2022年7月2日

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11:00 新町宿をあとに松代道との追分、平出追分へ向かいます。今日の最高気温は7月に入ったばかりだというのに37℃予想。のどがカラカラになってきました。ずっと街なかを歩いてきたので油断していましたが、徐々に市街地から離れ、自動販売機が見つかりません・・・

北国街道は緩く上ったり下ったりしながら徐々に郊外へ向かい、駒沢川を渡るとすぐ左手に「薬師寺」がありました。

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薬師寺

かなり古い石仏や石祠などがありますが、詳細は不明です。

薬師寺から平坦な道を進み、坂を少し上ると左手に「十王堂」があり、その横に蚊里田八幡宮参道の鳥居があります。

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十王堂

堂内には石仏20体がありますが、そのうち10体は1882年(明治15)に宇木村より移されたもののようです。現在は18体が現存しています。堂前の石祠庚申塔は1660年(万治3)の銘があります。

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蚊里田八幡宮鳥居

蚊里田八幡宮は、源義隆(若槻義隆)が父の源義家より継承した霊石の鎮懐石を神体として納めて創建したと言われます。社殿は正徳年間(1711〜1716年)と1862年(文久2)再建されています。
蚊里田八幡宮は、ここから1kmほどありますので立ち寄らずに先へ進みます。

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宮下氏の顕彰碑

宮下昌賢さんというかたの顕彰碑、あるいは筆塚かもしれません。漢文が全てわかりませんが弟子によって建立されたようです。
ようやく若槻郵便局の横に自動販売機がありました。この場で1本を飲み干し、さらに2本を購入して先へ進みます。いや〜ここに販売機があって助かりました。

次の交差点左手に「幸清水碑」があり、今も水が出ていたら・・往時の旅人もここに水場があり非常に助かったでしょうね。

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幸清水碑

原ノ坂は地盤が固く井戸を掘っても湧き水がなく、常に水不足でした。当地の鈴木助左衛門らは坂を登りきった北方上ノ原には豊富な湧水があることから簡易上水を計画、太い竹を繋いだパイプによって延長930mの水道管を造り、1873年(明治6)に完成し、共同井戸11か所に導水しました。
記念碑は1907年(明治40)、水源に近い現在地へ建立。「人々これを幸い清水の名をもってす ああ幸い清水 ああ幸い清水 これ聖代仁政の余澤ならんか」と刻まれています。

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大きな筆塚

幸清水碑から130mほど進んだ左手の大きなお屋敷の庭に大きな筆塚がありました。迫力のある筆塚です。信濃は寺子屋が全国で一番多かったといいますので、筆塚も多いですね。

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往時の面影がちらほら残る北国街道になってきました。
右手に「粟野神社」、左手に「国胎寺」があります。粟野神社は樹木が多く、日影でしたので境内横のコンクリート叩きでゆっくり休ませてもらいました。異常に暑いです・・・

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粟野神社

創建は不詳ですが、905年(延喜5)に編纂された「延喜式」に掲載のある古社です。

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猿田彦大神(右)・幸神(左)

猿田彦大神の創建は寛文年中(1661〜1672)とされます。道祖神と同一視され、道の神、旅人の神とされます。

幸神(さいのかみ)の創建は1740年(元文5)とされます。境内に幸神を祀ってある神社は長野県下では珍しいといいます。幸神は旅人の安全祈願の守り神とされ、道祖神や猿田彦大神と同時に祀られることが多いと聞きます。

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境内社

右の大きなものが、神明社、隣が養蚕社、左端が山神四社です。神明社は「上野伊勢宮公園」から遷座されたものです。養蚕社は上野で養蚕が盛んだった頃に祀られた五穀・養蚕の神様です。
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国胎寺

1230年(ェ喜2)徹山和尚が「金胎寺(こんたいじ)」として建立。1458年(長禄2)火災により堂を焼失したままでしたが、天正年間(1573〜1592)に僧全春が再興し「国胎寺」と改称しました。後の北国街道の開通時、関鯢(かんげい)僧が堂宇を建立したのが現在の「国胎寺」です。 寺入口の六地蔵は1767年(明和4)建立。

国胎寺から大きな通りの「田中」交差点を直進、さらに250mほど左手に「田中のお稲荷さん」、その先550m左手に「船地蔵尊」がありました。

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稲荷神社

1841年(天保12)京都伏見神社より東条の山中にあった正覚寺へ勧請されたもので、昔から「田中のお稲荷さん」と呼ばれ、昭和10年代までは参詣の人が絶えることがなかったといいます。

