2020年10月24日

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12:30 北国街道を離れ、松代城下町の散策へ向かいます。

松代城下町は1622年(元和8)の真田氏入封以前より形作られていました。城下町のうち、町八町と呼ばれるのが町人町で、町奉行の管理下にありますが、自治町の性格を持ち合わせていました。西から東へ馬喰町、紙屋町、紺屋町と続き直角に北へ曲がって伊勢町、中町、荒神町で町外れにでます。鍛冶屋が多く住む鍛冶町、魚屋が並ぶ肴町は、伊勢町・中町などの東裏に並行する通りにあります。この町八町の内側には松代城を囲んで重臣・上士の武家町があり、外側には中下級武士の屋敷と寺院が町々に配置されています。

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常田壬太郎生家

横須賀造船所で造船技術を学び、1883年(明治16)川崎造船所で大型船高砂丸を建造、1897年(明治30)舞鶴軍港新設の調査監督を務め、後に戦艦武蔵などを建造しました。常田家初代、隆永は真田幸隆の弟にあたります。

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真田勘解由家

真田勘解由(かげゆ)家は、藩主真田家の分流で代々「勘解由」を名乗り、重席を務め、第4代藩主の真田信弘を輩出しています。江戸時代末期に藩主の館・花の丸御殿の一部を現在地に移築し居住したといいますその後、信安(五代)、幸弘(六代)と勘解由家の家系からの藩主が続いています。

また、八橋流筝曲を再興した人間国宝・真田志んの生家として知られています。 八橋流筝曲は、八橋検校によって創始された流派でしたが、真田志んは八橋流が途絶えてしまっていることを偶然ラジオで聞き、少女時代に習い覚えた記憶と譜本をもとに八橋流筝曲(長野市指定無形文化財)を復興、伝承者となり保存に努めた人物です。

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白井家表門

1846年(弘化3)に建築されたこの門は表柴町にありましたが、平成12年に現在地へ移築しました。白井家は松代藩の中級武士であり、元方御金奉行、御宮奉行などを務めました。

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松代小学校

前身は「松代藩文武学校」で、明治になっても文武学校の校舎をそのまま使用したといいます。新校舎は平成25年頃に完成したようですが、武家屋が並ぶ松代の町並みによく溶け込む外観が素晴らしい小学校です。
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松代藩文武学校

1855年(安政2)に真田幸貫が佐久間象山の意見を取り入れて創設された藩校です。建物は1853年(嘉永6)に造られたものです。松代藩の上師弟が漢学をはじめ剣術・弓術・槍術、西洋砲術・漢方西洋医学など先進的な学問も学んでいました。1855年(安政2)に閉校されましたが、明治維新後も取り壊されること無く見学ができるということはとても素晴らしいことです。
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松代城跡

甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃征服をかけて争い、5度に渡る川中島合戦が繰り広げられる中で、武田信玄が山本勘助に命じ、わずか80日で築いたという「海津城」が松代城の前身です。武田氏が滅亡すると目まぐるしく城主が変わり、1622年(元和8)真田信之が移封されるとようやく落ち着き、真田十万石の城として明治維新を迎えます。名称も海津城から「待城」、「松城」を経て真田時代に「松代城」となりました。

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太鼓門

太鼓門は本丸では一番大きな門でした。本丸正面の出入口は枡形に石積みを配し、二層の櫓門と枡形門の2つの門で構成しています。良好に残っていた礎石をそのまま利用し、絵図面などから忠実に復元しました。時を告げる太鼓を備えていたことから「太鼓門」と呼ばれました。

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海津城跡之碑

「海津城」から「松代城」と呼ばれるようになったこの城は、明治時代に廃藩置県のため取り壊され、最近までは老松だけが残る寂しい城跡となっていましたが、平成16年より復元工事が始まり現在の立派な太鼓門や北不明門が建築され、埋められていた堀や崩壊していた石垣も復元されました。 後ろに写るのが「北不明門」、本丸搦手(裏口)に位置し、櫓門と表門で構成されています。河川敷に接していたため水之手御門とも呼ばれていました。
TOO001 松代城(海津城)は、往時は北側に千曲川が流れる天然の要害でしたが、現在千曲川の流れは変わりはるか遠くに流れています。

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松代駅

1922年(大正11)に建てられた木造駅舎は、屋代線が廃線となった今でも観光の拠点として存続しています。駅舎の中には松代の様々なパンフレット等が置かれ、観光スポットを紹介するポスターも貼ってあります。また路線バスの待合所としても利用されています。

