2022年9月19日

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昨日は『ルートイン柏崎』へ宿泊しました。ホテルから車で数分、柏崎駅南のコインパーキングに車を止め、地下道を通り駅へ向かいます。電車で1駅、「東柏崎駅」へ向かいます。電車を下りると、なんと「茨目駅」でした!!あれ?東柏崎駅は越後線、間違えて信越本線へ乗車してしまいました!!困りました。再び柏崎駅へ戻って越後線へ乗ろうと思っても1時間以上電車が無さそう・・そこで、一番近かった大和タクシーさんへ電話して迎えに来てもらいました。タクシーで「諏訪町」交差点までむかってもらいました。

9:00 スタート前からドタバタでしたが、諏訪町の交差点からスタートします。今日はとてもいい天気ですが最高気温の予想は35℃、熱中症が心配です。 諏訪町の交差点から100m進んだ先の交差点が内陸ルートとの追分となっています。

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追分

古代の北国街道は内陸ルートのほうが主要ルートであったとも考えられています。その分岐点がこの交差点になっており、右へ曲がりすぐ左へ進むと多岐神社などを経て寺泊へ至ります。
さらに120mほど進むと左手に「不動明王」と彫られた石碑の建つ堂があり、さらにその先500mほど左手に「無漏寺」と書かれた小堂がありました。

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不動明王

詳細はわかりませんが、龍が彫られた石柱は素晴らしいものでした。

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無漏寺

住宅の一角に小さなお堂と僧侶のお墓と思われる無縫塔が5基ほどありますが、詳細はわかりません。
無漏寺から180mほど酒屋さんを越えた十字路を左へ入り「春日陣屋跡」へ向かいます。現在は「春日公園」となっています。

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春日陣屋跡

春日は昔から肥沃の地として知られ、江戸時代は幕府の直轄領を経て旗本安藤出雲守の所領となり春日陣屋が設けられました。
12ケ村から年貢米を収める蔵が立ち並び物流拠点としても栄えましたが、春日騒動の拠点ともなりました。春日陣屋跡には馬市が設けられ、椎谷馬市と並ぶほどの規模で、その流れはえんま市にも受け継がれています。

春日騒動

文化文政の頃(1804〜1830)、上原村の牧岡一族が小泉文左衛門と結託し領内の実権を握り、牧岡豊左衛門は大矢家を退け大庄屋兼帯勘定人となり息子たちを小泉文左衛門の腹臣に据え、一族で小泉と共に私腹を肥やしていました。 これに怒った村人達は1823年(文政6)から度々一揆を起こし、多くの村人が牢屋へ入れられ、過酷な状況で疫病が流行り多くの者が亡くなりました。訴状も却下され農民の嘆願は叶わなかったのですが、春日陣屋の代官野田斧吉と牧岡家は役職を没収、平井村の高野和七郎が調停の功労者として代官職に就き決着しました。

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春日神社

柏崎史によると創立年不詳、多くの境内社を合祀しています。 中越沖地震では甚大な被害を受け、玉垣は倒れ稲荷社は傾き本殿内部も損傷しましたが、現在は修復がなされています。「中越沖地震復興の碑」が建立されています。

北国街道へ戻り260m、安政町の交差点を右へ曲がると左手に「悪田稲荷神社」の入口があります。

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悪田稲荷神社

柏崎史によると1683年(天和3)創立、1819年(文政2)焼失したため再建とあります。
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獅子の彫刻

悪田稲荷神社境内には柏崎神社にもあった小川由廣の造形による獅子像もありましたが、こちらは1940年(昭和15)小川由太郎による獅子像です。小川由廣とは親子、あるいは兄弟?「獅子の子落とし」なのでしょうか?必死にしがみついている子もいれば、ひっくり返っている子もいて、じっくり見ていると面白いです。

北国街道へ戻るとすぐに安政橋のたもとに「悪田の渡し跡記念碑」があり、安政橋を渡った先に「安政橋の碑」があります。

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悪田の渡し跡記念碑

1588年頃、上杉景勝が領内の宿場の整備や道路交通対策に力を入れ、船を作る費用や舟守の給与は地頭から支給し、利用する近隣の村々に協力を求める定めを作ったり、船渡し賃を定めたりしたと伝えられます。碑の裏には三階節の一節が刻まれています。
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安政橋と鯖石川

