2021年5月1日

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11:45 松本から岡田宿へ進んでいきます。今にも雨が降り出しそうでしたので少し先を急ぎます。

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安原十王堂跡

松本城主、石川康長が文禄年間(1592〜1596)、城下の安泰と各地への里程の基準として城下町の出入口にあたる東西南北の四箇所に十王堂を建立しました。明治の廃仏毀釈により破却されました。石仏だけが残されています。

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天白神社

1590年(天正18)泉州堺より入部した石川数正は松本城築城に取り掛かり、鬼門にあたるこの場所に天白道場を開き、八幡稲荷を勧請しましたが、改易後は荒廃していました。水野氏の時代になるとこのあたり一帯は下級武士の屋敷町が作られ、1727年(享保12)氏神様として復興しました。

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荻町の木戸・番所・一里塚跡

このあたりに木戸と番所があり、城下に出入りする旅人や物資を改めていました。一里塚も木戸の左右にあり、松が植えられていたとされます。

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千国街道口

「塩の道」とも言われる千国街道追分には「武井砂糖店」があります。千国街道は日本海沿いの糸魚川から千国を経て松本へ塩や海産物が運ばれた街道です。

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庚申塔

江戸後期の庚申塔、左が北国西街道で、右は浅間温泉へ向かう道です。江戸時代には岡田宿に泊まらずに、浅間温泉に泊まる旅人が多く、岡田宿との間に問題も生じたとされます。
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善光寺名所図会に描かれた浅間温泉

浅間温泉は、698年の日本書紀に登場する束間温湯(つかまのゆ)であろうと推定されています。江戸時代には、初代松本藩主の石川数正により「御殿湯」が置かれ、城主や臣下の武士たちの別邸も建ち並び、「松本の奥座敷」と呼ばれるようになりました。この御殿湯の詰所跡が現在の「枇杷の湯」がある場所になります。明治時代になると、正岡子規や伊東左千夫からなるアララギ派発祥の地とされ、竹久夢二、与謝野晶子、若山牧水、田山花袋ら多くの文人が訪れています。

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岡田宿への街道筋にはほとんど旧街道の名残はありません。旧跡もなく、雨が降りそうな中、緩い上り坂を早足で進んでいきます。

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岡田の筆塚

「大澤先生公徳碑」と彫られています。筆の形をした筆塚は初めて見ました。岡田小学校で28年間教鞭をとった大澤政恒先生を讃え、長野県歌「信濃の国」を作詞した浅井烈の撰文で生徒たちが建立したものです。

信州ほど筆塚の多い地域はないように思います。明治維新前、信州の寺子屋の数は1300余りで日本一でした。

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岡田神社の大ケヤキ

参道入口の一の鳥居は、道路拡張で消滅の危機にあったそうですが、地元の強い要望で中央分離帯として保存されました。東側の樹齢600年以上の大ケヤキは市天然記念物です。 岡田神社はここから西へ700mほどありますので、本殿には寄りませんでした。

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岡田村役場跡

岡田村は1954年に松本市と合併しまし廃村となりました。廃村となるまでここに役場が設けられていたようです。
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南木戸跡の地蔵堂

地蔵堂の地蔵は1721年(享保6)造立、大日如来は(天保15)、馬頭観音は文政2年と3年の銘があります。

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岡田の道祖神

1852年(嘉永5)の造立、左面に「岡田駅六丁」とあり、道標の役目もありました。『三九郎』という道祖神まつりがあり、正月には道祖神横に木の祠を祀り、お賽銭をもらい、各家庭には道祖神の御札を配りご祝儀をいただき、その収入で学用品を買い、子供たちに分け与えていたそうです。

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岡田宿本陣・問屋跡

岡田宿は1656年(明暦2)松本から刈谷原宿や保福寺宿(江戸海道)へ遠く、また難所であったため、散在する近隣農家60軒ほどを集め、「岡田宿」が設けられました。(1647年(正保4)という説も)

本陣・問屋は1軒、脇本陣も1軒ありました。

脇本陣は本陣よりも松本よりの右手になりますが、どのあたりの家かはわかりませんでした。

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岡田宿公園

四阿があり休憩ができるように整備されています。四阿の上部に「貞享騒動」の際の岡田宿の状況が書かれていました。

貞享騒動(加助騒動)

1686年(貞享3)、松本藩主、水野忠直は農民に無理な増税を強要、当時の周辺地域の1.5倍ほどの税としました。困窮した農民たちは多田加助をリーダーとし、松本城に詰めかけ、農民は1万人にも膨れ上がったともいわれます。岡田宿からは検地役人「橋爪善七」が頭領として先頭に立ちました。当時、藩主水野忠直は参勤交代で不在であり、困った城代家老達は農民の要求を受け入れると約束し、その場を納めました。しかし、後日手のひら返して約束を反故にし、藩主の許可を得て多田加助ら8人を磔、家族ら30名を獄門の極刑に処しました。橋爪善七は弟勘太郎と共に出川の刑場で磔、家は絶家、他の一揆に比較してとんでもなく重い刑となりました。橋爪善七の墓所などは現在も不明です。