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汽車ポッポ歌碑

作曲の草川信は松代出身の作曲家で、旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として1893年(明治26)に生まれました。「汽車ポッポ」は1937年(昭和12)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として発表され、歌詞も現在とは違い出兵する兵隊を見送る曲でした。

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善光寺回向柱と鎌原桐山邸跡

鎌原桐山は、松代藩家老で儒学者でした。天保の飢饉や善光寺地震による被災者救済など多くの業績を残しています。私塾「朝陽館」を開き、若き日の佐久間象山、山寺常山など多くの門弟を育てました。

善光寺回向(えこう)柱

回向柱は、釈迦の遺骨を納めた仏塔に由来する卒塔婆の一種で、亡くなった人の追善の意味合いがあるそうです。仏の功徳や救済を表す文字が書き入れられ、柱に触れることで、「善の綱」で結ばれた本尊などと結縁(けちえん)できるといいます。

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矢沢家の表門

松代藩主席家老であった矢沢家は、馬に乗ったまま通り抜けたという大きな門が残っています。1717年(享保2)の大火の際には藩主がこの屋敷内で政務に就いたといいます。屋敷内の樹齢400年とも言われるイブキビャクシンは「矢沢家のヒムロ」とよばれます。

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小山田家

重厚な黒塗り冠木門がある小山田家は、かつては武田氏の家臣で後に真田氏へ仕え、松代藩の重臣でした。家屋は1850年(嘉永2)の建築で、門の左手には番所も残っています。小山田家は、「歳寒亭」と称し、武家の茶道である石州流を伝承していました。明治時代になると「執中堂」という手習いの私塾を開き多くの門弟を育てました。

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真田宝物館

真田家から譲渡された武具や調度品、重要文化財の書状など貴重な資料が展示されています。
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恩田杢工像と館跡

1755年(宝暦5)に勘略奉行(行財政改革の責任者)として登用されたのが恩田杢工でした。恩田杢工は窮地に陥っていた松代藩の藩政改革を乗り切り、この改革を『日暮硯』(ひぐらしすずり)に記しました。現代にも通ずる内容ということです。一度、呼んでみないといけないですね。

恩田杢工の改革

松代藩は度重なる幕府からの賦役大火水害などのために莫大な出費を強いられ、百姓一揆(田村騒動)が起こり、土地も荒廃してしまっていました。6代藩主の真田幸弘はまだ39歳であった若い恩田杢工を登用し、杢工は自らの政策に対し長老たちは一切の異論を唱えないという一文を取り付けた上で就任します。杢工の改革の基礎は「嘘は言わない」「倹約を推し進める」「贈り物はとらない」「年貢の督促はしない」「足軽達による酒食金品の強要をなくす」「年貢は月割で納める」「先納御用金は一切しない」「一度決めたことは変更しない」などを着実に実行し、更には「役人に対する不満を書面にして差し出せ」とし、農民を安心させるとともに、不正を告発された役人たちの罪を許し、同志とします。彼らは杢工に恩を感じ手足となって粉骨砕身働きました。

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真田邸(新御殿)

江戸末期の9代藩主、幸教(ゆきのり)が母である貞松院の隠居所として建築し、その後は幸教の隠居所となりました。明治維新後は真田家の私邸として利用され、完全な形で残る屋敷は現在公開されています。
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海沼実童謡歌碑

松代町で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生した海沼実は、東洋音楽学校在学中の1933年(昭和8)音羽ゆりかご会を創設し、童謡「カラスの赤ちゃん」「お猿のかごや」「みかんの花咲く丘」などを作曲し国民的な大ヒットを記録しました。

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真田節の碑

昭和32年頃、松代商工会議所を中心に町おこしのため民謡を作りたいと発案し、昭和 35 年に真田節を発表、真田まつりの行列に婦人会員で踊ったそうです。作詞は松代出身の山上武夫です。
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旧樋口家住宅

樋口家は元武田家臣であり、1765年(明和2)真田藩士として現在地へ移り目付役などを務めた上級武士の家柄でした。主屋は1862年(文久2)に修理されたことがわかっており、少なくともそれ以上の建築といえます。土蔵は1864年(元治元)の建築とわかっています。

