2022年9月23日

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9:30 柏崎駅裏のコインパーキングへ車を駐車し、まずは鵜川近くの御嶽山神社の方へ向かいます。今にも雨が降ってきそうなどんよりしたお天気です。

地下通路で柏崎の駅前に出るとブルボンの本社ビルが目を引きます。

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ブルボン本社ビル

ブルボンの本社が柏崎とは全く知りませんでした。子供の頃からお世話になっているブルボン。今でも手頃な価格で美味しいですよね。ブルボン本社ビルは柏崎市内で最も高いビルなのだそうで、展望フロアは予約すれば見学できるそうです。
駅前の大通りにはたくさんの「貞心尼歌碑」が設置されています。

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貞心尼歌碑

『かきおくも はかなきいその もしほ草 見つつしのばむ 人もなき世に』

駅前の大通りを左へ折れ、着いたところは「大久保緑道」でした。緑道の中を通り北国街道へ向かいます。緑道の中に「柏の大樹碑」がありました。

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柏の大樹(柏崎由来)碑

昔、鵜川の河口から少し上流のあたりに魚師の船着場がありました。そこから見える向こう岸になんご坂(レンガ坂)があり、その頂上付近には大きな柏の木がありました。遠くの海上からでもよく見え、魚師の目印になっていました。この「かしわの大樹」が柏崎の名前の由来と言われています。

水道橋公園(大久保緑道)

1978年(昭和53)の記録的豪雨のため柏崎は大きな被害を受けました。そのため鵜川の蛇行を直線化する工事が始まり、150軒余りの住宅移転の協力を受け1984年(昭和59)に完成しました。「水道橋公園」は旧河道を埋め立てたものです。確かに地図を見ると道路や緑道が弧を描いており、蛇行した河道部ということがわかります。

大久保緑道を西側から出ると、ようやく北国街道へ合流します。左手には正法寺、浄興寺、右手に本妙寺、香積寺などお寺が集まっている一角へ差し掛かり、香積寺へ寄っていきます。右へ曲がり塀づたいにぐるっと周り、入口は東側でした。

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香積寺(こうじゃくじ)仁王門

香積寺は鎌倉時代に柏崎を治めたとされる柏崎勝長の開祖と伝わります。位牌も香積寺に保管されているそうです。
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柏崎勝長館跡

柏崎勝長館は彼の没後に遺言により菩提寺である香積寺へ寄進されたといい、境内には柏崎親子三人の墓と供養塔があります。小さなお堂は柏崎勝長が鎌倉に出向く際に火災のお守りとして祀った秋葉神社とされます。

北国西街道を歩いたときに、善光寺を過ぎて新町宿へ向かう途中に「柏崎地蔵」と呼ばれる小さな地蔵堂がありました。この地蔵は「花若地蔵尊」とも言われ、柏崎勝長の子、花若丸を供養するために祀られたとされます。

謡曲「柏崎」

現地の案内板では榎並左衛門五郎作、のちに世阿弥が改作して完成させたと記されています。

柏崎の豪族であった柏崎勝長は子の花若丸、従事の小太郎と共に庶民の訴えである年貢の減免を嘆願する為、鎌倉幕府へ出府したのち獄死。花若丸は悲しみのあまり善光寺へ行き出家して金蓮法印となり、小太郎は勝長の遺品を持って柏崎に帰り夫人に報告しますが、それを聞いた夫人は狂人の如く走り、着いた善光寺で出家した我が子と涙の対面をした悲劇の物語が香積寺の始まりであり、謡曲「柏崎」となっています。

香積寺をあとに北国街道へ戻り、すぐ先が枡形になっており右が街道ですが、左へ曲がり八坂神社へ寄っていきます。

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祇園祭発祥の社

祇園祭はもともと疫病や災難を除くためのお祭りで、京都八坂神社が発祥です。「祇園祭発祥の社」と書かれるとちょっと勘違いしそうですが、「祇園柏崎祭発祥の社」ということですね。 1950年に八坂神社の祇園祭と柏崎の商工祭が一緒になり、「祇園柏崎まつり」が誕生しました。昭和30年代には趣向を凝らした山車がねりあるき、祭りを盛り上げていました。
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八坂神社

和那水門祇園社と称し、垂仁天皇の時代に創立。古事記にも登場する古社とされます。1872年(明治5)に八坂神社と改称されました。 杜殿は番神堂と同じく4代篠田宗吉が棟梁を務め、建立されました。

