2023年9月16日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

10:30 伏見宿をあとに太田宿へ向かいます。 犬山街道道標から国道21号線となっている中山道を400m進むと右手に「弘法堂」があり、その先が「上恵土神社」です。

TOO001

弘法堂

詳しいことはわかりませんが、中山道分間延絵図の本郷村手前の新村に神明が3つ固まっているあたりが弘法堂や上恵土神社だと思われます。

TOO001

上恵土神社

創建は不明ですが、1666年(寛文6)に神明神社と白山神社を合祀し、再建されたとのことです。鳥居には1678年(延宝6)の銘があります。稲荷神社の小さな社もあります。

上恵土神社を過ぎ、大きなスーパー前の墓地を右手に入ると「新町六地蔵」がありました。

TOO001

新町六地蔵

江戸時代の「新村」の六地蔵ですね。
大きなスーパー横、中山道は真っ直ぐ進みますが、上恵土城址へ向かうため国道21号線のカーブを曲がり、上恵土本郷西交差点を南へ向かうと「上恵土城址」とされる耕地があり、さらに80m進んだ左手の民家前に「長谷川五郎右衛門の供養碑」があります。

TOO001

長谷川五郎右衛門の供養碑

上恵土城主、長谷川五郎右衛門の供養塔と言われるものです。題目碑の横に「長谷川」と彫られています。五輪塔はお墓なのでしょうか・・・

TOO001

上恵土城址

築城年代は定かではありませんが、1582年(天正10)頃の城主、長谷川五郎右衛門は大森城主奥村又八郎と謀って、金山城主・森長可を攻め滅ぼそうとしますが、逆にその謀議の報告を受けた長可に攻められ、落城したと伝えられています。
上恵土本郷西交差点を抜けて旧中山道へ戻ります。国道へ合流する手前で右へ曲がり、寄り道していきます。このあたりは国道となっている中山道と脇道の繋がりが悪いため、だいぶ手前から脇道へ入っていきます。

段丘を下る道は途中から未舗装の斜面なども下らければならなかったのですが、なんとか通り抜け川合浄水場横を通り最初の路地を左へ曲がりました。田園の中に住宅が新築されてきており、真新しい家が多いです。300m進み左へ曲がり、50mほど右手にこんもりとした塚があり、頂上に大きな碑があります。

TOO001

七野新田開拓記念碑

1887年(明治20)七野五郎右衛門が35町歩(34.7ha)の開墾をしました。村人は七野新田の中央に五郎右衛門を祀り頌徳碑を建立しました。

TOO001

七野新田

七野五郎右衛門は、安八郡森部村の農家に生まれ、幕末には彦根藩士となりましたが、一転して三河国吉胡の開墾に成功します。しかし登記していなかったため失敗し、やむなくこの地、川合の開墾を13人で着手しました。往時は雑木が茂る荒地でキツネ・タヌキも多く人家もありませんでした。浮浪の人々も雇入れ12年後に完了しました。
七野五郎右衛門が開墾した「七野新田」もほぼ住宅地に変わっていました。愛知用水を通り、道なりに進むとようやく中山道へ合流します。

TOO001

愛知用水

愛知用水公団によって1961年(昭和36)に開かれ、木曽川の水を知多半島まで送っています。農業用水、工業用水として利用されています。
国道となっている中山道へ戻りました。現在は幹線道となっており、交通量も多く民家や工場、商業地が多い国道21号線ですが、往時は伏見宿をでてからは松並木がある以外人家もなく、樹木が多いため昼間でも薄暗く盗賊も出没した寂しい地域で「百間丁場」と呼ばれ怖がられていたそうです。現在では信じられない光景ですね。

すぐに右手に「恵土(前波新田)一里塚跡碑」がありました。

TOO001

恵土(前波新田)一里塚跡碑

百間丁場と呼ばれた中に塚がありました。1897年(明治30)頃より周辺の開発が進み、1907年(明治40)頃、畑にするために崩され現在は碑が建っているのみです。
国道を600m程進むとようやく旧道へ入っていきます。少し静かになりました。旧道へ入り太多線(たいたせん)の踏切の少し手前右手に「辞世塚」があるはずでしたが・・

