妙義山を望み、横川、碓氷関所を経て刎石山の麓の宿場へ

2019年3月31日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
13:00 松井田宿をあとに坂本宿へ向かいます。

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安中市松井田商工会・吉田喜代司顕彰碑

群馬県技師の設計により1939年(昭和14)に松井田警察署として建てられ、帝冠様式(和洋折衷の建築様式)の格調ある佇まいに目を惹かれます。 松井田商工会の設立にあたって尽力し、初代会長を務めた吉田喜代司の顕彰碑には、成績優秀であるがゆえ資産家の女婿になり、印刷会社の社長となり、碓井信用組合の設立に尽力したことなどが書かれています。書は福田赳夫元総理のようです。

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中山道新堀・金井家

中山道分間延絵図や調度品などを展示しているようです。入場料200円で日曜日のみ開館。

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庚申塔・道路改修碑

補陀寺東の石仏群。その向こうには補陀寺の墓所が広がります。

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双体道祖神

補陀寺東の双体道祖神には、1778年(安永7)と刻まれています。二つとも手に手を取り合った仲良しの双体道祖神です。
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補陀寺

室町時代、応永年間(1394-1428)に無極慧徹禅師が開山し、創建されたとされます。歴代の領主である安中氏、武田氏から庇護され、1582年(天正10)からは松井田城主となった大道寺駿河守政繁が補陀寺を自らの居館としました。

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大道寺政繁の墓

江戸時代、松井田城を攻めた加賀前田藩の参勤交代の大名行列が通ると大道寺政繁の墓は悔しさの汗をかいたという逸話が寺へ残されています。

大道寺政繁

大道寺駿河守政繁は、北条氏の宿老として松井田・川越の両城主でした。政繁は1533年(天文2)武川にて生まれ、若年より北条氏に仕え、鎌倉代官や川越城主を歴任、手腕、能力、人格とも高く評価され、北条氏の中枢を担う臣でした。1582年(天正10)滝川一益との神流川決戦では大功を立て、松井田城主となります。天正18年の秀吉による小田原攻めにより北条氏は降伏し、切腹しました。

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補陀寺の鐘楼

補陀寺は松井田城の南端にあたります。補陀寺北側の山一帯が松井田城であったようです。東と西の2つの郭があり、東は御殿山を中心に安中郭と呼び、現在はパイパスで分断されてしまっていますが、尾根ついたに繋がっていたそうです。安中忠政が築城したとされます。

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丁須の頭

妙義山登山は本当に危険な場所です。転落事故もたくさんあります。私は一般ルートだけ登山したことがありますが、それでも危険な場所はいくつかありました。なかでもこの丁須の頭まで登るのはクライマーだけです。本日は頭の上に乗っている人はいませんでしたね。

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西松井田駅

駅前に無料の大きな駐車場がありました。ゴールデンウィーク前に横川駅まで行かなくてはなりませんので、来週は車で来て、この駐車場に停め、日帰りで横川駅を目指すことにします。

14:00 本日は西松井田駅より帰宅します。

2019年4月6日

再び西松井田駅へ戻ってきました。

10:30 補陀寺へ戻り坂本へ向かって出発します。

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道祖神

巨大な道祖神です。碓氷に近づくほど石仏が巨大化しているような気がします。
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新堀一里塚跡

江戸より32里目の一里塚です。明治20年代まで南側・北側に一里塚がありました。道路より10mほど奥にわずかに塚の痕跡が残ります。

TOO001 踏切を越えて線路沿いを右に曲がっていきます。車止めの先は道がなくなっていますが、この突き当りを更に右に降りる階段があります。こちらが旧中山道です。

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鳥居坂石仏群

階段を下りると、竹やぶの中に南妙法蓮華経と彫られた髭題目碑首のない地蔵が2体あります。地蔵は結構大きなもので人と同じくらいの大きさでした。小さな道祖神なども数基あります。この先は鳥居坂と呼ばれていましたが、廃道となっています。無理をすれば下りられそうですが、危険なため迂回します。

TOO001 迂回して景色の良い畑の中を歩いていきます。

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旧道は階段を登ります。
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松の木坂石仏群

