広大な関東平野を感じながら歩く。オススメは「豆ごぜん」

2018年11月24日

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8:00 深谷駅前のホテルを出て出発します。今日も快晴です。

小林商店

小林富次郎商店として1910年(明治43)創業。レンガの蔵は1912年(大正元)の建築で、砂糖や乾物の貯蔵をしていたそうです。隣の3階建て洋館は、1927年(昭和2)の建築。 木造らしいので、木造にモルタルを化粧しているのでしょう。

深谷一里塚跡

案内も何もないですが、このあたり・・でしょうか。八百屋彦七右屋敷にあったようです。

深谷宿本陣跡

江戸中期、田中家から飯島家へ本陣が移りました。印刷所の裏に上段の間などが残されているそうです。今でも飯島家が住んでおられるのがすごいですね。

七ツ梅酒造跡地

江戸時代から300年以上続いた田中藤左衛門の酒蔵の跡で、「七ツ梅」はお酒の銘柄でした。

中に入るとタイムスリップしたようですね。

居酒屋さんや喫茶、古本屋などの店舗もあります。ドラマ、映画の撮影などでも使用されるそうです。

深谷シネマ

七ツ梅酒造の酒蔵を改装した映画館です。客席57席の街の小さな映画館ですが、とても綺麗に改装されていますね。映画を見て、七ツ梅の居酒屋や喫茶店でくつろぐ・・そんな光景があるようです。 映画館はボランティアで運営されているそうです。

糸屋製菓店

明治41年創業の老舗製菓店です。深谷のお土産といえばココという感じだそうで、一つ一つ丁寧に家伝の手作りにこだわってらっしゃるようです。

滝澤酒造

1863年(文久3)創業ですが、この地に移転したのは1897年(明治30)のようです。予約が必要ですが、蔵見学もできるそうです。仕込蔵は、江戸時代に建てられたといいます。滝澤酒造さんが移転してくる前からあった蔵、ということでしょうか。
「菊泉」は全国新酒鑑評会で何度も金賞を取っている名酒です。深谷煉瓦で作られた煙突は、1931年(昭和6)の地震で先端が崩れたものの現在でも現役だそうです。

呑龍院の石仏

呑龍院は、太田市の「大光院」の呑龍さんが深谷へ来て建立したお寺です。2、3年、ここで教えを説いていたそうで、呑龍上人の木像が安置されているそうです。

深谷宿 西の常夜灯

1840年(天保11)、富士講の人々が建造しました。高さ4mで、中山道の中でも最大級の常夜灯だそう。

呑龍院の鐘楼

清心寺

1549年(天文18)深谷上杉氏の家老岡谷清英が玄仙和尚を招いて開祖としました。

平忠度供養塔

12世紀、源平一の谷の戦いで岡部六弥太忠澄が平氏きっての知勇に優れた平忠度を撃ち、その菩提を弔うため、忠澄の領地の中で一番景色のよいこの地に五輪塔を建てました。

萱場稲荷神社

瀧宮神社

1496年(明応5)、この地が大干ばつに襲われ、領民は大変苦しみました。重臣、香丹は水源地として掘ったところ、滝のように水が噴出し大きな池になったそうです。1498年(明応7)に社殿を建てて、神社として祀ったということです。

当時の池の大きさは百坪余り(330m2)、深さ丈余り(3m2cm)、ひょうたん池、あるいは御手洗池と呼ばれたそうです。現在はたまり水のようで、残念ながら湧水はないようですね。

正明寺

参道には、二十二夜塔などの石碑が建立されています。

滝沢漬物

向かいは、菊池漬物になります。深谷市は関東一の漬物処です。

深谷の漬物

昭和30年代、練馬で作られていた練馬大根が都市化の波で深谷へ産地が移っていき、たくあん作りが盛んになりました。最盛期の昭和50年代には漬物業者が80軒もあったそうです。現在でもこの岡部を中心に35軒が営業しているようです。

源勝院

1590年(天正18)、家康の関東入国に伴い初代安部弥一郎信勝に岡部領が与えられ、人見村(現深谷市)の昌福寺の和尚を招き、開祖しました。

門の右側にあるのは、明治天皇小休所跡石碑。昨日見た深谷の小休所跡から次に休憩された場所です。

岡部藩主歴代の墓

2代信盛から13代信賓までの墓碑がずらーっと世代順に並んでいます。初代、信勝は大阪城詰所で亡くなり、大阪の鳳林寺に葬られています。

高島秋帆幽囚の地(岡部藩陣屋跡)

1798年(寛政10)、長崎で生まれ広く蘭学を修めオランダ人より砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始しました。幕府に砲術を紹介し、重臣に西洋式砲術を教えましたが、中傷により投獄され、岡部藩預かりの身となります。岡部藩陣屋の一角に囚帆されました。1853年(嘉永6)ペリー来航と共に幕府は近代兵学が必要となり急遽赦免し砲術方教授となります。高島秋帆は、日本の西洋式兵学の先駆者です。