古く鯖石川「悪田の渡し」で越えていましたが、河口に近いため上流の橋場の渡しへ迂回することも多かったといいます。1854年(安政元)に渡し守が自費で有料の橋を架け、安政橋に変わりました。

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安政橋の碑

『柏崎から椎谷まで 間に荒浜荒砂 悪田の渡しが 無きゃよかろ 内閣総理大臣 田中角栄』

三階節の一節が刻まれた碑は1974年(昭和49)建立です。

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安政橋を渡ると「松波」へ入っていきます。国道を330m、左へ入り100mほど左手に「諏訪神社」があります。
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松波の諏訪神社

1720年(享保5)創建、暴風雨や大火により数度再建されていますが、現在の社殿は1931年(昭和6)の再建のようです。1953年(大正2)諏訪山稲荷社・元諏訪諏訪社が境内へ移されました。

最初の石鳥居をくぐったすぐ先左手に「二十三夜塔道標」があります。

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二十三夜塔道標

「右ハあら浜 左ハ阿ラ浜新田」とあり、1853年(嘉永6)荒浜新田講中の建立です。
TOO001 背高のっぽの石祠、常夜灯も高い位置にあります。沖から見えるようにでしょうか・・・龍が巻き付いた鳥居は素晴らしく、小川由廣の獅子像もあり、小さな神社ですが面白いものがたくさんあります。

諏訪神社をあとに北国街道へ戻り、日陰もなくとてつもなく暑い国道をしばらく行くと右手にコンビニがありました。アイスを買ってしばし休憩。気温は35度を超えてきました。

すぐ先左手に小さな稲荷神社がありました。

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稲荷神社

鳥居も綺麗ですし大切にされているようですが、柏崎史にも記載がなく詳細はわかりません。右手には柏崎が本社のブルボンの工場があります。
この先は荒浜へ入り国道をひたすら進みますが、海を見に行くため松浜中学校を越えた左手の路地を左へ曲がります。途中から道がなくなり、藪の中を進んでなんとか海岸へでました。

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荒浜海岸

荒浜は北国特有の季節風が砂を舞い上げ砂丘を作り、植物の成長を妨げるため、荒れた浜ということで名がついたとされます。

しばらく海岸沿いの景色を楽しみながら進み、荒浜の町が始まる辺りで北国街道へ戻ってきました。

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荒浜の家並みと石祠

1580年(天正8)繊田信長により能登から追われた柴野氏が住み着き、不毛の地に塩作りと漁業を進めました。

石祠の台座には寄進者の名が彫られていますが、品田姓、牧口姓、柴野姓が多いです。

荒浜の交差点で右へ曲がり最初の路地の右手側が「円通庵(寺)跡」、その一角に「荒浜地蔵尊」があります。

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荒浜地蔵尊

いつ頃か不明ですが、船で石地蔵が運ばれる途中荒浜までくると船が動かなくなり、これは地蔵がここでお祀りしてもらいたいのだろうと、ここに安置することになったそうです。

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円通庵(寺)跡

柏崎史によると円通庵は1751年(宝暦元)、荒浜の品田新兵衛が創建、刈羽村寺尾の真言宗善照寺の付属となっていましたが、恵林比丘尼が中興開祖となり、1817年(文化14)曹洞宗に改宗、原村の普光寺の末庵となりました。
建物はなくなり、現在は廃寺となっているようです。円通庵は1890年(明治23)から私立学校の校舎に当てられ、学校は1892年(明治25)まで存続したようです。

さらに東へ進み、右手に小さなお堂があり、すぐ先の荒浜小学校の跡地、現在は荒浜コミュニティセンターとなっている裏側に顕彰碑が2つ並んで建立されています。左手には諏訪神社、法華寺が並んでいます。

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柴野先生之碑(左)・牧口先生之碑(右)

牧口久平は円通庵で開校した私立学校の教師として2年、その後荒浜小学校で10年、後に小千谷中学の教師となり、1906年(明治31)41歳で病没しています。碑は教え子達により1910年(明治43)に建立されました。
「柴野先生之碑」は柴野権右衛門の碑のようです。漢文の碑文からすると塾の先生だったようです。碑は1883年(明治16)に建立。

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諏訪神社

創建は古く詳細は不明ですがはじめ諏訪の地にあり、1594年(文禄3)現在地に遷座しました。1784年(天明4)本殿再建、1820年(文政3)拝殿再建。1911年(明治44)青山稲荷社(文禄4創建)と中浦町の天神社(延享元年創建、文久元再建)を合祀し、年代は不明ですが龍神社、金毘羅社も合祀されています。
青山稲荷社は青山稲荷神社のことではないのかな・・原発のところに今でもあるのですが・・2つあったのか・・よくわかりません。