観音寺裏の墓地の下に篠田宗吉の顕彰碑があります。

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篠田宗吉顕彰碑

「偉人篠田君碑」と彫られています。幼い頃から手先の器用であった宗吉は1851年(嘉永4)養子として篠田家に迎えられ、四代目を継ぎ4代目篠田宗吉となりました。1873年(明治6)から4年もの歳月をかけた番神堂を再建、1888年(明治21)には上越市の浄興寺本廟、1896年(明治29)には柏崎の閻魔堂、北海道の高龍寺、京都高龍寺など多くの名建築を残しています。また、忙しい中でも俳句を桑名藩士竹内鬼外に学び、号は「大宇」と称しました。1903年(明治36)77歳で亡くなり、その翌年に門人・知人によりこの顕彰碑が建立されました。

扇町(現西本町三丁目)

このあたりは往時「扇町」といい、花街でした。飾り棟をあげた貸座敷や料理屋が集まり、多くの人で賑わっていました。しかし。明治時代には度重なる大火の出火元となり、現在の新花町へ大半が移転しました。その頃の建物は石置屋根が多く、1911年(明治44)の大火を機に瓦葺きに改められました。

八坂神社をあとに北国街道へ戻り、さきほどの枡形を越えてすぐ左手に重厚でクラッシックな建物があり、その先に「ねまり地蔵」があります。

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喬柏園

1938年(昭和13)建築、柏崎公会堂として開館し後に市議会議場など多目的に使用され、2015年(平成27)からは柏崎市民活動センターとして再整備されました。

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ねまり地蔵

古くから街道の中央に建ち、人々の信仰を集めてきました。「ねまり」は「座る」の意味です。明治時代までは飛砂に埋もれ立地蔵と思われてきました。

さらにその先150m、細い路地の角に「立地蔵」、その路地を奥へ入り70m、左手に「小林栄治君之碑」があります。

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立地蔵

日光菩薩、月光菩薩を脇侍とする薬師三尊石像で、以前は街道の中央に建っていましたが、1878年(明治)明治天皇の北陸巡幸に際して現在地へ移されました。

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小林栄治君之碑

上部に「ハテン」と彫られています。「ハテン」はバテンレースのことだそうです。ドイツのバッテンベルクで発祥したバテンレースは明治時代に上越市で広がりました。詳しくは不明ですが、小林栄治がこの柏崎でもバテンレースを作っていたということでしょうか。建立は1912年(明治45)です。
北国街道へ戻り、西本町の交差点を越えてすぐの左手、個人宅の駐車場に「天屋跡」の看板があります。その隣が「石井神社」です。

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天屋跡

松尾芭蕉は宮部弥三郎の紹介状を持ち、大庄屋であった天屋弥惣兵衛宅に宿泊を乞いましたがあっさり断られ、憤慨した勢いか・・さらに16kmもある鉢崎宿まで歩き通し「たわら屋」に宿泊しました。使用人が2回も追ってきましたが断ったとされ、かなり頭に来ていたと思われます。

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石井神社

越後国司として中央より派遣された猪名真人大村卿が大阪住吉の住吉大明神を奉遷したとされ、927年(延長5)に編纂された「延喜式」に記載のある式内社ともされますが、他にも候補があり推測の域をでません。 789年(延暦8)の地震により社地が陥没し、翌年現在地の「石井の岡」に遷宮されました。創建時は「住吉大明神」でしたが、遷宮と同時に「石井神社」と称するようになりました。現在の社殿は1883年(明治16)の再建です。
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石井神社の神輿蔵

元亀年間(1570〜1573)、上杉謙信佐渡征伐の途次海上御守護の御神である石井神社を参拝して奉幣と木製の獅子一対が奉納されたといいます。

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柏崎四十八題の碑

「柏崎四十八題」は「小太郎」という俳句集で、1715年(正徳5)に出版されています。往時の柏崎名所というべき神社・仏閣・ 名勝など48か所を詠んだ俳句と挿絵が収録されています。

柏崎町の経済人で文化人でもあった中村藤八は1910年(明治43)、「柏崎四十八題」を石に刻み小さな丘を作り丘上には新潟萬代橋の柱木を据えて常夜灯をとしたとされます。これを「萬代山」と呼んでいたそうです。現在常夜灯は境内の別の場所に移されたとのことですが、どこにあるのかわかりませんでした。また、周辺の石に俳句が刻まれているのかもわかりませんでした。