南無阿弥陀阿仏の名号塔や水神、観世音菩薩などの石仏群が残されています。

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松の木坂を登りきると「坂の上住民センター」の脇にでます。
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五料村高札場跡

五料村は農業とともに山間部であったため、猟師を生業とするものも多かったといいます。

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桃渓書院跡の井戸

郷学校であった桃渓書院跡の井戸が見つかりませんので、ちょうど通りかかった地元の人に聞くと、こちらのお宅の庭にあるそうです。勝手に入って見ることはできないようです。

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五料の茶屋本陣

両家とも「中島姓」のため、「お西」「お東」と呼ばれていました。両家の先祖は共に天文年中(1540年頃)諏訪但馬守が松井田西城に城を構えた時の家臣、中島伊豆直賢と伝えられています。お西に伝わる1601年(慶長6)の「五料村御縄打水帳」によると、すでにその頃五料村に土着し、名主役を務めていたことがわかります。
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お西内部

右下が「風呂場」で、土間に壁もない場所ですが、入口横にあり汚れた足などを洗える場所だったのでしょう。竹のすのこの下は1段低くなっており、排水できるよう工夫されています。

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お西二階

お西の二階は、資料館となっています。一番興味深かったのは右下の写真の文書です。八助という男を質に入れて金を借りた証文です。人間を質入れとは驚きますが、実際は借金をして労働力で利息を支払う、ということだと思われます。

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お東

お西、お東、両家とも代々名主役を務めています。1836年(天保7)から1872年(明治5)までは交代名主制となり、一年交代で名主役を務めています。建物は両家とも1806年(文化3)の大火で焼失し、同年中に再建されたものが現在まで残っています。
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お東の中

お東には、馬屋があるのが特徴です。(右上)

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茶釜石と夜泣地蔵(右の地蔵)

茶釜石は中山道丸山坂の上にあったものです。たまたま通った蜀山人はこの石を叩いて珍しい音色に狂歌を作りました。『五料(五両)では あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて 通る旅人を』茶釜石の上に小さな石が置いてあります。この石で叩きますと確かに甲高い音がします。

夜泣き地蔵の伝説

ある日、荷物を運んでいた馬方がこの場所を通りかかりました。荷のバランスが悪いため傍に落ちていた地蔵の首を馬の背の荷の軽い方へ付けて深谷まで行き、首は深谷で捨ててしまいました。その後、夜になると草むらの中から「五料恋しや、五料恋しや」と地蔵の首が泣く声が聞こえたので、哀れに思った深谷の老人が首を五料に届け、胴に乗せるとその晩から泣き声がしなくなったそうです。

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五料梅林

梅の時期は終わってしまいましたが、菜の花がきれいに咲いていました。
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道標

「松井田停車場一里、妙義町へ一里二丁」と彫られています。松井田駅は、1885年(明治18)に開業していますので、これ以降の道標でしょう。

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碓氷神社

創建は不明ですが、碓氷峠熊野神社を勧請したものです。建久年間(1190〜1199)、源頼朝、信州浅間の牧狩りの際、祈願し境内に御所をおき、以来この地を御所平と呼ぶようになったそうです。正徳年間(1288〜1293年)、北条氏は信州より関東の入口となると考え、碓氷郷総鎮守としました。また、1337年光明天皇は、碓氷郷一宮と定められ、崇敬祈願したとされます。

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百合若大臣の足跡石

この石は、伝説上の百合若大臣は平安初期の四条左大臣公光の子とも言われています。百合若大臣が足で踏み潰したため石の上が凹んだと言われています。百合若大臣の伝説は特に九州地方に残っているそうです。

百合若大臣の伝説

その昔、百合若大臣という大男の若者がおり、大きな弓と長い矢で川向うの山に向け「よしあの山の首あたりを射抜いてみよう」と思いつき、力を込めて矢を放ちますが、その時後ろ足をふんばり、石に穴をあけました。家来の一人も負けじと腰にぶら下げていた弁当のおむすびを力いっぱい放り投げ、山には2つの穴が空きました。その時使った矢と弓が妙義神社へ奉納されています。
国道から旧道へ入っていくのですが、「磔河原」へ寄るためにこのまま国道18号を進みます。

