2019年7月14日

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11:40 和田峠より下諏訪へ下山して行きます。

TOO001 和田峠を過ぎると細かい石がたくさん、そして西坂が始まりますが、東坂と違い急に細い道となります。

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柳原清水

清水のそばには、苔に覆われたお地蔵様と思われる石仏。柳原清水のあたりから和田峠七曲りが始まり、細い道をくねくねと下りていきます。

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石小屋跡

七曲り途中にある石小屋は、和田峠の中でも急峻で特に難儀した場所であり、特に雪が降ると寒さに震える場所であったため、安政2年、下原村の名主らが旅人や物資輸送のため石小屋を建てました。街道に面した方は囲いがなく、それ以外の3方を石で囲んだものですが、風雪は防ぐことが出来ました。和宮通行の際には中に炉と椅子が設置され、利用されました。高さは2mほど、街道に面して30間(約55m)もあったそうです。

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和田峠より800m

200mごとに地元の人が整備して下さった案内が設置されています。少し開けた道に石畳らしきものが敷かれています。スピードアップして下りていきます。

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国道を横切り、再び旧中山道へ

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再び国道を横切ります。自動車事故があったようなガードレールの切り目から再び旧中山道へ

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道祖神を過ぎたあたりから開けてきます。奥には墓地が見えます。当時、西餅屋で暮らした人々のお墓でしょう。

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西餅屋跡

小口家(茶屋本陣)、武居家(武屋)、犬飼家(ひのや)、小松家(小松屋)の4軒があり、東餅屋と同じく幕府から扶養米が支給されていました。1864年(元治元)の和田嶺合戦のとき、高島藩の作戦により焼き払われましたが、すぐに復興資金が支給されています。

和田嶺合戦(樋橋戦争・和田峠の戦)

江戸末期、水戸藩で、藩主徳川斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷の急進派天狗党、「桜田門外の変」、「第1次東禅寺事件」、「坂下門外の変」などは水戸藩士が中心となって起こした事件です。1864年(元治元)、筑波山にて攘夷の実行を幕府に訴えるため挙兵します。しかし、幕府軍に追い詰められたため、当時京都にいた一橋慶喜をたより朝廷に直接尊王攘夷を訴えることにし、天狗党1000名余りが西を目指します。1864年(元治元年)11月に諏訪藩兵は松本藩兵と共同して中山道の和田峠で天狗党と交戦しましたが、敗北しています。島崎藤村『夜明け前より』には、和田嶺合戦の状況についても詳しく記されています。

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西餅屋の絵図

西餅屋は藩界にあたるため、口留番所が設けられていました。目的としては、凶作のときなどに藩内の米などの食料が藩外へ持ち出されることを阻止するためであったとされます。諏訪郡内には、享保年間で7か所、安政年間には11か所設けられていたといいます。竹屋は、歌人今井邦子の祖母で、祖母に短歌を習っています。

西餅茶屋のその後

明治になると和田峠の通行が下火となり代わりに農業のほかに養蚕に従事するようになります。しかし、明治30年頃には小松屋が移転し、明治35年、鉄道が塩尻まで開通した後の明治38年、茶屋本陣小口家が上諏訪へ移転、大正4年に犬飼家が下諏訪町へ、大正13年には最後まで1軒残っていた竹屋が移転し、西餅屋はその歴史を閉じました。

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西餅屋跡を過ぎるとすぐに一旦国道となり、再びガードレールの切れ目から急坂を下りて行きます。

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西餅屋一里塚跡

塚は無くなってしまいましたが、昭和57年に建立した碑があります。

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垂木岩新道

西餅屋から先の旧道は無くなっています。江戸時代には垂木岩懸橋があった場所で、現在は明治10年にできた「垂木岩新道」を通るしかありません。新道といっても、左手の崖を木材で土留めをし、斜面より張り出していて怖い道です。慎重に進まないと危険です。