TOO001

辞世塚

現在は何もありません・・・不動産屋さんに撤去されてしまったのでしょうか・・

TOO001

2012年の状況

2012年のストリートビューでは存在していましたが、2021年のストリートビューでは何も無くなっています。
太多線を越えて300mほど右手に石碑が2つ並んでいるのが見えます。このあたりも江戸時代は未開の荒野で怖いくらいだったといいます。

TOO001

妙見大菩薩碑・開墾記念碑

「開運北辰妙見大菩薩」と彫られています。妙見菩薩は北斗七星を神格化した菩薩で、北辰(ほくしん)菩薩とも呼ばれています。 開墾記念碑には「御料地払下」と彫られており、皇室から払い下げられた土地が開墾されたようです。
南へ1km程行くと神明社があり、さらに東へ100mほどの場所に「安倍晴明神社」が残っています。八卦の占い(中国由来の易の類)がよく当たり、明治末期には参詣者が多く賑わっていましたが、現在は小さな祠が残っているのみです。

少し距離がありますので、寄り道はせずに先に進みます。さらに暑さが堪えてきました・・ 国道248号線も越えて400mほど進むと右手に「今渡神社」があります。

TOO001

今渡神社

1928年(昭和3)、今渡の住吉神社、と八幡神社、神明神社の三社を合祀し、今渡神社と改称し現在地に社殿を新築しました。
本日はここまでにし、今渡地区センター南で左へ曲がり駅へ向かいます。

13:00 名鉄広見線「日本ライン今渡駅」到着です。名鉄広見線で新可児駅へ戻り車をピックアップします。

本日は『ホテルルートイン可児』へ宿泊し、明日は「金山城」を散策したいと思います。

2023年11月3日

本日は車を美濃太田前のコインパーキングへ駐車しました。JRで可児駅へ向かい、新可児駅から名鉄広見線で「日本ライン今渡駅」降車、日本ライン今渡駅よりスタートします。 駅前の道を北へ300mほど行くと中山道へでます。中山道を西へ入るとすぐ右手に「龍洞寺」があります。

TOO001

龍洞寺

1609年(慶長14)江陽が開いたとされ、はじめは木曽川沿いにあったとされ、その後に現在地へ移りました。境内には子安観音を祀る観音堂もあります。

TOO001

龍の枕石

江陽が木曽川の淵に龍を封じ込めたという故事に因み寺名が生まれたというので、この石も龍の故事に因むものだと思われますが、「天正年間」と書かれているので、発見されたのは天正年間ということでしょうか。
龍洞寺から150mほど右手に「冨士浅間神社」があります。

TOO001

冨士浅間神社

1755年(宝暦5)の創建と伝え、南宮社、神明社など多くを合祀しています。石灯籠には1836年(天保7)の銘があります。以前は祭りがあり、神輿・花馬・からくり山車が奉納されたそうですが、現在は途絶えています。

冨士浅間神社をでると右カーブで木曽川へ向かうのが中山道とされていますが、江戸時代初期は今渡から直進し土田村へ入り、「土田の渡し」で木曽川を渡り、祐泉寺裏へ越していました。今回は、土田の渡しまで寄り道して行こうと思います。

直進するとすぐ右手に「弘法大師旧跡碑」がありますが後で寄りますので、今は真っ直ぐ進んでいきます。 右手に小さな津島神社が祀られています。

TOO001

津島神社

さらに700mほど進むと土田の古い住宅地が残っています。「渡りクラブ」と書かれている公民館前に「土田の一里塚跡」の碑があり、公民館左手に弘法堂があります。

TOO001

TOO001

土田の一里塚跡

1694年(元禄7)まで土田宿がありました。土田は織田信長の生母、土田御前の出身地とも言われています。

TOO001

弘法堂(土田渡)

「新可児郡八十八ケ所めぐり」が1800年代に成立しました。先ほどあった「弘法大師旧跡碑」が一番札所で、この付近には弘法堂が多いです。
弘法堂西側の道を右へ曲がり少し下っていくと「桜井の泉」があり、泉の入口に「御誕生地」と彫られた石碑があります。

TOO001

弘法堂の小さな五輪塔

馬頭観音や五輪塔の残欠なども残っています。このあたりの畑からは時々五輪塔が出てくるそうです。土田下切の弘法堂にはそれらが集められ、承久の乱の戦死者の五輪塔といわれています。こちらの弘法堂にある五輪塔もその一部でしょうか。

TOO001

御誕生地?

