2020年8月9日

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長野駅

今回は車で長野駅まできました。長野駅から少し離れた安価なコインパーキングに駐車し駅まで歩き、長野駅善光寺側のバスターミナル3番より30番の松代行きのバスに乗り、途中の「川中島古戦場」で下車し、まずは川中島古戦場の見学です。

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川中島古戦場八幡社と逆槐

源顕清(あききよ)が信濃の国に流された時、武運長久を祈り、八幡大神をご神木の大ケヤキに包まれる鞘堂内の御神殿に祀られたことから周辺は「八幡原」と名付けられました。武田信玄は川中島の合戦で破壊された神殿を高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後は松代藩真田家が代々祭祀、修繕運営されました。

社殿右手に写るのが「逆槐(さかさえんじゅ)」です。1561年(永禄4)、武田信玄はこの地に本陣を構えました。このときに土留に自生の槐を根を上にして杭として打ち込んだものが芽を出し、長い年月をかけて現在の巨木に成長しました。

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田中月亀父子の歌碑

田中月亀は本名を亀太郎、現在の長野市更北の人で松代藩主、真田幸教(ゆきのり)に仕え、学問・華道に通じ、その子、亀作も亀守と号し、知られていました。

「跡しのぶ川中島の朝あらし いぶきのさ霧おもかげに見ゆ 月廼(つきの)亀麿」

「月影の入にし後もほととぎす ひとこえ残す小島田の里 月廼亀守」

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首塚

以前は屍塚(かばねづか)と呼ばれ、川中島合戦の武田方海津城主、高坂弾正が激戦地となったこの辺り一帯の戦死者6千人余りの遺体を敵味方なく集め、手厚く葬った塚の一つです。古戦場公園駐車場南にも同じく大きな塚が残っています。

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芭蕉句碑

「十六夜もまた 更科の 郡かな」

天保10年頃に建立され、現在のものは昭和39年、再建されたものです。

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執念の石

本陣へ斬り込んで来た馬上の謙信めがけて槍をついた原大隅。槍はそれましたが、馬が驚き去ったため信玄は助かりましたが、無念の原大隅は傍にあったこの石を槍で突き通したと言われています。

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三太刀七太刀之跡の碑

1561年(永禄4)の川中島合戦において、信玄の身辺が手薄になった時、風のように本陣に切り込んできた謙信は信玄めがけて三太刀斬りつけました。信玄は軍配団扇(うちわ)で受け止めましたが、腕に2箇所の傷を負いました。とっさに信玄の旗本、原大隅が槍で馬上の謙信を付きましたが、槍はそれました。後に信玄の団扇を調べると刀の傷が7つもあったといいます。

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武田・上杉両雄一騎打ちの像

上杉謙信が本陣にいた武田信玄に斬り込んだ迫力のシーンが銅像となっています。典厩寺の「武田・上杉両雄一騎打ちの碑」のデザインが図案となっているそうです。

「毘」「龍」の旗

上杉軍の軍旗で「毘」は上杉謙信が信仰した毘沙門天を意味し、戦場では「毘沙門天と共にあり」その加護のもと水火も辞さない勇気を示したといいます。「龍」は、乱れ龍を意味し、突撃の時は真っ先に押し立てて進んだそうです。

「風林火山」の旗

武田軍の旗は別名「孫子」の旗とも言われ、紺色の絹布に金泥(ニカワに金粉を混ぜたもの)で「孫子」の一節を武田氏の菩提寺恵林寺の僧、快川紹喜(じょうき)の筆により書かれたものでした。「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」 武田軍の軍旗としてはこのほかに「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗とともに武田軍の象徴となっていました。

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佐久間象山像

幕末の志士に多大な影響を与えた松代藩士、天才学者、佐久間象山の像があります。かなり大きな銅像です。

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りんごのガードレール

長野らしいりんごのガードレールがありました。かわいいです。

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赤川歌碑

赤川神社跡地に昭和2年に建てられた歌碑です。「骨をつみ 血しほ流ししもののふの おもかげうかぶ 赤川の水 浅井洌」 古くから川中島は幾多の戦いの場となってきました。中でも武田・上杉の川中島合戦は幾年にも及び、永禄4年には激戦となり、死骸は山を築き、社前の川は血にそまったといいます。 赤川神社は718年(養老2)信濃国更級郡西寺尾村岡村組の産神として勧請しました。1742年(寛保2)8月の台風(戌の満水)で千曲川が氾濫し、農地や民家とともに流出しましたが、寛保4年に再建しました。明治40年に伊勢社に合祀されています。

浅井洌

1849年(嘉永2)、松本藩士大岩家の三男として生まれ、後に浅井家の養子となり浅井家を継ぎました。若い頃には自由民権運動家としても活動しています。長野師範学校教師などを経て70歳で退職するまで教師を務め、40年に渡り長野師範学校の教育に尽くしました。長野県歌「信濃の国」の作詞者として知られています。