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旧横田家住宅

現在、工事中で見学することはできません。ちらっと茅葺の屋根が見える程度でした。

中級武士の横田家、幕末に当主であったのは横田甚五左衛門でした。彼は養子でしたが、12歳年下の佐久間象山と親しく交流していました。長男九郎左衛門は諸国を回り見聞を広げ、千曲川の国境大滝あたりの川幅を広げ船運の利便性を高めようと藩からの援助、横田家私財を投入し開削工事を行いますが、途中で幕府の中止命令が出て志半ばで亡くなってしまいます。徳川家は船運により松代藩の力が増大するのを阻止したかったのでしょうか。

横田家からは多くの優れた人物を輩出しており、大審院長横田秀雄、最高裁判所長横田正俊、『富岡日記』の著者和田英らが知られています。

和田英

九郎左衛門が亡くなったため、横田家を継いだのは三女の喜代でした。喜代は養子をとり夫婦の次女が「英」です。英は1857年(安政4)生まれで、明治6年、15歳で富岡製糸工場伝搬工女として入構しました。技術を習得し故郷へ伝搬することが役目です。帰郷後、西条に新設した日本初民間蒸気器械製糸工場「六工社」に参画し、後に県営長野県製糸場の教婦となり、工女の技術指導を行いました。

『富岡日記』を読みますと当時の若い女性の生活や志、気持ちが素直に表現されており、様々な事件が起こりますが、先に書きました叔父である九郎左衛門の大滝開削中止の一件が常に彼女の志を推し進める原動力になっていたようです。食べ物や着物、化粧、給与のことなどが詳しく書かれており、その様子が手にとるように浮かんできます。読む前に富岡製糸場の創業当時の繰糸機を見学するとより理解できると思います。また、松代から富岡製糸場までは当時は汽車もなく、北国街道を歩いて向かいました。その道中も今日まで私が歩いてきた道ですから目に浮かびます。1年3ヶ月の後、松代へ帰郷するわけですが、帰郷時、矢代宿本陣へ宿泊し身なりを整え、ここから松代までは人力車で16名連なってゆくのですが、このあたりのお話にはほろっときました。技術者としてのプライド、尊厳・・・様々な思いに揺れながらも彼女が人生で最も輝いていた時期が赤裸々に描かれています。和田英らの伝搬工女の活躍により六工社の糸は品質が高いと評判となり、松代の製糸産業の基盤を作ったといえます。

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馬場家長屋門

馬場家は、御国御取次役並、御聞番役などを務めた松代藩の重臣でした。長屋門は江戸時代後期の建物です。

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高義亭

1853年(嘉永6)米国艦隊ペリーが浦賀にやってきました。黒船来航です。このとき、象山の門人であった吉田松陰の海外密航の手助けをしますが、発覚してしまいます。1854年(安政元)、連帯責任を問われ9年間の国元蟄居を命ぜられ松代藩御安町にある江戸詰家老望月主水の下屋敷に住むことになりました。その屋敷は「聚遠楼」と称していましたが、 その一角にあった別棟が「高義亭」です。1860年(万延元)には長州藩高杉晋作、中岡慎太郎らが松蔭の書を持参して夜を徹して談義したとされます。1978年(昭和53)に現在地に移築しました。

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象山神社

幕末の先覚者、佐久間象山を祀る神社で、昭和13年に建立されました。社殿は福島県宗像郡津屋崎町の名工、荻原亀吉を棟梁に迎え総檜、桃山流の重厚な造りです。

佐久間象山

1811年(文化8)松代の下級武士、一学のもとに生まれました。父は漢学に長け卜伝流達人で、父や藩老鎌原桐山から経学や詩文を学び、若い頃より頭角を現し、後に江戸へ出て、幕府儒官・朱子学・陽明学に通じた佐藤一斎に入門します。1839年(天保10)に神田に私塾、木挽町に象山書院を開き朱子学を教え始めます。同時期に真田幸貫は象山を顧問として海防政策立案に尽力します。大砲の試射や電信の通信実験など天才的な発想があったようです。吉田松陰の海外密航の手助けをした罪により蟄居となった象山は1862年(文久2)に許されます。2年後の1864年(元治元)京都に出て朝廷や幕府要人らに開国論・公武合体を論じ天皇を彦根に移そうとしていた矢先、三条木屋町にて尊王攘夷派に刺殺され、54歳の生涯を閉じました。象山は幕末の志士に大きな影響を与えています。

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望岳賦

1841年(天保2)象山31歳の時の作といわれ、富士山の気高く優美な姿を讃えて自分の理想と抱負を寄せた韻文です。碑は明治23年、村上政信が象山直筆の書を碑文に彫り邸内に建てたものですが、その後行方不明となっていましたが、東京杉並高円寺の修道院内にあることがわかり、昭和48年に戻ってきました。

