2019年8月10日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
11:40 田中宿をあとに海野宿へむけて進んでいきます。

TOO001

道祖神

TOO001

柳哉句碑

『痩せたまゝ 遂に石間の 草枯るゝ』 宮下久太郎は俳号を第二世浮世庵柳哉(りゅうさい)と称し、明治14年この地三分に生まれ、俳句の師匠として近郷に数多くの門弟を指導して俳句界に広く貢献し、昭和13年二世浮世庵を継ぎ、昭和24年、69歳で没します。没後の昭和26年、門弟により碑が建立されました。

TOO001

海野宿

海野宿の成立は1625年(寛永2)とされます。田中宿を補助する宿場として田中宿と半月交代で業務を行っていましたが、戌の満水により田中宿が流出したため代わって本陣となりました。田中宿復興後は伝馬役のみ交代とし、本陣はそのままとなりました。

TOO001

万貫石

左の大きな石のことだと思いますが、いわれがわかりません。土石流で流れてきたものでしょうか、あるいは元々ここにあったものなのでしょうか。

TOO001

白鳥神社

日本武命が東征の途、この地に滞在していたことから白鳥神社となったといいます。貞元親王・善淵王、海野広道公を祭神としています。1191年(建久2)古代から中世に栄えた豪族・海野幸氏の祖と伝わります。木曽義仲の嫡男、清水冠者義高の側近として鎌倉入りした海野幸氏は、後に源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せたといいます。また、海野氏とその名跡を継承した真田氏の氏神として奉祀され、真田信之により松代の舞鶴山へ分祀されています。現在の社殿は江戸中期の再建、御神木は樹齢700年以上と言われています。

TOO001

木曽義仲挙兵地(白鳥河原の勢揃)

白鳥神社前の千曲川の河原は白鳥河原といって木曽義仲が挙兵したとして知られています。

1181年(治承5)後白河法皇の第二皇子、高倉宮似仁王の発した平家討伐の勅旨に応じ、木曽に旗揚げした木曽次郎源義仲は、丸子の依田城を経て白鳥神社前に広がる千曲河原「白鳥河原」で挙兵しました。平家物語、源平盛衰記にある「白鳥河原の勢揃」です。木曽四天王、地元の海野氏ら滋野一族を中心とした豪族と西上州の武士団が集結し、義仲は長野の横田河原、越中倶利伽羅峠を撃破し、破竹の勢いで上洛、1184年(寿永3)征夷大将軍に任命されますが、数十日後には近江粟津で戦死してしまいます。
TOO001

旧地蔵寺跡・媒(なかだち)地蔵

創建は不詳ですが、海野氏の家臣、赤石藤治反信が媒地蔵菩薩を小庵に安置したことにより始まったと伝わります。天文年間に衰退しますが、寛永2年に中興開山し、地蔵堂と称します。元禄4年にこの地へ移転再建しましたが、昭和26年に焼失し、間もなく廃寺となってしまいました。

媒地蔵の言い伝え

昔、加賀の国のお殿様に年頃の娘がおりましたが、なかなか良縁に恵まれませんでした。ある時、縁結びのお地蔵さんが海野にあると聞いて、参勤交代の道中にお参りしたところ、娘は立派な男性とめぐりあい、結婚することができ、お殿様も大変お喜びになったといいます。

TOO001

田中学校支校跡

詳しくはわかりませんが、東御市立田中小学校の前身、田中学校の分校があったのでしょう。田中小学校百周年記念として碑を設置したようです。

TOO001

海野宿ふれあいセンター

地区センターのような場所だと思われますが、海野格子が見事な立派な建物です。
TOO001

養蚕御視察記念碑

大正天皇の皇后である貞明皇后の養蚕御視察記念碑は、2つあります。手前の碑の正面には「貞明皇后 養蚕御視察記念碑 尾崎行雄著」、昭和24年に視察に来られたようですが、なぜ2つあるのかはわかりません。