深谷ねぎ

普済寺

普済寺には、岡部六弥太墓があり、岡部忠澄が植えたと伝えられています。かやの木の下に平忠度歌碑なども残っています。

岡部藩石標

「武州榛沢郡岡部」と彫られています。

空っ風対策のための高生垣がある家が多いですね。

食い違い土手

岡部藩は境界に桝形を設け土塁を築き、8間(14.5m)の道幅を作りました。現在でも広い道幅が東南に1.7kmほど残っています。

芭蕉雲雀塚

『原中や 物にもつかず 鳴雲雀』1687年(貞享4)、芭蕉44歳の時の句です。広い原の中のひばり、何物にも束縛されないひばりを表現した一句です。

岡部の原

岡部の原は、清流に富み、田園が広がり遠くの浅間山噴煙、男体山の白雲を眺め、赤城、榛名、妙義の三山は、すぐそこに見える。春にひばりの声が素晴らしく、地名にちなみ、「砂田の雲雀」と言われたほどでした。こうした光景に思いをはせて芭蕉のこの句を刻んだようです。確かに周りを見渡せば、原中ではないけれど、遠くに山々が薄っすら見えますね。ちなみに赤城、榛名、妙義の三山は昔登りました。

耕地整理記念碑

周囲に耕地はありませんが、地図を見ると北東に50mほど入ると小山川を挟んで広大な農地が広がっています。このあたりも以前は耕地だったのでしょう。

岡部一里塚跡

このあたりらしいのですが、案内は全くありません。

島護産泰神社

「しまもりさんたいじんじゃ」と読みます。創建は不明です。この地は利根川の氾濫にたびたびあいます。南西島、北西島、横瀬、中瀬などの地名をもつ「四瀬八島」を氾濫からの被害から守護を受けるため「島護」と称したようであり、安産の神様として信仰する人が多く、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名です。

岡部一里塚より移設された石碑は島護産泰神社にあります。

トイレによるために中山道を外れ、「中宿歴史公園」へ向かいます。

中宿古代倉庫群跡

この復元倉庫は、平成3年の発掘調査により発見された16棟の建物跡のうち、最も規模の大きい1号棟、2号棟建物を復元したものです。1号棟は校倉(あぜくら)造り、変形六角形の木材を積み重ねたもので、2号棟は板倉造り、当時一般的に用いられた工法で、柱の間に板を落とし込み、壁を造ります。東大寺正倉院もこの2つの工法を用いて建てられているそうです。

大忍国仙禅師遺芳

国仙(こくせん)和尚は、江戸時代の僧で武蔵国岡村で生まれました。おそらくこのあたりの地名が「深谷市岡」ですから、このあたりが出身地なので建てた碑なのでしょう。国仙和尚は、修業の後玉島円通寺(岡山県)の10代住職となります。若き日の良寛さんは、この国仙和尚について円通寺で修行に励みました。

全昌寺

1587年(天正15)創建。岡部陣屋敷の長屋門が脇門として移築されています。正面門から向かって左側にあります。古銭碑もあります。

岡部消防組 第一部と書いてあります。消防倉庫でしょうか。レトロモダンで素敵です。

浅間大神(深谷市岡)

浅間大神の文字の上に富士山の形が彫られています。富士講が建てたものでしょうか。

中山道古道碑

馬頭尊と共に古道の碑があります。大名行列が行き交った旧道を正確に後世へ伝えるため平成23年に岡部の方々によりこの碑が建てられました。馬頭尊はもっと古いものだと思われます。

村社寅稲荷神社

・・・とありまずが、どこに稲荷神社あるのかな?地図で探したところ、ここから300mほど西にありました。少し離れているため、寄らずにここで右に曲がります。

豊見坂の百庚申

1860年(万延元)の庚申の年に関の有志13人により計画され建立されました。元々この場所には1716年(享保元)に造られた庚申塔、二十二夜待塔、馬頭観音がありました。万延元年には桜田門外の変や黒船来航など民衆には漠然とした生活の不安もあり、庚申の年と重なり、百庚申が建立されたと言われています。
国道17号を渡ると景色が一変します。広大な関東平野を感じられます。考えてみれば、都内の清水坂からずっと坂らしい坂ってないですね。

稲垣一等卒殉烈紀念碑

大正4年、高崎15連隊の軍事演習で溺れかけた少尉を助けようとして濁流に飲み込まれた稲垣一等兵の行為を称えるために建立されたようです。小山川、右岸堤防裏にも殉烈紀念碑があるようです。

