2020年8月13日

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9:30 残念ながら朝から雨模様です。昨日までは暑さでバテバテでしたので気温は低めのため、熱中症の心配はないですね。今日は午前中、野尻湖の遊覧船へ乗るため、歩行距離は5kmほどにしましたので、ゆっくり身体を休め、宿から出発しました。

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ナウマンゾウ化石発掘地

1948年(昭和23)に小松屋旅館の主人が「湯たんぽの化石」を発見したと話題になりましたが、ナウマンゾウの臼歯と判明、以後2012年までに約8万3000点にも及ぶ化石や遺物が見つかっています。野尻湖では農業用の水を使用しない9月から3月まで水力発電が行われ、水位が3m以上低下することで湖底の発掘が可能になります。市民参加方式の発掘調査は2万人以上が参加しました。

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中勘助の詩碑

小説「銀の匙(さじ)」で知られる中勘助は、1911年(明治44)8月に静養のため野尻湖を訪れ、25日間に渡って湖中の琵琶島で島篭もりをしました。「銀の匙」の前編は翌年再び訪れた野尻湖で執筆されました。「ほほじろの聲(こえ)」は、1924年(大正13)、野尻湖での生活を懐かしく思い出して作られた詩です。この詩碑は1973年(昭和48)公民館の完成を記念して建立されました。

小説「銀の匙(さじ)」

なかなか開かなかった茶箪笥のひきだしからみつけた銀の匙をきっかけに、伯母の豊かな愛情に包まれて過ごした日々や少年時代の思い出を自伝的に綴った作品です。夏目漱石に送ったところ絶賛し、その推挙により東京朝日新聞で連載されました。岩波書店が創業90年を記念して行った「読者が選ぶ〈私の好きな岩波文庫100〉」キャンペーンにおいて、夏目漱石の『こころ』、『坊っちゃん』に次いで、3位に選ばれた秀作です。

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宇佐美定行の碑

宇佐美定行は軍記物等に上杉謙信の軍師として登場する宇佐美定満をモデルとする架空の人物です。定行の活躍を伝える『北越軍記』に記されていることは資料には一切見当たらないようです。『北越軍記』の作者は軍学者宇佐美定祐と考えられており、宇佐美家とは血縁の無い定祐が、系譜・書状の偽作や軍記物の執筆により名軍師宇佐美定行を創出し、その定行を祖とする宇佐美家の子孫という由緒を手に入れたのではないか、ともされています。

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野尻湖遊覧船

45分くらいで野尻湖を1周します。最後に琵琶島へ寄りますが、15分か20分程度ですので急いでお参りしてすぐに乗船しないといけません。せめて30分くらい島を探索したいですね。大人一人1,100円です。
TOO001 食事を楽しみながら遊覧できるプランなどもあるようです。

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琵琶島

琵琶島の名前の由来は、形が楽器の琵琶に似ていることからですが、弁財天が祀られているため一般的には弁天島と呼ばれているそうです。1878年(明治11)には橋がかけられていましたが、10年ほどで朽ちてしまいました。

野尻湖の伝説「野尻湖の主」

北信最大の湖である野尻湖の主とされる夫婦の大蛇は年に10匹の子供を生み続けていました。越後の妙高山と黒姫山の間の関川上流に「地震(ない)の滝壷」には夫婦の大きなが棲んでおり、こちらも年に10匹の子供を生んでいました。春になると大蟹は子蟹を連れて野尻湖へ来て大蛇の子供達を捕らえて子蟹に食べさせてしまいます。野尻湖の大蛇は怒って一生懸命戦うのですが、大蟹の甲羅は鉄よりも硬く、鋭い大はぎみをもち、畳二畳敷もあろう大きな蟹ですので、毎年大蛇は負けてしまいます。大蟹は毎年増えていくのですが、大蛇は年々少なくなってしまいますからついに降参し、子共を食べないでもらうかわりに、子々孫々まで大蟹の家来になるという約束をしました。今でも野尻湖で蛇に出会ったら「蟹にいいつけるぞー」と言えば、蛇はこそこそと逃げて行くそうです。

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宇賀神社

琵琶島(弁天島)の頂上付近に宇賀神社の本殿があり、島自体が神社の境内となっています。歴史は古く、730年(天平2)創建とされ、僧・行基が御神体を安置したと伝えられます。大鳥居の扁額は勝海舟直筆ですが、現在掲げられているものはレプリカです。