TOO001 室町時代中頃より海野では毎月市が立ち、海野氏の城下町としてまた、諏訪・松本・佐久・上州・真田から松代・善光寺へと、交通の要衝でした。

TOO001

海野宿歴史資料館

寛政年間(1790年頃)に建てられた旅籠の建物が資料館となっています。旅人は相部屋で泊まったといいます。明治時代に入り、宿場が衰退すると旅籠屋づくりを残し、養蚕農家として利用されました。養蚕・養種・製糸・海野宿に関するものが展示されています。

TOO001

一茶句碑

『夕過乃臼の 谺の寒哉』文化9年

TOO001

馬頭観音

1780年(安永9)の馬頭観音。

ここ、海野郷より上田城下へ移り住んだ人々が上田の城下町海野を造ったため、ここを「本海野」と呼ぶこともありました。740年(天平12)頃のものとされている正倉院の宝物に海野郷の文字が見られ、古代から存在した郷と考えられています。荘園制の時代には近衛領海野庄として海野氏が大きな力を持っていました。

TOO001

本陣跡・進善学校、風吉学校跡

戌の満水により本陣を置かなくてはならなくなった1625年(寛永2)、海野宿の問屋を務めていた藤田家が本陣家を務めることになりました。藤田家は藤原鎌足の後裔から派生した一族のさらに後裔とされています。

1873年(明治7) 脩斉学校、夏目田学校、進善学校の3校が公立学校として開かれたとされています。学校跡碑は、東御市立田中小学校百周年記念として建てられています。進善学校も風吉学校も田中小学校に統合されたのではないでしょうか。

TOO001

馬つなぎ石

一時、馬をつないでおくため、手綱を穴に通し結んだ石です。街道筋の茶店前や一里塚、農家の軒先などによく見られたようです。

TOO001

高札場

宿場時代の建物の多くは旅籠屋づくりで出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が現在でもよく残されています。江戸時代末期から明治時代以降には蚕に病気が出にくい気候と矢島行康ら、先駆者の指導により養蚕業・蚕種業で栄え、その富により建築された壮大な建物は宿場時代の建物の風格を受け継いでいます。
TOO001

うんのわ

宿泊できる古民家「縁」とカフェいっぷく、Dining楽などが併設されています。現在13:20、ランチは15:00まででしたのでランチを頂こうとDining楽へ入りましたが、本日はもう閉店だそうで、カフェのみ開いていると言われてしまいました。仕方なく、アイスコーヒーだけ頂きました。店員さんは今日だけなのか、いつもなのかは判りませんが、一人で切り盛りしているということで、大変忙しそうでした。ランチは15:00までですが、信用しないほうがいいみたいですね。13:00くらいには閉店されてしまうかもしれません。造りは古民家風ですが、新しくきれいで、「縁」も素敵なホテルで泊まってみたい古民家ですが、従業員さんがいないのでサービス面がどうなのでしょう・・・

TOO001

TOO001

心光寺

海野宿西の枡形にある心光寺、北側にはかつて「願行寺」というお寺があったとされています。

TOO001

住吉神社

1631年(寛永8)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀を乞い、建立したものです。石鳥居右手に「姫石」なるものがありますが・・草で見えづらいですが、大きな石に穴があいています。
TOO001

馬頭観音と道祖神

TOO001

仁王堂

創建は不詳ですが、慶安年間に書かれた「田畑検知帳」に記録が残っています。寛保2年の戌の満水により仁王尊の1体は千曲川へ転落し流出してしまいました。

TOO001

千曲川

千曲川は埼玉県・山梨県・長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面を源とし、長野県においては「千曲川」、新潟県へ入ると「信濃川」と名前を変え、新潟市より日本海へ注ぎ、日本で一番長い川です。

TOO001

大屋停車場跡碑

官設鉄道信越線は1888年、上田〜軽井沢間が開通し、田中・小諸・御代田・軽井沢駅が開業し、資材を運ぶことができるようになりました。1893年、横川〜軽井沢間も完成し、東京まで鉄道が繋がったことにより生糸を輸送するために駅設置の請願が出され1896年に大屋駅が開業されました。

14:00 今日は大屋駅までにします。しなの鉄道にて大屋駅より小諸駅へ向かい、駅前駐車場で車をピックアップし、本日も「道の駅みまき」に車中泊です。