表には「地蔵菩薩 櫻井観世音菩薩 不動明王御誕生地」とあり、側面に1931年(昭和6)の銘があります。これはどういう石碑なのでしょうか。
窪地のようになった場所に泉がこんこんと湧いています。

TOO001

桜井の泉

東山道が官道として通っていた頃から涸れることなく、こんこんと湧き出ていた清水です。周辺には桜が茂っていたのでいつの頃からか「桜井の泉」というようになりました。 「散れば浮き 散らねば底に影見へて なお面白し桜井の池」藤原定家のこの歌は、桜井の泉を詠んでいると言われています。

石室の中には阿弥陀石仏が祀られています。

桜井の泉裏の木曽川沿いは現在公園となっています。最近完成した新しい公園のようです。公園の中へ入り中央のトイレ付近に「大井戸の渡し跡」の案内板があります。

TOO001

大井戸の渡し跡

鎌倉時代の官道であった東山道は土田にあった「大井戸の渡し」で木曽川を渡っていました。江戸時代に入り、東山道を利用して中山道として再整備された渡しは「土田の渡し」と呼ばれるようになっています。
江戸時代の中頃までは土田の渡しが使われ、江戸時代後期からは太田の渡しへ移りました。土田の渡しは中山道の正式な渡場ではなくなりましたが、その後も続き1930年(昭和5)頃に両岸に櫓を組み、鋼鉄線を渡し滑車で対岸へ導く岡田式を採用し、1960年(昭和35)に廃止されました。

また大井戸は承久の乱の激戦地でもありました。

TOO001

承久の乱

1221年(承久3)後鳥羽上皇は源氏の直系が途絶えたのちの混乱に乗じて執権として鎌倉幕府の実権を握った北条義時を朝敵として討つべしと在京の武士たちに命令を発しました。これをいち早く知った鎌倉幕府は北条氏を中心に兵力を結集し大軍を送り出しました。東海道・東山道・北陸道の3ルートに分かれて兵を進め、中でも東山道を進軍した武田信光・小笠原長清の軍勢は木曽川の渡しであった「大井戸」の地で朝廷側の軍勢と対峙し、鎌倉方は一気に京へ上り勝利し、後鳥羽上皇は隠岐へ流されました。
TOO001

水鳥の楽園

公園を通り抜け木曽川へでると、ゆったりとした水の流れの中に多くの水鳥が見られました。

「かぐや姫の散歩道」を通り、江戸時代後期の中山道へ戻ります。木曽川沿いの堤防を東へ200mほど進むと堤防を下りる階段があり、かぐや姫の散歩道へ入ります。

TOO001

かぐや姫の散歩道

木曽川沿いに遊歩道が整備されています。100m程進むと木曽川の中に大きな岩があり、案内板もあります。

TOO001

夜泣き岩

1185年(文治元)平知盛が壇ノ浦で海へ身を投げたのち、その妻が今渡と土田の境にあった「姫が淵」という深い淵に身を投げたと伝えられます。月夜の晩になると白装束の女性が岩の上で泣いている姿が現れ、泣き声がしたと伝わります。 現在、淵らしいものは見当たりません。
さらに遊歩道を東へ向かい、小さな橋を渡るとすぐ左手にあるのが「杭場跡」で、すぐ先には「化石林」が見られます。

TOO001

杭場跡と土田川並番所

江戸時代、尾張藩は木曽川を管理するため1665年(寛文5)錦織奉行所を新設し、その配下として川並番所を設置しました。川並番所は、船運と材木の監視を行っていました。先ほど通過した津島神社あたりにあったようです。
往時は川岸近くに木の杭を何本も立てて、洪水などで流された用材や流木を拾い集めていたようです。木曽川の中をよく見てみると丸く穴の空いた岩が見えます。ここに杭が建てられていたようです。

TOO001

化石林

1800万年前の森林が立ったままの状態で埋没し珪化木となったもので、1994年(平成6)に425本が確認されています。樹種はアオギリ科の仲間といわれます。水量が多い時は見られないそうですが、今日はたくさんの珪化木が見られました。
TOO001