写真右の記念碑的なものにも「中村藤八」の名が見られます。石井神社は、柏崎で最初に街頭テレビが置かれた場所とされます。

石井神社をあとに350m進んだところで北国街道から外れ、柏崎市 市民プラザのある交差点を左へ曲がり、寄り道をしていきます。右手に三階節発祥の寺とされる「専福寺」、すぐ先左手に「柏崎神社」があります。

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専福寺

10代将軍徳川家治の時代に盆踊りとして流行した「三階節」は、ここ専福寺三代目住職の法話が大変うまく、近隣の人々が説教の有り難さを讃えたのが始まりと言われています。また、「三階」は仏教用語の「三界」からともまた、同じ文句を三回繰り返すからとも言われています。
専福寺をあとに「柏崎神社」へ向かいます。

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柏崎神社の獅子像

1928年(昭和3)森田信雄の奉納とあり、石工は相澤藤次郎、相澤利八、小川由廣と記されています。小川由廣のライオン像は松波諏訪神社などにも置かれています。

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燕石翁碑

日柳燕石の顕彰碑のようです。篆額は幕末を代表する漢学者「岡千仭」。 日柳燕石は讃州(香川)の豪農の家に生まれ、幼いときから国学・歌学・儒学・書画・詩文に優れた秀才でした。反面侠気をもって知られ、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり、博徒の親分としても知られていました。また勤王の志が非常に厚く、維新の英傑と交わり国事のために私財を投げ出して尽力したことから「勤王博徒」と呼ばれていたといいます。1868年(明治元)、仁和寺宮遠征に従い軍日誌掛りとして軍船で柏崎を訪れましたが、柏崎で病にかかり、同年、市川邸にて52歳で死去しました。

岡千仭

岡千仭(おかせんじん)は1883年(天保4)、仙台藩士岡蔵治の五男として生まれ、戊辰戦争の時は奥羽列藩同盟に反対して捕らえられました。維新後は仙台市立片平丁小学校の前身である「麟経堂」を設立して多くの門人を育てながら仙台藩議事局に勤めました。その後東京府図書館長などを務め数々の業績を残しましたが,1914年(大正3) 東京で亡くなり、目黒祐天寺に葬られています。

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柏崎神社

793年(延暦12)越後守であった坂上田村磨が三島郡司、高志連(こしのむらじ)に命じ、比角村(現在の東柏崎駅付近)に創立したとされます。創建当時は「諏訪社」でした。承久の頃(1219〜1222年)兵火にあい、諏訪町へ移り1621年(元和7)再建、文化年中(1804〜1818)に焼失し現在地へ移り再建されました。江戸期に近隣の神社5社を合祀し、1872年(明治5)に稲荷社を合祀しています。

『春は住吉、夏祇園、おばな祭りの諏訪の賑わい』

「住吉」は石井神社、「祇園」が八坂神社、「諏訪」が柏崎神社を指していて、柏崎の祭りを謳ったものです。

柏崎神社をでて海岸へ向かって進むとすぐ右手に「柏崎招魂所」があり、その一角に「生田萬の墓」があります。

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生田萬(よろず)墓

1837年(天保8)、国学の塾を開いていた生田萬は天保の飢饉による救済を求めて同士6名、農民9名で柏崎陣屋へ討ち入りますが、破れて自刃しました。長い間墓は建てられなかったのですが、1899年(明治32)招魂所の片隅に建立されました。天保の飢饉による餓死者の供養塔などもありますが、これらの石碑は江戸時代の火葬場にあったものを大正時代に移されたものです。
柏崎招魂所は往時の1/6ほどに縮小されています。

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戊辰墓石群

1868年(明治元)戊辰戦争の鯨波や長岡の戦いで戦死した官軍の藩士58名の招魂所として建設された墓地です。薩摩藩の中原猶介、さきほど顕彰碑のあった日柳燕石などが葬られています。日柳燕石の爪髪は故郷香川の墓所に収められています。

柏崎招魂所からさらに海へ向けて130m、公園の一角に「三階節発祥の地碑」があります。

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三階節発祥の地碑

花柳界ではお座敷唄、農村では盆踊り唄として歌われてきました。米山、柏崎、椎谷、悪田、荒浜など、柏崎地方の地名が歌詞に織り込まれています。 「米山さんから雲が出た今に夕立くるやらピッカラシャンカラドンドンからちんと音がする」の歌詞から柏崎が本社のブルボンのお菓子「ピッカラ」はネーミングされたそうです。
少し戻り柏崎小学校の交差点を左へ、右手の旧図書館の植え込みに「奥州道道標」が2つあり、またその横に吉野秀雄の歌碑があります。