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磔河原入口

ここから碓氷川の河原におりていきます。道になっているので道を辿って行くと磔河原へでます。

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供養碑

関所破りをした者を磔にした河原に供養塔が建てられていますが、平成14年に建てられたものです。

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身代わり地蔵

身代わり地蔵は、大悲をもって罪人の苦を代わり受けるという地蔵です。供養塔の少し奥にあり、建立年はわかりませんが、江戸時代からのもののように思われます。

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おぎのや本店

明治18年創業、以来駅弁屋として営業し続け、この地で昭和33年峠の釜めしが生まれました。現在は峠の釜めしのほか、自家製麺のそば・うどん類があるようですが、私達が入ったときは既に釜飯のみの営業でしたので、釜飯をいただきました。

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碓氷峠鉄道文化むら

東日本旅客鉄道の信越本線横川 - 軽井沢間の廃止とともに役目を終え、横川駅に隣接した横川運転区跡地に建設された体験型鉄道テーマパークです。
時間もあるので入場してみました。

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アプト式電気機関車

アプト式とは、レ−ルの間に設けたラックレールと機関車に設けた歯車がかみ合って急勾配を登れるようにした列車です。信越線横川駅から、軽井沢駅までの11.2キロの間は66.7‰の上り勾配で、国鉄ただ一つのアプト式区間でした。

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わさび屋

横川の駅前にあるわさび屋さんは、創業50年、手作りのわさび漬けや梅干し、わさびソフトクリームなどを売っています。

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碓氷名物わさび漬

清水で栽培したわさびを原料に手造り無添加わさび漬は、あっさり美味しいです。わさびの茎のきゃらぶきも少しツンとしてご飯がすすむ味でした。

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横川駅

16:00 今日は横川駅より一旦帰宅します。次回はゴールデンウィークに碓氷峠を越えます。

2019年4月27日

13:00 再び横川駅に戻ってきました。

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石仏群

「関東ふれあいの道」入口の矢の沢沿いに二十三夜塔や庚申塔などの石仏群が並んでいます。

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横川茶屋本陣

代々、横川村名主を務め、幕末には坂本駅の助郷惣代も兼ねた武井家ですが、現在も居住されています。本陣は一般的な控えの間が二間あり、その奥に八畳の上段の間があります。

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諏訪神社

横川の鎮守でしたが1909年(明治42)に碓氷神社に合祀され、後に分祀されました。境内には双体道祖神や石祠、石灯籠などが建立されています。又、境内の街道沿いには碓氷峠旧線遺構の1つ煉瓦造の貯水槽、火力発電所として利用され、横川の火力発電所で作った電気を丸山変電所に送られ鉄道施設で利用されていました。

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碓氷関所跡東門の跡

残っている碓氷関所の東門は、元々はこの位置にありました。現在ある東門は、廃関後解体されて保管されており、昭和34年に番所があった場所に移設復元されたものです。復元時、門の表裏(東西)が逆にされてしまったようです。

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碓氷関所跡東門

醍醐天皇の899年(昌泰2)に盗賊を取り締まるために碓氷坂に関所が設けられました。1623年(元和9)にこの地へ移され、「入鉄砲に出女」を取り締まるものとなり、1869年(明治2)廃関されるまで中山道の要所となりました。
TOO001 碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)と東門(安中藩管理)で区切り、間の五二間二尺(約95m)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峯番所を置いて二重に監視しました。

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関所資料館

小さな展示室ですが、手作りの資料が所狭しと並んでいます。無料です。また、地元のボランティアの人がいまして色々説明をしていただけます。

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おじぎ石

通行人はこの石に手をついて手形を差し出し、通行の許可を受けました。

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鎮魂碑・鹿島組招魂碑

鎮魂碑は、信越線廃線にあたり、各種交通機関建設に関わり殉職した方、災害や交通事故に遭遇した人々のために建立されました。

招魂碑のなぞ

元々は碓氷線の見える土手の上にありましたが、平成8年に現在地へ移転されました。碑文は『碓氷線工事犠牲者500名』とあり、各種文献の元となっています。しかし、「碓氷嶺鉄道建築略歴」には20名とあり、また碑が建立された明治25年3月は碓氷線の工事は途中であり、犠牲者の数は今でも謎のままです。