太田橋と対岸の太田の渡し跡

このあたりの木曽川は往時、幅150mほどあり船で渡っていました。当時旅人から『木曽の桟、太田の渡、碓氷峠がなくばよい』と謡われた中山道の難所でした。

化石林から先、木曽川沿いは歩けなくなり、段丘を上り少し行くと石畳の道が残っています。

TOO001 今渡側の石畳は明治時代の荷車道で、100mほど残っています。

石畳の道から右手に上る細い階段を上ると「弘法堂」です。

TOO001

弘法堂

1800年代に成立した「新可児郡八十八ケ所めぐり」の一番札所なのだそうです。このあたりにはやけに弘法堂が多いのはこのためです。詳しい創建などはわかりませんが、中山道分間延絵図には描かれていませんので、「新可児郡八十八ケ所めぐり」のために建立されたものかもしれません。

TOO001

錦江水

段丘崖からの湧水が湧いています。水質検査もされているようですので飲用にもなるみたいですね。
TOO001

観音像

多くの観音像が整然と並んでいますが、中には詩が刻まれたものが数基ありました。

中山道にあった脇往還ヘの道標と秋葉常夜灯が弘法堂南の神明会館の前に移設されています。

TOO001

伊勢道道標

元は富士浅間神社前から20m程東の信号機がある交差点南側にありました。中山道分間延絵図には「脇往還 土田村江道法十八丁 名古屋江道法九里 伊勢山田江三十六里」と記されています。 道標には「右京道 左伊勢道」と刻まれています。秋葉常夜灯と共に現在地へ移されています。

TOO001 弘法堂から東へ向かい、細道を抜けると太田橋の手前に出ることができました。太田橋の袂にポケットパークがあり、「太田の渡し跡碑」があります。

TOO001

太田の渡し跡碑

木曽川は出水が多く、平時でも深く流れが早いため渡渉はできませんでたし。船で渡りましたが、船を渡すことにも困難であったため、難所といわれていました。
1902年(明治35)からは岡田只治の考案で、両岸に櫓を組み、鋼鉄線を渡し滑車で対岸へ導くという方法を取り、これにより3分で木曽川が渡れるようになりました。また増水で川留となることもほとんどなくなりました。岡田式と呼ばれ、土田の渡しでも採用されるようになりました。

TOO001

太田橋

1927年(昭和2)に鋼橋が架けられ、太田の渡しの役目が終わりました。

太田橋を渡ると中之島公園があります。すぐ右下なのですが下りる階段などがないですね・・駐車場まで歩いていき公園へ入ります。この場所が日本ライン川下りの乗船場になっていましたが、利用客が激減したため2013年(平成25)より休止しています。今日はイベントがあるようで、多くの人が準備をしていました。

公園内を木曽川へ向かって進むと大きな句碑がありました。

TOO001

萬木句碑

『萬緑や 木曽川下る 水飛沫』 萬木

号は萬木、本名は大野伴睦(ともちか)、1890年(明治23) 岐阜県山県郡谷合村で生まれ、上京後は大正政変の暴動や加藤外相攻撃の演説を行ったことで逮捕されたこともありましたが、東京市議、衆議院議員として政治活動を行い、最終的には自民党副総裁に抜擢されています。義理人情に厚い性格から「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、大義大義と云えばよい」という戯れ歌でも知られたそうです。俳人としても知られており、没後の1966年(昭和41)に『大野万木句集』が出され、岐阜羽島駅近くには銅像も建立されています。

TOO001

水神碑

木曽川沿いには水神碑もありました。
太田橋の下をくぐり、化石林公園へむかい、太田の渡しの太田宿側から先ほど歩いてきた対岸を眺めてみます。

TOO001

太田の渡し

宿場の発展や水害により位置を変えてきた太田の渡し場は1927年(昭和2)太田橋が完成するまで利用されていました。
化石林公園から堤防を上り、堤防の上を550mほど進むと右手に一里塚の標柱があり、トイレや常夜灯などもあります。

TOO001

古井一里塚跡

中山道分間延絵図には、この位置には一里塚が描かれていないです。土田から太田へ渡し場が変わった後に出来たとは思いますが、分間延絵図は太田に変わってからの絵図ですが・・書き忘れたのでしょうか・・・
さらに堤防の上を150mほど進むと右手に「岡本一平終焉の地碑」があります。

TOO001

岡本一平終焉の地碑

漫画に解説文を入れる漫画漫文で大正から昭和にかけて一斉を風靡した人物です。 疎開後も生活していたこの地で死去しました。妻は小説家の岡本かの子、長男は芸術家の岡本太郎です。「糸遊庵」と呼んでいた住宅は解体されましたが、太田宿に解体部材を使用して再建されています。
すぐ先から堤防を下り、右へ曲がると「神明堂」交差点へ出ます。太田宿は交差点を左へ曲がりますが、その前に右へ曲がり50m先の「飛騨街道道標」へ向かいます。