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稲荷神社の七観音

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船地蔵尊

地蔵には1719年(享保4)の銘があります。大正時代までは干ばつになると首に縄をかけ一本棒を差し込んで二人で担ぎ、田子神社の湧水へ漬けて水をかけ、一粒でも雨が降ると元の場所へ戻されたそうです。随分と荒っぽいですね(笑)

左右には三基の庚申塔があり、元は山千寺に近い田子川のほとり、かつての善光寺下馬沿いに他の石仏や石塔と共にあったものを明治期の田子川改修に伴い、現在地へ移したものです。

山千寺は田子神社から北へ500mほどの山の上、現在は廃寺のようですが、立派な観音堂が残されています。

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船地蔵尊のすぐ先左手に立派な門があり、門前に「明治天皇田子御小休所碑」あります。

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明治天皇田子御小休所

1878年(明治11)北陸巡幸の際に明治天皇が小休されました。池田元吉が総桧造り、菊花紋入の瓦葺きで御休所を造りました。元は酒造業を営んでいたといいます。
立派な門は、飯山城の裏門を移設したもので、千曲川を舟で運び長沼湖畔から搬入されました。門前の石碑の揮毫は西郷隆盛の甥、西郷従徳によるものです。

さらに200mほど進むと左に田子神社の石鳥居があり、左へ入っていくと「多胡氏館跡」の案内板、奥に田子神社があります。

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田子神社入口・御前水碑

明治天皇小休の際、田子神社の湧水が茶水として使用され、「御前水」の碑が建立されています。

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多胡氏館跡

若槻頼隆は源義家の孫にあたり、清和源氏の直系とされます。父義隆は義家の7男で源頼朝の父義朝の身代わりとなって平治の乱で討死したといいます。若槻頼隆は鎌倉幕府の御家人として、相模国毛利庄より若槻庄の地頭職としてこの地へ移り、城を築き若槻氏の祖となりました。

頼隆には頼胤・頼定という子がいましたが、兄頼胤は里城を居館として、子孫は押田氏、多胡(田子)氏に分流し、弟頼定は真光寺に居館を構え子孫は西条氏と称しました。この分流した多胡氏の館跡がこの場所とされています。
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田子神社

創建は不明ですが、1786年(天明6)諏訪社が「田子神社」と改称されました。現在の社殿は1907年(明治40)の再建です。

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宇賀社

宇賀社の脇には「御前水碑」もあります。境内社は宇賀社のほかに八幡社、金比羅社、春日社、山乃神石祠が祀られています。
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田子清水

御膳水になった清水です。水量、水質、水温は1年中変わらず、保健所から飲用として認められているそうです。東都分間絵図には「岩間ヨリ出ル名水アリ」と記されています。

田子神社の日影でゆっくり休み、北国街道へ戻ります。

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多古の立場

田子神社参道をでた右手あたりは立場になっていました。湧き水と湧き水で冷やされた豆腐が名物だったとされます。
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東都分間絵図「多古」

田子は中世の官道、東山道「多古駅」に比定されています。

田子の酒

田子神社の豊富で水質のよい水があることから明治以前から田子地区には酒造業を営む家が多く、「田子酒」として善光寺平一帯に広く知られていました。八軒の造り酒屋の蔵が並んでいたといいます。 ここは「千村酒造」の跡で「柏山」の銘柄の酒を造っていました。造り酒屋は次第に衰退し、日露戦争後には全て廃業してしまいました。

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駒繋ぎ石

街道沿いには馬を休ませ水や飼馬を与えたりする時に使う馬の手綱を結ぶ「駒繋ぎ石」が所々にありました。往時の駒繋ぎ石がブロック塀の中に保存されています。

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田子池

田子池のあたりを歩いていると・・町内放送で「37℃を超えました。不要不急の外出は避けください」と注意喚起しています・・ほんとうに暑い。
田子池の終点あたりの右手路地に大きな題目碑と馬頭観音などが祀られています。

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題目碑・馬頭観音

ここから右手の観音山へ上っていきます。途中、広場のような場所がありその一段高い場所に「田子観音山石仏群」がありました。
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田子観音山石仏群

観音山公園に1661年(万治3)の銘がある大きな廻国塔があります。中には観音菩薩像が収められています。左脇に35基、右脇に32基の石仏があり石塔の中央に「秩父坂東西国」と彫られていることから秩父三十四所、坂東三十三所、西国三十三所の観音霊場である「百番観音」と考えられています。

