2021年5月2日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

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14:00 ようやく立峠を越えて『間の宿乱橋』(みだればし)に入っていきます。

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薬師堂・十王堂跡

薬師堂は明治初めに静橋学校の場所から現在地へ移されました。

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「乱橋」という珍しい地名は、「弥陀の橋」から転じたものとされます。
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ニ囿軒(萬屋)・筆塚

萬屋は、庄屋であったとされます。安政5年の筆塚があり、寺子屋師匠であったと思われ、「ニ囿軒」というのは寺子屋の名称のようです。

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乱橋高札場跡

北国西街道(善光寺道)、風越峠道、水戸街道(?)の辻に高札場があったそうですが・・・水戸街道、茨木の水戸ではないと思いますが・・・少し調べてみましたが、全くわかりませんでした。

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古久屋

江戸時代、間の宿では宿泊を禁じられていたため立場茶屋を営んでいましたが、明治時代になり規制がなくなると宿屋を開業しました。

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大黒屋跡

正岡子規の紀行文「かけはしの記」に記載のある明治22年の夏に宿泊したという大黒屋は、残念ながら取り壊されていました。

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千部供養塔

「千部供養塔」は大乗妙典を一千回読誦したときに記念に建てるものです。
旧道は、舗装道路から綿の実道祖神のほうへ上がる未舗装道路になります。

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綿の実道祖神

手に綿の実を持った道祖神、江戸時代、乱橋では綿が栽培され豊作の願いも込められています。
綿の実道祖神前を登るとすぐに舗装道路になり、右手へ進みます。

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物種太郎塚と石碑群

「東筑摩郡村誌」には墓の記載はありますが、詳細はわからないそうで、地元の古老が「物種太郎の墓」と言うだけなのだとか。松本の新村が比定地ということですし、東山道沿いの伝承ですので全くの見当違いということでもなさそうですね。出川、安曇野などにも伝承地が残ります。

物種(ものくさ)太郎

信濃国筑摩郡あたらしの郷に働かず寝てばかりの男がいました。あるとき朝廷から、信濃守二条大納言有季への奉公の命がありますが、村人たちは皆嫌がって、物くさ太郎をおだてその役を務めさせました。上洛した太郎は人が変わったように働き者となります。 たまたま出会った女性を妻にしようとし、恋歌の掛け合いをすることになりますが、機知に富んだ太郎は女性を破り結婚することになりました。垢にまみれた太郎は風呂に入ると驚くほどのイケメンに変貌し、更には深草帝の後裔であることが明らかになり、信濃の中将に任ぜられ故郷に帰った太郎は子孫繁栄し、120歳の長寿を全うしました。

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中ノ峠

乱橋の集落や越えてきた立峠がよく見えます。乱橋の集落よりほんの少し(標高差は30m程度)登りました。この付近が「中ノ峠」で、「小豆坂」とも呼ばれます。ここから下り坂となります。

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馬の水呑場

湧いているようには見えませんが水が溜まっている穴があり、馬頭観音の石碑が2つありました。
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一里塚跡(山伏塚)

このあたりが一里塚跡とも山伏を葬ったところともいわれますが、詳細は不明です。10mほど奥に入っていくと墓地になっているのですが、ここが「山伏塚」なのでしょうか。お墓は新しいものから古いものまで色々あります。

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野口炭鉱事務所跡

野口炭鉱については詳しくわかりませんが、周辺はかつて、「西条石炭」と呼ばれた石炭の一大産地でした。中でも「湯仏炭鉱」は西条石炭の代表的な炭鉱でした。1883(明治16)年に採掘が始まり、西条周辺には10以上の炭鉱があったとされます。1900年の篠ノ井線開通でさらに盛んになり、石炭は松本や、岡谷、松代へ運ばれ、製糸工場の燃料に使用されていました。「野口炭鉱」もその中の一つだと思われます。昭和40年頃に閉山したと思われます。

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馬頭観音

大正時代建立の馬頭観音です。

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山神の祠

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「富蔵山」の常夜灯

富蔵山観音寺の常夜灯だと思われます。

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隧道で鉄道を越えます。すぐ頭上に電車が走り、電車の底が見えます。結構スリリング

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馬頭観音

丸彫りの馬頭観音2基と文字の馬頭観音が1基並んでいます。

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皿吊し道祖神

どこにあるかわかりますか?