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奥州道道標

鋼材で保護されている道標とそのままの道標がありますが、どうやら古いのは保護されていないほうのようです。こちらには1851年(嘉永4)建立、「右三国通 小千谷十日市」と彫られています。 保護されている道標は1887年(明治20)「左奥州道 長岡新潟 右東京西京道 右三国通」と彫られ、裏には由来が彫られています。漢文で全ては不明ですが、嘉永4年の道標は加藤与市の母が建立したようなことが書かれているようです。彼女は資産家の家に嫁ぎ、地蔵の建立や柏崎のあちこちに道標を建立していたようです。
この道標は恐らく東本町の交差点にあったものだと思いますが・・詳しい資料は手元になく不明です。

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吉野秀雄歌碑

『北の海の冬呼ぶ風ぞ砂に這ふ枯莎草を根掘じむばかり』

群馬で生まれ、結核の持病を持ちながら正岡子規、伊藤左千夫に影響され作歌を目指します。1926年(昭和元)結婚し療養のため鎌倉に移転、終の棲家となります。秋艸道人(会津八一)の歌集に感動し師事。晩年は良寛の研究に没頭、多くの書籍を残しています。
奥州道の道標向かいの小学校植え込みに「明治天皇柏崎行在所」の跡があります。

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明治天皇柏崎行在所

1878年(明治11)明治天皇北陸巡幸の際に新築されました。往路・復路の2回宿泊。1902年(明治35)には皇太子時代の大正天皇も休憩されました。1973年(昭和48)柏崎小学校の改築のため解体・撤去され、石碑が残るのみです。

行在所跡から小学校の校庭前を通り、新しい図書館である「ソフィアセンター」の駐車場の奥に貞心尼托鉢像と貞心尼歌碑があります。

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貞心尼托鉢像

貞心尼は長岡藩士の娘として生まれ、小出の医師に嫁ぎますが離別後に閻王寺の眠龍尼・心龍尼のもとで尼僧になります。長岡福島の閻王堂に住んでいた頃、良寛と出会い弟子になります。

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貞心尼歌碑

貞心尼が綴った「蓮の露」の贈答歌が記されています。「蓮の露」は良寛と出会ってから4年の交流の中で、良寛と詠み交わした歌や思いを拾い集めて綴ったものです。「蓮の露」のタイトルは親交のあった山田静里の命名です。
ソフィアセンターから東へ230m、大通りへでる角に「釈迦堂跡」があります。

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釈迦堂跡

1830年(文政13)良寛危篤の知らせを聞いた貞心尼は献身的な看病をしましたが、1831年(天保2)に亡くなってしまいました。貞心尼は1832年(天保3)釈迦堂を創建し庵主となり暮らしていましたが、晩年は不求庵(ふぐうあん)で過ごしました。1872年(明治5)弟子の孝順尼、智譲尼に看取られ75歳で亡くなりました。1979年(昭和54)道路拡張のため、釈迦堂は取り壊されました。

釈迦堂跡で右へ曲がり東本町1の交差点で北国街道へ戻りました。左折して北国街道を進み、180mほど左手に「閻魔堂」があります。

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閻魔堂

1710年(宝永7)の「越後国柏崎町閻魔堂縁起」によると聖武天皇の願により建立され、十王は行基の作と言われ、かつては七堂伽藍を誇っていたといいます。戦国時代には半田村にあり、江戸時代の古絵図には町の東木戸の門外に位置していました。
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閻魔堂

現在の閻魔堂の建築も番神堂・八坂神社を建築した4代篠田宗吉です。

えんま市

えんま市は柏崎納屋町で開かれていた馬市が始まりといわれ、天保年間(1830〜1843年)に「閻魔堂の祭礼」として行われるようになりました。かつてはサーカスや見世物などの興行も行われ、多くの人で賑わっていました。現在も6月に3日間催されています。

閻魔堂のすぐ先東本町の交差点を左へ。この交差点にさきほどの道標があったのではないかと思われました。ここを直進する道は「魚沼街道」で、広田峠を越え小千谷へ至る道です。 左折して300mで諏訪町交差点です。

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諏訪町交差点

12:00 本日はここまでです。東柏崎より電車で柏崎へ戻ろうと思い、電車の時間を調べると・・1時間以上ありません・・ここから柏崎駅まで1.5kmほど。歩いたほうが早いと、歩いて柏崎駅まで戻りました。