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桜賦

1860年(万延元)象山50歳の時の作で、孝明天皇の天覧を賜った由緒ある名文です。桜花の美徳を讃えて憂国の心情を託し、人に知られぬ山奥に散りゆく桜の花を自分にたとえ密かに勤王の志を述べた韻文です。昭和51年に篤志家によって建立されました。
TOO001 ブロンズ像は、象山生誕200年を記念して造られたものです。

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茶室煙雨亭と佐久間象山宅跡

象山の曽祖父、国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は1811年(文化8)この地で生まれました。1839年(天保10)の2度目の江戸留学まで29年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めました。 象山の父は佐久間国善(一学また神渓とも号した)といい、5両5人扶持(70石相当)の家でしたが、剣はト伝流の達人であり、また、易学もって知られた名門でした。茶室煙雨亭は象山が最後を過ごした京都鴨川の住居「煙雨楼」の茶室を移築したものです。

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横田秀雄頌徳碑

先程見学した中級武士の横田家の出身です。大陪審員長(現在の最高裁判所長官)を務め、「狸・狢事件」「虎ノ門事件」などを手掛けました。退職後は明治大学学長、総長のかたわら象山神社建立に奔走しました。長男も最高裁判所長官を務め、姉は「富岡日記」の和田英、弟は鉄道大臣と血族は錚々たる顔ぶれです。
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山寺常山(じょうざん)邸

八代藩主幸貫の信頼厚く、寺社奉行や郡奉行を務めました。明治になると中央政府に乞われますが、松代に留まり私塾を開いて門弟の教育に尽力しました。佐久間象山、鎌原桐山、山寺常山を『松代の三山』と呼び顕彰されています。長屋門は、平成17年に復元されたもので、全幅22mもあります。書院は大正期から昭和初期に建てられたとされます。

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竹山随護稲荷神社

真田信親(信之の弟昌親の子)が江戸今井の屋敷内に鎮守として祭っていたものです。信親には子がなく、2代藩主信政の長子、信就の六男信弘を養子とします。しかし三代藩主幸道にも子がなかったため、信弘が幸道の養子となり、松代藩四代藩主となりました。1703年(元禄16)年、江戸屋敷内から海津城内に移し、1723年(享保8)幸道開基の恵明寺境内、現在竹林昌、奥杜となっている場所に遷座します。本殿が現在地に建立されたのは明治中頃とされます。

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恵明寺

1677年(延宝5)真田幸道の開祖、数度の大火で焼失し現在の本堂・霊屋は1833年(天保4)の再建です。あんずの木がたくさんあるそうで、このあんずの木は元禄期、幸道に輿入れした宇和島藩伊達宗利の息女、豊姫によって持ち込まれたものです。千曲市のあんずはこの時の苗が原型とされています。
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象山地下壕

第二次大戦末期、軍部は本土決戦最後の拠点として大本営・政府機関の移転作戦を極秘裏に進めていました。舞鶴山・皆神山・象山に地下壕を掘削しました。全長5853mのうち500mを無料で公開しています。壕は約9ヶ月の突貫工事で死者も出たといわれますが、はっきりとしたことはわかっていません。

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象山地下壕鳥瞰図

壕内にはヘルメットをかぶり、出発します。入るときは何名かいらしたのですが・・・最終地点で振り向くと、誰もいなくなっていました。ほとんどの人は途中で帰ってしまうようです。

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象山開国之碑(象山入口)

象山神社の裏山にあたる「象山」(475m)への登山口のようです。山頂には大きな佐久間象山顕彰碑が建立されています。

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岩下清周の生家

松代藩士の岩下佐源太の次男に生まれ、松代藩兵制士官学校を卒業すると上京し、三菱商業学校などで学び、1879年(明治12)に三井物産へ入社しました。アメリカやフランスで勤務後、北浜銀行頭取、箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)初代社長、大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)2代目社長など多くの企業に参画し、大阪の財界を牽引しましたが、背任罪で懲役3年の実刑も受けています。晩年は富士山麓で不二農園の運営に従事しました。

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長谷川吾作の家

埴科郡(現千曲市)西船山生まれで、松代の長谷川家の婿養子となります。トウモロコシの交配実験でメンデルの法則の追試験に成功しました。またエノキダケの人工栽培に取り組み、長野県をエノキタケ一大生産地に発展させる礎を築きました。