崖の下の方はモルタル吹付けが施されていますが、上の方に岩のままの部分があります。そこに「皿吊し道祖神」があります。

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皿吊し道祖神

崖の岩に穴が掘られて、中には道祖神があります。道のほうが掘り下げられて道祖神が取り残されたそうです。樹木に葉が少ない今の時期だから見えたのでしょうが、夏場は樹木の葉に覆われて見えないかもしれません。

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西條神社

元は秋葉神社であったようです。石段、何段あるのでしょうか。長い石段を登る元気がなく、素通りしました。

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本城村役場跡・本城村道路元標

現在の筑北村役場は手前300mくらいにありました。現在の役場はとても立派で綺麗な建物でした。
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西条は間の宿でしたが、交通の要衝であるとともに、幕末から明治期にかけて石炭の採掘で繁栄した集落でした。

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富蔵山観音寺山門

西条学校(成章学校跡)、高札場跡の標識もあります。山門には仁王像が睨みをきかせています。
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観音寺本堂

馬頭観音が本尊であるためか、牛馬の銅像が目を引きます。馬の寺として信仰を集めたとされ、近年までは毎年百余頭が参加する草競馬が行われていました。富蔵山の観音堂は観音寺奥の院です。

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西条茶屋本陣

茅葺屋根にトタンを張った大きな旧家が間の宿であった西条の茶屋本陣です。

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釣瓶式井戸跡と常夜灯

「常夜灯」と彫られた台座のみ残されています。
本日は、『西条温泉とくら』へ宿泊しますので、北国西街道を離れて左へ曲がり、宿へ向かいます。

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富蔵山碑

天保期建立。先程の富蔵山観音寺への道標でしょうか・・・

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十王堂跡の石碑

15:50 本日宿泊する『西条温泉とくら』へ到着しました。立峠を越える「会田〜青柳」の道のりは楽しいものでしたが、かなり疲れてクタクタです。温泉へ入ってゆっくりしたいと思います。

令和3年5月3日

9:40 本日は歩行距離が短く、聖高原駅までを予定していますのでのんびりの出発です。

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西條白菜発祥之地碑

昭和24年頃より白菜の栽培が盛んになり、筑北地域一帯に普及すると「西條白菜」としての市場評価も高まりました。昭和30年代の最盛期には専用列車での出荷が行われるほどでした。碑は平成9年に建立されたものです。
まずは北国西街道、東条川に架かる橋まで戻り、東条川を渡ったところで北へ向かうところですが、南へと向かい、少し寄り道して行きます。

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小宇阿弥陀堂跡

「宇」とは覆いのあるものを指しますから、阿弥陀如来を祀った小さなお堂があった場所でしょうか。

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小宇大明神

こちらも大明神を祀った小さなお堂があった場所でしょうか。

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握手道祖神

双体道祖神の中には合掌、握手、抱肩、祝言などがあります。接吻している珍しいものもあります。こちらの双体道祖神は「握手」ですね。

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関昌寺

元禄元年(1688)僧淵竜が開いたとされる碩水寺の末寺。信濃三十三番観音札所の第十七番にあたる古刹で、十一面観音を本尊としています。

以前は茅葺きの本堂でしたが、大正時代に汽車の煤煙が原因で焼失し、鉄道省からの500円の賠償金で再建されました。また、この寺には、「一升の豆を奉納して祈願すれば、一生まめで暮らせる」という言い伝えがあります。
関昌寺から元の北国西街道、東条川のところまで戻り、北へ向かって進んでいきます。

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旧道

歩けそうですが、草で見えないのでアスファルトの道を進みました。反対から見るとわずかに旧道が残っているようです。

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刈谷沢神明宮の鳥居

境内入口に坂木の代官、天野助次郎を祀る天野社があります。

天野助次郎

松本藩だった当時は中山道の助郷を課されていました。松本藩主水野忠恒が江戸城にて刃物沙汰を起こしたことにより改易となり、麻績・会田は幕府領となりました。そのため坂木陣屋がおかれ、代官として天野助次郎が着任しました。天野助次郎は、他の支配地まで人馬を出さないと決め、農民は感謝し神として祀ったとされます。助郷制度は農民にとってそれほど苦役だったのです。

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道祖神

線刻された文字道祖神と藁や松で飾り付けされた中に石があります。こちらの石のほうが大切にされているようですが、何の石なのでしょうか。

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坂北分教場跡

麻績組合高等小学校の坂北分教場跡、現在の中学校にあたり、明治維新後から昭和初期までは「高等小学校」と呼ばれていました。

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長畑集落

街道に張り出した松が立派です。

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供養塔・馬頭観音

1801年(享和元)の馬頭観音は馬の耳まではっきり彫りが残っていました。
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中村集落・山清酒造

美山錦と麻績川の伏流水で仕込んだ「山清(さんせい)」という銘柄のお酒を作っているようです。

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懸道の石碑・道祖神

石碑には「懸道西街道・郡道差切新道」と彫られています。差切新道は差切峡へ向かう道だと思われます。道祖神横にはなぜか狛犬、元は神社があったのでしょうか・・・

この付近には道路元標もあったはずですが・・・気づきませんでした。無くなった!?