TOO001

飛騨街道道標

「右東京善光寺 左飛騨高山」と彫られています。名古屋の篤志家、伊藤萬蔵が1893年(明治26)に建立しました。
神明堂交差点へ戻ります。中山道分間延絵図によると神明堂交差点付近には「神明」があったのですが、どこへ行ってしまったのでしょうか・・

神明水神公園手前から左手へ入ると石仏群があり、その奥に出雲大社がありました。

TOO001

石仏群

水神・御嶽神社・秋葉神社・神明神社・天満神社の石碑があります。ここにある神明神社が「神明堂」のことなのでしょうか?
TOO001

出雲大社

新しく、綺麗な神社です。とっても小さいです。最近建立されたものでしょうか。

中山道へ戻り、130mほど進むと左手に大きな題目碑があり、その先130m左手に「新町木戸門跡」の標柱があります。

TOO001

題目碑

馬頭観音も寄り添っており、1816年(文化13)建立、願主 太田宿平川◯蔵、古井村地主 ◯野角兵衛と彫られています。
TOO001

新町木戸門跡

この場所には往時木戸がありました。太田宿は当初、上町・中町・下町と分かれており、新町は江戸時代後期に成立しました。

新町木戸門跡より太田宿へ入りっていきます。200mほど進むと左手に「太田稲荷」があり、そのとなりが祐泉寺です。太田稲荷の奥へ入っていくと「播隆上人墓」、「播隆上人歌碑」、「播隆碑」、「志賀重昂墓」が並んでいます。

TOO001

太田稲荷

1850年(嘉永3) 京都伏見稲荷大社より勧請されました。以前は祐泉寺境内にありましたが、1989年(平成元)の改修により現在地に移されました。
TOO001

播隆上人墓・歌碑・播隆碑

墓碑には「暁道播隆大和上」と刻まれ、1840年(天保11) 建立。

播隆上人

播隆上人は1786年(天明6)現在の富山県上新川郡大山町河内に生まれました。10代の頃に出家し念仏行者として各地で布教活動を行い、飛騨の上宝村、伊吹山で修行、槍ヶ岳開山、笹ヶ岳の復興などを成し遂げました。 1840年(天保11)槍ヶ岳5回目の登頂後の帰路病に倒れ、太田宿脇本陣にて54歳で没しました。太田宿西の枡形にあった弥勒寺で葬られ、墓碑もそこにありましたが、弥勒寺が廃寺となったため現在地へ移されました。播隆上人の名号碑は八百津町に13基、御嵩町9基、兼山町7基、川辺町5基、美濃加茂町5基など計44基が確認されているようです。

歌碑には『世の人の恐れ 憚る槍の穂も やがて登らん われに始めて』と刻まれ、1828年(文政11)播隆上人が42歳で初めて槍ヶ岳に登頂した時に詠んだ句が記されています。 播隆碑には、六字名号と「念仏講中十万施主」が刻まれています。1834年(天保5)建立。

TOO001

志賀重昂墓

地理学者で、「日本風景論」はロングセラーとして知られています。大正時代に木曽川の「日本ライン」、「恵那峡」を命名、評論家、政治家としても活躍しました。

日本ライン

飛騨川の合流点から犬山までの木曽川13kmの流れが「日本ライン」と呼ばれています。秩父古生層が侵食により奇岩・怪石をつくり景勝地となっています。志賀重昂は1994年(大正3)に船で木曽川を下り、「誠に是れ一幅ラインの縮図」として紹介し、「日本ライン」の名が生まれました。後に日本八景の一つに選ばれ1964年(昭和39)国定公園に指定されました。

TOO001

上町枡形と旧輪島屋

輪島屋骨董店は1835年(天保6)の創業と案内がでていました。

TOO001

天王

祐泉寺の門前に天王が祀られています。この天王は中山道分間延絵図で祐泉寺の向かいに鎮座していた天王だと思います。
TOO001

祐泉寺

1474年(文明6)、土岐源氏・土岐頼政の次男、東陽英朝(大道真源禅師)が開創、当初は湧泉庵と称していました。東陽英朝は京都南禅寺で修行し、美濃国新加納の少林寺、八百津の大仙寺を開き、学識や修行に特にすぐれた僧侶でした。