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アプトの道

1963年(昭和38)に廃止された旧国鉄信越線の横川駅〜軽井沢駅間の旧線跡において、1996年(平成8)より横川駅〜碓氷第三橋梁(めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年(平成13)に完成しました。2008年(平成20)には、碓氷第三橋梁〜旧熊ノ平信号場間(1.2km)の延長工事にとりかかり、2012年(平成24)完成し、横川駅〜旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが遊歩道として散策できるようになりました。

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碓氷馬車鉄道顕彰碑

明治20年に開設した碓氷馬車鉄道は、日本で2番目の鉄道馬車として開通しました。横川から軽井沢間の高低差は555mという天下の難所で、馬車鉄道としては世界に類を見ない難路線の開設でした。碓氷線がアプト式ラックレールを採用して開通するとわずか5年で廃線となりました。

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関所食堂

評判のチャーハンを食べるために寄りました。今日は気温が低いためラーメンとチャーハンを注文しました。口コミではチャーハンの量が多いとのことでしたが、量的には普通でした。そして味は、ラーメンもチャーハンも口コミ通りとても美味しかったですね。13時半を過ぎていましたが、次々にお客さんが入ってきてとても繁盛していました。

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川久保橋

関所時代、現在の霧積橋よりやや上流に川久保橋(碓氷御関所橋)が架けられていました。橋桁の低い土橋でしたので増水期になると度々流出し、川止めになりました。関所には綱が常備されており、それを対岸に渡し書状箱をケーブルカーのようにして渡していたそうです。

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薬師坂

清らかな湧水が豊富であったこの薬師坂には、心太(ところてん)を商う店があり、心太坂とも言われていました。旅人たちはここで憩いながら旅装を整え、街道の情報を知る場でもありました。

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薬師堂

1623年(元和9)に碓氷峠が開かれると、無事通過の願いと感謝を込めて、この坂に薬師如来を祀りました。薬師如来は治癒に霊験あらたかということで、近郷からの参拝客も多く、市が建つほどの賑わいぶりでした。

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薬師の清水

湧水が全くでていません。渇水期の2月ころであればわかりますが、雪解け水の多い今の時期、全く出ていないということは、涸れてしまったのかもしれません。残念でなりません。

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白鬚神社

日本武命伝説より、240年(景行天皇40)の創建とされます。伝説にはヒルが登場とます。これから越える碓氷峠はヒルが多いことで勇名です。その昔からヒルがたくさんいたのでしょうか。

白髭の老人伝説

12代景行天皇の命により、日本武命は東国を平定し帰途、武蔵・上野を経てこの地、碓氷嶺東麓川久保坂に差し掛かりました。その時山の神は白鹿に化け、通行を妨げます。日本武命は蛭(ヒル)を投げますとたちまち濃霧となり、先に進めなくなります。すると剣を持った白髭の老人が現れ、白鹿を撃退したため尊は濃霧から脱出できました。老人は猿田彦命の加護と考え、この場所に石祠を祀ったのが始まりとされています。
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原村の水神

元々は現在地よりやや東の当時の原村の外れにありました。坂本宿が整備される以前、40戸ほどの集落があり、道路端に流れてきた堀を屈折させて村の外れから道路中央に流れていました。原村の住民は生活用水として利用し、この用水路の起点に水神を祀っていました。

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下木戸跡

一部が復元されています。軍事・防犯のため開閉は明け六つ(午後六時頃)から暮れ六つ(午後6持頃)まででした。道路中央にあった幅1.3m程の宿場用水は、端に寄せられていますが、今でも水が流れ、心地よい水音をさせています。

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こんどうや

武井久夏は、1815年(文化12)、ここ「こんどうや」に生まれました。幼い頃より学問に励み、多才でした。7才で学問、9才にして歌俳諧に志し、12才で書画を学びます。

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戦没者顕彰碑

奈良時代に造られた東山道の坂本駅家(さかもとのうまや)は現在の原地区にあったとされますが、幕府が中山道を整備するにあたり、安中や高崎からも移住させて1625年(寛永2)頃に宿場の形態が整ったようです。

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坂本町道路元標

坂本宿は、宿内の長さ三百九十二間(約713m)ありました。1801年(享和元)の調べによると本陣2軒、脇本陣2軒、家数160軒、宿内の人口は822人(男409人、女413人)と大きな宿場で賑わっていました。