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坂北村考古資料館

1900年(明治33)に建築された役場であり、文化財に指定されています。現在は資料館として行政資料、民俗資料が展示されています。入場料は200円です。

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増田甲子七(かねしち)像

坂北村(現在の筑北村)に生まれ、官僚から政治家へ、吉田茂の側近として運輸大臣、佐藤栄作内閣においては防衛庁長官を務めました。

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腰の神

石の下部に白い布を巻きつけ拝むと腰の痛みが取れるといいます。
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坂北駅・開駅記念碑

鉄道が通ったのは1900年(明治33)でしたが、駅は設けられず西条か麻績まで出なくてはなりませんでした。駅ができたのは1927年(昭和2)でした。開駅記念碑の揮毫は増田甲子七の父で開駅に尽力した増田留吉、1957年(昭和32)建立。

坂北駅の駅舎はリニューアルされ、トイレもとても綺麗でした。

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青柳集落へ入っていきます。

青柳宿

戦国時代、青柳氏が長田から居館をこの地へ移したことにより城下町として発展し、後の慶長年間(1596〜1615)松本城主、小笠原秀政により善光寺道の宿場として整備が行われました。宿継ぎの荷物は、善光寺平からたばこが、松本方面からは茶が多く送られたとされ、交通の要衝でした。

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二十三夜塔・名号碑

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桜清水

題目碑などの多くの石仏が残っています。桜清水は鉄板の蓋がされ見ることができません。
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市の神と郷蔵跡

青柳宿は江戸時代後期には本陣1軒、旅籠屋11軒、茶屋7軒があったとされます。

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石組水路

青柳宿の屋敷は急坂に沿って建てられているため、石垣の上に建てられている家が多く、その石垣の下に水路を通してある珍しい宿場用水です。

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丹花の井戸とお堂

丹花の井戸は今でも水をたたえています。

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青柳宿本陣

青柳氏の一族が大庄屋となり、問屋も兼ねていました。現在も冠木門が往時を彷彿させる大きく立派な旧家です。
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馬の水飲み場跡・用水取り入れ口

「馬の水飲み場跡」は表柱が建っているのみです。

坂の一番上にある小さな水路から石組水路への用水を取り込んでいます。

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青柳城跡

城山(じょうやま)とも呼ばれます。標高905mの難攻不落の要害であり、大小8つの郭跡と東に七条の空堀があるそうですが、今回は頂上までは登りませんでした・・・連日の峠越えで疲れました。 城跡の東側には駐車場があり、そこからのアクセスであれば山登りはありません。また駐車場側には戦国の砦が再現されています。頂上まで登れば北アルプスが一望できるでしょう。

1553年(天文22)武田氏と上杉氏、1583〜1584年(天正11〜12)小笠原氏と上杉氏の攻防戦などがあった山城です。支城としては竹場城址(鍋山城址)と仁熊城址(隠城)がありました。

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侍屋敷跡

青柳氏居館跡へ続く緩い上り坂の寺小路両側に武家屋敷が配置されていました。現在は空地になっています。

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青柳氏居館跡・旧青柳学校

現在の清長寺が居館跡になります。明治年間に青柳学校として使用されていたようです。
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清長寺

1573年(天正元)青柳城主、青柳伊勢守頼長が開祖、当初はやや北の里坊の地に父清長の菩提を弔うために創建しました。後に小笠原氏が青柳氏を滅亡させたあと、居館跡の現在地に移しました。近江守清長が中興した碩水寺の末寺でした。

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清長寺

無住のようですが・・ボロボロに壊れていました。楼門も二階に登れる階段もあるのですが、いつ崩れるか不安なので上がりませんでした。

本堂前を左に進むと青柳城跡への登山口があります。

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清長寺の石仏

阿弥陀如来のお顔はとても穏やかでした。
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清長寺の石仏

墓地にあった石仏です。恐らく石工が作成したものではなく、一般の人が彫ったものと思われます。とても素朴な石仏です。

墓地には清長、頼長の奥方のお墓がありますが、清長、頼長父子のお墓は碩水寺にあります。

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里坊稲荷神社

1865年(慶応元)伏見稲荷より勧請し、養蚕や五穀豊作、商売繁盛の神様として参拝者が多かったとされます。

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里坊稲荷神社本殿

里坊稲荷神社では、7年に1度「キツネの嫁入り」行列が行われています。

おキツネ様のために青柳宿では犬を飼わない慣例があります。

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里坊稲荷神社からの眺め

北アルプスがうっすら見えました!
坂を下り、北国西街道(善光寺道)へ戻ります。宿外れの枡形にでました。案内板を過ぎるとすぐに大切通しがあります。

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大切通し

1580年(天正8)青柳伊勢守頼長により切り開かれました。その後3回にわたり切り下げが行われました。

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大切通しの石仏

文化6年の改修の翌年に開削によってでた石材の有効利用と旅の安全を祈願して百体観音像が寄進されました。

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大切通しの磨崖仏

右側上部には普請記録と馬頭観音が刻まれています。
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小切通しと石仏

大切通しとともに開削されました。文化6年には大切通しと共に小切通しも改修されたと記録されています。

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善光寺道名所図会の大切通し

2つの切通しの開通により通行が容易になり、善光寺名所図会には『是に依て旅人并(とも)に牛馬の往来聊(いささか)も煩はしき事なく野を越え山を越して麻績宿に到る』と記されています。

12:30 青柳宿は坂の宿場でした。坂を利用した石組用水路には驚きました。青柳城跡は、今回は寄り道しませんでしたが、またの機会に寄ってみたいと思います。小切通しを過ぎると麻績村に入ります。