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気抜きのある建物

蚕の生育には換気が必要で、そのために設けられた窓です。養蚕全盛期の明治時代に建てられたものでしょう。

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口留番所跡・道祖神・道標

道標には「右 江戸海道」

「左 せんく王うし道」

と彫られています。またこの場所は岡田宿の北の枡形になっており、口留番所が置かれていました。

江戸海道

江戸海道は保福寺道とも言われ、稲倉峠、保福寺峠を経て北国街道、上田宿へ抜け追分より中山道を経て江戸へ至る街道です。

岡田口番所

現在の道標の街道を挟んで向かいにありました。1725年(享保10)松本藩主水野忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こし、改易となったため松本藩領であった麻績、会田は幕府領となり、岡田は幕府領と松本藩領との境界になりました。女性、白木、麻、穀物、塩、馬などの出入りを監視していました。番所は所家が務め、明治2年に廃止されました。

念仏供養塔は1765年(明和2)、西へ1kmほどの田溝池が決壊したときの被災者の供養のため、念仏講によって造立されました。 道祖神は年紀がありませんが、江戸時代のものとされます。

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蓮台場

地蔵堂があり、岡田宿の北の木戸があったあたりです。またこの場所は旅人の無縁墓地として「連台場」と呼ばれていました。前庭は葬礼場で棺桶を乗せる台がありました。その台を仏や菩薩が座す蓮の花の形をした台座になぞらえて蓮台と呼ばれたことから「蓮台場」と呼ばれました。

地蔵は1721年(享保6)、蓮台は嘉永2の造立、六字名号碑は、江戸時代初期、弾誓上人が大願寺、西浄院に授けた碑を廃仏毀釈に伴い1872年(明治5)に移設しました。(大願寺は岡田の村山酒店辻の大門小路を西へ入り、160mの右手、寺跡に小さな堂があります)

安政4年と安政7年の馬頭観音や寛永4年の庚申塔などもあります。西浄院住職の墓碑は、圃場整備に伴い1989年(平成元)に西浄院跡より移設しました。西浄院は大願寺から南へ100mほどの道の西側にありました。今は何も残っておらず、民家が建っていますが、手前の道角に小さな不動明王が残っており、これが唯一の西浄院の名残です。

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岡田伊深 一里塚跡

塚は左右ともありませんが、往時はエノキと松の木が植えられていました。

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道祖神

「一里塚」という地名は残っており、また石仏の裏面には「一里塚中」が刻まれています。
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松が見事な旧家

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塩辛遺跡

伊深、洞、稲倉一帯を古代においては「塩辛」と称していました。縄文時代中期から平安時代までの竪穴住居跡、古墳から平安時代の大型、中型の掘立柱建物跡などや多量の置物が出土しています。古代の集落は北から徐々に南へ広がったようです。
13:20 国道254から先は徐々に山道になり、刈谷原峠を越え、四賀へ至るまでは交通機関もありませんので、本日の北国西街道歩きはここまでとします。

まだ時間が早いですので、慶弘寺跡まで行ってみます。

雨がかなり強くなってきましたので、一旦、国道下のトンネルに避難していましたが、15分もすると小降りになってきましたので再び出発しました。

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上水道竣工記念碑

伊深公民館脇に伊深(いぶか)集落の上水道竣工記念碑がありました。

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小宮山氏館跡

1551年(天文20)伊深に小宮山織部之丞武田信玄により城代として着任、居館を築き、元和年間(1615〜1624)まで居住した記録が残っています。

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古い土蔵が残る静かな伊深集落です。
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道祖神と庚申塔

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伊深薬師堂

昭和44年、堂宇を改修した際に棟札が発見されました。

『信濃国筑摩郡深志城の北に伊深村がある。土地は広く樹木が繁茂しており、そこに薬師如来を祀る庵があるが、いつ建てられたかはわからない。ある時越後国の男が村にやってきて数年後、信仰心が強くなり慶弘寺住職の「輪大和尚」の弟子になり、名を「一心」と改め、この庵に居住。十年も経過すると庵は破損し修理が必要となった。一心坊は大工や木山材料を集め、1745年(延享2)着手、以前の建物よりも立派な堂が完成した。一心坊が苦心して成し遂げたことが一因であり、ことのあらましを記して後世に伝えようと思う 大工 中根弥助 大工 中根弥佐衛門

この2名の大工は上川手村塔ノ原の宗林寺の堂宇を建立したこの地方の名匠、金原周防長吉の系統であると考えられるようです。(もう一つの案内板では「大工 中根弥一、中根右佐衛門」となっています・・・?)