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法華寺

昔、牧口左平が日蓮上人の木像を信仰し、深光寺住職日栄の門に入り名を栄妙と称しました。1688年(元禄元)大衆の助けにより一宇を建立し「妙法庵」しました。1842年(天保12)大火により焼失、その後妙喜尼が小庵を再興したとされます。荒浜は貧しい家が多く、仏事に仏様の掛け軸を持っていっても掛けるところがなく、むしろの上に広げて拝んでいたといい、「荒浜の寝仏さん」「荒浜の這い三尊」と言われていたそうです。

荒浜交差点まで戻ります。交差点の西側に「荒濱村道路元標」がありました。

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荒濱村道路元標

道路元標がある荒浜交差点の北東側角に牧口政三郎家がありましたが、現在は空地になっています。
牧口政三郎家は1874年(明治7)の順徳帝の神霊を佐渡より還遷の際、1878年(明治11)の明治天皇北陸巡幸の際の2度、小休所に当てられましたが、1889年(明治22)に売却され現在は跡形もありません。家の前には「明治天皇駐輦碑」もあったようですが、それも無くなっています。

荒浜交差点から海のほうへ向かうと「漁網発祥の地・荒浜のあぞ網碑」が建立されています。

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漁網発祥の地・荒浜のあぞ網碑

日本三大漁網発祥の地のひとつに数えられています。幕末、荒浜からあぞ網を北海道、江差へ持ちこみ、原始的だった北海道にニシン漁は飛躍的に発展しました。あぞ網は麻でできた丈夫な漁網で最盛期には荒浜を中心に刈羽、三島に及ぶ約2000世帯が製網に従事しました。
あぞ網を北海道に持ちこんだのは荒浜村の豪商、牧口庄三郎です。当時の北海道との交易は弁財船(北前船)による命がけのもので、航海を終えるのに約3か月を要しました。

北国街道、荒浜の交差点まで戻り先へ進んでいきます。500mほど荒浜の集落が続き、集落をでると「柏崎刈羽原子力発電所」の入口が見えてきます。北国街道は真っ直ぐ進みますが、原子力発電所建設のため約3kmほど消滅してしまいました。

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柏崎刈羽原子力発電所

1985年(昭和60)から1997年(平成9)にかけて柏崎地域に1〜4号機、刈羽村域に5〜7号機が建設され、北国街道は消滅してしまいました。

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かなり厳重な柵が巡らされています。
原子力発電所を迂回し、国道を進み右手に「青山稲荷神社」の駐車場があり、ここから青山稲荷神社への階段を上っていきます。

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青山稲荷神社

1595年(文禄4)創建、原子力発電所建設に伴い1976年(昭和51)に現在地へ移転、本殿には北前船の航路安全を願った江戸時代の地元豪商牧口家寄進による総欅造りの祠がそのまま収められています。

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青山稲荷神社参道碑

青山稲荷神社の社殿からはそのまま東へ向かい、500mほど進むと参道の碑がありました。ここで左へ曲がり、一旦国道へでました。
国道352号500m、このまま国道を進んでもいいのですが、大型トラックも多く排気ガスも多いので、右へ曲がり、国道の1本南の道を進むことにしました。

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放射能量掲示板

原子力発電所があるとこういうものがあちこちに設置されているようですね。
静かな道を850mほど進むと右手に鎌田養鶏たまご畑というお店があり、その駐車場に小さな馬頭観音が2基ありました。

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馬頭観音

たまご畑というお店は美味しく高級な卵を販売しているお店のようです。
そのすぐ先に本日宿泊するぴあパークとうりんぼが見えてきました。

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刈谷原

ぴあパークとうりんぼの駐車場から刈谷原の平地が一望できます。
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至福の時間

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至福の時間でストロベリージェラートを購入して一休み〜美味しい!!夕食もこちらのお店で頂きました。

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ぴあパークとうりんぼ

14:10 本日宿泊する『ぴあパークとうりんぼ』に到着しました。思ったより早く到着しました。こちらはスパが併設されていますので、ゆっくり疲れを取りたいと思います。

