2020年8月12日

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14:00 柏原宿をあとに野尻宿へと進んでいきます。雨はすっかり上がり、明るくなってきました。

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一茶の墓

俳諧寺裏の墓地に小林家のお墓があります。

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栗生純夫の碑

「柏原この日土蔵をまつりけり」

栗生純夫は、1904年、長野県須坂市に生まれ、臼田亜浪に師事します。「石楠」の最高幹部となり、1946年(昭和21)「科野」を創刊。一茶の研究に尽力し、「寛政三年紀行」等の新資料を発見、「一茶新考」、「一茶随筆」等を刊行し、1961年に亡くなりました。碑は1980年(昭和55)に建立されました。

臼田亜浪

1879年(明治12)、小諸に生まれた臼田亜浪は、小諸義塾で学び、和仏法律学校(現法政大学)在学中に短歌を与謝野鉄幹、俳句を高浜虚子に学び、記者となりますが、1915年(大正4)俳誌「石楠」を創刊し俳人としてデビューします。1945年(昭和20)東京大空襲により被災し「石楠」を休刊しますが、翌年、長野市に移り、「石楠」を復刊します。1951年(昭和26)脳溢血で亡くなりました。

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俳諧寺

1910年(明治43)に一茶を慕う地元の人々により建てられたお堂で、天井には俳諧寺を訪れた金子兜太氏など著名な俳人・文人たちの俳句筆跡が残されています。
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一茶銅像と句碑

「初夢に故郷を見て涙かな」

1794年(寛政6)、32歳の一茶が長崎で新春を迎えた際の作品です。西国の旅に出て2年、故郷への思いが詰まった作品です。1990年(平成2)、一茶展開催記念の際に一茶像と共に建立されました。

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一茶記念館

一茶が書き残した数多くの作品を中心に一茶の生涯と文学を紹介しています。

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中村兵左衛門の碑

1844年(弘化元)柏原村の古久屋三代目兵左衛門の次男に生まれ、長野町の最後の町長として尽力し、特に信越線の設置に際しては、川東案を退けて長野経由を実現させました。郷里においては、村民の反対にもかかわらず自ら敷地を寄付し、柏原駅(現在の黒姫駅)を開設しました。碑は1948年(昭和23)村民によって建立されました。
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小丸山公園の句碑

『是がまあつひの栖か雪五尺』15歳で故郷を離れ江戸へ出た一茶は35年間の漂泊生活に終止符を打ち、故郷へ帰ってきました。その時の感慨を詠んだものです。

小丸山公園の緩やかな斜面には多くの句碑があります。一茶のものから、一茶門弟、記念館館長などの作品が並んでいます。

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信濃町交番前の一茶句碑

『うまさふな雪やふふはりふふはりと』

お腹が空いていたときに詠んだものでしょうか。ユニークな句です。

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村の鍛冶屋碑、一茶句碑

岩崎屋当主の祖父、敬吉氏は、内弟子を抱える大鍛冶屋で、「カネキチ印」の高品質な鎌を作成し全国へ流通していました。しかし、大正中期に火災にあい、全てを失い廃業を余儀なくされました。文部省唱歌の「村のかじ屋」は作詞、作曲者不明ですが、現地案内板によると柏原村で作られたということになっています。鍛冶職人を称えるために碑を建立したとのことです。

一茶の句碑には『陽炎やきのふは見へぬだんご茶屋』と彫られています。1809年(文化6)に詠んだ句です。

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黒姫物産センターの一茶句碑

「庭の蝶子が這えばとびはへばとぶ」

文政年間に詠まれた句です。「庭の蝶」という5文字を「門の蝶」とした句もあるそうです。50歳を過ぎた晩婚の一茶が初めて子を持った喜びが感じられる句です。

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大平(おおだいら)立場跡

大平集落には立場茶屋がありました。霧の発生が多いこの地方では良質のそばが取れ、『霧下そば』と呼ばれています。
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野尻一里塚

両塚が残された貴重な一里塚です。

野尻一里塚を過ぎ国道より旧道へ入り、いよいよ北国街道信濃国最北端の「野尻宿」に至ります。

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芭蕉句碑

「うめが香にのっと日の出る山路かな」

1823年(文政6)、信濃町でもっとも古い句碑です。裏面には一茶の門人の湖元舎魯堂(池田伝九郎)「痩垣も見所有もの帰りばな」、六如亭関之(池田十郎平)「むだ歩行せよ迚扇貰けり」の句が刻まれています。
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仏心庵跡の石仏

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飯山・川東道道標

「従是飯山・川東道」と彫られています。湖畔沿いに飯山・川東へ通じる道がありました。針ノ木から柴津を経て飯山城下へ向かう道と船岳を経て浅野方面に向かう川東道へと別れていました。川東道周辺の村々は北国街道を避けて商品荷物を運び、しばしば柏原・古間などの宿場と争いになっていました。

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伝九郎神社

小さなお堂の伝九郎神社は、元々は火防の神、秋葉神社であったようです。秋葉神社は宿場の入口に設けられていることが多いです。伝九郎の功績から伝九郎の名にかわっていったのでしょうか。

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伝九郎堰功記

伝九郎神社裏の『伝九郎用水』は、1670年(寛文10)、野尻宿問屋の池田伝九郎によって着手、新堰の開削とともに伝九郎新田を開きました。

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野尻宿本陣池田家跡

野尻宿問屋は元禄期に伝九郎、本陣は宝永期に池田太郎兵衛が勤めていましたが、後に問屋も兼ねるようになりました。脇本陣は2軒ありました。1847年(弘化4)の善光寺地震で143戸の倒壊、さらに1848(嘉永元)、1869年(明治2)、1892年(明治23)と相次いで大火に見舞われたため、往時の面影はありません。

中勘助が琵琶島に篭もっていた際、食料が無くなると米は白旗を上げ、味噌は赤旗を上げて対岸へ知らせ、本陣の主人が島へ食料を運んでいました。

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野尻小学校跡

野尻小学校は、1972年(昭和47)までこの信濃町公民館の場所にありました。その後、野尻湖小学校へ統合されたようです。野尻湖小学校は現在のナウマンゾウ博物館あたりだったようですが、2012年に信濃町立信濃小中学校へ統合され、中高一貫校となり、信濃町には信濃小中学校、1校のみとなりました。

15:40 今日は野尻宿までです。宿泊先の野尻湖畔『藤屋旅館』まであと少し歩きます。