現在の堂宇は平成28年に改修したものです。

また雨が強くなってきました。薬師堂の鍵が開いていましたので、しばらく中で雨宿りさせていただきました。15分ほどで今度は青空が広がってきました。今日は変わりやすい天気ですね。

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伊深薬師堂の石仏

堂宇の中には薬師如来のほかに慶弘寺火災の際に運ばれたと思われる千手観音像が安置されているそうです。
TOO001 すっかり青空です。伊深薬師堂をでて、慶弘寺跡までゆるい坂道を登っていきます。

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慶弘寺跡

現在は慶弘寺公園として整備されています。慶弘寺公園の前をそのまま山へ登っていくと「伊深城跡」まで登っていけます。慶弘寺公園には駐車場もありますので、ここへ車を置いて城跡まで行くことができます。

伊深城

伊深城(古くは井深城)は、1180年(治承4)に岡田冠者親義が築いたと伝えられますが、実際には親義の末裔にあたる井深氏が室町時代に築いたと推定されています。その後は後庁氏が城主になり、1550年(天文19)武田軍が信州に入った後は小宮山氏が城を管理しました。戦国時代における松本北部を守る重要な山城でした。

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慶弘寺跡の石仏

慶弘寺は室町時代に後庁氏が菩提寺として築いたとされ、「信府統記」には武田信玄が出陣の際に参拝し、寺を保護したと記されています。大きな寺でしたが1862年(文久2)に焼失し、1870年(明治3)廃仏毀釈により廃寺となりました。

松本の廃仏毀釈

発端は、新政権が出した太政官布告「神仏分離令」と1870年(明治3)に出された「大教宣布」にありますが、あくまでも神道と仏教の分離が目的であり、寺を打ち壊す目的ではなかったとされますが、これが拡大解釈され寺院を破壊する者が現れました。廃仏毀釈の強弱は地域差が大きいとされますが、特に水戸・松本・富山・岐阜苗木・伊勢・津和野・高知・宮崎・鹿児島においては激しい廃仏毀釈運動が起こったといいます。

松本藩では、最後の松本藩主戸田光則の新政府に対する「忖度」が背景になって、壮絶な廃仏毀釈が吹き荒れました。1870年(明治3)の1年間で、164カ寺のうち124カ寺が廃寺になっているといいます。戸田光則は、幕末、新政府につくか幕府につくか大いに迷ったとされ、最終的には新政府に付きますが、これ以降急速に新政府に対して忠誠心を持ち、新政府へのアピールとして廃仏毀釈を激化させたとされます。

岡田宿の大願寺、西浄院も廃物希釈により廃寺となっていますし、この慶弘寺も廃寺となっています。

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伝・岡田冠者親義の墓

昭和4年、カヤの古木の下より頭蓋骨と刀二振り、宋銭多数とともに出土し「元暦霊神」と記されていることから岡田冠者親義の墓と言われています。
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倶利伽羅峠合戦の図

岡田冠者親義

清和源氏と言われる清和天皇の六男、貞純親王を祖とし祖父は源頼義、父は新羅三郎義光と言われています。親義には太郎重義、小次郎久義、井深三郎某という男子がいました。源氏一族であったため木曽義仲と同様、平家追討の「以仁王の令旨」を受けました。木曽義仲へ迎えられ、義仲の初戦「麻績・会田の戦い」では信濃国府を出発した義仲軍の案内役として先頭に立ち奮戦したと伝えられます。その後も各所の戦いに従軍しましたが1183年(寿永2)越中国と加賀国境の倶利伽羅合戦で平家の武将、平知度と戦い闘死しました。
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岡田の町を見守る観音様

TOO001 14:00 今日はここでゴールとします。本日も松本へ宿泊しますので、松本まで戻りたいのですが・・・

国道へ出てセブンイレブンの横のバス停に「ほしみバス」がきますが、こちらは17:43分までありません。また1kmほど西へ歩いてそば屋六助近くの「六助」バス停にはアルピコの四賀支所からくるバスがあるのですが、こちらも17:00過ぎです。

交通機関はタクシーしかありませんので、浅間温泉の「メトバタクシー」さんに迎車をお願いしました。配車センターの女性には「慶弘寺公園」の場所がわからなく・・グーグルマップも見られないらしいです。住所を調べて伝えても、タクシー会社の地図には載っていないそうで・・他にどう伝えればいいのか・・困り果てました。

運転手さんに「慶弘寺公園」を知っている人を探すと、一旦電話を切り・・暫く慶弘寺公園の四阿で休憩していました。雨と風が強くなり、高台の四阿は雨がどんどん吹き込んできます。寒い・・

ようやくコールバックが来て、慶弘寺公園を知っている運転手さんが向かっています、と返事をいただき、ほっとしました。10分くらいで来てくださいました。よかった〜寒くて我慢できなくなってきた所でした。

松本市内の『ドーミーイン松本』までは3,300円くらいでした。