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卯建のある旧家

卯建は元々、隣家に火災の火が移らないよう防火のために設置されたものでしたが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味合いが強くなります。「卯建をあげる」という言葉ができたように、卯建を作るにはお金がかかるものですから、財力の誇示として「卯建」を上げるようになったのです。

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中村屋

中村碓嶺(たいれい)は、1780年(安永9)、代々旅籠屋を営む「中村屋」に生まれました。本庄の長庵に師事し、遠路通い頭角を現し、当時村上鬼城を横綱とすれば、高崎の西馬、坂本の碓嶺が両大関と言われました。

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佐藤本陣跡

上の本陣とも呼ばれ、明治8年には小学校の仮校舎にもなりました。現在の家屋は明治34年、小竹屋の分家として建てられたものです。下の本陣は金井家が務めていましたが、見落としてしまいました。

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脇本陣みよがや

1595年(寛政7)、坂本宿は火災に見舞われ、1843年(天保14)の調査では、門構え・玄関は火災後造られなかったそうです。

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脇本陣

もう1軒の脇本陣は、現在は坂本公民館となっています。近年建築したものと思われますが、当時の建築をデザインして造られています。

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旅籠かぎや

370年ほど前、高崎藩納戸役鍵番をしていた武井家の先祖が坂本に移住し、旅籠を営むにあたり、役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたとされます。坂本宿では俳句、短歌、狂歌が流行し、天明・寛政の頃が最盛期でした。馬子、飯盛女に至るまで句をひねっていたといいます。かぎやの当主、鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し、俳人としても傑出していました。

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つたや

碓氷峠にアプト式鉄道が開通した15年後の明治41年頃になると、繁栄を極めた坂本宿もすっかり寂れてしまいました。この年、若山牧水は軽井沢で遊び、碓氷峠を越えてただ一軒残る宿屋「つたや」に無理に頼み泊めてもらいました。床についても暑さで眠れず、焼酎を求めて外へ出て石ころ道を歩きながらふと耳にした糸操り唄に一層の寂しさを覚えたようです。 『秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸操りの唄』

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人懐っこい猫

『雨がふりゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越します 坂本へ』という馬子唄が残されています。馬子唄とは、荷を積んだ馬を引く人足が歌っていたものです。雨が降れば仕方なく松井田に泊まるが、降らなければ坂本まで行ったほうがいいという唄からも想像できますが、松井田は通過する旅人が多く、ここ坂本泊まりの旅人が大変多かったということです。
TOO001 刎石山が近づいてきました。碓氷峠越えは、まずこの刎石山に登っていきます。明日、登る山ですね。

樫の木の下の石像

坂本宿の農民角兵衛は、夢に僧がでてきて「村境の樫の木の下に我の像が埋まっているので取り出してほしい」と告げられましたが、放置していました。しかし、1801年(享和元)と翌年にも同じ夢を見たため樫の木を掘ったところ、五寸ほどの石像が掘り出されました。代官へ報告したところ、代官は勘定奉行に申し立てし、江戸まで運ばれてしまいました。その後、見世物にしないこと、奇妙な話を広めないことを条件に角兵衛へ返却されました。この像は今どこへ行ってしまったのでしょうか・・

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たかさごや

小林一茶は、郷土と江戸を往来する際、中山道を利用したときは「たかさごや」を定宿としていました。坂本宿では皆、俳句に熱中していたので、一茶がたかさごやに来ますと、近郷近在の同好者がかけつけ、夜のふけることも忘れ、賑わっていました。

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斜交屋敷(はすかいやしき)

道路と平行に建物を立てるのが普通ですが、道路とは少し角度をつけて家が立ち並びます。こうすることで道と建物の間に三角の空地ができます。ここに追ってから身を守るため、隠れやすくするため、あるいは隠れており、そこから不意に攻撃をするなどの軍備目的とも言われていますが、鬼門(艮(うしとら)、北東)を避けるためとも考えられています。

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丁須の頭も大きく見えます。

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くつろぎの郷コテージ

15:00 本日宿泊するくつろぎの郷コテージに到着しました。