滝岡橋

小山川に架かる橋です。江戸時代には、水量、川幅によって仮橋を架けたり、渡し船だったり・・1901年になると木橋が架けられ、1928年(昭和3)に鋼製8連桁橋の滝岡橋が完成しました。側面を曲線状につくり、イギリス積みレンガが施されています。レンガは深谷の日本煉瓦製造のものです。国の有形文化財であり、日本の近代土木遺産の一つです。

無縁供養塔

1852年(嘉永5)の建立。中山道筋にあるということは、行き倒れなどを供養したものでしょうか。あるいは、小山川の氾濫による死者を供養するためのものでしょうか。

庚申塔道標

電柱で見ずらく、窮屈そうです。秩父青石で彫られた庚申塔道標です。1737年(元文2)建立。読みずらいですが、「左中山道」と彫ってあります。

双体道祖神(本庄市牧西)

中山道で初めて双体道祖神に出会えました。だいぶ石が風化してきて表情などはわかりませんが、手に手を取り合っていますね。

八幡大神社

1195年に児玉党の一族、牧西四郎広末が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し祀ったものです。1471年(文明3)五十子合戦の兵火で消失し、廃社となっていましたが、1612年頃信州の依田五郎左衛門がこの地へ在住し再興しました。依田氏は後に姓を宮崎と改めました。奉納の宮崎神楽は市の指定文化財となっています。

宝珠寺

開祖開山年代は不詳ですが、1649年(慶安2)には、三代将軍家光より十石を賜っています。1790年(寛政2)に村内の火災によって消失、現在の本堂は1819年(文政2)建立。また、元和3年、家康のご遺体を久能山より日光へ移す道中、ここで休憩したと伝えられています。

浅間大神

秩父青石で作られています。富士山を信仰する富士講は江戸時代に爆発的に流行したそうです。石碑には「鳥帽子岩」「食行身禄」(じきぎょうみろく)と彫られています。食行身禄という人は、救済のため鳥帽子岩で断食入定を行い、1ヵ月後に絶命します。江戸にその知らせが届くと富士八百八講といわれるように、爆発的に講の結成が行われるようになったそうです。そういったものの一つではないでしょうか。

子育て地蔵

お地蔵様とともに賽神、庚申塔などが並んでいます。(本庄市牧西)

長屋門(内野家)

助郷に使用した長屋門です。内野家は、傍示堂村の名主で塙保己一(はなわほきいち)を旗本永島家に紹介し、江戸に出るきっかけを作りました。長屋門の建築年代は不明だそうですが、明治時代に火災に会いましたが修理をして今日に至っているそうです。

塙保己一

7歳で失明し、盲目のハンディを抱えましたが、666冊の「群書類従」を編纂・刊行しました。和学講談所を設立、運営した国学者です。本庄市には記念館や生家が保存されています。

傍示堂天王祠

傍示とは境界を示すことを意味していて、街道の分岐点に堂を建立し、街道の傍示としたことに村名が由来します。1615年に中山道が整備されるまでは深谷方面から来た大名などは、傍示堂村から本庄宿ではなく、北西に分岐する街道(玉村町五料方面)へ進んだそうです。このあたりには茶屋が4軒ありました。

傍示堂一里塚跡

何も案内はありませんが、コンクリート工場のあたりだったということです。

三界満霊塔

(本庄氏諏訪町) 三界とは、無色界(色を持たない世界、精神的世界)、色界、欲界の3つを指し、三界を超越したところに仏様の世界があるという考えです。こうした路傍にあるのは、多くの人に供養を受けやすいからでしょう。

御堂坂の庚申塚

1828年(文政11)、武州中瀬(現深谷市)の松五郎が賭博で捕らえられ、佐渡渡しとなります。佐渡へ護送される途中、一行がこの庚申塚に潜み、待ち構えていました。松五郎の仲間の牧西村の勇吉ら数人が籠を襲撃し、松五郎を救い出し、逃走します。1ヵ月後に全員捕らえられ、刑に処せられます。勇吉は本庄宿で磔となりました。

板金屋さんのようですが、シンボリックな建物ですね。

城山稲荷神社、本庄城跡入口

本庄城跡

1556年(弘治2)、本庄宮内少輔実忠により築城されました。本庄氏は山内上杉氏に属しましたが、1567年(永禄10)に後北条氏に攻められ落城し、後北条氏に服します。更に後の1590年(天正18)秀吉の関東攻めにより落城します。家康の関東入国に伴い、小笠原信嶺が城主となりますが、1612年(慶長17)に廃されました。

ほんじょうかるた

昭和59年、本庄市の小中学校生、市民の協力によって作られたカルタを観光名所・史跡などに配置されています。本庄市の子供たち、今でもこのカルタで遊んでいるのかな。

城山稲荷神社

1556年(弘治2)本庄宮内少輔実忠が本庄城の守護神として西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斉したそうです。現在の社殿は、1844年(天保15)に再建したものです。