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宇佐美定行の墓

宇佐美定行(定満)は、上杉謙信の家臣で謀反の疑いをかけられた長尾政景を野尻湖畔に招いて、長尾政景を道連れに野尻湖に身を沈めたと伝えられています。 (越後の野尻池を野尻湖と混同し、さらに定満の居城が琵琶島城で島の名前もたまたま同じことから生じた伝承であるとも言われます)

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A・Rストーン先生の記念碑

カナダ出身の宣教師であり、1926年に来日し東京に赴任しますが、2年後に長野へ移り古間、柏原、野尻にも足を運び、夏は国際村に滞在し、地元の人と交流していきます。野尻湖小学校では英語を教え、の製造には動力ハンマーの導入を推進しました。また、トウモロコシやトマト、ハーブなどの洋野菜の種を輸入し今日の信濃町の特産品の基礎を築きました。1954年、洞爺丸事故では救命胴衣を日本人の若者に与え、遭難死してしまいした。

洞爺丸事故

1954年(昭和29)9月26日、青函航路で台風第15号(後に洞爺丸台風と命名)により青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故です。乗員乗客1,337人のうち、死者・行方不明者あわせて1,155人に及ぶ、日本海難史上最大の惨事となりました。A・Rストーンの他2名の宣教師が一緒に乗船していましたが、1名のみ生還しています。この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されています。

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安養寺(御金蔵跡)

佐渡から海を渡った金銀は出雲崎で泊まり北国街道を運ばれ、次は野尻宿の安養寺で一泊しました。御金蔵があった場所は現在太子堂となっているそうですが、本堂右手の小さな建物だと思われます。現在、本堂は骨組みだけになっています・・どうしたのでしょうか?

また、中勘助は少年時代の一時期この安養寺、御堂の南座敷に暮らしていました。

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真光寺

真光寺の墓地入口付近に長尾政景の墓と伝わる墓石があります。

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長尾政景の墓と五輪塔

長尾政景は上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主でした。上杉謙信の義兄でもありましたが、謙信から謀反を疑われ1564年(永禄7)野尻城主の老臣、宇佐美定行の招きにより野尻湖で舟遊びをするうちに宇佐美に組み付かれ、共に水中に没したと伝えられています。この墓は野尻湖畔に建てられましたが、この前を馬で通ると必ず落馬するので、現在地へ移されたといわれます。また、多数の五輪塔は中世の武士の墓で、野尻湖中学校跡地から見つかり、ここへ移されたものです。
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妙高山

野尻坂峠あたりから見た妙高山です。雨があがり、ようやく景色が見えてきました。野尻坂は曲がった曲坂(くまさか)から熊坂とも呼ばれています。峠の土橋は「北国街道分間絵図」には「ソバキリ新田」として描かれています。

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スノーシェッド

国道から旧道へ入っていくと途中からは旧道がなくなり、ヘアピンカーブの新道を進むしかありません。このあたり長野県と新潟県の県境は豪雪地帯のため、カーブには「赤川1号」、「赤川2号」スノーシェッドが架かっています。

旧北国街道はうっすら道らしきものが見えるところもあるのですが、途中でなくなっているようです。

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カラスアゲハ

都会では見かけないとても綺麗な蝶が道路にとまり、じっとしています。車はほとんど通りませんが、轢かれないといいな。

3つ目のヘアピンカーブのところを左へ200mほど進むと「池尻川発電所」へ至ります。池尻川発電所は、国友末蔵が昭和9年に造った日本初の揚水式発電所です。豊水期の余剰電力で野尻湖へ水を揚げ、渇水期の冬季に湖から落として発電します。この発電所のおかげで、冬季の野尻湖の水位が下がり、ナウマンゾウの化石が発見されました。

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赤川一里塚跡

文字馬頭観音のあたりが一里塚跡と思われます。標柱があったようですが、草で見えないのか、無くなってしまったのか・・

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一茶の妻、菊生家

一茶52歳のときに初めて結婚し、赤川集落の常田家から嫁いできたのが23歳の菊です。鉄道敷設や国道の改修により当時の地形とは変わってしまっているそうですが、その位置は集落の北側、池尻川を渡る橋から北へ直進し、鉄道へ突き当たるあたりのようです。