1504年〜1521年(永正年間)には八百津の大仙寺の末寺となり、祐川庵に改称、1661年〜1673年(寛文年間)には関の梅龍寺末寺の祐川寺となりました。

TOO001

祐泉寺滝湯観音堂

東陽英朝が霊夢により木曽川から引き上げたと伝わる観音像が祀られ、火難・水難から守られるとされます。 1643年(寛永20)鋳造の観音堂にかかる鰐口には「岐阜職人藤原〇〇長蔵作 本願人 福田次郎左衛門」と本陣福田氏の名が見られるそうです。観音堂は以前、祐泉寺の向かいにあったようですが、移動したようです。

TOO001

北原白秋歌碑と坪内逍遥歌碑

『細葉樫 秋雨ふれり うち見やる 石灯籠の青ごけのいろ』

北原白秋が「日本八景」の木曽川を書くために、今は廃業された望川楼に宿泊した朝、西隣の祐泉寺に立ち寄った際にその場で書かれた句です。
『山椿 さけるを見れば いにしへを 幼きときを 神の代をおもふ』 『この木の実 ふりにし事し しのばれて 山椿ばな いとなつかしも』の2種が刻まれています。 坪内逍遥が1919年(大正8)に夫婦で故郷を訪れた際に祐泉寺が色紙に書いてもらったものです。

坪内逍遥

1859年(安政6)尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末っ子として生まれました。幼少の頃は書や絵が好きで、「未(ひつじ)生まれの紙食い虫」と家族から呼ばれていたそうです。逍遥が美濃加茂で過ごしたのは10歳までで、1869年(明治2)父の引退に伴い、名古屋へ移り住み風雅な中京文化の感化を受けて育ちました。 18歳で上京、1883年(明治16)大学を卒業すると文学論「小説神髄」や「当世書生気質」などを発刊し、また演劇、歌舞伎、児童劇、近代文学の指導・研究にあたりました。1891年(明治24)からは「シェークスピヤ全集」の完訳と刊行に取り掛かり、20年かけて成し遂げました。 妻のセンは東京根津の元娼妓花紫でしたが、学生の頃から通い詰めて結婚まで至ったそうです。

TOO001

明治初期の祐泉寺

明治初期には木曽川べりまでが境内だったようですが、1983年(昭和58)における水害後の堤防完成に伴い祐泉寺の敷地は形を変え、現在の姿になりました。

TOO001

芭蕉句碑

『春なれや 名もなき山の 朝霞』

側面には「林冬甫建立」と刻まれています。
TOO001

祐泉寺

寺の正面が木曽川側であるのが、土田の渡しがあった頃の名残でしょう。土田の渡しは祐泉寺付近に渡っていたとされます。

祐泉寺の西隣が「小松屋」で、街道を挟んだ向かいが「十六銀行旧太田支店」です。

TOO001

小松屋

「小松屋」の屋号で旅籠を営んでいた吉田家の建物です。現在はお休み処として開放されています。

TOO001

十六銀行旧太田支店

十六銀行太田支店として1907年(明治40)建築されました。土蔵造りの堅牢な建物で、現在も金庫などが残されているそうです。その後、1965年(昭和40)まで銀行として使われ、この付近が経済的な中心地だったことがわかります。
TOO001

太田宿の町並み

太田宿は1843年(天保14)の記録では、家数118軒、上町・中町・下町と分かれていました。中町に本陣と脇本陣が1軒ずつ、問屋3軒、旅籠は20軒ありました。川留などで旅籠が溢れた場合には寺が代用されました。

古い町並みが残っている太田宿を進んでいくと右手には「御代桜醸造」の建物。街道に面しているのは小さいですが、奥までずっと続いており、東西を結ぶ渡り廊下もありました。

TOO001

御代桜醸造

創業家の先祖は、愛知県津島市からこの地へ移り住み、「津島屋」という団子茶屋を営んでいましたが、1893年(明治26)に渡辺酒造場として造り酒屋を営みはじめました。現在は「御代櫻」や屋号の「津島屋」という銘柄のお酒が造られています。
御代桜醸造の向かいが「太田宿脇本陣」、脇本陣のすぐ先右手が「太田宿本陣」があります。