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ミズヒキ

ミズヒキは特に珍しいものでもなく、日本中どこの山でも見られる多年草です。ミズヒキの名は祝儀袋の水引のことです。茎が細い直線の紐状で、そこに紅白の花が咲くことから水引に例えられています。葉にV字の模様が珍しいですが、模様のあるものとないものがあり、また模様の色も茶色いものや濃緑のものなど色々なのです。

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垂木坂を過ぎると国道へ出ます。

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暫く国道を進みますが、大型車も多く危険な国道です。轢かれないよう気をつけていかなくては。特に下ってくる車はもうスピードですので、右側の路肩のほうが少しは安全でしょうか。

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香炉岩

途中、中山道分間延絵図に描かれている「香炉岩」があるはずですが・・・和宮降嫁時には、怖がらないよう白い布で覆い隠したとか、落ちないよう紐で引っ張ったなど伝説も多いそうです。藤村藤村の「夜明け前」にも登場する香炉岩、天狗党通行時は、高島藩が鉄砲隊を香炉岩に待ち構えさせたといいます。壬戌紀行にも記載があり、『獅子の臥したる形ある岩』とあります。獅子が休んでいるような岩ということですが、樹木に覆われ全くわかりませんでした。冬になれば見える、との情報もありますが・・・?中山道分間延絵図には顕著に描かれています。

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浪人塚

天狗党と高島・松本藩連合軍が戦った和田嶺合戦において、水戸浪士14、5名、高島藩6名、松本藩4名の死者がでました。高島藩は、浪士を火葬した場所に塚を築いて霊を弔い、1870年(明治4)に塚を改築するにあたり、水戸に戦死者の名前を照会し6名を明らかにし、名を刻んだ碑を建立し供養をしています。

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念仏徳本碑・観音碑

浪人塚手前、写真右手の念仏徳本碑は、元々は石小屋を過ぎたあたりにあったものが移設されています。観音碑は、峠道の中央あり通行の邪魔になっていた大石を掘り出し、下諏訪の天龍道人の筆により碑としたものです。

天龍道人

肥前(佐賀県)鹿島出身で、明和の頃に下諏訪に住み着いたそうです。鹿島藩家老の板部堅忠の子とも言われています。諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号します。通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観とも言います。詩・書を好み、特に日本画においては鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とし、高く評価されています。1810年(文化7)、93歳、諏訪で亡くなりました。下諏訪町上久保にお墓があります。

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樋橋村案内図

1665年(寛文5)の家数は3戸、その後は7〜8戸となり、幕末の1861年には戸数16戸、このうち九戸が茶屋、一戸が本陣、六戸が農家でした。

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樋橋茶屋跡

樋橋・西餅屋は、同じ下原村でしたが、いつのころからか両方合わせて1村的な扱いを受けるようになっています。名主は、西餅屋茶屋本陣の金右衛門が務め、年寄りは西餅屋の犬飼家と樋橋の茶屋本陣小松家が務めていました。

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樋橋茶屋本陣跡碑

茶屋本陣は、小松屋嘉兵衛家が務めていました。上段の間は、別棟の「御殿」と呼ばれていました。西餅屋・樋橋は下諏訪宿より離れていたため、救護を目的とした宿泊のみ許されていました。
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延命地蔵尊堂跡

茶屋本陣の若者が80cmの地蔵を背負って全国を巡礼後、堂を建てて地蔵を安置しました。平成16年に地蔵が盗まれてしまい、堂は取り壊されました。現在は「見てござる」の碑が建っています。『村のはずれのお地蔵さんはいつもにこにこ見てござる』平成18年に盗まれたお地蔵さんを偲んで建てられたようです。「見てござる」は童謡?恐らく盗人に向けた唄でしょう。悪いことしてバレなくてもお天道様は見てるよと。(写真右の左奥の碑)

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国道から旧道へ入っていきます。

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樋橋一里塚碑

高さ2mぼどの一里塚碑があるとの案内があり、国道のリサイクルセンターより下りていきましたが、全く見つかりません・・・

■追記■

後日、北国街道を歩いた帰りに車で諏訪へ出てきたのでよってみました。ようやく見つけましたので、記載しておきます。 TOO001 リサイクルセンターの道をぐるーっと下り、右手に小さな木の「中山道」の看板。ここから旧道が残っているのですが、ここを入っていきます。草も生えていますし、右手に小さな小川があり、道はかなりぬかるんでいますので注意して進みます。100m〜120m程度進むと、右側に石碑が見つかりました。

