2020年8月14日

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12:00 田切宿、二俣宿をあとに関山宿を目指して進んでいきます。

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大田切街道跡

一旦、国道に出てすぐに二又の道があります。この細い道が「十三曲がり」と呼ばれていた大田切へ至る旧街道になります。この付近が絵図にある「九万度新田」だと思われます。旧道は途中までは残っていますが無くなってしまいますので、少し戻りアスファルトの道を進んでいきます。
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大田切石仏群

妙高大橋の少し手前にコンクリートの覆屋に納まる石仏があります。大田切越えは越後北国街道で一番の難所でした。街道沿いには多くの石仏が祀られていたと考えられます。そうしたものが妙高大橋建設中に出土し、一つにまとめて祀られています。

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通行止め

妙高大橋の架替工事のため通行止めとなっていました。今日はお盆のためか作業は行われていませんでしたので徒歩では通行できました。車両は進入できません。
少し進み妙高大橋をくぐる手前、右側に戦没者のお墓があるところを信越本線に向かい下っていく道があります。ここを下っていきます。線路の手前右手に小屋と石碑があります。

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殉難碑

1946年(昭和21)12月19日、上野駅発金沢行き準急列車が吹雪の中1時間遅れで大田切へさしかかった時のこと、築堤が崩壊しレールが宙吊り状態になっているところに突っ込み、機関車脱線転覆、炭水車(蒸気機関車が使用する燃料や水を積載した車両)は関川に転落しました。客車9両のうち4両が折り重なるように転覆したといいます。11名が死亡、重軽傷者21名の大惨事となりました。この碑は昭和26年に建立されたものです。

殉難碑から左手の遠くに『大田切工事碑』が見えますが、鉄道の線路内を通行しないと石碑までたどり着けそうもありません。他に行く方法はないか段丘の上なども探してみましたが、見当たりません。背丈もある草をかき分ければ行けるかもしれませんが、ちょっと無理そうです。冬であれば行ける可能性もあるかも・・・かろうじて殉難碑のところから見えた石碑を撮影したものです。

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大田切工事碑

明治33年信越本線の最難関工事とされた関山〜妙高高原間(6.4km)の工事を請け負ったのは鹿島組でした。この工事で79人(63人はコレラ、16人は土砂崩壊)が命を落としたとされ、鹿島組が建立した碑です。右側面の「東京」しか読み取れませんが、「東京 鹿島組建立」と彫られているそうです。
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大田切川

妙高山麓を通る道を「中山道」ともいいました。関川に注ぐ大田切川、小二俣川、郷田切川、白田切川が流れ「関の山の嶮」といわれ、中山道最大の難所でした。現在は川の下まで降りることは難しいですが、往時は一度谷底まで下り、大田切川を越えまた谷を登らなくてはなりませんでした。

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北国街道分間図

妙高山麓には、切り立った崖に囲まれた田切地形が発達しています。田切地形とは扇状地などの緩斜面や台地が、河川により深く侵食された結果、河床の低地や急崖によって分断された地形をいいます。妙高山麓は北から大田切、郷田切、白田切と3つの田切があり、最も大きな田切が大田切です。大田切は、大田切川に沿って妙高山の北地獄谷から関川と合流するまで深い谷を刻んでいます。江戸時代の旅人にとっては、難所の一つでした。現在の橋の下を通る道は、江戸時代の道ではありません。江戸時代は田切川まで下りていき、川を渡ってまた登っていく・・という大変な道のりでした。
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妙高大橋

妙高大橋は1972年(昭和47)に架橋され、48年が経過しています。平成21年にコンクリート桁内のPCケーブルが腐食・破断していることが発見され、現在架替工事中となっています。上部工の完成が令和3年6月頃のようです。

すごい迫力の光景でした。この光景は今しか見ることのできない光景でしょうからとてもラッキーでした。

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大田切清水

廃道となっている「大田切坂」に正念寺勧学(指導的立場の僧侶)僧朗(そうろう)が設けていた水場にあった馬頭観音をここへ移したそうです。地元の方には人気の水汲みスポットのようです。

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坂口新田一里塚跡

一里塚は残っていませんが「一里塚の家」と呼ばれる家があるそうです。ちょうど近所の方が出てこられて西塚が車庫になっている場所だと教えて下さいました。文献では西塚はカエデが植わっているあたりということでしたが、現地の方のお話ではカエデの1軒先ということです。いずれにしてもこのあたりにあったということです。

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坂口新田庄屋

坂口新田は、大雪の時に幕使の能勢小十郎が大田切で難渋したため、北国街道最大の難所と言われた大田切川の安全な往来のために、1648年(慶安元)徳川家光の命により、高田藩が街道の助郷村として誕生しました。坂口新田にはこの経緯を記した古文書が大切に保管され ています。庄屋は代々太田家が務めました。

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『呑舟之魚』の碑

列子「呑舟之魚不遊支流」が彫られています。「呑舟之魚」(どんしゅうのうお)とは舟を丸呑みにするほどの大魚のことで、そういう大きな魚は、川の支流には泳がないのだといいます。大きな目標を持つこと、・小事にこだわらないことを説いているようです。呑舟之魚、転じて大人物の頌徳碑でしょうか。
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妙高山麓直売センター とまと