2022年9月20日

9:50 台風が接近してきており、朝から強い雨が降っていました。台風が通り過ぎるのを待ち小ぶりになってきましたので宿を出発します。 ぴあパークとうりんぼからも国道へ出ずに、1本東の静かな道を歩いていきました。1.3kmほど進み国道へ合流します。合流するとその先すぐに刈羽トンネルを通ります。

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刈羽トンネル

歩道が狭いのでちょっと緊張しながら足早に通り過ぎます。

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トンネルを出ると再び柏崎市へ入ります。刈羽村だけが柏崎市へ編入されていないようですね。雨は小ぶりですがまだ降っています。

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トンネルを出て国道を800mほど進み左の旧道へ入っていきます。ようやく柏崎刈羽原子力発電所を過ぎて、北国街道へ戻ってきました。

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雨はやみましたが、まだ波は荒々しく日本海という感じです。
すぐに旧道は国道と合流し、350m右手に「不動明王」と書かれた小屋がありました。

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不動明王

個人管理のようで、入りづらいのですがちょっと覗いてみると、お掃除されている方がいらっしゃいました。湧水があるとのことでしたが、枯れているようで水は出ていませんでした。

左手に荒れる海を見ながらさらに300mほど進むと左手に大きな供養塔があり、その先150m右手に地蔵堂があります。地蔵堂の裏山に「宮川神社」がありますが、少し距離があるので寄らずに進みます。

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供養塔

「金毘羅大権現西国三十三番」と彫ってあります。1867年(慶応3)建立。
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地蔵堂

堂内には3体の石仏が安置されていますが、左手の石仏が「勝軍地蔵」と思われます。騎馬に乗る珍しい地蔵で江戸中期のものと言われます。

地蔵堂を過ぎると宮川宿へ入っていきます。小さな川を渡ると左右に住宅があり360mほど進むと右手に藤棚のある緑地があり、その一角に「濱町道路元標」があり、そのすぐ先左手に「吉田家住宅」があります。

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濱町道路元標

高浜町は1901年(明治34)刈羽郡宮川町と椎谷町が合併し発足しましたが、1957年(昭和32)柏崎市に編入され消滅しました。
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吉田家住宅

明治時代前期頃に建築された住宅で、文化財に指定されています。

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宮川宿は1837年(天保8)の記録では家数223、人数1290人、庄屋与三兵衛が問屋を兼ね同家門前に高札場があったとされますが、庄屋与三兵衛の家がどのあたりだったのか・・わかりません。
吉田家住宅から80m先右手へ入り、坂をのぼっていきます。突き当りを左へ、さらに上ると右手の空地が「多門院跡」、左手が「竜泉寺」になります。

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多門院跡

多聞院は創建も不詳ですが、廃寺となった時期も不明ですが、1970年代の航空写真には建物が写っています。多聞院も中越沖地震で廃寺になったのでしょうか。
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竜泉寺・宮川天満宮

竜泉寺は1579年(天正7) 躰室和尚開基、1697年(元禄10)再建、本尊は虚空蔵とされます。竜泉寺の丘には「天神」(宮川天満宮)が祀られていました。赤い鳥居の奥に社殿があったようですが、中越地震で倒壊しそのままになっているそうです。

宮川天満宮(天神)

承久の乱により流罪となった順徳上皇は1221年(承久3)、佐渡へ向かう途次、この地で休憩し菅原道真直筆の一幅(掛軸)を下賜され、これを御神体として安置されたといいます。創建は1229 年(寛喜元)、1598年(慶長3)上杉景勝が社領と田を寄進したといいます。天神講がつくられ、お祭りの日に社領の田で作った「天神米」で赤飯を炊いて皆で食べていたそうです。

竜泉寺の丘から北国街道へ戻り、300mほど進むと住宅が無くなり、寂しい道になってきました。さらに50mほど右手に「宮川の清水不動尊」があり、現在も清水が湧いています。

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宮川の清水不動尊

このあたりは荒地でした。これを開拓しようとした者がいましたが水がなく困り、椎谷の不動滝に沐浴し不動尊に祈ると水が出る夢を見ました。そこで奮起し田を開き、榎の下を掘ったところ水が出たといいます。
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清水不動尊

お告げの通り水がでたため信仰した椎谷の不動堂主に願い、不動尊を勧請しこの地に祀ったとされます。

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水道が普及するまでは宿場の飲用水ともなっていました。現在も清水が湧き続けています。
11:30 宮川宿をあとに椎谷宿へ進んでいきます。