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樋橋一里塚碑

ようやく見つけました。案内板には「復元した」とありますが、石碑があるだけのように見えます。この先は、道が続いはいないので、元の道に戻ります。
TOO001 道祖神を横目に坂を登り、木落とし坂へ

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模擬御柱

御柱祭に使用されるものと同じ樅(もみ)の木を設置してあります。樹齢150年の樅の木の大木です。御柱際は桓武天皇の頃より1000年以上も続けられているそうです。

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木落とし坂

諏訪大社の御柱祭は、7年ごとの申年、寅年に行われます。樅の巨木を奥山から切り出し、社の四隅に建てるのですが、巨木を運ぶ際にこの木落とし坂を豪快に落とすのが祭り最高の見どころです。この急坂を群がった男達と共に100mほど一気に滑り落とします。『男見るなら七年一度 諏訪の木落とし坂落とし』と唄われてきました。

上から見るとびっくりするような急勾配の坂です。これは怪我人でますね。

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石仏群

道祖神、馬頭観音などがずらりと並びます。

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芭蕉句碑

『雪ちるや穂屋のすすきの苅り残し』   穂屋とは、すすきの穂で葺いた屋根のことです。

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落合水力発電所

明治30年、東俣川、砥石川を水源としての水力発電所「諏訪電気株式会社」が設立されました。明治33年東川俣の電力60KWの落合発電所が竣工しました。明治36年には増設し電力120kwとなり、明治43年には落合発電所の機械を全て交換し、出力200kwとして100年たった現在でも電力を送り続けています。

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注連縄(しめがけ)

御柱祭が行われる寅と申の年、山から切り出した御柱を一列に並べ、注連縄をかけ、1ヶ月間休ませておく場所です。

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山之神

脇には小さな滝があります。通りかかった方が「中にはたくさんの石碑があるよ」と教えていただきましたが、もうあの階段を登る気力がありません・・

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道祖神・三十周年記念碑

何の三十周年であるのかわかりません。
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杉並木

国道から外れて細道へ入ってくると杉並木があります。この杉並木の向こうが諏訪大社 下社春宮になります。この入口からも下社へ行けるようです。

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お天気が良ければ左手の山の向こうに富士山が見えるようなのですが、どんよりしていて見えません。
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慈雲寺

大祝金刺満貞が、鎌倉五山の一つ建長寺住職一山一寧禅師を招いて1300年(正安2)に開山されました。武田信玄ゆかりの寺として知られています。天桂の松・大梵鐘・竜の口などの見所も多く、裏山には高島城を築いた豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉の墓もあります。

次回、塩尻へ向かう前にじっくりと回ってみます。

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下諏訪宿へ入ってきました。下諏訪宿には古い町並みが残っています。郷村名は、「湯之町」といい、綿の湯を中心にした宿場は、湯田町、横町、立町で構成されていました。旅籠には飯盛女も置かれ、中山道最大の難所を控え、また難所を越えてきた旅人で大変賑わった宿場です。

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下諏訪一里塚跡

塚はなく、石碑が建つのみです。下之原一里塚とも言うそうです。一里塚には元々は名前がありませんので、色々な呼び方が出来てしまいます。

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伏見屋邸

伏見屋邸は中村家が明治時代に商いを営んだ家で、屋号を「伏見屋」といったことから伏見屋邸と呼ばれています。1864年(元治元)の建築と推定される木造二階建ての旧商家を復元修理し、休憩や住民の交流の場として開設されています。
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御作田神社

諏訪大社の末社、下社の御作田祭(稲作植神事)は、毎年6月30日、この境内で行われます。この日植えられた稲は1ヶ月後の8月1日には諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ、「御作田の早稲」として諏訪七不思議の一つにあげられています。境内前には温泉と清水が流れています。