観音山を下り北国街道へ戻り、200mほど行くと左手に大きく立派な「筆塚」、さらに200m左手の階段横、斜面に石仏がありました。

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筆塚

先ほど個人宅内にあった筆塚とデザインがほとんど同じです。同時期のものでしょうか・・・

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浄泉院跡参道の石仏

左の「三界萬霊塔」は「東都分間絵図」に書かれている「三界万レイ塔」にあたると思われます。
「浄泉院跡」へ寄るのを忘れてしまいましたが、奥へ行くと跡地があります。

旧吉村の閑静な道は緩い上り坂です。飲み物の自動販売機もありましたので、再び2本購入。今日は何本でも飲んでしまいます。住宅が無くなってくると坂は徐々に急になり、「吉村坂」と呼ばれていたようです。左手斜面に「題目塔」がありました。

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題目塔

題目塔からも上り坂です。

徐々に身体の調子がおかしくなってきました・・・なかなか前に進めなく、日影があれば立ったまましばし休憩。
少しずつゆっくりと上っていき、県道の下をくぐり100m、小さな川の手前右手の小高い場所に2体の石仏が並んでいます。

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宇佐美沢一里塚跡

塚はありませんが、元禄時代の地蔵と無縁仏があり、「宇佐美沢一里塚」があったといいます。

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水道用地

「宇佐美沢一里塚跡」から170mほど、アスファルト舗装の道は大きく右へカーブしていきますが、正面の水道用地、未舗装の道が旧北国街道です。
さらに上っていくと右手に近年建てられた「原池観音堂」があり、その奥に「原池」を望みます。

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平安時代には丘陵の大崩壊があり、下流の粟野村は埋没したため「石村」と改称されたそうです。
県道に合流する直前の右手に石仏がありました。

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馬頭観音

う〜ん・・これは馬頭観音なのかな?かなり大雑把な彫り方のような・・・台座には「牧野氏」と彫られています。
さらに「吉村坂」を上ると北国街道は一部県道工事で無くなっています。県道へ出てすぐ先左手へ。吉村坂最後の上りを上り切ると左手に「鍛冶ケ窪野立跡」の石碑があります。

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鍛冶ケ窪野立跡

明治天皇北陸巡行時に野立てした場所といいます。右の石碑が野立跡を示す石碑ですが、その向こうに四角い石組が残り、御座所跡とされます。

手前の石碑は「三登髻両山開修紀功之碑」とあり、全て読み解くのは難しいのですが、恐らく村が開かれてからの開墾、村の合併、明治天皇の北陸巡行など諸々の事象が刻まれているようです。
西にあるのが744mの髻(もとどり)山、西南にあるのが923mの三登山です。髻山には上杉謙信が川中島の戦に備えて築いた山城がありましたが、武田信玄が川中島制圧後に修築しました。

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東都分間絵図「鍛冶ケ窪」

野立跡付近は江戸時代、「立場」になっていたようです。見晴らしが良い場所で旅人が一服したのでしょう。

鍛冶ケ窪から200mほど進むと県道とぶつかりますが、そのまま突き抜けて旧道を進みます。県道から300mの十字路を左手へ入り100mほど左手に「庚申塚古墳」の案内板があります。

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庚申塚古墳

古くから塚の上に庚申塔が祀られていたので「庚申塚」と呼ばれてきました。測量により前方後円墳と判明し(昭和55)に牟礼村の文化財となりました。県道工事の際に格子目の叩き(格子状に浅く削り模様としたもの)が施された埴輪が出土しています。
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庚申塚古墳の石仏

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長沼道道標

15:10 庚申塚古墳より北国街道へ戻り、240m進んで松代道と合流します。道標は元は北国街道松代道と北国西街道(善光寺道)の合流点である「平出追分」にありましたが、現在移設され少し奥まった民地の庭に移されています。

以前、松代道から牟礼へ歩きましたのでここで終了です。牟礼駅までかなり距離がありますので、鳥居川観光タクシーさんに電話をし、迎えに来ていただきました。牟礼駅まで2000円くらいだったかな?

本当に今日は37℃の酷暑で倒れそうでした。吉村坂からは20分で500mしか進めなくなってしまい、最後まで行けるか心配しましたが、休み、休み、なんとか最後までがんばれました。