エノキダケの人工栽培

1928年(昭和3)、和歌山県の森本彦三郎は、雑誌「主婦の友」に『簡単で有利ななめたけの人工栽培』という記事を書き、エノキタケの瓶栽培法を紹介しています。一方、長谷川五作は1923年(大正12)よりエノキダケの試験栽培を始めていますがなかなかうまく行かなかったのでしょう。その後、主婦の友の記事を参考にエノキダケの瓶栽培法を確立し、いち早く長野の冬季副業として地元に広げていきました。後に松代の山寺信が現在と同様の栽培方法である「白化ビン栽培法」を開発し発展させました。白い紙をビンに巻きエノキダケを細長く栽培する方法を考案したとされます。現在、エノキダケの生産量の半分は長野産です。

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泉水路(せんすいろ)

松代の城下町では道路沿いを流れる泉水路と呼ばれる流れが数多く残っています。ここは江戸時代につくられたものです。泉水路は各戸の庭の池を結び、昔はしじみなども生息していたそうです。
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松代表柴町の湧水池

びっくりするくらいカワニナが大量にいました。ホタルがいるのかな?

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坂口淳生誕の地

1937年(昭和12)キングレコード専属作詞家となり、ヒット曲「マロニエの木陰」を作詞。召集によりタイ、ビルマなどを転戦し、戦後は中山晋平とコンビで童謡・新民謡を発表しました。「子鹿のバンビ」などのヒット曲を作詞しました。

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孝養寺の叶うこと地蔵尊

孝養寺は、光融寺、光養寺、光要寺とも書かれ、最近までは向陽寺と書かれていました。長国寺の側室がたの御霊屋はこの向陽寺(孝養寺)の本堂として移築されましたが、1891年(明治24)に焼失しました。叶うこと地蔵尊は、信之の待女おしゅんが信仰しており、「おしゅん地蔵」とも言われています。
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佐久間象山蟄居地

1853年(嘉永6)米国艦隊ペリーが浦賀にやってきました。黒船来航です。このとき、象山の門人であった吉田松陰の海外密航の手助けをしますが、発覚してしまいます。1854年(安政元)連帯責任を問われ、9年間の国元蟄居を命ぜられ、この場所にあった江戸詰家老望月主水の下屋敷に住むことになりました。その屋敷は「聚遠楼」と称していましたが、 その一角には別棟「高義亭」がありました。幕末、多くの明治維新の志士たちが訪れると、高義亭二階の七畳半の間で対談していました。1978年(昭和53)に象山神社境内に移築されました。

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里の秋童謡歌碑

松代町で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生した海沼実は、東洋音楽学校在学中の1933年(昭和8)音羽ゆりかご会を創設し、童謡「カラスの赤ちゃん」「お猿のかごや」「みかんの花咲く丘」などを作曲し国民的な大ヒットを記録しました。

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堀内文治郎生誕の地

松代藩士堀内荘作の次男として生まれ、陸軍士官学校を主席で卒業、同校教官、台湾総督府副管、大本営陸軍部副官等を歴任し、高田連隊長時代の1911年(明治44)陸軍省の指示でオーストリア軍人、レルヒ少佐からスキー技術を学び、日本に普及させました。
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鏝絵(こてえ)看板

清水畳店の鏝絵は明治27年、江戸小伝馬町に住む左官職人、野本鉄五郎の息子である勇太郎が松代に滞在し左官の仕事を始め、商店の看板鏝絵や土蔵の妻飾りの鏝絵で才能を発揮しました。漆喰が乾く前に鏝一本で一気に書き上げる鏝絵はかなりの技術を要するそうです。かつて多くの鏝絵看板がありましたが、現在はほとんど残っていません。他に勇太郎の残した鏝絵は蓮乗寺の七面観音堂の額、証蓮寺の太子堂内部の壁にあるそうです。

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蓮乗寺の佐久間象山の墓

蓮乗寺は日蓮が佐渡へ流されたときに立ち寄り、一泊したと伝わるお寺で、佐久間象山の菩提寺です。1864年(元治元)京都で暗殺された象山は、京都妙心寺へ葬られましたが、大正11年に妙心寺より分葬されました。
16:00を過ぎ、だんだん暗くなってきましたので今日はここまでにし、本日宿泊する『松代荘』へ向かい、もう少し歩いて行きますが、象山の墓から1.4kmくらいあるのです。宿に到着したのは16:20頃でした。