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赤川神社

赤川神社石造地蔵祠の裏側には「右やまみち 左ぜんこうじみち」とあり、道標を兼ねていました。文献によるとこの祠はもともとは、朴仙(ぼくせん)への分岐点にあったものが国道改修の際に移動されたものだそうですが、「朴仙」がどこを指すのかわかりませんでした。
TOO001 いよいよ越後、新潟県へ入ります。延々と歩いてきた『信州、長野県』とはお別れです。

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一ノ橋

信濃と越後の国境にあたります。江戸時代には中洲があり、南側に三ノ橋、北側に大橋がありました。関所跡の整備工事の際に太鼓橋が架けられ、中洲はなくなりました。

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関川

新潟焼山(24,00m)に発し、妙高山南麓を東へ回り込むように流れた後、北流し高田平野を潤し、上越市直江津で日本海に注ぐ全長約64kmの一級河川です。

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うば坂

別名「五文坂」とも呼ばれました。坂が急勾配であったため、人足が駄賃、五文で荷物を運んだことからこう呼ばれていたそうです。

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明治天皇北陸巡幸の碑

明治11年9月10日、16時過ぎに関川を渡り、関川関所跡に設けられた御野立所で休息、17時5分、徒歩にて関川行在所、大石家にて宿泊されました。岩倉具視、大隈重信、大山巌らが随行していました。

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金さん・銀さん像

平成10年、関川の改修により橋の架替工事が行われ、新しい橋を「長寿橋」と名付けました。また、北国街道は佐渡からの「金・銀」を江戸へ運んだ道でした。長寿橋と金・銀に因んで「金さん・銀さん像」が作られたということです。

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関川道の歴史館

関川の関所を当時のままに再現しています。文献資料やジオラマ、当時の旅や大名行列の様子が分かる資料が展示されています。入場料500円ほどですが、今回は入場しませんでした。

関川の関所

もともとは口留番所でしたが、幕府の指示により関所となり高田藩が管轄していました。高田藩が管轄していた関所、関川・鉢崎・市振の三関所のうちでも最も重要な「重き関所」に位置づけられていました。他の関所と同じように「入鉄砲と出女」を厳しく取り締まったといいます。
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御宿せきがわ

御宿せきがわでは、築170年のかやぶき農家を移築した素敵な建物で100%国内産のそばの実をゆっくりと石うすで挽いたそば粉を使用したお蕎麦が食べられます。

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天ざるそば

地元で採れる季節の野菜や山菜の天ぷらはサクサクで、おそばは風味高く美味しくいただきました。最近はズッキーニの天ぷらをよく見ますね。ちょっとびっくりですが、以外に美味しいです。1,200円でした。

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浄善寺、見真大師旅泊之跡

妙高は親鸞聖人ゆかりの地です。見真大師とは親鸞聖人のことで、親鸞聖人が旅の途次に浄善寺へ宿泊したようです。浄善寺から北へ1kmに袈裟掛けの松があります。その近くに大きな井戸があり、そこに大蛇が棲み旅人を苦しめていました。それを見た親鸞上人が、直江津の居多ヶ浜の石に念仏を書いて井戸に沈めて大蛇を済度させたと伝えられている經石(きょうせき)が浄善寺に残されているそうです。しかし、浄善寺の開山は1729年とありましたので、時代的には浄善寺の前身の寺院か何かに親鸞聖人が訪れた、ということなのでしょうか。

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浄善寺の一茶句碑

一茶の弟子であり、寺子屋の師匠でもあった浄善寺住職(俳号:指月)の位階昇進を祝って1820年(文政3)に贈られた一茶の句です。碑は平成8年に建立されたようです。

『いたれりや佛の方より花衣』

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関川宿加賀藩本陣跡

大石家は1739年(元文4)から加賀藩をはじめ、9つの大名の本陣として門、玄関、上段の間を設けることが許されていました。大石家は寺子屋も兼ねていました。建物は火災によって失われてしまいましたが、池を中心とした庭園が残されています。

