2020年11月23日

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10:00 宿泊した『鵜の浜温泉 みかく』を出発します。夜中は本降りの雨でしたが、朝はパラパラ・・という感じです。本降りにならなければいいな・・とお天気の心配をしながらの出発です。

まずは、目の前の鵜の浜海水浴場に行きます。

本日も犀浜七里(犀(才)浜中)を進んでいきます。『犀浜七里』は関川(荒川)から柿崎川に連なる犀浜砂丘、18浜の総称です。

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大潟マンホール蓋

大潟のマンホール蓋はとても素敵なデザインとなっています。
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人魚の像

この地に伝わる人魚伝説を題材としたとされる小川未明の「赤い蝋燭と人魚」の像が寂しそうに佇んでいます。

「赤い蝋燭と人魚」は、とても深いお話ですので、是非読んでみてほしい作品です。

小川未明

童話作家の小川未明は1882年(明治15)、旧高田藩士の家に生まれ、家族とともに15歳から春日山神社(春日山城跡)の社務所で暮らしました。未明の父は春日山神社を建立した中心人物です。今では道路がありますが、当時は野中の一軒家、一人っ子で近所に遊ぶ友もなく・・・山を歩いては自然石を集め、日本海を眺め、自然に向かい合い、空想にふけっていたようです。この頃の経験が彼の作品に大きく影響を与えたといいます。1961年(昭和36)、79歳で死去するまで1000点以上の作品を送り出し、代表作に「金の輪」、「赤い蝋燭と人魚」、「月夜と眼鏡」、「野薔薇」などがあり、「日本のアンデルセン」といわれます。没後、「小川未明文学賞」が創設されています。

潟町を過ぎると雁子浜へ入っていきます。

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砂防林

1760年(宝暦10)、旧吉川町尾神の地主の家に生まれた藤野条助は庄屋を継ぎ、川浦代官所へ従事し代官荻原藤七郎から砂丘に松を植え利益を得ることを聞き、犀浜へ松を植えることを考えます。1787年(天明7)、佐渡より黒松の苗木500本を購入し植えたものの、全て枯れてしまいましたが諦めず、家財を投入して苗を買い、今度は竹簾(すだれ)や葦簾で砂防し根元には赤土を入れ保水した結果、成功したのは1791年(寛政3)でした。

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人魚伝説の碑

小川未明の「赤い蝋燭と人魚」は雁子浜に伝わる人魚伝説をヒントにして書かれたといいます。

雁子浜の人魚伝説

青い海の崖の上にはいつもあたりを照らす常夜灯が灯る神明様がありました。佐渡に住む美しい娘は、毎夜、雁子浜に住む青年と会うために佐渡から船を漕ぎ、海を渡ってやってきていました。ある日若者の母親が強く止めるため、神明神社の常夜灯に明かりを灯さず、浜にも行きませんでした。翌朝、娘は亡骸となって発見され、若者も後悔と自責の念で娘を追って海に身を投げてしまいました。哀れんだ村人は常夜灯の付近に埋葬し、比翼塚を建て弔ったといいます。この比翼塚が人魚塚であると伝わります。

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1595年の文禄検地によると、雁子浜村(雁子之浜村)は家数2戸、7人と非常に寂しい村だったようです。
1kmほど進むと雁子浜から上下浜へ入ります。

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一里塚?

道路拡幅で少し削られていますが、高さ、大きさとも一里塚に見えます。反対側は住宅となっているので痕跡はありません。全く情報もなくわかりませんが、距離的には丁度いいくらいの場所です。奥州道は道中絵図を入手できていませんので、一里塚や高札場、本陣などの情報が少ないです。

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了蓮寺

本堂、鐘楼にも雪囲いがしてあります。
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最勝寺

「越後新四国第三番」の看板が掲げられています。四国八十八ヶ所札所巡拝というのは昔からありましたが、最近は、各地に『越後新四国八十八ヶ所』のような直接四国八十八ヶ所の霊場にまで足を運ばなくても、四国霊場を巡拝したと等しいご利益があるとされます。

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上下浜の町並み

1595年の文禄検地によると上下浜(上下之浜)は家18戸、61人であったと記されています。

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三ツ屋浜

上下浜へ入り1.5kmほど進むと三ツ屋浜へ入ります。
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三ツ屋浜の神明宮

参道の階段を登っていきます。振り返ると日本海、左手には米山が見えます。境内の狛犬や鳥居は新しいものになっており、綺麗に清掃されています。

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街道沿いのあちこちで戦没者のお墓や慰霊碑が見られますが、三ツ屋浜には4基並んでいました。あちこち歩いているといかに戦没者が多いのかと・・・