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番屋跡

江戸時代に消防、自警団の役割をしていた自身番の詰所のことで、市中の警備と交番の役割を担っていました。

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湯田坂

江戸時代の旅人も和田峠を越え、ホッとしながら諏訪の温泉で疲れを癒やしたことでしょう。江戸時代の下諏訪宿の旅籠には内湯はなく、3つの源泉の共同浴場に入っていました。旦過の湯、児の湯は現在でも利用されています。太田南畝(蜀山人)は西から東へ向かっていましたが、下諏訪で宿泊の際には「宿の向かいに温泉あり。宿のあるじ風呂たく労をはぶきて温泉に浴せしむ」とあり、外湯の温泉へ入ったと記されています。
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旦過の湯

もともと旦過の湯は、慈雲禅寺の修行僧の寮にあった野天風呂でした。下諏訪の他の湯よりも高温で傷や皮膚病にも効果があると言われています。今でも旦過の湯の高温湯を好み町内外から多くの人が訪れます。また、かつては朝夕に天秤棒を担いだ人々で賑わいました。ここから湯が自由に汲めるようになったため、給湯器などない時代は、家事などに使われ重宝したそうです。

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今井邦子文学館

かつて宿場の茶屋であった「松屋」を復元した建物は、今井邦子文学館となっています。今井邦子は幼少期と晩年を過ごしました。少女期に西餅屋の祖母に預けられ、祖母より短歌を手ほどきされたことが文学へ進むきっかけとなったそうです。アララギ派の女性短歌結社「明日香」の編集所としても使われた建物です。

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小松定衛先生謝恩の碑

明治13年に下諏訪町横町に生まれ、16歳で豊平小学校教師として赴任し、20年以上に渡り教鞭をとり、昭和46年に教え子が顕彰碑を建てたようです。こんなにも生徒に慕われ、幸せな先生ですね。

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児湯

和泉式部の伝説にまつわる銕焼地蔵尊(来迎寺)のご利益で湧き出したとも言われます。「小湯」は湯質が柔らかく、よく温まり「子宝に恵まれる」と広く知れわたり、子授けの名湯「児湯」と呼ばれるようになったそうです。戦後に涸れ、綿の湯から引いていると書いてあるサイトもありますが真偽はわかりません。

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岩波本陣

江戸時代を通じて上の問屋が務めました。日根野時代には裨田惣兵衛が10年ほど、1601年(慶長6)から1688年(元禄元)までの88年を小口弥右衛門が務め、その後幕末までを岩波太左衛門が務めました。1800年(寛政12)の記録によると建坪は277坪、門構え、玄関を有していました。和宮が宿泊し、明治13年には明治天皇巡幸の際の小休所となりました。

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綿の湯・上の問屋場跡

綿の湯は、古くからある3つの源泉の一つですが、今は営業をしていませんが、かめやさんは綿の湯から温泉を引いています。この場所も元々は、問屋を兼ねた本陣の敷地でした。

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木曽路名所図会「諏訪温泉」

中央の帳簿に文字を書いている人がいて駕籠を留めている場所が問屋場です。左上が下の問屋、左下が脇本陣丸屋、右上が本陣です。綿の湯に入る人々も描かれています。江戸時代の入浴は奔放ですね。街道から丸見えの綿の湯があり、裸のまま体を拭いている人など描かれていて、じっくり見るとなかなか楽しいです。

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甲州道中 中山道合流之地

正面より合流してくる甲州道、宿場の中心地がこの場所になります。

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17:00 ようやく本日の宿泊地、「下諏訪温泉 聴泉閣かめや」へ到着しました。なんと9時間30分ほどかかりました。なんてノロノロなのでしょう!朝早く出発したので暗くなる前に到着しましたが、朝、のんびりしていたら大変なことになっていたでしょう。
もうくたくたのボロボロです。雨の和田峠越えは本当に大変でした。万治の石仏や諏訪大社へ寄る時間も体力もなく・・・寄り道が全く出来ませんでした。次回、下諏訪探訪を1日設けてから塩尻へ出発しようと思います。