TOO001

太田宿脇本陣

脇本陣は庄屋・問屋を兼ねて林家が世襲し、また尾張藩勘定所の御用達も務めていました。家業は質屋や味噌・溜の製造販売などをしていたそうです。主屋は1769年(明和6)の建築で、大卯建があがります。1804年(享和4)の図面では土蔵が10棟もありましたが、現在は2棟が残されています。 表門は徳川家定が将軍になる前の最初の正室として迎えた鷹司任子(有姫)が降嫁する際の1831年(天保2)に建築したと言われます。

1882年(明治15)自由党総理の板垣退助が岐阜で暴漢に襲われる前日にここへ宿泊していました。

主屋も部分的に補修されていますが、当時の状態がよく残り、1971年(昭和46)に国の重要文化財に指定されました。

林家からは明治時代から大正時代に政治家として尽力した林小一郎代議士を輩出しています。 西隣は隠居家で、1829年(文政9)頃に建築されたものと考えられています。主屋の見学には事前予約が必要とのことですが、隠居家は常時見学できます。

本陣は残念ながら建て直されていますが、敷地内に「天狗党武田耕雲斉句碑」、「本陣門」などが公開されています。

TOO001

天狗党武田耕雲斉句碑

『武士(もののふ)の思ひこめにし梓弓 ひきつめてこそ何たゆむべき』

幕末に尊皇攘夷を唱えた水戸藩の藩士集団を「天狗党」といいました。1864年(元治元)筑波山で藤田東湖の子、藤田小四郎を中心に挙兵し、一部が放火や略奪など暴徒化したため、水戸藩の元家老であった武田耕雲斎が総大将となり略奪などを禁じ、軍規を定め京都への進軍を始めます。中山道を西へ進み信濃から美濃へ入り、太田宿まで進みました。
太田宿本陣、福田太郎八(幸周)は率先して家に迎え入れ、手厚くもてなしたとされ、武田耕雲斎は、記念として自らが愛用した兜を寄贈しました。現在もこの兜は大切に残されているそうです。

TOO001

太田宿本陣跡

代々、福田太郎八家が世襲し庄屋も兼務していました。明治時代に太田町役場として使用されたため主屋は建て替えられています。 1861年(文久元)皇女和宮が徳川家茂へ嫁ぐ際に太田宿本陣へ宿泊されることとなり、新築された門が残されています。往時、非常の際には裏口から藪を通って脱出できるようになっていました。

本陣福田家には、江戸時代の飛騨街道道標が残っているとされます。「・・・蔵菩薩 左川辺道 宝永六丑立」と刻まれているそうですが、お庭には入ることができないので、確認できませんでした。

江戸時代後期の十八代当主の福田太郎八(幸周)は太郎洞池、加賀池、矢田池、御手洗池などの灌漑用溜池を築造し、その費用は全て太郎八が用意したそうです。また貧民救済、土地の開拓、村内の青少年の教育に尽力するなど名望家として知られています。太田宿から北西に2kmほど、美濃加茂市西町8丁目には、彼を祀った「太郎八神社」が建立されています。

本陣の向かい側には中山道会館が整備されています。休憩スペースや展示スペースなどあります。この敷地の中央にエノキの大木があります。その奥には「糸遊庵」が再建されています。

TOO001

エノキとヤドリギ

大きなエノキの木に鳥の巣のような緑の小枝があり、これが「ヤドリギ」です。ヤドリギは大地に根を張らずにエノキに寄生しています。ヤドリギの実は果肉に粘性があり、それを食べた鳥はネバネバした長い糸状のフンがでて、この時にヤドリギの種もフンと一緒に樹の枝に付着し発芽するそうです。自然界の仕組みって面白いですね。

TOO001

糸遊庵と岡本一平歌碑

近代漫画の祖として知られる岡本一平と家族は1945年(昭和20)戦火を逃れて加茂郡白川町三川に疎開し、1946年(昭和21)に美濃加茂市古井町下吉井へ転居しましたが、わずか2年後の1948年(昭和23)に脳溢血で亡くなりました。

『木曽川と 枕を並べ 昼寝かな』『秋晴れや 映画の景色 行くここち』(絶筆)