社殿前のこのケヤキは本庄城築城の際に植えられたとされ、樹齢400年と推定されています。中が空洞化しており、コールタールを塗られ腐食を防いでいるものの痛々しいです。

城山稲荷神社のヤブツバキ

西本庄から椿稲荷を移したことにちなんで植えられたそうです。目通1.2mもあるということです。

城下公園のたこさん

こういう遊具、まだあったんですね〜横浜にはもうほとんどないですね。楽しそう!!公園にはトイレもありましたが、有難いですが、少々古いですね。

本庄市役所

市役所は近代的です。

圓心寺

本庄城主、小笠原信之が母の菩提を弔うために1581年(天正9)に建立されたと伝えられますが、歴史的に矛盾が見られます。小笠原氏が当地に着任したのは、天正18年の秀吉による落城後。確かにおかしいですね。立派な三門は天明年間に建てられたものだそうで、2度の火災にあいましたが、山門だけは無事だったそうです。山門の中には仁王像が収まっています。

道路の片隅に三つの庚申塔が並んでいます。

田村本陣

何も案内はありませんでしたが、現在のりそな銀行あたりが本陣だったようです。建坪200坪。中山道でも屈指の本陣だったそうで、皇女和宮も1861年(文久元)に宿泊しました。

内田本陣跡

こちらも案内は全くないですが、足利銀行のあたりが内田本陣だったようです。本陣は、格式はありますが実際の経営は苦しく、江戸時代を通じて本陣2軒を維持できた宿場は、中山道では本庄・新町・松井田・塩田名の4宿のみだそうです。

共同井戸

明治初期に掘られた井戸で、水道が普及する昭和初期まで近隣、11家族が使用していたものを復元しているそうです。昔は、村のあちこちにこうした共同井戸があったのでしょうね。

本庄中町郵便局

秩父セメントの創始者であり、渋沢栄一郎の親戚でもある諸井恒平によって1934年(昭和9)に建設されました。1階が郵便業務、2階は電信電話業務用に作られ、木造タイル張りのモダンな局舎です。現在も本庄中町郵便局として現役として利用されているのに驚きます。裏には、諸井家住宅もあります。

本庄宿は古い蔵がたくさん残っています。町並みも古い家や商店が多く素敵です。

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

幕末頃より繭の集散地として繁栄した本庄。明治16年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹の街として益々繁栄しました。大量の繭は融資の担保とされ、繭を保管するために明治29年に建設されました。レンガは、日本煉瓦製造で作られたものが使用されています。

本庄・宮本 蔵の街(旧小森商店)

西ノ原を開拓した真塩氏が代々住んだ場所が一の蔵から三の蔵とその東側一帯です。穀物や醤油などを扱い、文化年間の一時は旅籠も経営していましたが、明治初期に没落し、何軒かの店が構えられました。明治末期には埼玉の地酒で有名な「力士」を販売する小森商店本庄支店が営業を開始しました。2010年(平成22)に小森商店が閉店となる際に建物と町並みを保存・活用する計画が実施され現在の形になっています。

二の蔵

二の蔵は、「ninokura」というカフェとして営業しています。

14:00 ちょうどお腹もペコペコ。入ってみることにしました。

椅子席、ソファー席など様々。足踏みミシン台などもテーブルとして活用していました。

かわいい作りですね。

メニュー

おすすめは「豆ごぜん」と「つみっこ膳」。つみっこはすいとんみたいなものですが、隣の席の方が注文していて、運ばれてくると「わ〜すごい〜」って喜んでいたのできっと素敵なお膳だと思います。

豆ごぜん ¥980円

え〜こんなに色々入っていて1000円以下なんてびっくりです。地元野菜を上手に調理したおかず。優しい味付けでほんとに美味しかったです。ご主人の人柄がお料理ににじみ出ています。

食後にコーヒーも注文いたしました。コーヒーも美味しいですし、ちょっとしたお菓子が添えられているのがうれしいですね。

素敵なお店に出会えてとっても嬉しくなりました。

金鑚神社(かなさなじんじゃ)

創建は541年。武蔵七党の1つである児玉党の氏神として建てられました。現在の本殿は1724年(享保9)、拝殿は1778年(安永7)の再建です。細部には見事な極彩色の彫刻が施されているそうです。

金鑚神社のクスノキ

目通6m、高さ30m、樹齢400年以上。本庄城主小笠原信嶺の孫忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられています。

平成の常夜灯

金鑚通り線の開通を記念して平成2年に設置された常夜灯です。

本庄宿は蔵や古い町並みもあり、美味しいカフェがあったり、楽しかったですね。

15:00 本庄宿をでて新町宿へと向かいます。