旧北国街道から一旦国道へでます。「妙高山麓直売センター とまと」は地元の野菜などを販売する直売センターには食堂も併設されています。
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旧道

国道を200mほど歩くと右手に再び旧道が残っています。舗装道を進むとやがて未舗装の砂利道となり、再び国道へ出ます。

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消雪パイプ

消雪パイプは、地下水を汲み上げ、路面に散水して雪を溶かすための施設です。昭和32年、柿の種で知られる新潟県長岡市の浪花屋製菓の創業者、今井與三郎が考案したとされます。昭和36年に全国で初めて長岡市に設置され、現在では総延長1000kmにも及ぶそうです。
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秋葉神社

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興善寺

これから向かう関山神社の別当寺院であった宝蔵院の寺の一つでした。1800年頃に天台宗から浄土真宗に改宗しています。本尊の阿弥陀如来は平安時代の中期から後期の作品と言われます。また、約1200年前に描かれたと思われるチベット曼荼羅と約1700年前に描かれた中国の曼荼羅が寺宝として存在しているそうです。

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小野沢の大日像

コンクリートの覆屋に大日像と共に多くの石仏が収まっています。「いけこみ式」と言われる上半身のみの丸彫り像です。

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小野沢川

小野沢川では田切が生じず、これより先では田切地形がほとんど見られなくなります。

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関山横町のお地蔵様

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泉地蔵

小さな泉の前に覆屋に収まる2体のお地蔵様があります。ここで北国街道は直角に曲がります。

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関山村道路元標

大正11年の内務省令により、各市町村に1つ設置されました。

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問屋・村越家

関山は古くから関山三社権現の門前町として栄えてきました。1575年(天正3)上杉謙信の家臣3名の名で関山町の村越主計(かずえ)に問屋を開き、町中に伝馬宿送りを油断なく行うよう命令が出されています。宿場の仕事は高田藩領の役人が務め、関山三社権現社領の関山村は特例として塩荷運送の駄賃稼ぎを行えました。1863年(文久3)加賀藩主前田斉泰の正室溶姫(11代将軍家斉の娘)が国へ戻る際に関山宿で宿泊し、その時の資料では家数112軒のうち宿泊可能家数62軒、旅籠屋11軒でした。

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明治天皇駐輦碑

明治11年9月10日、北陸巡幸の際に関川の大石新六郎宅に宿泊し、翌11日は関山駅、村越伴治宅で小休止されました。
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関山神社

708年(和銅元)に裸形(らぎょう)上人により妙高山が開山され、810年(大同5)空海が山頂を極め、お告げにより妙高山の里宮(関山神社前身)が建立されたといい、最盛期には山岳修験の道場として七堂伽藍をはじめ70余坊が存在したと伝えられています。

木曽義仲上杉謙信も厚く信仰したといいます。

戦国時代末期の1582年(天正10)織田信長の侵攻を受け、ことごとく焼き払われ大きく衰退しますが、江戸時代に初頭には幕府の支援により宝蔵院が再興し、謙信の甥とされる宝蔵院2世院主「俊海」が社殿を再建したと伝わります。現在の欅づくりの社殿は宝蔵院15世院主「薩海」が10年の歳月をかけ、1818年(文政元)に完成しました。

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亀石

亀は古くから豊作吉祥の神として尊ばれ、朝鮮三国時代の帰化人、特に新羅系渡来人によって大陸の風習が日本に伝えられたとされます。作られた年代は不明です。

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妙高堂

かつては妙高山頂の阿弥陀堂内に安置されていた「善光寺式三尊像」で、木曽義仲が1181年(治承5)に妙高山頂に奉納したと伝わります。妙高堂は、別名「関山神社善光寺」といい、明治の神仏分離後、妙高山中に祀られていた諸尊を安置するために建立されました。阿弥陀三尊像の他に天狗像や姥尊像などかつての山岳信仰に由来する尊像が安置されています。最近まで妙高山へ登山する人は妙高堂を拝んでから登ったといいます。登山道にある役ノ行者(えんのぎょうじゃ)、血ノ池、光明滝、称明滝、天狗堂跡、光善寺滝、阿弥陀堂跡などの地名や関山神社の火祭仮山伏の棒使い行事は、修験道の名残とされます。

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関山石仏群

上半身のみの彫像で地中に埋め込まれた姿の石仏を「生け込式」、「植え込式」などと呼ばれます。多くは弥陀菩薩を表現した石仏と推測され、末法思想が流行した平安時代後期から鎌倉時代の制作と考えられています。集落内や妙高登山道から集められたものです。
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関山仏足石

覆屋に納まる仏足石は、鎌倉時代後期のものと推定されています。仏足、舎利塔、仏手華判(釈迦の印相)が彫刻されています。日本最古の仏足石は奈良薬師寺にあり、2番目に古いそうです。

15:00 今日はここまでです。高原タクシーさんに電話をかけ、関山神社まで配車をお願いしました。今日の宿泊は、『妙高サンシャインホテル』です。関山神社からタクシーで10分ほど、1600円程度でした。