日山城で急死してしまいます。脳溢血ではないかとも言われていますが、はっきりとした原因はわかっていません。謙信に実子はなく、跡継ぎについての遺言もありません。謙信の養子となった上杉景勝上杉景虎、この2人の間で後継者争いが起きます。上杉景勝は、坂戸城主長尾政景の息子で謙信の甥でもあります。一方、上杉景虎は北条家からの養子でした。景虎は景勝の妹を妻に迎えており、2人は義理の兄弟の関係にもありました。越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりますが、この内乱は軍事力の衰退、恩賞を巡っての対立など謙信時代に培われた上杉家の勢力と威信を大きく後退させました。

12:00 一度、国道へでます。田切宿、二俣宿をあとに関山宿を目指して進んでいきます。