TOO001

木曽川

中山道会館を通り抜け、木曽川沿いに出て西へ向かうと水神が祀られ、そのすぐ先に川並番所跡の案内板があります。

TOO001

水神と川並番所跡

江戸時代、木曽川を支配・管理するために尾張藩が設置した番所跡です。船積荷物改や筏川下げ管理、流木の取締をおこなっていました。1665年(寛文5)には手代1名、足軽1名が常駐していたとされます。

川並番所跡から北へ向かい、中山道へ戻り再び西へ進みます。130mほど右手の西福寺参道脇に高札場跡の案内板と関道道標があります。

TOO001

高札場跡と関道道標

「右関・土有知 左西京・伊勢道」と刻まれています。ここは郡上街道とつながる「関道」と呼ばれた道との分岐点でした。伊藤萬蔵が1892年(明治25)建立しました。伊藤萬蔵は明治・大正期に多くの石像物を寄進していた篤志家で、全国に475基が確認されています。

TOO001

西福寺

1484年(文明26)の『如光弟子帳』に記される正法寺の末々道場が太田に存在しており、この道場に由来するものと考えられますが、明確ではないそうです。本山東本願寺からの下賜物の年記によれば、以前からの道場が1625年(寛永2)に寺院に昇格したものとされます。 西福寺の門は元本陣にあったもう一つの門であったとされます。

道標のある辻を左へ曲がります。太田宿西の枡形です。すぐ先右手に「庚申堂」があり、その先再び枡形になりますが、その左手に弥勒寺がありました。

TOO001

庚申堂

中山道分間延絵図には「庚申」とその斜め後ろに「鳩小屋」と記載されています。庚申堂は往時から存在していました。「鳩小屋」が気になりますが、現在はないようです。小さな秋葉様も祀られています。

TOO001

弥勒寺跡

1845年(弘化2)の「加茂郡太田村家並絵図」には弥勒寺が描かれています。天保年間(1831〜1845)には祐泉寺9世海音和尚が隠居していたともされます。
1850年(嘉永3)に脇本陣林市左衛門が娘の宝林尼のために尼寺として再興しましたが、明治時代に廃寺となりました。播隆上人は弥勒寺で葬られましたが、廃寺となった際に祐泉寺に墓碑を移しました。

枡形に建っているマンションの名前が「カーザ・桝形」・・ちょっと笑えました。

枡形を右折し、国道41号線の高架下をくぐると太田宿西の出口に「虚空蔵堂」があります。

TOO001

虚空蔵堂

虚空蔵堂の付近には「是より左 京道」という道標があったとのことですが、見当たりませんでした。

常夜灯は1773年(安永2)の銘があります。

承久の乱古戦場跡

1221年(承久3)の承久の乱木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と北条義時率いる鎌倉幕府軍が木曽川を挟んで戦いました。このあたりが戦場の北端であったとされます。朝廷が武士に敗北した唯一の戦いで、これにより武士を中心にした政治が明治維新までの650年間続くことになった決定的な戦いです。敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流されました。大井戸の渡し付近が鎌倉幕府軍と朝廷軍の戦場になりました。

TOO001

坪内逍遥ゆかりのムクノキ

逍遥は1919年(大正8)61歳で虚空蔵堂を訪れ、「やま椿さけるを見ればふるさとを幼きときを神の代をおもか」と詠んでいます。幼少の頃、ここで椿の実で遊んでいたといいます。「ゆかりのムクノキ」と紹介されていますが、椿のほうが縁がありそうです。
虚空蔵堂の前を通過し、太田小学校が「太田代官所跡」になります。

TOO001

太田代官所跡

尾張藩は1782年(天明2)に現在の太田小学校に太田代官所が置かれました。代官所の役人は代官の他、手代や同心など10名ほどで、その屋敷は代官所に隣接して建てられていました。
11:40 太田小学校前に「あい愛バス」のバス停があります。本日はここまでにして、午後は明智城へ行きたいので美濃太田駅へバスで戻ります。 あい愛バスは小さなワゴン車ですが、100円と破格の価格で乗ることができます。結構、地元の人が乗っていましたが、なんとか座席は残っていて、乗り込むことができました。

11:59 のバスに乗り込み、12:05 には美濃太田駅へ到着しました。

TOO001

坪内逍遥銅像

美濃太田駅の駅前ターミナルに坪内逍遥の銅像がありました。
車をピックアップし、午後は明智城へ行ってみます。本日は美濃太田駅前の『ルートイン美濃加茂』へ宿泊します。