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本陣庭園

庭師、小堀遠州の指導を受けて作られた庭園と伝えられていますが、詳細は不明です。池を中心とした「池泉式庭園」で、当時は大きな鯉が悠々と泳いでいたといいます。

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明治天皇関川行在所跡

1879年(明治11)の明治天皇北陸巡幸の際、行在所となりました。明治天皇はこの日、30kmも進み本陣大石家へ宿泊されました。

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関所忍び道

関所破りは磔の刑に処せられます。しかし、江戸時代の庶民、特に女性は関所手形を持たずに長旅をするのが常識だったようです。女性が関川の宿に着くと、旅籠の宿引きが「うちに泊まると忍び道を案内するよ」と寄ってきます。その手数料は50文だとか。ろうそく屋へ宿泊した清河八郎も母、善光寺詣りの女性13名と共に夜明け前に忍び道を通り関所を迂回しています。そして早朝に案内される道がここからの細道で、今でも段丘崖を登る道が残っています。かなりの人が関所破りをしていたようですが、関所破りで磔にされた者は数人しかいません。役人も知ってはいたようですが、叱られるので目をつぶっていたようです。無一文で旅に出る人も多かったとか。それでも無事に帰ってこれるのは、街道の人々が食べ物などを施してくれるからだそうです。そういう時代が江戸時代でした。

関川宿と上原宿

関川宿は関所の宿場として発展しますが、宿役が激増しまた豪雪地帯のため、1655年(明暦元)、上原宿と宿場の仕事を交代で務める合宿になりました。高田藩が管理した関川関所と接する宿場であったため、宿場の仕事の他にも関所の仕事も手伝いました。加賀藩本陣跡を過ぎると上原宿となります。

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高田藩本陣跡

越後高田藩専用の本陣であった豊田家の建物は、昭和時代に取り壊されてしまいましたが、石積の塀や銀杏の大木は往時のものです。上原宿で大火が発生した折りにはこの銀杏が火災から建物を守ったと伝えられます。

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旅籠ろうそく屋跡

当時の建物は残っていませんが、心字池を中心とした庭園が残されています。庭園には巨石が多用されており、運搬には近隣の宿場から多くの人が動員されたといいます。幕末の志士、清河八郎も母と共に宿泊したと彼の旅日記に記されています。立派な庭園のあるろうそく屋は、高級な旅籠だったものと思われます。

清河八郎

1830年(文政13)、庄内藩士として生まれ、勉学に勤しみ、北辰一刀流の開祖、千葉周作の玄武館で剣を磨き、免許皆伝を許されます。九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となりました。1863年(文久3)、幕府の刺客により麻布赤羽橋にて首を討たれ亡くなりました。

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堀口大学歌碑

関川に疎開していた1948年(昭和23)、この妙高高原南小学校の校歌「関川児童の歌」を作詞しました。碑は学校の門を入り、校舎の前にあります。

堀口大学

東京本郷で生まれますが、幼少期は新潟県長岡で過ごした新潟県ゆかりの詩人で、文化勲章も受賞されたフランス文学者です。1945年(昭和20)、太平洋戦争末期に妻、マサの実家、畑井家のある妙高市関川へ疎開し1年5ヶ月を過ごし、その間には妙高に因んだ多くの詩を残しています。戦後は4年ほど高田市でも暮らしています。その後は神奈川県葉山町を終の棲家とし、89歳で亡くなるまで葉山に居住しました。

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天神社と大杉

上原村の鎮守、天神社の大杉は樹齢千年と推定され、国天然記念物に指定されています。往時、越後と信濃を往来した旅人にとってこの大杉は信越国境の目印になっていたと考えられています。

天神社の斜向いが「堀口大学」が疎開した妻、マサの実家があった場所です。

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親鸞聖人袈裟架け松

越後国府に流されていた親鸞聖人は、度々、信濃国戸隠にある修道場に参籠(さんろう、社寺にこもって、神仏に祈ること)し、途中、上原宿の入口にあった松に袈裟を掛け休息していました。この松を大切にしていましたが、老木となり昭和13年に切り倒され、その幹で親鸞聖人の座像を作り、御堂を建て安置しました。度重なる道路改良工事により、場所を移し現在は3代目の松が植えられています。

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妙高温泉大湯

妙高温泉は1911年(明治44)に赤倉温泉の分湯として開湯され、1921年(大正11)には妙高山麓の南地獄谷からの引湯に成功し、歓楽温泉として栄え、昔ながらの飲食店や商店もあります。大湯は、共同浴場で源泉かけ流しですが、このときはコロナのため、地元の方しか入浴出来ないと書かれていました。
15:00 妙高温泉に到着しました。午前中は雨で大変でしたが午後は晴れてきました。短い行程でしたので楽ちんでした。本日は妙高温泉『香風館』に宿泊します。温泉で身体を休め、明日に備えます。