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川中島の桃

ちょうど「モモ」の出荷時期です。そろそろ食べ頃という美味しそうなモモが鈴なりです。長野県は桃の生産量、全国3位です。さらに県内でも約三割(長野県内1位)の地域がこの川中島合戦があった周辺となっています。品種にも「川中島白鳳」や「川中島白桃」などが作られています。
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宮入慶之助記念館

宮入慶之助は山梨・福岡・佐賀などで流行した日本住血吸虫病の感染を媒介するのが小さな巻貝であることを発見した人物です。この巻貝は「ミヤイリガイ」と呼ばれています。 1865年(慶応元)、西寺尾村に生まれた慶之助は東京帝国医科大学卒業後、1902年(明治35)ドイツへ留学し細菌学を学び、帰国後九州帝国大学教授に就任し衛生学を担当しました。巻貝を発見したのは1913年(大正2)ですが、これ以降はこの巻貝を撲滅することに尽力し感染を予防することに成功しました。 記念館は電話予約をすることにより見学することができます。

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胴合橋

山本勘助が川中島の戦いによって討ち死にした後、家来が上杉軍より勘助の首を奪い返し、首と胴体を繋ぎ合わせたという伝説の橋です。

山本勘助

武田信玄の軍師で片目、片足不自由な武将です。長年、実在が疑問視されていましたが、近年になり実在を裏付ける史料が確認されました。三河国の出身で、20代半ばより40代なかばで信玄の軍師となったとされ、数々の策略を立てたとされます。上杉謙信との戦いに備えて海津城(後の松代城)はわずか80日で築城したと言われます。1561年(永禄4)の激戦において「きつつき戦法」の失敗により武田軍は苦戦、責任を感じた勘助は敵陣へ突撃し討ち死にしたと言われています。 「きつつき戦法」とはきつつきが木を突いて虫をびっくりさせて穴から出てきたところを捉える様子から付いた名前で、合戦においては妻女山から動かない上杉軍を山から追い出すための作戦でした。武田軍別働隊で妻女山の背後へ向かうことで上杉軍に山を下らせ、本隊は八幡原で待ち構え、妻女山から下りてきた上杉軍を一網打尽にする作戦でした。ところが、武田軍別働隊が海津城を出発し妻女山へ登ると、既に上杉陣営はもぬけのからでした。八幡原には霧が立ち込め、霧が晴れるとなんと目の前に上杉軍が整然と並んでいました。これには武田軍本隊は慌てます。きつつき戦法を見破った上杉軍は早々に山を下り、千曲川を渡り八幡原へ到達していたのでした。なぜ見破れたのか・・?一説には、その日の海津城の煮炊きの煙の量や時間がいつもと違っていたことからではないか、と言われています。
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槌井神社

由緒や創建年は不明ですが、自然石の庚申塔は「万延元年」、石版の庚申塔は「寛政十二年」と刻まれています。

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典厩寺(てんきゅうじ)

拝観には200円が必要です。かつては瑠璃光山鶴巣寺と号して薬師如来を本尊としていました。武田信繁のお墓があるお寺として知られています。境内にはトイレもあり、有り難いです。

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逆立ち獅子

逆立ち獅子がカワイイです。この逆さ獅子、全国に見られるようですが特に多いのは金沢だとか。ですが、なぜ逆さにするのかははっきりとわかっていないそうです。
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閻魔堂

1860年(万延元)松代藩八代藩主、真田幸貫の発願によって川中島合戦、戦死者6000名余りの供養のため建立されました。この朱塗りの高さ5mの閻魔大王像は、日本一大きいそうです。天井には三十三身観音菩薩、正面には四天王が描かれています。側面の壁には川中島合戦の絵図が掲げられています。

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川中島合戦記念館

典厩寺内の記念館です。自由に入れ、照明も自分で付けるようになっています。中には様々なものが展示されていましたが、中でも印象に残っているのは「信繁の刀」です。天文年間、濃州(美濃国)関の兼高の作とされ、二尺五寸あった刀は戦いで半分に折れたとされます。

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武田・上杉両雄一騎打ちの碑

昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」放送の翌年に建立されました。川中島古戦場の一騎打ちの銅像はこの碑に描かれている図案が原図となっているそうです。

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武田信繁の墓

1525年(大永5)父武田信虎と大井夫人の次男として生まれ、兄は信玄。父信虎は不仲であった嫡男の信玄ではなく、次男の信繁に家督を譲ろうとしていたといいます。1541年(天文10)信玄は、父信虎を駿河へ追放する形で家督を継ぎました。その後信繁は兄をたて、副将として兄信玄に仕えます。1561年(永禄4)9月10日、信繁は川中島の合戦で本陣を守り、37歳で討死しました。敵の上杉謙信も文武両道に優れた名将としてその死を惜しんだといいます。武田家の理想的な次男とされ、真田昌幸は自らの次男を「信繁(幸村)」と命名したといいます。遺骸は鶴巣寺(かくそうじ)に埋葬され、典厩塚と呼ばれていましたが、その後真田信之の命により「典厩寺」と改められました。 また墓の脇に佇む小さな供養塔は信之が幕府に遠慮して密かに弔った真田信繁の供養塔であるといいますが・・どの石でしょう。小さな五輪塔でしょうか。