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直海浜(のうみはま)へ入ってきました。

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福城寺

門前に「宗祖聖人旧跡」の碑があります。親鸞聖人の旧跡ということですね。かつては常敬寺の末寺だったようです。

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光徳寺

元了は元亀年間(1570〜1572)に顕如上人に帰依し、上人より「光徳寺」の号を賜り、篠原の地(石川県南部)に開基したとされます。1563年(永禄6)上杉謙信を慕い、越後西浜へ移り、1585年(天正13)直海浜に移りました。現在の本堂は1865年(慶応元)に建てられたものです。

光徳寺は、小林家の菩提寺でもありました。

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堅忍遺慶の碑

「堅忍遺慶」とは、耐え忍び、その後に慶(よろこ)びが遺(のこ)る、という意味だそうです。碑の揮毫は日本初の連合艦隊司令長官、伊藤祐亨元帥小林富次郎の不屈の努力を讃えた碑は1909年(明治42)建立されましたが、その翌年の1910年に小林富次郎は亡くなりました。東京神田にて多くの人々が見送る葬列を収めた映画フィルムは2011年、国の重要文化財となりました。

小林富次郎とライオン株式会社

小林富次郎は、ライオン株式会社の創始者です。富次郎は1852年(嘉永5)に与野町(現在のさいたま市)に生まれ、4歳の時に直海浜に住む祖父母に預けられ、16歳まで直海浜で育ちました。生家へ戻り酒造業を助け、その後いくつかの事業を展開する中で何度も窮地に陥り、眼病にも悩まされました。明治24年、後のライオン(株)の前身である「小林富次郎商店」を開店、石鹸、マッチの軸木などを商っていました。2年後に石鹸製造販売、5年後に歯磨き粉の製造販売をはじめました。

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直海浜

ちょっと休憩です。相変わらず太陽も顔を出さず・・・風が強く寒いです。

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藤野条助顕彰碑

1760年(宝暦10)、旧吉川町尾神の地主の家に生まれた藤野条助は庄屋を継ぎ、川浦代官所へ従事し代官荻原藤七郎から砂丘に松を植え利益を得ることを聞き、犀浜へ松を植えることを考えます。1787年(天明7)、佐渡より黒松の苗木500本を購入し植えたものの、全て枯れてしまいましたが諦めず、家財を投入して苗を買い、今度は竹簾(すだれ)や葦簾で砂防し根元には赤土を入れ保水した結果、成功したのは1791年(寛政3)でした。

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藤野条助の石碑を過ぎた交差点で県道へ出ればよかったのですが・・そのまま旧道を進んでしまいました。信越本線の線路はどこかで渡れるだろうと軽く考えていましたが、行けども行けども踏切もガードもありません。上越建設工業を過ぎると道は水たまりの多い未舗装となりますが、道が続いているためそのまま進みました。

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さらに暫く行くとゴミが散乱する砂地になりました。満潮時は水に浸かる場所でしょうね。ちょうど今は歩けるので砂地を歩き、鉄橋の下をくぐり、なんとか信越本線を渡ることが出来ました。

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なんとか柿崎橋南詰の擁壁下までたどり着き、県道へ登れそうな斜面を見つけ柿崎橋へたどり着きました。一時はどうなるかと思いましたが、なんとか脱出できて良かったです。 安全に進むには、藤野条助の石碑顕彰碑を過ぎた交差点で県道へ出たほうが無難です。

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柿崎橋より今歩いてきた道を眺めてみます。

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玄川神社(黒川神社)

柿崎川は黒川とも言われますが、なぜ「玄川」の漢字になったのかはわかりません。柿崎宿の西外れにある立派な神社ですが、由緒などもわかりません。石灯籠には1858年(安政5)の銘がありますので、少なくともそれ以前の建立でしょう。
TOO001 軍師張良に兵書を与えたという伝説で知られる、黄石公の故事のワンシーンが彫ってあるようです。

銀杏が黄色い絨毯のようです。小川か用水・・庭園の池などがあったのでしょうか・・石橋だけが取り残されています。隣には「聖徳太子」の石碑もありました。

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柿崎宿へ入ってきました。このあたりには消雪パイプが設置されています。宿場らしい雰囲気は残ってなさそうです。
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善導寺入口の地蔵

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柿崎駅

12:25 柿崎駅に到着しました。風が強く寒いです。電車は1時間に1本程度しかありません。連休も今日まで。柿崎駅から直江津へ戻り、車をピックアップして帰宅します。
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おまけ

帰りの上信越自動車道路を走り、「道の駅あらい」で駐車していると大きな虹が見えました。肉眼では二重の虹(ダブルレインボー)でしたが、写真にはあまり写りませんでしたね。二重の虹なんて初めて見ました!!かなりの幸運が訪れるといいますが・・