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信繁の首きよめ井戸

討死した信繁の首を敵から奪い返して清めたとされる井戸です。首は領地であった小諸に持ち帰ったため、当寺の墓は胴体だけと伝えられています。

典厩寺を出て、松代へ向かい長野インターを越えたところで右へ入っていき、荒神町の交差点を目指して進みます。

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寿碑

左は「錦松園雅友 青山錦松流」と彫られ、右は「観世流師範 島田鶴先生」とあります。能に関係ある人物を称える碑でしょうか。どのような方を称えるものかはわかりませんが、どちらも書は『飯島忠夫』となっています。飯島忠夫は1875年(明治8)松代藩士の家に生まれ、教師として学習院中等科で教鞭をとり、東宮御学問所御用掛も努めた東洋史学者です。著書も多く、郷土の人物として佐久間象山も研究されていました。生前に建立される場合には「寿碑」とするようです。

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長野電鉄屋代線跡

2012年(平成24)に廃線となった長野電鉄屋代線の跡です。まだ6年ほどしか経っていませんので、線路跡と思われる場所がそこかしこにありました。駅舎も残っており、バスの待合所などに利用されています。
荒神町の交差点へたどり着きました。ここからは『北国街道 松代道』となりますので、本編の方へ書きます。このあと松代道を北上し、川田宿手前の町川田神社まで歩きました。神社からホテルに向かうのですが、なかなかの距離のため松代タクシーさんへ電話し迎えに来ていただきました。ホテルまでの道のりの途中でいくつかの史跡に寄りながら戻ってもらいました。

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山本勘助の墓

墓ははじめ南の陣ケ瀬の東、勘助塚にありましたが、千曲川の流れに荒廃し、1739年(元文4)に松代藩家老、鎌原重栄・原正盛が信玄ゆかりの信州柴阿弥陀堂境内に遺骨とともに移し、墓碑を建立しました。1809年(文化6)には孫の鎌原重賢が更に墓を守るための石積みをし、現在の姿となっています。
タクシーの運転手さんのお話だと2019年の台風でこのあたりも水に浸かったということです。松代は道路冠水、一部床上浸水30cm程度の被害だったようです。勘助の墓は堤防下にありますので恐らく水に浸かったとは思いますが、墓石などが流されなくてよかったです・・

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信州柴阿弥陀堂絵図

1218年(建保6)下総国の武士、吉池隼人介重次は関東地方布教中の親鸞聖人(見真大師)に帰依し、直筆の十字名号を授かりました。1469年〜1486年(文明年間)にこの地にやってきた九代、吉池彦四郎重行によってこの「十字名号」を本尊とした信州柴阿弥陀堂が開かれました。1561年(永禄4)川中島合戦後、武田信玄は武軍長久を祈願していたこの堂に陣小屋を寄進、改築し甲冑の守護仏「善光寺如来御分身仏」を安置し両軍の戦死者の霊を祀りました。それを聞いた上杉謙信は家臣を使わして礼拝しました。歴代藩士に庇護され、1779年(安永8)には松代藩の援助により改築、地域の人々には「お柴さん」として親しまれました。現在は勘助の墓だけを残し移築されています。

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信州柴阿弥陀堂

こちらが移築されている信州柴阿弥陀堂です。現在は、勘助の墓より南東に250mほどの吉池家の一角に移されています。昭和初期の千曲川築堤により移転し、1977年(昭和52)、吉池主計により5代目の阿弥陀堂としてこの地に移転されました。
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善光寺道名所図会の柴阿弥陀堂

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真田信之霊屋

松代藩初代藩主真田信之は、1657年(明暦3)この場所に隠居所としての書院を建築し、隠居しました。1658年(明暦4)、92歳で没します。この時代の人物としてはかなりの長寿でした。遺命により隠居所を寺とし、「真田林大鋒寺」とします。「大鋒」は、信之の院号です。2代信政は父より先に没したので、3代幸道の時、社殿や霊屋が建てられました。霊屋は隠居所と同じ場所に建てられています。

大鋒寺の右手には信之の墓もあります。大鋒寺の墓にはが納められているそうで、遺骨は松代の長國寺の真田家墓所に葬られています

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霊廟の間取

中の見学はできませんが、このようになっているそうです。長國寺の霊廟に対してこちらはかなり質素な作りとなっています。
これで【番外編】「川中島合戦コース」は終了です。このままタクシーでおぎのやへ寄っていただき、釜飯を購入して本日宿泊する『Royal Hotel長野』へ向かってもらいました。タクシー代は5,000円ほどかかりましたが短時間で回れましたので良かったと思います。